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銀鱗 「なんだ、伯符はいないのか」 孫堅はそう言って振り返ると、生まれたばかりの赤子を抱いた呉夫人を見た。 「ええ、朝早くから公瑾どのと遠乗りにでかけてしまいましたわ。せっかく父上がお戻りになっているというのに…」 妻の言葉に、孫堅は豊かなひげを蓄えた顔に、少し残念そうな色を浮かべた。 「…そうか、公瑾と…。まあ、しかたないな。家族よりも、友達との付き合いが楽しくなる年頃だし」 孫堅は、黄巾党討伐のために、つい先日まで中原の戦場にいたのだが、戦況が思わしくない上、兵糧が心もとなくなっていたので、ひとまず家族の待つ江東に戻ってきたところだった。 「実は、そろそろ伯符を連れて行きたいと考えているのだ…」 「戦に…で、ございますか?」 呉夫人の白い顔に、少し不安が浮かんだ。孫策は、確かにその辺の大人よりも武芸や乗馬の腕がたつが、実際の戦場に出すなんて…。何といってもまだ彼は十代半ばの少年なのだ。 「俺もあのくらいの頃に親父に連れられて船に乗っていたんだ。なあに、俺の息子なんだから、大丈夫さ」 夫の口から出るのは、いつも孫策のことばかりだ。性格も容貌もよく似た長男に、夫はかなり前から期待をかけている。そして、孫策自身も父と戦場に出る日を待ちわびていたらしい。母親の自分がいくら早いと反対しても、この親子はさっさと馬を蹴って中原に飛び込んでいってしまうだろう。 「それに、実際に戦場で親父の背中を見て学んだことも少なくない。俺の後を継ぐ伯符には、どうしても必要なことだ」 そんな父の話を、同じ部屋で本を読んでいた孫権は、碧眼と呼ばれた青い瞳をじっと見開いて聞いていた。 その視線に気づくと、 「ははは、仲謀ももう少し大きくなったら、一緒にいくのだぞ」 そう言って、異形の息子のそばに近づいてきた。 「…読書か。偉いな。仲謀は」 孫堅は次男の読んでいる本を手にとると、俺はお前ぐらいの頃には、こんなに難しい本は読んだことなかったなと、笑った。 「お前は、孝簾に推挙されたいのかな?」 「…わ、わかりません…ただ…」 孫権は父の顔をじっと見つめていたが、少し照れくさそうな顔をした。 「兄上の片腕になりたいです。公瑾どのみたいに」 「公瑾の…ようにか」 「公瑾どのは、本当にすごい人です。武芸も秀でているし、それに楽も…」 「だから、お前は学問で伯符を助けると?」 「うーん、もしかすると学問も…公瑾どのにはかなわないかもしれません」 孫権は、茶色がかった髪に手を当てた。彼の髪は色ばかりでなく少しクセがあって、耳のあたりで軽いウエーブを描いている。それが、他の兄弟たちとは違う雰囲気を発していた。 「それは困ったね。お前のいる場所がない」 孫権は、本をたたむと、本当に困ったようにため息をついた。 「おいおい、ため息をつくのは20年早いぞ、仲謀。…よし、気分を変えよう。お前は少し勉強のし過ぎかもしれん。そうだ、たまには一緒に釣りにでもいくか。さっき顔を洗っていたら、下男たちが先日の大雨で上流から大物がずいぶん流されてきて、溜池でもかなり釣果があがるといっていたぞ」 孫堅はそういって息子を促すと、すぐに釣りの準備をさせた。 *** 屋敷のすぐ近くには、長江の支流から灌漑のために水を引いた、やや大きめの溜池がある。 孫堅は竿と魚篭(びく)を持ち、孫権はエサの入った小さな箱を持って、草むらに座りこんだ。 「釣りは、やったことあるか?」 息子に話し掛けながら、孫堅は竿に仕掛けとえさをつけ、それを孫権に持たせた。また自分の竿もすぐに用意し、早くも糸をたれている。 「兄上に連れられて何回かやりましたけど…」 「伯符と?」 「でも、いつもオデコ(一匹も釣れないこと)でした。兄上は魚が食いつくのをじっと待っているのは嫌いみたいです」 「伯符らしいな、待つのはダメか」 釣りに飽きて、竿を放り出している姿が見えるようだ。あの息子は目の前を逃げていく獲物や自分に向ってくる獲物には、狩りの本能を発揮するのだが、釣りのような見えない相手に焦点を絞り込むのは苦手なのだろう。 苦笑をかみ殺しながら、孫堅は浮きを見つめていた目を細め、さっと竿を引き上げた。ピンと張った糸の先には、大きな口をあけた銀色の魚が水面を引き寄せられてくる。 