序章
彼は、8階から乗ったエレベーターを5階で降りると足早に自席へ向かった。廊下を急ぐ彼は、すぐに一人の女性に追い付いた。
追い越そうとして何気なく足元を見た彼は、女性にしては珍しく鍛えられた脹ら脛に目をとめた。
彼にはスポーツによるものとだけはわかったが、それがどのジャンルのものかは想像がつかなかった。
また考える間もなく、色気ともいえるその発散する雰囲気に見とれていた。
数日後、忙しい彼のアシスタントの応援として、彼女に会うことが出来た。
馴れない業務のせいか、定時近くになると彼女の疲労を十分に読みとることが出来た。
一区切りついた彼女が、彼に与えられた作業用の部屋で疲れを訴え、書棚に寄りかかった。
うつ向きかげんに彼を見る彼女の表情は、何故か愁いを含んでいるようだった。
本章
2枚のカーテンをくぐり抜けた微かな日差しが5月の連休にふさわしく、穏やかに彼を目覚めさせた。
彼は、キッチンの蛇口を開けると流れ落ちる水道水をそのままに、クロワッサンを2つトースターへ放り込んだ。
続けてタイマーを60秒にセットするとケトルへ水を注ぎ、ガスレンジへかけた。
お湯が沸き丁度2杯分のCOFFEEを抽出し終えると、冷蔵庫の野菜室からペリカンマンゴを1つ取り出して、食卓の上へ並べた。
彼は、フォークとナイフで器用に皮を剥き取り、黄色くて少し大きめの鶏卵のようなペリカンマンゴを味わった。
よく熟してはいたが、ほんの少し夏の青臭さを覚えた。
簡単で且つ十分な朝食を終えた彼は、地下のガレージから車を出し表の道路上で洗車に取り掛かった。
数日前のほんの僅かな雨天走行で汚れたボディーは、市販のカーシャンプーですっきりと輝きを取り戻した。
彼がシャツの袖をまくりスクィジーでボディーを拭っている間に、5月の心地よい風が彼の拭き残した水滴を乾かしてくれた。
ドアウィンドウを仕上げていた彼は、インパネ上の時計を確認すると洗車を切り上げて、写真撮影の準備を始めた。
今日は、彼女を口説いて、写真を撮る約束をしていた。
彼は、待ち合わせの私鉄駅に約15分程早く到着した。
駅前のロータリーには、タクシー用と一般の送迎用カースペースがそれぞれ2台分あった。
彼は、ロータリーを右回りにゆっくりと1周すると、運良く空いたそのスペースへ車を入れることが出来た。
既に日差しは十分に強く、咽の渇きを覚えた。
エアコンを入れようかと少し迷った彼は、エンジンを切ると助手席のウィンドウを少し開けて車から出た。
駅舎のはずれまで歩くと、値上げしたばかりの販売機から炭酸飲料を探し、ダイエットコークを選んだ。
彼の好きなコーラではなかったが、新しい製品であることに興味を持った。
歩道の植木を囲むように造られたベンチへ座ると、下りの電車が到着し数人の乗客が降りて来た。
都内から丁度1時間を要する駅らしく、降客の多くはのどかな雰囲気の中を人待ちの車やタクシーに乗って次々と去って行った。
数人の女性が辺りを慎重に見渡すと、並木の陰や幾つかのベンチへ散った。
彼女達の服装は、スプリングコートやミニスカートとこの季節特有の難しさを表わしていた。
缶コーラが半分になる頃、次の下り電車が到着し改札を出て来た彼女が手を振って合図した。
「お待たせ」
「やあ、何処か行きたい所はあるかい」
「おまかせするわ」
「じゃあ、とりあえず地図でも見よう」
「あら、随分若い車ね」
「うん、格好だけのクーペだよ」
彼の車に乗り込んだ二人は、観光雑誌を参考に秩父へ向かうことに決めた。
しかし、407号線から日高−川越線へ入ると、車はほとんど進まなくなった。
「これはきっと、日高陸橋の先まで続いてるよ」
「そうかもしれないわね」
「青梅辺りへ変更しようか」
「それもいいわね」
「じゃあ、Uターンして飯能へ向かおう」
飯能の市街へ入ると、そこでも渋滞に巻き込まれた。
二人は更に予定を変更して、天覧山の南麓にある寺へ向かった。
「敏夫さんは、このようなJAZZが好きなの」
カーオーディオからは、ラリー・カールトンのフュージョンギターが流れていた。
「うん、これはまあまあかな、君はどんなジャンルが好みだい」
「あまり本格的なものは聴かないの、よく知らないと言うか」
「じゃあ、どの楽器が好きなんだい」
「サックスがいいわ」
「そうか、今日持ってきたテープでは、これがいいかな」
彼がナジーをかけると、彼女はスローなバラードに興味をみせた。
「フュージョンでいいかな、こってこてのJAZZもあるけど」
「こってこてって?」
「フォービート」
彼は今一歩彼女の好みを把握しきれないでいた。
寺へ到着すると、連休にもかかわらず駐車場は空いていた。
