同時代通信 L  by 岡庭 昇
 「官僚(キャリア)は本質としてファシストである」

2002/08/17






官僚(キャリア)は本質としてファシストである(1)



 この8月、国民総背番号制が実行に移されるという間際になって、全国で6つもの自治体がいわゆる住基法ネットへの参加を拒否して話題になった。むろん、これは、住民の基本的な権利を守る自治体として当然のことであるが、とことん駄目になったこの国で、まだ正統な立場に立つ自治体がこんなにあったことにわたしは感激している。地方で済む税金をわざわざ中央に集中させる租税収奪のカラクリで、お上に逆らう地方自治体には、中央の官僚による地方交付税を通した報復が予定されているのだからなおさらである。
 
 本質は現行の官僚支配体制のもとで旨くやっていくつもりでいながら、一方で市民の特に地域的なレベルの高さに配慮して、実は姑息なテクニックを編み出したところもある。横浜市である。本題の前に、わたしがなぜ横浜市、あるいは神奈川県を政治的なレベルの高いところと言うかといえば、先の衆議院選で、投票総数の2割りを越える白票があったという事実を評価している。わざわざ出かけていわば不信任票を投ずるなど、なかなか出来ることではない。この点ではわたしも反省しなければなるまい。現行の選挙制度が欺瞞に満ちたものであることを主張するためにも、わざわざ出かけて白票を投ずる行為は貴重なのである。
 
 さて、横浜市だ。中田宏市長は住基ネットに批判的だと伝えられた。これだけの大きな政令都市が拒否すれば住民の意志もはっきりと示すことが出来、インチキな「多数の意志」で、いいかえるなら国会の論理だけで成立した同法の、民衆の意志を踏みにじった成り立ちも大きく再検討されることになる。
 
 だが、事態はその本質的な問い返しの期待を裏切った。しかも中田市長は、エエカッコしいのままで、選択を市民個々の決断に委ねた。ここにきて、かっこつけつつ国の圧力には屈伏するという、かねて懸念された市長の体質がいわば露呈した。市民それぞれの自律的な決断に任せると言えば、かっこ良いようだが、地方自治体がやるべき住民の保護を投げ出してしまうということでもあるのだ。
 
 また、情報提供が全体に少しは認められるようになってから、手早く言えば官庁の情報など知りたがる「アカ」はどこのどいつだ、という官庁の意志絡みの「犯罪」が頻出している折しも、誰がネットへの参加を拒否したかがはっきりするようなやり方は、やはり避けるべきであるのも明らかだろう。
 
 それにこの問題が例え批判的にせよ、マスコミで一斉に「プライバシーが確保されない」」点に問題がある、とのみ論じられているところに実は極めて重要な仕掛けがある。もとより、記者クラブ体制は権力「批判」自体を演出し、流布するのである。
 
 この悪法が、1999年に、論議もろくにないまま強行裁決されたとき、それは「国民総背番号制」という本質に適った呼称を持っていた。そして正しい呼称が示すように、それはプライバシーの保護だけを問題点とするものではなかった。ジョージ・オーエル『1984年』の世界が良く警鐘たり得るように、それは人間を背番号で呼ぶという根本的な無礼である。人間を「もの」として、「一け二け」と数える発想である。
 
 むろん、警鐘というより、既にキャリアの現在の発想に紛れもないのだし、過去に例をとれば、わたしたちは容易にあの「従軍慰安婦」が「一け二け」と呼ばれていた事実を思い起こすだろう。超管理社会が人間を人間として扱わず、ものとして「処理」する事態は『1984年』によらずとも、日本の近代ではありふれたことなのかも知れない。
 
 だから、何よりも総背番号制を、住基ネットとして取りあえずはまとめようとする体制意志、つまり官僚の策謀が露骨にある。しかも「批判するマスコミの論調」をこそ、警戒するべきなのだ。端的に言って、国民総背番号制という根本的に否定されるべきものが、そこでは住基ネットの不備だけにすりかえられ、しかもプライバシーの保護だけが問題なのだというように批判する側からこそ限定させる。であれば、やがて形式的なプライバシー保護の条文を作れば万事良しということになりかねない。再度言う。住基ネットにプライバシー保護の条例がないのが問題であるという問題意識は、官僚独裁の側が紛れもなく仕組んだ。記者クラブ体制はそれを容易に実現した。まず、批判のつもりの「世論」をでっちあげて、次にやおら反省したポーズを取って、その仕組まれた「不備」を解決すればみんな上機嫌、民衆なんて甘いものさとキャリアはほくそ笑んでいるだろう。
 
