JR大船駅で乗り換え、定刻に保土ヶ谷駅へ到着した。
ホームは1本しかなく、横須賀線以外の電車は発着しない。
5月の第2週、昨日に引き続きとてもよく晴れている。
半袖シャツに中国服の重ね着は、午前中だけで十分だろうと思った。

 改札を出て、ベンチへ掛ける。
駅構内に設けられたハンバーガーショップでCOFFEE をオーダーしたい欲求にかられたが、天井吊りの時計を確認してためらった。
麻子さんとの約束の時間を、ほんの少し過ぎていた。
今日は彼女と二人で、香さんの家へ招待されている。

 下り線が到着し、平日にしては意外に多くの降客が改札を出て来る。
彼女が一目で僕を発見し、こちらへ向かう。
白地に植物をあしらったワンピースが、初夏にとてもよく似合っていた。
「こんにちわ」
「今日の靴は大丈夫かい」
新しい靴で歩けなくなった昨日の出来事を思い出し、僕は大真面目な顔で冗談を言った。
彼女は途中で買い換えた靴について、その後の顛末を楽しそうに語ってくれた。
見なれない靴が玄関に並んだことで、夜中に心配した家族と一悶着あったらしい。
 僕達は香さんの家に何を持って行くかを相談したが、結論が出る前に駅前を散策することにした。

 国道側へ出て、通りに沿った商店街を歩く。
歩道上は商店からの軒で覆われ、どの店も、木製の引戸が似付かわしい風情だ。
50m程歩くと、コンビニエンスストアを2軒見つけた。
商店街は、ここで終わりになる。
僕達は両方のストアへ入り、自分達の食べたいアイスクリームと最近また見かけなくなったドクターペッパーを購入した。
 ドクターペッパーは、かってミスターピブと呼ばれ九州地区に限り販売されていた。
今でも僕の選ぶ炭酸飲料ベスト3へ必ず入る。
以前に一時期見かけなくなったときは、横須賀のドブ板までオートバイで出かけていた。
米軍基地前のハンバーガーショップでは、店で飲む価格と同じ市価の2倍でテイクアウトすることが出来た。

 駅へ戻り二人でベンチへ腰掛ける。
僕は携帯していたカメラを膝へ乗せ、通路の途中へ予めピントを合わせておいた。
香さんがそこを通過するときに、シャッターを押すつもりだ。
僕達は彼女がどんな服装でやって来るか予想してみた。
「白のジーンズに、黒のトレーナーかポロシャツ」
僕の予想を先に言うと、
「白のジーンズは、香さんらしいわね」
と彼女は半分賛成してくれた。
「スニーカーも白かな」
僕達が適当なことを言っていると、白のジーンズにピンクのトレーナーを着た香さんが現われた。
僕は目測でフォーカスリングを移動しながら、3回ほどレリーズを切った。

 国道を渡り、香さんの家へ向かう。
「ここが、米担ぎの坂です」
「ここが、灯油転がしの階段です」
僕が以前に香さんから聞いた彼女の買い出し失敗談を麻子さんに話すと、肝心なところを省略するために、香さんがあわてて補足の説明を付け加える。
日差しの落とす僕達の小さな影が、正午に近いことを教えてくれる。

 少し丘を上がると、国道の喧騒が嘘のように静けさが増す。
彼女のアパートは、4戸建ての2階にあった。
室内はきちんと整理され、彼女の性格からかとても清潔だ。
片付けがあまり得意ではない麻子さんがしきりと感心している。
三人で相談した結果、お昼を少し遅らせとりあえずお茶にすることにした。
持参したパーコレーターで、僕が COFFEE をサービスする。
豆は器具に合わせて今朝挽いたコロンビアと、ブルーマウンテンブレンドの缶入りを準備して来た。
彼女達は、二人とも COFFEE が好きだ。
 僕達はリビングへ通され、抽出したばかりの COFFEE がテーブルへ並んだ。
カップはウエッジウッドの優しいタイプが使われていた。
リビングは1面がAVラックで占められているが、高さは天井までの半分に抑えられ部屋の広さに合わせたバーチカル収納の思想を彼女なりに消化しているようだ。
 僕はふと雑文のストーリーを思い付いた。
この季節とテーブルの上の1杯の COFFEE から、香さんの日常を小説風に想像してみた。

