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東郷公主(1)



宮殿の方から、華やかな楽の音が流れてくる。
初夏の宵を祝う端午の節会。魏王朝が成立して最初の節会ということで、その日は、それを祝う酒宴が朝から延々と続いていた。

甄氏は人形のような硬い表情で自分の部屋に戻ってくると、無造作に装束を脱ぎ捨て、そのまま椅子に座りこんだ。そして、女官が慌ててそれを拾い上げているのを、肘掛にもたれながら、うつろな瞳で見つめていた。
「お疲れでございますか」
女官長が心配そうに彼女の顔を覗きこむ。美貌の皇后は、面やつれた顔を上げ、ふっ…と、大きなため息をついた。

夫 曹丕が献帝から禅譲を受け、正式に皇帝になると同時に、彼女は皇后に擁立された。しかし、彼女の実兄はもとより甄家のものたちも、新しい朝廷では微職しか与えられていない。有力な外戚の存在が嫌われたのだろう。
後ろ盾もない女がどうして皇后なのだと、非難めいた目を向けられたこともあるが、彼女には成すすべも無かった。夫が…そう決めたのだ。なぜか、曹丕は立后の件については重臣達の意見を全て退け、自分の意志を貫いたのだという。


私が、一番古い妻だから…それとも、愛しているから…

そんなことを思い浮かべながら、彼女は苦笑した。
そうだとしたら、この仕打ちは何なのか。


後宮には、日増しに若い妃が増えている。つい先日も、献帝の二人の公主が輿入れしてきた。皇帝の権威を高めるためには、後宮を充実させることが必要だとの周りの意思が働いているのは明白だが、若い妃たちは、それをいいことに皇帝の寵愛を求めて妍を競い始めていた。
つい先ほどまで渋々列席していた宴の席でも、皇帝に控える妃たち、とくに最近寵愛されているという郭貴妃という女などは、父親の権威をひけらかして後ろ盾のない自分を見下したような瞳で見つめていた。その無礼な振る舞いに耐えられなくなって、逃げるように自室に戻ってきたのだった。

夫は私を助けてくれない。先ほどのことも、見てみぬふりをしている。
それならばどうして、私などを皇后に冊立されたのか。あの人は、いったい何を考えているのか。あの人にとって皇后とは何なのか。豪華な衣装や金銀宝飾に飾られ、女官たちに囲まれ、しかし後宮奥深くに奴隷のようにつながれているだけなのか。私は、何のために生きているのか…。
考えれば考えるほど、甄氏の心は暗く沈んでいった。


そんな彼女の一縷の望みは、我が子、曹叡が太子に立てられることだった。
「…元仲は、どうしてます?」
茶を運んできた女官に、彼女は尋ねた。
「ぐっすりとお休みでございます。殿下も、今日は儀式でお疲れのご様子でございました」

曹叡、字は元仲は、曹丕の長男で、もう十歳をとうに超えているというのに、まだ太子に立てられていない。亡き祖父曹操に可愛がられ、三代目はこの子だと言われたのは誰もが知っているというのに、曹丕はその話になると、まだ早いと取り合ってくれない。自分が太子に指名されたのも三十路を越えてからだったなどと言い訳しては、避けようとする。

他の有力な妃に、男子が生まれるのを待っているのではないか。だから後宮に妃を次々と入れているのではないか。もしもそうなったら、自分たち母子は追いやられてしまうのではないか…。甄氏の憂鬱は、抜け出せない泥沼のようだった。

いつにも増して、女主人のご機嫌がよろしくないと察した女官たちは、手際よく寝台の準備を整えると、そそくさと部屋から姿を消してしまった。




孤独な闇が、彼女を包み込む。




――― なぜ、私はここにいるのか。
どうして[業β]を攻められた時に、自害して果ててしまわなかったのか…


甄氏は寝台に腰掛けて、雲鬢を細い指で掻き乱していた。その拍子に簪の一本が床に落ち、薄暗い床に真珠が小さな光を撒き散らす。
それに視線を沿わせていくと、薄絹のひれの端が揺れているのが見えた。
誰もいないと思っていた部屋に人がいたことで、恥ずかしさと不快感に、甄氏は思わず声を荒げた。

「こんなところで何をしているのです、用はありませんよ。お下がりなさい」

女は、甄氏に恐縮することもなく、ゆるりと彼女の前に現れた。歩いてきたというより、むしろ闇の中から忽然と現われたという感じだった。
見ると、まだ少女といってもいい若い女で、ほっそりとした体に高貴な者が着る金糸の縫い取りのある服を纏っていた。しかも驚いたことに、鏡に写し取ったように自分の若い頃にそっくりではないか。甄氏は、怪訝そうに少女を見つめた。
「そなたは誰です、甄家に縁のある者なのですか」
その問いに対して、少女がくぐもったように笑い始めると、甄氏の背中にゾクリとするものが流れた。

「おわかりになりませんか?」
少女は、衣の縫い取りを見せるかのように、甄氏の前に両手を広げた。
豪華な赤い衣…。見覚えがある…あれは…花嫁衣裳…!?
甄氏は撥ね返されるように、少女の顔をさらに見つめた。
「そなたは…。い、いいえっ、そんなことはない。あの子は幼くして亡くなったはず」
甄氏の顔から、血の気が引いていく。
「…東郷? そんな、まさか」