 悪条例に幾ら条例を重ねても意味がない。基本的なことだ。大事なことは根本的な世界観である。つまり、人間をどう捉えるかということに尽きるだろう。そして、近代の日本人ほど、この肝心のことが出来ない民族はないのである。
 
 むろん、キャリアにおいてそれは、意志されたものである。というか、キャリアは本質的にファシストである。例外はあり得ないと言って良いようだ。
 
 中央官庁ではないけれど、東京都の官僚は、紛れもない同じファシストを頭目に頂いている安心感からか、とうとう大道芸の一部をのみ「官許」にすると言い出した。確かに、わたしが川端康成『伊豆の踊り子』論(『性的身体』)で指摘したように、大道芸人は差別されが(「物乞い旅芸人村に入るべからず」)、ではこの措置が差別に抗議し、そのささやかな芸を公に応援するものだろうか。そういう風に報道する無邪気なマスコミもあったようだが、脳天気に過ぎよう。明らかに差別は、一段と強化される超管理社会によって強められただけのことだ。
 
 現に関係者(確か萩本欽一だったか)の、実際は形式的な審査だけで、みんな通るというコメントを紹介したテレビ・メディアもあるようだが、わたしのTBSの同僚が東京都に問い合わせたところ、事実は合格者は、応募した8の中の1という比率だったという。明らかに選抜したのである。行政が本来関知すべきでない領域に踏み込んで、権力を行使したのである。
 
 このことの意味は小さくはない。選考委員という名義で、その実「公認を与える権力」という機能を果たしたメンバーの中には、かのピーター・フランクルもいる。祖父母をナチスに殺されたユダヤ教徒である彼は、その体験を押さえたリベラリストかと思って、わたしは著書に接したこともあるがこの体たらくにはいささか呆れた。
 
 問題は何か。芸人が芸人であるのは、まさにそれが人々に受け入れられるかどうかによる。そのような厳しさを経て芸人は芸人たり得ているのであって、事は徹底して民間の事柄である他はない。それなのに、芸人のライセンスを「官」が仕切ろうというのである。 例えば、明治の例として、

  もしも成らなきゃ、ダイナマイトどん (「ダイナマイト節」)

 といった街頭演歌(壮士節)を考えても良い。。これほどデスペレートではないにせよ、自由民権運動が街頭の演歌にその国家批判の武器を求めたことは歴史的な事実である。もし同じようなケースがあったら、この「公認」路線が、直ちに「排除」に切り替わるのは説明するまでもないだろう。
 
 いや、そういうケースになれば、というのは分かり安い説明だがそれだけに不正確でもある。政治的弾圧の可能性があるからけしからんのではなく、管理それ自体が人間を冒涜するものに他ならないから、われわれは拒否するのだ。。言い換えれば、官僚は芸人に「鑑札」を出そうとしているのであり、そのことで自らの本質を露呈している。この事態の本質はそういうものであり、そして官僚はこれだけではなく、すべてを自らが与えるライセンスのもとに集約しようとする傾向を持つ。官僚が本質的にファシストである、というのはこの意味でもある。







官僚(キャリア)は本質としてファシストである(2)




 芸術もまた、登録される。こんにち、芸術家は登録した側から、例えば平気で「勲章」を貰う。登録による公認がもう一度確認されるわけで、最近この「勲章」なるものを拒否した例を聞いたことがない。かつてたとえば大岡昇平は、芸術祭といった「国家」さえ敢然と拒否を表明した。大岡氏は、何も特別に過激だったわけではない。それは氏らしいコモン・センスに過ぎない。何もいまさら力説するまでもなく芸術の分野に国家がしゃしゃり出ることはないのである。そんなことにも抵抗感がなく、よろこんで公認されたがるところに芸術があるべくもないので、実際芸術と呼べるものなど、現在の小説からはほとんど消滅してしまった。
 
