●例会レポート:
これは上記例会における岡庭氏の発言だけを一部抜粋編集したものです。従って、ゲスト(荒木清寛氏)の発言、場内での質疑応答は削除してあります。また、文脈に整合性がないとかあると思いますが、例会における問題提起、討議内容などを理解していただくという趣旨ですのでご了解ください。尚、詳報配布は例会参加者への配布に限らせていただいております。
●問題提起&聞き手=岡庭 昇
雑誌『創』一九八七年九月号における岡庭氏の掲載原稿を読み上げた後……。
今日のテーマなんですが、「支援の論理」ということを考えたいと思います。公明党を支援する、ということをさらに積極的に論理化したい。ここにいる人たちは全員公明党を一生懸命支援している創価学会の方々です。支援という志、その純粋さには何も問題がない訳ですが、さらに「支援の論理」をつきつめる必要がある。ということでそれを研究会のテーマとして提起してみたいのです。
一つにはなぜ創価学会が、あるいは創価学会のメンバーが公明党を支援するのか。そこにはいろいろな論理がある訳でしょう。一つにはまず、自民党からの攻撃があります。論理的にまったく成立しない、無理無体な攻撃がある。で、その攻撃の無法さによって、逆に文句無しに支援することが正しい、ということにもなる。そういう力学も成り立っているんではないか。これは非常に皮肉な言い方なので恐縮なんですが、私はこれはあくまで情念のエネルギーの源になっているとは思うのですが、論理的にはここにとどまっている限りは消極的である。
もう一つはハッキリしてますね。公明党のメンバーはみなさん創価学会の方々であるから、同じ創価学会員としての同志的連帯が当然の前提となる。であるから当然支援をする。あるいは任せた以上は公明党がどういう行動をしても、それはすべて全面的に信用していく。
それは元々同志だから、当然ではあると思う。この二つの理由が支援の根本になっていると思うんですが、私はさらに積極的に、創価学会という民衆運動は、かくあるべき民衆運動の運動像から公明党を支持するんだという、さらに積極的な論理を求めるべきだという風に思うんです。
その積極的な論理を追究するという時に、必ず引っかかってくる問題が「政教一致」です。支援の論理と、政教一致あるいは不一致という問題は必ずリンクしている。一つの問題である。そして本質論であるだけでなく、非常に細かい具体的な日常活動においても、この政教一致という自民党からの攻撃がいろいろ足かせになっているだろう、と思うんですね。
まず、初歩的、基本的に、政教一致だからけしからんという自民党サイドの言い方は、まったくこれはナンセンスである、という事の確認から入ろうと思いますが、公明党の方たちにとって、しきりに創価学会攻撃、公明党攻撃でいわれる政教一致という問題はどういう風に解決しているのか。
自民党(だけではありませんが)からの政教一致攻撃に対し、それを不当と主張することは必要だし、大事なことです。じっさい、ひどい誤解であり、ためにする攻撃なのははっきりしているわけですから。ただ、政教一致ではないということ、あるいはそれが政治的な宣伝であることを主張するだけでは、論理の突き詰め方としてはやはり消極的ではないかということです。
政教一致というのは、事実としても歴史的にも、自民党などによって宣伝されている意味とは違うのです。明らかにそれはすり替えで、いまおっしゃったようにヨーロッパの場合は確かに宗教が政治より上にあった時代もあったのですが、日本にはそういう歴史はない。民衆の共同体が権力に粉砕されたという歴史はあっても、その逆はない。日本でいう場合には一般論としても歴史的にも可笑しいと思います。事実としてあったのは、唯一、軍事天皇制下で国家神道を政治が利用するというケース(歴史)に対して、今の自民党政権はいささかも自己批判をやっていない。