4分の抽出時間でガスレンジのコックを閉める。
パーコレーターの上部に設けられたガラストップの蓋へリズミカルに吹き上げていた COFFEE が、しだいにその繰り返しスピードを落としてゆく。
午後の静けさが漂い始める。
お気に入りのカップへ COFFEE を注ぐと、リビングのテーブルへ運ぶ。
ベランダから入る風がゆっくりと部屋の中を通過し、ときおり揺れるカーテンの白さがこの季節に似合っている。
AVラックの上から、先程配達されたメールを手に取ってみる。
差出人の名前には、本名へペンネームが併記されている。
彼女の表情に穏やかな微笑が浮かぶ。
ラックの引出しからペーパーナイフを取り出し、左手でしっかりと支えながら封を切る。
TYPEUのオーディオカセットとワープロでプリントしたレターを取り出す。
テープをデッキへセットしプレイボタンを押すと、60年代初期のブルーノートが室内を満たし始める。
レターをテーブルの上へ丁寧に広げ、 COFFEE を一口だけ飲む。
膝頭を抱え JAZZ に耳を傾ける。
レターはテープの片面が終了してから読むことにする。
スピーカーからこぼれ落ちたベースとピアノが、彼女を心地よく包み込む。
時の流れがゆるやかになり、彼女が風に融け込んで見えなくなる。

 僕達は香さんの料理を御馳走になり、部屋の中で記念写真を撮った。
カセットデッキが、フュージョン・サウンドを再生している。
香さんも JAZZ が好きだ。
ピアノとサックスの特徴を聴いていると、クルセイダーズを連想させる。
彼女にアーティストを確認すると、曲目が書かれたカセットケースを渡された。
ジョー・サンプルのリーダーアルバムだった。
了解を得て、テープとCDの引出しを開ける。
僕が録音したテープも一緒に入っていた。
曲目はオリベッティーのタイプライターで打ったものを、そのままインデックスへ入れて使用していた。
僕の手書きで渡しても、書き換えることはないだろう。
彼女の手に渡ったものは、その瞬間から時が停止し、思い出のように凍結されるような気がした。

 西日が穏やかになりかけた頃、香さんがチョコプディングを作ろうと提案した。
僕がステンレスボールでバターを溶かすことになった。
ボールの底を手で暖めても、なかなか溶解しない。
ドライヤーで温風を吹き付ける方法を思い付いたが、香さんがお湯を入れた大きなボールを持って来てくれた。
麻子さんが心配そうに覗き込む。
しかし泡立て器にからみついたバターは、ボールの熱が伝わらず、底に残った部分がまるで熱いトーストの上へ広げたようにさらさらと流れた。
 チョコプディングは、僕の不手際にもかかわらずとても美しくテーブルへ登場し、しかも美味しかった。
麻子さんが感心して、香さんに作り方を聞いている。
テーブルの上へ広げられた香さん手書きのレシピを見ていると、僕にも作れそうな気がした。
休日の昼近くは、TVでお菓子のプログラムが放映されていることが多い。
いつ憶えてしまったのか、BPがベーキングパウダーのことだと読み取ってしまった。
香さんが麻子さんに、駅前のストアでコピーをとるように勧めている。
ほんの少し僕の世界の外側を見るような気がした。
彼女が彼女に盗られる。
どちらがどちらにと限定できないため、嫉妬ではないような気もした。
がしかし、彼女達の世界に入りたい不思議な感情に揺り動かされ、
「僕も、欲しいな」
と言うと、麻子さんが驚いた表情をしている。
異性がケーキを作る不思議さに、純粋に驚いているようだ。
僕は美味しい COFFEE をいれる作業となんら変わりはないように思い、作る過程をビデオで撮影して彼女達に見せることを約束した。

 麻子さんと僕は、古い友人達と夕食を取ることになっていた。
香さんが駅まで送ってくれる。
駅前のレンタルショップでレシピを二人分コピーし構内へ入る。
切符を購入して、次回は僕の家へ集まることを提案した。
香さんが賛成してくれる。
改札で別れ、麻子さんとホームへ下りる。
「香さんは、あそこを通るはずだよ」
僕が国道の方を指さすと、
「気が付くかしら」
と彼女が言った。
やがて香さんが現れ、ホームに立つ僕達を見つける。
二人で手を振ると、立ち止まり、微笑みながら振って返す。
僕は彼女の写真を撮るために、ホームの前へ出た。
カメラを構えて望遠側へズーミングすると、ファインダーに映る彼女の表情が笑顔に変わった。
「引き留めちゃ悪いわね」
麻子さんの声を後ろに聞きながら、彼女が僕に何か悪戯をしているのがわかる。

 上り線が入り乗降が始まる。
麻子さんがドアの側から盛大にハンカチを振っている。
僕はこのような性格が彼女にぴったりだと思った。
もちろんよい意味で大好きだ。
周りの乗客が笑っている。
僕も笑っている。
香さんも笑っていた。