宮本良彦氏を悼む

 私達の同期生宮本良彦氏が2000年8月11日深夜、お亡くなりになられました。
 渋谷区富ヶ谷の飲食店「G.G.C.」のマスターとして20年、地域との繋がりを築き上げ、
共にお店を支えてきた奥さん(政子さん)と4人のお子さん(3女1男)に囲まれて、
いよいよこれから、人生経験を生かした実り多き熟年を迎えようとしていた時の、
あまりにもあまりにも早い訃報でした。(満47歳)
 生前を偲ぶ多くの弔問客に見守られて、氏の魂は旅立っていきましたが、
お通夜の日には、悲しみの中にも「生前のマスターは賑やかなことが好きだったから
ということで「G.G.C.」を開放しました。
そこでたくさんの方が思い出話に花を咲かせていたのが印象的でした。
 岩東卒業から政子さんとの出逢い、結婚、お店の経営と発展、そして3年に及ぶ
闘病生活……さまざまな思い出を、友人として見守ってきた諸橋龍雄氏の一周忌の
追悼文を、ここに掲載いたします。






宮本良彦氏への追悼(一周忌にて)
                             2001年8月11日



 親友 宮本良彦が他界して丸一年。その間、幾度となく共通語で、同じ目線で、他愛なく、本音を語り合える友を失ったという
寂しさというのを痛感。岩東時代をスタートに互いの人生に少なからず関わり合ってきた事、俺はとても感謝している。
 今日は貴兄の一周忌。みんな集まって一杯やる事になった訳で貴兄を肴にさせてもらうが勘弁して欲しい。
高校時代から貴兄は日本史を得意としていたので、今日は"宮本良彦の歴史"について振り返ってみようと思う。

【岩東時代】
……毎朝のバスケット
 一時間目の授業が始まるまで、毎朝体育館で黙々と楽しげにバスケやってたよね。たぶん、ボールに触れている時間の長さは当時、
一番だったと思う。プレースタイルは、自分で切れ込むよりは、ゴール下に良いパス出してポイントあげることが多かったかな。
時折自分でミドルも打ってたけど。

……坊主頭
 三年間を通じ、一貫してのヘアスタイル。印象的で硬派のイメージを与え続けてはいたものの……
 ナベの家での麻雀には良く参加していたよね。








……草むしりのアルバイト
 高校時代、一度だけ夏休みに草むしりのアルバイトを二人でやった事は覚えているが、何処でどういう訳でやったかは忘れてしまった。
ただその後の人生では良く一緒にバイトし、妙に仕事仲間として気が合ったのは、この時の草むしりだった気がします。

【浪人時代】
……豪徳寺のアパート
 この頃からこだわりが強くなって行った気がする。……コーヒーはブルマン、タバコはショーピー、志望校は新潟大学、
野球は巨人(?)。後楽園球場に長嶋の引退試合一緒に見に行って大声で叫んで涙流して……あの日も飲んだかなぁ? 
飲んだだろうなあ!
……高島屋日本橋店サラダコーナー
 ここでのバイト経験が貴重だった。二人でほとんど仕入れ、製造、販売を仕切って、一人前気取りになれたもんね。
……青山学院
 新潟大学とは意見が合わないとかで、青山学院へ入学し、学食で一度待ち合わせしたけど「ピザが学食にある変な学校」と
言っていたのは貴兄だぜ。そして表参道の堅苦しいフランス料理の店でバイト始めたのもこの頃。フランス語喋ってたね。

【GGC時代】
……出会い有り
 代々木八幡に俺のお気に入りの店が有るからとGGCへ誘ったのが出会いの始まり。当時の経営者で、
その後俺たち二人にとっての師となる三ツ村氏との出会い。そして最高の伴侶となる政ちゃんとの出会い。
飲めないウィスキー(ジョニ赤)をキープしたり、俺に声かけずに一人で来たり、何か走り出した感じだった。
……結婚・誕生・病気
 岩東時代のバスケットの如く、ボールを持たせたらドンドン行ってしまうというか、グイグイ引っ張って行くように、
GGCの経営者となり、一途に恋した政ちゃんと結婚し、やがて三人の娘さんの親となる。そしてポロリと一言「男の子も欲しい」。

 娘たちのバスケでの活躍を自慢する親バカぶりも板についてきて、待望の男の子も誕生し、店の拡張の話も持ち上がり、
順風満帆の四十男には、もっともっと人生やりたい事があったのかもしれない。でも貴兄と関わり合った人々や家族のみんなは、
貴兄の優しさや強さを決して忘れないし、大切にするはずだから安心してくれ。俺もそのうちそっちへ行くことがあると思うから、
そん時は徹夜で飲もうぜ。





▼最後の同総会となった1998年の同窓会でのスナップです。

 「次回の同窓会は2000年の記念すべき年にやりたいね。」と熱く語っていましたね。