 これまで述べて来たことを要約しよう。一言でそれは人間を「管理」すること、そのものの犯罪性であり、常にその犯罪性に向かうキャリアの、ファシストとしての本質に他ならない。総背番号制においては、われわれは「市民」という登録記号となる。番号付きの「市民」として「公認」されるわけだ。芸人もまた、登録され、無害無益の存在として官僚に保障される。作家もまた、国家による認知が大好きで、易々と言葉を管理に引き換え芸術表現を消滅させる。それらは、「落ち着くところに落ち着く」のであり、要するにすべてに絶対性は呼び戻されるのである。
 
 これらの例に続いて、宗教法人法改悪(1995年12月成立)と暴対法(1991年5月成立)という二例を挙げておきたい。宗教法人法は永年官僚がその改悪を狙って来たものである。その本質は、人の心をまで管理しようとするもので、むろんあるべくもないのだが、本質ファシストである官僚はひたすらそれを望む。実際江戸絶対性下では、禁制のキリスト教に対する取締りを口実にそれは実現したのであり、近代においても、国家神道を他のすべての宗教に超越し、宗教を支配する宗教として、そこから俗社会の支配序列に宗教もまた組み込まれることになる。
 
 旧・宗教法人法では、宗教団体の届け出は、いわゆる届け捨てだった。軍事天皇制下での国家神道支配による宗教に優越する宗教支配を反省してそうなったのだが、戦争責任のないこの国の市民たちは、管理が地方自治体から中央に移されたことが、どれほど決定的な改悪であり、管理によって心までも支配することであるかに気付きもしなかった。
 
 そしてこれに、暴体法を挙げておきたい。暴対法はヤクザ取り締まりの為のものだが、人を実際の行為においてのみ裁くという民主主義の原則に、正面から反する極め付けの悪法である。つまり、認定されたヤクザ団体のメンバーであれば、それだけで罪で、何も違法行為をしていなくとも犯罪だという、めちゃくちゃな法律である。だが、この悪法を、逆の面から言うと、ヤクザに国家がライセンスを出すというマンガみたいな事態でもある。
 
 国家はここでは、いじめているヤクザにまで鑑札を出している。そうまでして、絶対制の社会を復活させたいのだ。わたしはこのとき、取材の過程で、同法を批判していた会津小鉄会の高山会長から、二つの痛切な言葉を聞いた。一つは、「警察というのはヤクザのピンハネをしよるぜ」であって、実際そののち暴対法の唯一の成果(?)といわれたように、パチンコの景品買いは警察(OB)のものになった。もう一つの名言が、「何とヤクザにわざわざライセンスをくれようというわけや」であった。まったくその通りである。
 
 そして市民を守るため、正義のためにこの法を作るといっていた幹部の名前を、その後(97年ごろか)のニュースで、防衛庁汚職の中心人物として接することになっても、そんなには驚かなかった。正義よりももうかる話がリアルだと別に思うわけではないが、ともかくこのライセンスが究極の狙いなのである。ちなみに、その後のヤクザ取り締まりで、同法はほとんど使われていない。そんな必要はないのである。
 
 そして最後にこれらすべてを報道する報道が仕上げを為す。記者クラブは、一早く第二次大戦下に作られた。それは「大本営発表」という過去(?)の一事態によって責められるべき存在ではないのである。いわば、記者クラブ製報道は、公認というハンコを押してある。ハンコ付きニュースだけが、ただ一つのニュースなのだ。ここに支配原理はここに成立する。何よりも早くそれは戦争体験をご破算にしていたのかも知れない。
 
 つまりこうだ。いわゆる「市民」一般と芸人と芸術家と宗教者とヤクザ、そして報道。これら何の関連もないかに思える対象は、ただひとえに絶対制を志向する、つまりは本質的にファシストである官僚の「管理」のいわば奴隷なのである。彼らを隙がればその本性を発揮する。彼らを付け上がらせてはいけないのだ。