同時代通信 @
by 岡庭 昇
「ユーゴ空爆と新帝国主義」
1999/04/28
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「ユ−ゴ空爆と新・帝国主義」 ――言論操作は「正義」さえ手段にする
ユ−ゴに対するNATOの地上軍投入が検討され始めた。まさに泥沼状態だが、これを以て、空爆より事態が「より深刻」になった、という論調は筋違いであろう。もともと絶対「悪」と捉えるべき空爆を、地上軍投入よりは軽い事態のように言うのはすりかえであり、またNATO(アメリカ)の戦略上の破綻に過ぎないものに客観性を与えている。
まぎれもなく誤解されるだろうレトリックをあえて用いるなら、地上軍投入による「戦争」についてなら「勝手にしろ」と言うしかない。現状はその底部で、ヨ−ロッパにおけるこの地域への根深い歴史的下意識を改めて教えたとも言えるし、また別な側面ではバブルの頂上にあるアメリカが、恐慌への恐怖から「経済政策としての戦争」をどれほど欲しているかを、如実に示してもいる。後者は、まさに国家独占資本主義ならではのいかがわしさそのものである。
それはともかく、もとよりあらゆる意味での戦争を許容するわけがないわたしが、地上軍投入による戦争に対して「勝手にしろ」などと言うのは、なによりセルビア空爆について、事の始まり以前から徹底した言論操作が計られ、あたかも空爆を合法化出来る「理由」があり得るかのような論調がまかり通っていることと関連している。しかし戦争犯罪は戦争ではなく、あえて言えば戦争より「悪」なのである。つまり状況とかかわりなく弾劾されなければならない犯罪である。
現状ではユ−ゴに対するNATO軍の空爆に対して、さすがにその杜撰さが、多少は批判の対象になりつつあるとも言えなくはない。しかし大事なのは、それはもともとその本質において、根本的に批判されるべき行為だったという事実である。
4月12日、NATO軍は列車を空爆した。このときは、たまたま列車が攻撃の射程に飛び込んで来たと苦しい釈明をしたが、14日、今度は避難民を攻撃し、さすがに公式に謝罪した。しかしそのスポ−クスパ−スンの記者会見での発言は、「戦争に事故はつきもの」という次元であり、謝罪や反省というよりも開き直りであった。正しくは、この言は以下のように言い換えられるべきである。
すなわち、「空爆には非戦闘員や民間建造物への攻撃はつきもの」だ、と。
どのように粉飾しようとも、軍隊や軍事施設だけを対象にした空爆などが、あり得るわけがない。そのような言い方が欺瞞であることは、そもそも常識でなければならない。そうである限り、わたしはこのことがはっきり確認されるべきであると考える。すなわち、ユ−ゴへの空爆があまりにも問題が多いから(それ自体は事実としても)批判されるべきなのではなく、それがそもそも空爆であるからこそ弾劾されなければならないのである。
空爆は戦争行為ではなく、戦争犯罪である。そして戦争犯罪にいかなる理由も成り立ち得ない。これが、あるべき根本の認識である。
何も陸・海・空三軍に順列をつけようというのではない。彼我の軍事力があまりにも隔絶しているため、ほとんど無抵抗に近い生活圏に対する、遠距離からのほしいままな攻撃としての空爆を言うのである。歴史的にはこれは、第二次大戦にさしかかろうという時代、スペイン人民政府に反乱を起こしたフランコ軍を支援して、ナチス・ドイツが行ったゲルニカ空爆である。 その非戦闘員を巻き込んだ残虐さを、ピカソは芸術的な抵抗として弾劾し、英米仏は民主主義の名において糾弾した。その限り、当然あるべき非難であった。
ところでMIT教授・ジョン・W・ダワ−氏は、広島・長崎への原爆投下を、疑うことの出来ない戦争犯罪であると言う冷静な政治学者だが、アメリカの戦争犯罪はそれ以前の東京大空襲において、すでに始まっていると述べている。