侵略戦争についても自己批判をやっていない訳で、実は自民党こそが政教一致なのではないか。だから平気で靖国神社参拝なんかもやってるわけですからね。それはハッキリしている。事実としても、細川内閣の時に一度公明党は政権の中にいた訳ですが、その時にも何も権力を通じて宗教を強制するなどということはなかった訳ですから、どこからいっても政教一致であるという批判はデマであることは間違いない。ただ、敢えて私が高いレベルで申し上げたいのは、政教一致という批判に対して「政教一致ではないのだ」ということは常に大きな声でいわれるべきではある。その先にもう一つ理論的なものがほしいなぁと感じがあっていったのです。
ちょっとここで話しが変わりますが、先ほど司会の方に読んでもらった文章にも書いたのですが、先の沖縄国会のときに私はいろいろ考えさせられました。あの時の公明グループは新進党と一緒に行動した訳ですが、九〇%を越える衆議院議員がわずか四日間の討議で、沖縄の反戦地主の土地を法に反して私用するという法案に賛成してしまった。これは明らかに、官僚による独裁の現われであって、その一つとしてスケジュール優先が露骨にある。安保反対というレベルの話ではなくて、明らかに官僚によるスケジュールだけが優先された。それに政治が全面的に屈服したということであって、これは基地をどうするかということとは別の問題である。私は公明党は民衆の党だと思っていますから、沖縄の民衆の気持ちは四日間であっさりと決められて、しかも九〇%の議員が賛成する。はっきりいってファッショ的な状況のなかで沖縄の民衆に対する、民衆運動としての気持ちの問題です。
気持ちの問題というのは、政治の中にはないでしょう。ただし私は、公明党をただの政治家の集団であるとは思っていませんし、思いたくない。そうすると、あの時に公明党グループは新進党の中で、ちょっと待て、賛成でも反対でもない。こんなに慌ただしく九〇%の議員がファッショ的に賛成する(九〇%の議員が賛成するというだけで私はファッショ的だと思うのですが)。それもわずか四日間の審議で。わが党は人間を大事にする党、人道主義の党なのだから、こういうやり方には納得できない、といって欲しかった。これは自分の希望を強制しようということではなく、内政干渉を試みているのでもなく、それがつまりは公明党(ここではあえてこの言い方に統一しておきますが)の本来のあり方だろうと思うのです。
つまり賛成でも反対でもない、とりあえず沖縄の民衆に対して、こんなやり方はないだろう、という論理を提起するべきであった。公明党とは何か、という基本をあえて問うなら、創価学会という偉大な民衆運動の――という風に私は位置づけますが、つまりはいまや戦後民主主義の精神に、ある程度の規模を前提すれば唯一正当に立脚した民衆運動という意味です――政治的な自己表現ということになるでしょう。公明党は政治の世界では何をなし得るかという問いが、公明党は創価学会という民衆運動の政治的な自己表現だという原則と常にリンクしていないとおかしなことになる。だからこそあえて提起しているのです。
ちょっとここで会場の方に誤解のないように言っておきたいのですが、ここで公明党の政策ですとか政治行動についていちいちあげつらったり、批判しようと思って言っているのでは勿論ないということを御了解ください。いまの問題も賛成か反対、バツかマルという問題で言っているのではなく、一つの例として申し上げているんですが、つまりそれは今日は根本的な問題しか申し上げる時間がない訳です。
根本的な問題として言いますと、プロの政治家集団なのか、あるいは市民の代表であり、そして市民として行動しているグループなのか、私の不勉強もありましてなかなか見えないところがありまして、そこで率直にお伺いしたいと思う訳です。荒木さんご自身のお考えはよく分かりました。今も大衆的な…とおっしゃったので安心したんですが、公明党全体のあり方としてどこかでプロの政治家を志向している面が見られる。
しかし、根本的には創価学会という大衆運動の政治的自己表現(私が勝手に規程しているんですが)であるならば、市民以外の者になってはいけないのではないか、意図的に市民以外のものになろうということを拒否することもまた必要なのではないか、と私は思うんです。