「すごい! 父上。すごいよ。まだ糸を垂れて間もないのに」 孫権は自分の竿は放り出して、魚篭に入れられようとしている銀の魚を見つめていた。 「釣りは、ただ根気よく待っていれば釣れるというほど単純じゃない。魚と駆け引きするんだ。そういうコツがあるんだが、伯符にはそれがわからないんだな」 魚篭の前にしゃがみ込んで、「ふーん」と感心している孫権に、父は優しく「ここへおいで」と、自分の座っている場所を示した。 「いいか、こうやるんだ」 孫権は父の足の間にちょこんと座ると、緊張して竿を握った。その竿を、父の大きな手がしっかりと支えている。こうすると、ときどき父が微妙に竿を上下させているのがわかる。 「魚が、えさをつついているのがわかるだろう」 糸と竿の先が微かに揺れ、水面に小さな波紋が広がっている。魚が寄ってきているのが、そういえばわかるような気がする。 「まだ引いちゃダメだぞ。相手は警戒して様子を見ているだけだ、ここからが駆け引きだ。いいか、もう少しじらして…」 父の手が自分の手の上に被せられた。父の神経が、自分の手を通して水の中の何かを探っているのがわかる。孫権は息を潜めて、その瞬間を待った。 「よしっ!」 水面下に、黒い影がゆらゆらと映る。 「おっと、これは大物だぞ。しっかり竿を握っているんだぞ、仲謀」 グイグイと引っ張るのは、確かに大物…。もしかすると、この池の主かもしれない。孫権はどんなヤツが現れるのか、ドキドキしながら、だんだん広がっていく波紋を見つめていた。 「ありゃりゃ…これはこれは」 水面に現れたのは、大きな鼈(スッポン)だった。 「お前はダメだ。俺たちが狙っているのは、銀の腹を見せてくれる魚だけだ」 そういうと、孫堅は注意深く鼈を外して、池に放してやった。 「あ、しまった。鼈は精がつくんだったな…(^^)」 孫権は何のことだかわからず、きょとんとして、頭上にある父の顔を見上げた。 赤銅色に輝く父の顔。頬や顎に蓄えたひげの間に、汗が光っている。 「ん? 何だ。俺の顔に何かついているか?」 孫堅は、口ひげの間から白い歯を見せて、両脚の間に座っている小さな息子を見下ろした。 「…どうして…僕だけ違うんだろう。兄上はもちろん、弟たちも父上にそっくりなのに。僕だけこんな髪の毛だし、目も…」 孫権は、少し寂しそうにそう言った。 やはり、この子は気にしていたのか。確かに、外見は、このあたりの子供ともかなり違っているが、まぎれもなく彼は自分と呉夫人との間に授かった子だ。 「お前が生まれるときの話を、母上から聞いたことはあるかい?」 再び糸を垂れながら、孫堅はそんな話を始めた。 「伯符を身ごもったときは月が、そして、お前を身ごもったときは、なんと真っ赤な太陽が、母上の懐に飛び込んできたのだそうだよ」 「太陽が…?」 孫権には初めて聞く話だった。母は優しいが、そんな話をしてくれたことなどない。 「だから、お前の髪は赤いんだ。な、だから、別に不思議なことではないだろう」 それは、異形に生まれついた次男を大事に育てていこうと、夫婦でそう信じることにした作り話だった。もっとも孫家のご先祖は、もっと南の方にいたと聞いたことがあったので、何代か前にそんな髪や瞳のご先祖がいたとしても不思議ではないのだが、太陽の子と言った方が、幼い孫権に夢と希望を与えられるだろう。 「仲謀。お前はさっき、公瑾のようにはなれないと言っていたが、お前は公瑾になる必要はない。お前は、伯符と一緒に江東を治めればいい。伯符は月、お前は太陽。月と太陽は二つで天を支配する。おまえたちは、そういう宿命を持って生まれてきた子供たちなのだ」 兄と二人でと聞いたとき、孫権はきょとんとした顔で言った。 「公瑾は…?」 孫堅は、ちょっと考える風にして、孫権の質問には、すぐには答えなかった。しかし、答えを待つ間もなく、息子の関心は別のものに移っていった。 「父上、ほらっ、また引いているよ!」 孫権は大きな声をあげて立ち上がると、釣りざおをグイと引き上げた。 「おい、あまり一気に引っ張るなよ」 「やった、今度は魚だ」 銀の鱗を、夏の太陽に反射させた魚が、水面を踊っている。 「わーい、大物だ。僕は兄上よりも釣りは上手だぞ〜〜\(^o^)/」 孫堅の脳裏に、端正なおもざしの少年の姿が浮かんだ。 