東郷公主 

それは、甄氏が曹家に嫁いだ翌年に産んだ娘だったが、まだ物心つく前に、はやり病気で亡くなっていた。しかし元気に育っていれば、丁度、このくらいの歳になっていただろう。

彼女のことは、世間ではほとんど知られていなかったが、そんな「彼女」に注目が集まったのは、曹丕の異母弟である曹沖が夭折した折り、それを不憫だと感じた曹操が、冥婚、すなわち死者同士の婚礼の花嫁に選んだときのことだった。

すでに何年も前に葬られていた東郷の小さな柩が墓から引き出され、鮮やかな花嫁衣裳がそれにかけられた。その隣には曹沖の柩が並べられ、生きているのと同じような婚礼の儀式が行われた。そして宴が果てたのち、東郷は哀王曹沖夫人として叔父と合葬されたのだ。
婚礼と葬儀をあわせて行うという奇妙な儀式があったその日のことを、甄氏は忘れることはできなかった。


「母上、もっとご自分のお気持ちに、素直におなりなさい」
東郷は、床にへたりこんだ母親の頤に手を伸ばすと、哀れむような瞳で見下ろした。
「父上との愛を引き裂かれ、その身を略奪され、こうして屋敷の奥で忘れ去られて生きている。悲しくないのですか、悔しくないのですか。どうして、まだあの男に仕えていらっしゃるのですか。どうして我が一族の仇をとってくださらないのですか」
「…我が一族…?」
甄氏は、ゆっくりと顔を挙げた。
「私は袁家の血を受け継いだ娘。それは、あなたが一番ご存知のはずではありませんか」
甄氏は考えたくないと耳を塞いだが、東郷はそんな母を責め続ける。

「私は、物心がつくまでもなく闇に葬られてしまいました。突然の病ということで。でも違う。私は曹家にとって許されざる血を持っていたから…」
東郷は、悔しそうに細い眉を寄せる。
「いいえ、そなたは曹家の娘として大切に…」
「そんな言い訳は聞きたくありません。…まあ、しょせんあなたは袁家の者でないのですもの。こうして皇后として担ぎ上げられ、綺麗な服に包まれて日々を過ごしていられればよろしいのだわ。でも私は許さない。曹家に滅ぼされた袁一族の魂は、まだ幽界をさまよっているのです。袁家の血を引くものとしては、この恨みを晴らさないわけにはいかないのです」
みると、東郷の周りには、無数の青白い光が、渦に引き寄せられるように集まり始めていた。

「私は、曹家を滅ぼすために蘇ったのです」
美しい顔に似合わない恐ろしげな声でそう言うと、東郷は赤い袂を振り上げ一陣の風を呼び起こした。髷が解けて彼女の長い髪が蛇のように怪しく揺れ動いている。彼女の周りに集まりだした袁家の亡霊たちを引き連れて、東郷は中庭の方へと飛び去っていった…。

「東郷…!」
娘を追おうとした甄氏だったが、足が凍りついたように動けない。床にへたり込んで呆然と、東郷の飛び去った方を見つめるしかできなかった。


―――顕奕(袁煕)どの…、これはあなたのご遺志なのですか。
     あなたを裏切った報いなのですか…

袁煕の首が、弟の袁尚の首と同時に[業β]へ届けられたと聞かされたとき、甄氏はあまりの衝撃に気を失ってしまった。しかし彼女には、屋敷の奥で生まれたばかりの東郷を抱きしめながら、密かに涙を流すことしかできなかった。
どんなに悔しかったでしょう。死んでまで、あのような辱めを受けねばならないとは。でも、私には何もできない。袁家のために声をあげて泣くことは許されないのです。


だから、曹家に恨みがないとはいえない。
でも…
彼女は、曹家の血を継いだ息子を産んでいた。



――― 私は曹家を滅ぼすために蘇ったのです



「…元仲!」
現実に引き戻された甄氏は、転げるように息子の部屋に駆け込んでいった。
何よりも不安なことは、彼女の生きがいである息子のことだ。曹家の嫡男の血を受け継いだこの子は、東郷にとって異父弟とはいえ、憎むべき血をもった者でしかないのだ。

「は、母上…?」
眠そうに目をこすっている曹叡を、彼女は震える体で抱きしめた。
物音に驚いた曹叡付きの侍女たちが、何事かと集まってきたが、甄氏は呆けたように曹叡を抱きしめたまま、宙を見つめているだけだった。
「どうなされました。母上? こんな夜更けに、お顔の色がよろしくありません」
どこか東郷の面影を持った息子が、優しく微笑んで甄氏の背中を撫でてくれたとき、ようやく彼女の動揺もおさまってきた。

疲れていたのだ。だから、あんな幻想を見てしまったのだわ…。
そう、あれは幻…。
東郷は…もう亡くなっているのだから。

そう納得したものの、体の震えは一向に止まらなかった。

(続)


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