実際問題として極限的な状況の中で――その意味で沖縄国会を例に挙げたわけで、あげつらっている訳ではありませんが――ああいう風な突出した状況の中ではどちらかの選択が必ず求められると思うんですね。比喩の問題としてではなく、具体的にプロの政治家でいくのか、やはり原点である所の、市民、民衆運動の代表としていくのか。はっきり言って、その両方が成り立たない場合がある。そういう意味でお聞きしているんですが…。そういう意味での確認が、例えば公明党の議員集団の中で、ぎりぎりに追い込まれた時はやはり政治家としては行動しないんだ、というふうな申し合わせというか、覚悟というのはどうなんでしょうか。
それともう一つ、状況的にも日本は大変な危機に入ってきているのではないかと思うんですね。冷戦構造が崩れたのがもう十年ぐらい前になりますが、社会主義はもう負けたんだという声が大きい訳なんですけれども、実は資本主義も危ないのではないかという状況になってきているんですね。危機状況の中では、民主主義社会で常識であったはずの規範が、常識でなくなる状態が既に出てきていると想うんです。今度の金融機関の救済の為の公的資金の導入でも、宮沢とか梶山とか何の資格もない人が、目茶苦茶な形で口を出して世論操作をしています。
たしかに「危機」の状況は否定しがたい状況があります。ただし、「誰」にとっての「どのような」「危機」であるのかが、キチンと問い返されなければならない。言論操作されるままに、「危機」の合唱に加わるのは、きわめて危険です。その「危機」というのにもいろいろあると思いますが、自民党が危機だと宣伝するのに同調すると、自民党の戦略に載せられてしまう。性格には日本が危機なのではなくて、危機を口実にした民主主義の踏みにじり、ファッショ的状況が出てくるのが危機なのだという風に思います。
先の都議会議員選挙でも「福祉の達人」というキャッチフレーズを出した公明党ですから、その状況認識の正しさを私は勿論信用しておりますが、危機の宣伝のなかで本当に民主主義が危ないという状況が生まれつつある。そういう状況ではますます先ほど言った市民であるかプロであるかの選択は、現実に目の前にある問題だと私は思う訳です。その辺の覚悟みたいなものは必要だろう。その辺のことはどう考えておられるのでしょう。
つまり、福祉が片っ端から削られている。この前も官庁発表で、わずか百億円程度の、児童扶助手当という母子家庭の子どもの手当を取り上げようとしている。そんな目茶苦茶な話がありますか。例えば一方で医療保険のインチキ請求が三千億円ある。必要のない国家支出は膨大にある。それなのに、母子家庭から児童扶助手当を取り上げようというこういう目茶苦茶なことが行われている。福祉に対する一方的な攻撃がかけられている。それで一方では金融に対して、膨大な税金を使う。こういう危機的な、ファッショ的な状況が成立しつつある。このような状況の中では、政治家が政治家であるよりも市民であることがますます大事だと私は思うのですがいかがでしょうか。
さっき荒木さんがおっしゃった専門家としての実力という意味では、政治家はプロでなければならないというのはまさにその通りで、今相当経済学をマスターしないと何が何だかどういうい状況なのか分からないと思いますけれども、その上でなお、むしろ市民感覚の方が重要だと思うのです。
例えば拠出国債というのがありますが、あんなインチキなものはないのであって、それに対抗するには経済的な知識も必要だけれども、むしろ市民的な生活感覚が必要だと思うんです。拠出国債なんてあんなものはニセ札なんだと、僕は一言で言ってしまえば済むと思うんですよ。「あれはニセ札ですよ。国家がニセ札を作ってる」と、そういう風に言えるよりようなしたたかな庶民感覚、生活感覚が必要になってくると思うんです。