周瑜――― あの若さで、江東の名門周一族をまとめ、地元の名望を一身に集めている。 すべてに秀でた少年が、わざわざ伯符の噂を聞きつけて、訪問してくれたのだという。そして二人は意気投合して断金の絆を結んだ。そんな優れた親友を得たことは、息子にとってこの上なく喜ばしいことだし、親としてもありがたいと思う。しかし…。 「きれいな鱗だね。陽に輝いて七色にも見えるよ」 孫権は、初めての獲物を慎重に針から外すと、もってきた魚篭に注意深く入れた。 「今度は、最初から僕がやるからね。見てて、父上!」 釣りの楽しさがわかったのか、孫権は元の位置に戻ると、えさをつけて水面に糸を垂れた。 仲謀、お前には伯符にはないものを持っている。 俺はそう信じている。 何かに祈るような気持ちで、孫堅は熱心に糸を垂れている息子の赤い髪を撫でた。 お前は太陽になるんだ――――― 仲謀… *** 「殿、引いてます!」 朱然が、小さく波打つ水面を指差している。 「よし、きたなー、今度はでかいぞ」 建業に城を構えた孫権は、輸送路確保のために細かな水路を何本もめぐらせていた。そして、時々、こうして近くの水路へ出てきては、釣りを楽しんでいるのだ。 「最近は、遠出して狩りをするヒマがなかなか取れないから、どうしても手短な釣りになっちゃうんだよな」 「おかげで張昭どのは、ほっとしているようですよ。それにしても、お上手ですね」 既に、魚篭の中には、かなりの獲物がひしめいている。 「ああ、破慮将軍、じきじきの指南を受けているからな」 そういいながら、孫権は釣り上げたばかりの魚から針を外すと、次の餌をつけて、ひゅっと水上に飛ばした。日の光に輝きながら、竿と糸がきれいな軌跡を描いていく。 子供の頃は異形といわれた孫権だが、貫禄がついてきた今は、歳のせいもあるが亡き父親の面影を映していた。特に豊かな口ひげを撫でながら考え事をするところなど、破慮どの そっくりだと、程普や韓当たち古参の武将たちに懐かしがられることがよくある。そんな風に言われると、ちょっとくすぐったいような気もする。 「破慮さまは、騎馬も射的も、もちろん剣もお上手だと聞きましたが…」 「一番得意だったのは、案外、これだったかもしれないな。若い頃は水上を庭のようにされていたというからな。ただ、こんな水路での釣りは釣りではないと言われるだろうな。会稽の海では、人と同じぐらいの巨大魚と、命がけの勝負をすることもあるらしい。気を抜くと水に引き込まれるそうだ」 「へえ、まるで狩りのようですね。あ、またひいている?」 「違う違う、こういう動きは、魚がこちらの様子を伺っているだけなんだよ」 「へえ、そういうものなんですか」 「義封。お前、江東に生まれ育ったくせに、釣りもしたことないのか?」 最近、孫権は朱然を連れて出歩くことが多い。彼も東呉の他の家臣たちと同様、地元名家の出身だが、子供の頃から一緒に机を並べてきたことから、お互い、気心も知れている。 そのとき、城内から伝令が飛んできた。朱然は、その内容を確認すると、のんびり釣り糸を垂れている孫権のそばに駆け寄ってきた。 「張昭か? また…」 「いいえ、周都督と魯粛どのが、お待ちだそうです」 孫権は聞こえなかったのか、しばらく返事をしないで水面を見つめていた。 「殿…」 趣味の釣りの時間を邪魔されて機嫌を損ねたのかと、朱然が顔を覗き込もうとすると、孫権はふいに竿を引きあげた。銀鱗を光らせた魚が、孫権の魔法にかかったかのように引き寄せられてくる。その慣れた手並みに、朱然はまた感心していた。 豊かな口ひげを撫でながら、東呉の若き王は、ふと空を見上げた。 丁度、天頂に太陽が輝いている。 「…ああ、昼過ぎに話し合おうということになっていたな」 膠着している荊州のことなのだろう。さすがの周瑜も、劉備の態度に焦燥感を募らせていたとみえる。 ―――卿らしくないではないか、いつも兄上を静かに諭してきたあなたが… もっともっと、今は劉備を、そしてあの若い軍師をじらしてやればいい。そのうち、向こうから呉が撒いたえさに飛びついてくる。これは駆け引きなんだ。俺は、まだまだ待てるぞ。 そうつぶやくと、孫権はゆっくりと立ちあがった。 《終》
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