ナチス・ドイツのゲルニカ空爆を非難し、非戦闘員を巻き込むそのような行為はしないと宣言しながら、それを裏切ったと指摘するのである。それは戦争をも超えて存在そのものへの否定にまでつながりかねないのであり、だからこそその面からも批判されなければならない。
事態は湾岸戦争と同じである。湾岸戦争とは、戦争を称することこそが計られた虚偽であり、戦争犯罪の隠蔽であるというイロニカルな事態だった。事実は、そこにあったものは戦争ならざる空爆という名の虐殺意志であった。
と言えば、ただちに反論があるだろう。
では、サダム・フセインの他国侵入やクルド民族への弾圧は許されるのか、同様ミロシェビッチのコソボでの自治権剥奪や民族浄化はどうか、と。たしかに彼等は擁護する対象ではないかも知れない。というよりは、あからさまにファシストと言った方が良いのだろう。
後者による必要以上の民族意識の高揚が「ユ−ゴの悲劇」の原因になったこと、それが定着しつつあった「ユ−ゴ人」意識(つまりセルビア人やクロアチア人といった民族概念を超えた)をぶち壊しにしたことは、既に指摘されている。わたしもまた、多くの註が必要とは言え、自治やみずからの国家の選択は、「そこに住む」者が決定するという原則に立つ。従って台湾人、香港人、沖縄人も、クルド人やコソボ住民も、すべて独立の権利を持つのは当然であると思う。もとよりそれを決めるのは、政治ではなく文化であるにしても。
たしかに、さまざまな傍註が必要だ。国家権力による強制移住(歴史的な例では満蒙開拓団)は別であるし、またそうでなくてもコソボが歴史的にセルビア正教のゆかりの地であるといった問題もあろう。しかし、やはり原則は「その土地に済む者が自治を決定する」以外ではない。その意味では、クルド人やコソボ住民を援助するための空爆は当然正義、もしくは正義への荷担ではないのか、という主張は十分にあり得るかも知れない。
とはいえ、やはりそれがそうではないのだ。たしかにサダム・フセインやミロシェビッチのナショナリズムは、クルド人やコソボ住民にとって帝国主義的な権力の発動だが、同時に別の面では、評価はどうであれ本来の帝国主義に対する抵抗の一種でもあり得るのであり、すくなくも帝国主義の本家であるNATOが歴史的な反省を抜きに亜流帝国主義の犯罪性を弾劾するのは滑稽ではないか。
4月24日、NATO首脳が集まり世界の「新・秩序」を宣言した。国連を棚上げしようとするアメリカの陰謀はさすがにヨ−ロッパ各国に賛同されなかったようだが、それはともかくこの「新・秩序」なるものは、民主主義(裏切られた民主主義)を虚構の軸にした民族自治への抑圧機構であるところの、ヤルタ・ポツダム体制の再生にほかならない。つまりそれは、いわばまさに新・帝国主義なのである。ただし、ヤルタ・ポツダム体制という欺瞞の支配を通過して狡猾になっている分、歴史的なそれよりも大義の虚構において優越しているとも言える。
そもそもマニュアルとしての「正義」などはないのだ。そのことを、十分に認識しよう。本来理由を持ち得ない行為に、理由を持ち出す欺瞞が行使されているとき、むしろ正義こそがいかがわしいのである。なによりも、この逆説を指摘しておく必要がある。
日本の報道は、湾岸戦争でも今回のユ−ゴ空爆においても、もっぱら空爆の「理由の正当性」だけを言い続けた。しかし重要なのは、理由の如何を問わず戦争犯罪は許されないという単純な真実(真実は単純である)の尊重なのである。このすりかえにこそ、実は巧妙な情報操作がある。かつてわたしが『かくもさまざまな言論操作』(三一書房)で述べたように、報道とは本質的に国家意志の狡智・巧妙・狡猾な宣伝である。それはときに、正しい情報の提供や弱者への連帯や権力批判すらも宣伝の手段に転化する。
つまり、しばしば正義はいかがわしいのである。シニシズムを採らないわたしが、正義こそは正義であると断固主張するわたしが、その上でそう言うのだ。