それから荒木さんの考えをお聞きしようと思っていたことの一つに、福祉攻撃とともに平行して省庁改編があります。この省庁改編をみんな軽く見てますね。批判的な論者も軽く見ています。私と同じように自民党の悪口をいう評論家は中々いませんけど、そういうまともな評論家ほど省庁改編を軽く見ている。あんなもの嘘の行政改革だと、それはその通りです。その通りなんですけれども、それを嘘の行政改革と済ませない怖さを私は感じているんです。あの省庁改編を子細に見てみますと権力集中型なんです。で、金は依然として大蔵省が握って大蔵省が権力の頂点にある。大蔵省が省庁改編を進めている訳ですが、もう一方の情報の問題を総務庁が取り込んでいる。あの改編案を見ているといわゆる明治以来の内務省の政治だとハッキリ思う。内務省政治を志向していると思うんですね。非常に反民主主義的な独裁志向が省庁改編に露骨に出ていると思うんですがその辺はどうお考えでしょうか。
戦後民主主義がインチキだとかいう類の議論は別として、やはり今は民主主義が尊重される時代は確実にあった訳で、戦後民主主義のかろうじて生き伸びてきている幾つかの勢力を叩き潰すことが、中曽根や竹下以来の、いまでも依然としてあの二人が権力をもっているだろうけど、権力の狙いだと思うんですね。このいわば「戦後処分」の中に、例えば部落解放同盟の影響を断ち切ろうとしたり…、いろいろありますが、その一つが創価学会攻撃ですね。戦後民主主義のよき遺産であるものを片っ端から潰そうとする動きがある。それもここ近年の明らかな状況ですね。非常に皮肉な言い方ですけれども、その「戦後処分」の仕上げとして、官庁にさえ多少はあった戦後民主主義の性格を一切棚上げにしようとしたんですね。つまり、官庁自身における「戦後処分」が、今度の省庁改編の本質です。
経済学者の野口悠起雄がこう言ってるんですね。「戦後の官僚制度は社民的だったからけしからん」と。これは社民党の社民ではなくて社会民主主義ということですが、社民的だからけしからんと言っている。戦後の官庁が立派だったとは夢にも思いませんけれども、多少は今よりも福祉とかそういう面では社民的だったとは言えます。それをけしからんというウルトラタカ派のその野口氏の発言は、今の内閣や中曽根などの権力の動向を正確に反映してると思うんですね。で、戦後処分の対象の例として、私なんかの大嫌いな霞ヶ関の官庁にも実は少しは民主主義があって、それさえも粉砕する。戦後処分の対象に官庁がなっている。非常に皮肉な印象があるんですが、どうでしょうか。
政治と行政はほんらい全然違うものですね。しかし、日本では、それが違うというところが認識されていない。政治と行政が全然区別がないというところで政権を取って、はたして意味があるだろうか。政治というのは本来、行政を止めてしまってもいいわけです。予算を成立させないとすべてが止まるというが、そんなことはない。皆の意見が一致しなければ、予算なんか成立させなくてもいい。行政には行政の都合はあるけれども、政治は国民の代表であって行政に優越するのだから、政治が政治であるためには行政を止めても構わないということが現実的にはあるわけだが、日本の政治にはまったくそんな例はない。
そこに私の心配があるが。そういう根本的なところで、日本には政治は無いと思う、はっきり言って。官僚だけが前面に出て、政治は官僚に使われていると思わざるを得ない。その例として、審議が止まったことはないだろう。予算が成立せず半年間ほったらかしになったっていいわけだけれども、論議のほうが大事なんだけれども、そんなことは一回もない。そういう国のそういうやり方を前提として、それを改革せずに政権を取ってしまった場合、単に官僚のスケジュール通りに、間に合わないから、理屈を言ったら間に合いません、議論をしてたら間に合いませんという論理で追いまくられる。現に細川内閣はそうであった。その危険性があるのでこういう質問をしているわけなんですが、その辺は実感としてどうお考えですか。