彼は、ハッチバックのトランクルームからモータードライブを装着したニコンのF3を取り出し、高感度タイプのリバーサルフィルムを詰めた。
さらにバストショットで撮影するためにショートズームを取り付けた。
フィルムは、リバーサルタイプとモノクロームを各々3本、予備にネガタイプのカラーフィルムを1本用意していた。
彼はまだ慣れずに表情の硬い彼女を、駐車場入口のつつじの植え込みへ立たせ数ショット撮影した。
左手でレフ板をあてながら重量2kgを超えるカメラを構えることが出来るのは、彼にとって撮影開始後のほんのわずかな時間だけ可能だった。
参道に並ぶ、大きな石灯篭のパースペクティブを利用して数ショット、木漏れ日を背景に数ショット撮影した。
空模様は目まぐるしく晴れと曇りを繰り返し、レフ板を使えないときはスピードライトをTTL調光で使用した。
境内の樹木は丁寧に整えられ、鎌倉のように観光ずれしていない様は、二人に驚きを与えた。
彼は3本のリバーサルフィルムを撮り終えてから、昼食を提案した。
時間は既に午後2時を過ぎており、食後の撮影は近くの聖天院で行うことになった。
二人は紳士服の専門店に併設されたファミリーレストラン系列の店へ入ると、遅くなった昼食をオーダーした。
「食べ物の好みは?」
「好き嫌いはないけど、あまりかしこまって食べるのは好きじゃないわ」
「じゃあ、フランス料理は嫌いかい?」
「ええ、どちらかと言うとてんぷらや寿司がいいわね」
彼は自分の好みと異なることを、少し残念に思った。
支払いを済ませ表へ出ると、風が強くなっていた。
県道へ入った二人は、再度渋滞に出会いゆっくりと目的地へ進んで行った。
「敏夫さんはどんなオートバイに乗っているの?」
「YAMAHAの250ccだけど、どうしてだい」
「昔、憧れていた人がGP−Zに乗っていたの」
「あれはベストセラーだったね」
「私もSUZUKIの刀に乗りたくて」
「ほう、で免許を取る努力はしたのかい?」
「親に反対されて」
「じゃあ、彼の後ろへ乗っけてもらったかい?」
「いいえ、彼と言っても一方的に想っていただけだから」
「そうかい、じゃあ今度乗せてあげよう、きっと人生観が変わるよ、所でどうし て刀に乗りたかったんだい?」
「月並みだけど、若かったのかしら」
「そうだね、多感な年頃だったんだね、でもオートバイに10年乗ると1度は大 きな事故にあうよ」
「あら、何かあったの」
「こいつが3年前の事故で縫った跡」
彼が右腕の袖をまくって約8cmの傷跡を見せると、彼女が珍しそうに触った。
彼は、くすぐったさと同時に、不思議な感触を覚えた。
聖天院へ着いた二人は、三脚を使用して記念撮影を行うことにした。
自分で現像するためにモノクロームフィルムを詰めようとしていた彼は、彼女の”新芽が綺麗”という呟きにネガカラーへ切り換えた。
ここも先ほどの寺に劣らず庭が十分に手入れされ、とても気持ちが良かった。
特に庭石が高低差を利用して効果的に配置され、彼は庭師の意図するパースペクティブを不思議なほど感じ取ることが出来た。
記念撮影を終えると壁の無い休憩用の建物まで下り、アップを多用してベンチに寄りかかる彼女を撮った。
時折吹く風は、彼女の髪を心地よくかきあげると同時に彼の心をくすぐった。
彼女の笑顔もいい、しかし悲しそうで愁いのある瞳がさらにいい。
このフィルムを撮り終わると、彼女は彼の家を訪問することになっていた。
彼は、カメラのフィルムカウンターが残り枚数を1つ1つ減らしていく都度、自分の変化して行く気持ちに気付いていた。
今日誕生日をむかえ、多感であった時代からさらに遠ざかる自分を覚え、恋に恋してしまいたい衝動を、そっとフィルムへ焼き付けられたらと思った。
終章
数日後、彼は現像から上がったスライドを、自宅でビデオ信号に変換する機械へかけていた。
カラーバランスを補正された彼女の表情が、次々と29インチのテレビ画面へ映し出され、彼は1コマを約10秒間かけてビデオテープへ記録していった。
映像は、先日の時間軸に忠実に並べられ約15分のストーリーとなった。
彼は、次にカセットデッキをVTRへ接続し、昨日作成しておいたBGMテープをアフレコした。
すべてを終了すると、最初から最後までを一通り観賞した。
BGMの音質以外は、十分に納得出来るものだった。
さらに彼は、もう一度最初から最後までを見た。
彼女の表情には、彼と1日を経過する過程の中で、彼の気持ちがほんの少し彼女の心へ届いた様子を映していた。
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