石川町で電車を降りると元町方面の出口へ向かう。
5月の第1週、天気予報は午後のにわか雨を予報していたが、今はとても風が強く、快晴だ。
先に到着していた、下り線が発車する。
向こうの降客と合流しないように、少し時間をかけてホームを歩く。
約束の時間には3分ほど遅れていた。

 改札を出る直前に、時刻表の前で待つ香さんを見つける。
以前にここで待ち合わせをしたときと同じ位置だ。
構内は開港記念日のせいか、とても込み合っていた。
改札を出た僕は、彼女の視界の中で僕が歩く姿をパターンとして認識出来るように、一度正面へ回り込んでからゆっくりと近付く。
彼女の端正な表情が、穏やかな笑顔に変わる。
「やあ!」
「こんにちわ、おひさしぶりですね」
僕達は約3カ月振りの挨拶をかわし、元町を海側へ向かった。
今日は僕の誕生日、彼女がランチを御馳走してくれる約束になっている。

 ”霧笛楼”は1階が半分程地下に潜るおもしろい構造をしている。
ディナーは2階部分より上の座敷がメインになり、和食器に飾り付けられたフランス料理が店の特徴になっている。
ランチタイムは1階部分のみが使用され、テーブル席とカウンターでサービスされる。
 僕達は窓際のテーブルへ案内された。
インテリアはダークブラウンにまとめられ、彼女の背景には、横浜をイメージ化したステンドグラスが取り付けられていた。
透過した光線は、意外にもニュートラルなカラーで、彼女を浮き立たせていた。
ラインライトに輝く彼女を前にして、素敵な店,素敵な料理,素敵な相手と素敵な正三角形の中心にいる自分を十分に意識した。

 ウエイターがオーダーの確認に来る。
僕達は、メインデイッシュを小羊のステーキにして、赤ワインを選択した。
久しぶりの赤だ。
 料理を待つ間に、彼女からプレゼントを渡される。
1枚のスケッチとメタル製のペイパーウエイトがカードと一緒に入っていた。
スケッチは、以前に僕が頼んだものだ。
彼女と”風我亭”で食事をしたときに、花を描くのが得意だと聞いて、1枚欲しいと言った事がある。
スケッチには、”風我亭”のオーナーが予約客の女性にプレゼントするバラが描かれていた。
帰宅後に、夜遅く描いたと説明してくれる。
1輪のバラを、全体と花の部分に分割して構成していた。
先ずVIEWを1輪として描いた後、最も見栄えのよい別VIEWから花だけを独立させていた。
かなり構図に苦労した形跡が窺える。
 ペイパーウエイトはメタル製で、動物の犀をディフォルメしていた。
僕はペイパーウエイトを使用する機会が、かって一度もなかった。
身近な物なのに、遠かった物を所有するチャンスにめぐまれ、彼女がもたらしてくれた嬉しさに少し戸惑った。
犀の選択理由を聞いてみると、そのシリーズの中で1番気に入ったと教えてくれる。
僕はこのペーパーウエイトをダイニングのテーブルへ乗せ、タングステンライトの下で写真に撮りたくなった。
テーブルはビクターのクラフトシリーズを使用している。
色は黒だ。
何度かこのテーブル上でブツ撮りをやってみたが、アンチモニーに銀メッキされたこの犀は、今までにない技法を要求されると思った。

 約3カ月ぶりの会話は、僕が中心に話してしまい、彼女が聞き手にまわった。
いつもとは逆だ。
彼女が、オードブルに出されたテリーヌの材料を、僕に質問した。
彼女と食事をすると、1度はこのような楽しい状況になる。
メニューをしっかり聞いていなかった僕は、少し大きめにカットして、ゆっくりと味わった。
「豚だろう」
と、推測する。
「そうかしら」
と、彼女が言った。
少し疑問があるような表情だ。
確かに、フランス料理で豚のテリーヌは少しおかしいかなという気持ちも拭いきれず、入口にディスプレイされたスタンドメニューを思い出して、帰りに確認することにした。

 デザートにケーキとシャーベットが出され、 COFFEE をゆっくりと楽しみながらこれからの予定を相談した。
僕は山手に住む僕達共通の友人へ電話して、突然訪問することを提案してみた。
彼女は、大賛成だった。
もしその友人が居なければ、県立博物館へ行ってファーブル展を見る、第2の案も成立した。

 ”霧笛楼”を出て、表のメニュースタンドを確認する。
テリーヌはハムで作られており僕達は虚をつかれた思いで感心した。
 公衆電話を捜しながら元町商店街を歩く。
この通りに限らず街頭から公衆電話が少なくなった。
一般家庭の普及率向上と、公衆電話にかかるメインテナンスの人権費節約からNTTは設置台数を削減しているらしい。
 彼女の記憶を頼りに、元町プラザの2階で捜し当てる。
友人宅へかけると妻である美恵さんが出て、近所に出かけているがすぐに戻ると教えてくれる。
訪問の是非を訊ねると、快く了承してくれた。
僕達はどこかで COFFEE を飲み、彼が帰宅する頃合に訪問することにした。

石川町には、鎌倉の風情を思わせる陶芸茶房がある。
マスターは髭を蓄え、いつもダークスーツをきめている。
ほかに従業員はいない。
店の特徴は、マスター自ら挽く炭焼き COFFEE を、湧水で抽出してくれることだ。
器もずいぶんと凝っている。
有田,伊万里,美濃,萩、備前などのカップがカウンターに並び、客が指定することも可能だ。
見方を変えるとこの取り合わせは節操がない。
しかし店内は、ギャラリーを兼ねた全国の骨董的名品がディスプレイされ、小売も行なわれている。
陶芸に若干うるさいミニ文化人が多いこの時勢では、仕方がないのかもしれない。
僕達は、テーブル席のせいかカップが選べず、少し残念な気持ちが残った。
彼女は、備前が好きらしい。
僕は自分の干支である、備前の大きな羊を持っている。
鉄錆のような落ち着いた備前も好きだが、食器としては優しい萩の方を好む。
 彼女と陶芸の話で1時間近くを過ごし、店を出た。
山側の裏道を駅へ向かうと、表通りの喧騒が嘘のようだ。

 山手で下車し、西側の丘へ上がる。
約10分で、友人のアパートへ到着した。
美恵さんが出て、彼の帰宅が少し遅れる旨を確認したと伝えてくれる。
外出先へ電話を入れてくれたらしい。
僕達は上がって待つことにした。
 彼女は、美恵さんとも面識がある。
3人で雑談をしていると、彼が帰宅した。
「ほお、二人で来ると電話で聞いたので、誰かと思いましたよ」
と、彼は意外な来客に少し驚いた様子だった。

 取り留めのない話をしているうちに、予報通りの夕立になった。
雷を伴ったにわか雨はなかなかやまず予想以上に僕達の足を引き留めた。
まだ傘を必要とする状態であったが、突然の来訪を詫びて彼の家を退散する。

 彼女と付近の環境の良さに感心しながら歩く。
本来の山手から若干外れるが、根岸へ通じるこちらの丘も高級住宅街だ。
中央部が階段になったコンクリートのスロープを駅へと下る。
雨上がり独特の匂いが、辺りにとけ込んでいる。
僕は今年のバースデイを、決して忘れる事がないと思った。
彼女から貰った素敵なプレゼントもそうだが、この雨上がりの匂いが、きっといつかどこかで、”ふっ”と二人で歩いた事を思い出させてくれるに違いない。