であるから私の不安というか、疑問もあるわけで。創価学会の場合、投票行動にニヒリズムがない。巻き上げられた重税を分けてもらおう、という欲で行動していない唯一の支援団体だと思う。他のすべての政党は単なる税金を戻してくれよという利害行動でしかないわけで、つまり一方で官僚の問題があるのと同時に、一方で選挙民の問題がある。選挙民がニヒリズムに落ちこんでいる。政治なんていうのは税金をいくらか取り返していけばいいんだといった……。現にその証拠に、人気のある江田さんがまさかの落選をし、建設省上がりの候補が露骨に、工事をもってくるよ、税金を戻して上げるよといって勝つ。岡山知事選挙ですね。露骨にそういうことがある。権力である官僚にも今意見を言ってていただいたような問題があるが、支持者のほうにもそういう構造がある。
いろいろな啓蒙活動をやりながら、当面危機のなかでむちゃなことが出てきますから、それに対しては戦う。それに対しては猶予がないでしょうけども、そのなかでおっしゃる通り官僚と戦わなければいけないわけですけど、とても、簡単に政治が勝てるとは思えない。具体的には言われる通りにスケジュールをこなしていくことになるだろう。一方で公明以外の党は、支持者からなにやってんの、金とって来い金を――。絶対にこうなりますよ新進党も。公明票は別にして、この重税収奪構造と、一党独裁の分け前支配構造をこのままにしておく限り、どう考えてもまともな人間は投票に行く気になれないんじゃないか。
この国の腐敗、ニヒリズムの根本は、一党独裁にあります。大蔵省官僚が税金を集中的に集めて、官僚総体が権力の維持を前提に分散する。この租税の収奪機構として、日本は制度化されてしまった。選挙もまた、この租税収奪の(その分配の)合法化にすぎない。租税収奪の合法化にほかならない選挙など、棄権する方が正しいという言い方も成り立つ訳だし、肝心なのは政権を取ることよりも、このニヒリズムを乗り越えるのは公明党だけに可能だし、やらなければならないという覚悟の方だと思うのです。一党独裁は、構造として不変です。重税を中央に集めて分散するという構造に対して、大胆な改革――無責任な言い方をすれば、公共投資を一年間ゼロにしてしまおうというような提案がなければ変わらないですよ。そんなことはできませんが、公共投資を一年間やめてみたら、意外と公共投資は必要ないんだということが分かる、ありえないことですが。そういう形で権力との戦いがあると思うんですよ。乱暴で申し訳ないけど、その辺どうですか。
ただ私は、慣れない細川内閣をあげつらうつもりはないが、単純に慣れない側面があるが、しかし細川内閣は公明党が自分の持っている理想をもっと強く主張して、前面に押し出していればあんな無残なことにはならなかったのではないか。例えば週刊新潮は"公明党の回し者"と書いていたが、その人間は死刑を執行してしまう。ずっと執行していなかった死刑を執行する。ああいうことがある。それから無造作に米輸入というような、専業農家にとって大変な問題、あるいは消費者市民にとっても大きな問題をあっさりやってしまう。自民党でさえ、何やかやとためらっていたものをやってしまった例が細川内閣にはある。ああいうことがあると、おっしゃってたように、細川内閣には無投票層が政治に関心を向けるいい機会だった。私のような無投票層が、戦争責任に対する自己批判をやったときなんか、ああこりゃぁいいじゃないかと思った。細川さんのスキャンダルは別にして、公明党が理想主義をもっと強く具体的な形で示してくれていたら、あのとき、無投票層はかなり強く政治に関心を持ったのではないか。
こういうことですね。つまり、一党独裁の構造に批判的であるからこそ政治拒否になっている層も、本質的に理解することで、真の批判を結集することで政権を取るという、いわばロングレンジでの構想であると。
ジリ貧というより、今、野党全部が結集しても逆転して辛うじて多数で政権を取ったとしても、公明以外はやっぱり次の選挙が心配で、そう理想的にいかないと思うし、どうしてもロングレンジになると思うが。最後にうかがいたいが、政教一致の問題は、非常にやっかいな問題だが、細川内閣のときの政教一致攻撃に対して、一歩引いたほうがいいと判断したと言ったが、その判断は正しかったと思いますか。
細川内閣についても、新進党についても、公明党が遠慮しているからこのような結果になった、ということははっきりしていると思う。政教一致そのものに戻るが、最初に確認したように、政教一致というのは何等根拠のないデマなわけだからはっきり、政教一致じゃないんだ、と言わないで「政教一致で何が悪い」とか「政教一致だからすばらしい」と私は言うべきだと思うが。政治的には難しいでしょうか。
外側から見ていると、はっきり言ってアピールできていないと思います。国会の論戦においても、論文や選挙のキャッチフレーズにおいても、宗教者が政治をやるんだということは、もっと積極的に言うべきだと思う。ぜんぜん言っていないのではないか、言わなくても分かるということで……。
しかし創価学会という運動は、偏見に対してお構いなしに正面から折伏してきた。それが信心だった。公明党もそうでないとおかしいと私は思う(拍手)。宗教者が政治をやっているんだ、と公明党議員が常に言うことによって、沖縄国会のようなときにその問題が生きてくると思う。沖縄国会のときに新進党の中で旧公明党グループだけが賛成も反対もしないとしても皆納得すると思う。普段から宗教者が政治をやっているんだとくり返し言っていれば、逆に行動しやすいと思う。偏見に対する配慮は分かります。しかし偏見と戦っているわけですから。もうちょっと言って欲しいですね、ざっくばらんに申し上げて。ものすごく遠慮していると思う。
というのは、政教一致という自民党の攻撃に対して遠慮しているあまりに、創価学会と公明党の交流が、そこに引っかかってあまり盛んじゃないように、無責任ですけど私からはそう思える。皆さんは違う意見かもしれないが、政教一致に対する遠慮がものすごく足かせになってると思う。言葉はいい言葉を発明するとして「何が悪い」ということを折にふれて日常的に、創価学会の皆さんと公明党の交互のというか共同作業というか……。
創価学会の方は人がいいから、こういう経験があってびっくりしたことがある。青年部の講演で大阪へ行ったんです。そこに友人の公命党職員のAさんと偶然大阪の駅前で会った。全くの偶然だったが、青年部の人が迎えにきて私と挨拶して、こちら公明党のAさんですと私が言ったら、困るなあ公明党は別組織だから、と言った。真面目だから、そういうことがあるんじゃないかと思う。政教分離をやらなきゃいけない、やらなきゃいけないと一生懸命思い過ぎているんじゃないか。政治家の方は使い分けができるけれども、まともな庶民の方にとってはえらい重荷になっているんじゃないかという感じがした。もっと「開き直って」というと言葉が悪いが、正しい路線としての「政教一致」(あえて挑発です)で、学会と党が一体で大いにもっとやっていただきたいですね。
むしろ、物議は大いにかもして欲しい。週刊誌の攻撃などを見ても、これは敵の大きな武器になっていると思う。くり返しそこを突くでしょう。そこを突くということは自民党側も必死なんですよ。そこでなんとか楔を打ちこもうということがあると思うので、客観的には非常に大きな問題があると思う。
よくお分かりのことでも改めて分かっていただいたこともあると思う。傍目に見ても創価学会の、とくに情熱的な青年部の人達と党との間が、多少の齟齬を来たしているのではないかと思える時があるわけです。荒木さん自身が理想主義者であることを私はよく知っていますが、公明全体が、観念的と言われても、「政教一致」だと言われても、理想をもっと前面に押し出して、自民党政治と違う政治もあるんだという、まだるっこいようでも、理想を前面に押し出すことを個人的には強く望みたいと考えます。
※この時点では新進党は解党していないなど、現在の状況と一部異なるところがあります。
※この資料の一切の文責は、yumeno個人にあります。
※同時代を考える会に無断での引用、発表などは固くお断りいたします。