| リーインカーネーション(1) 春まだ浅い冬の夕暮れ。荀[或〃]は自宅の書斎で、昼過ぎから一人物思いにふけっていた。 彼の目の前には、曹操からの二通の手紙と、色あせた一本の組紐が置いてあった。 『この十余年、彼は常にわしの傍らに持し、喜びも苦しみも全て分かち合ってきた。彼の時事や軍事に冠する判断は遥かに人を超えていたのは、そなたも知っているとおりだ。将来、わしは後事を彼に託すつもりでいた。それなのに、我々の中で一番若かった奉孝が、最初に逝ってしまうとは…。訃報を聞いて以来、わしの心は悲しみに押しつぶされてしまった。彼のための挽歌も詠えない。曹孟徳の目も耳も、あの日から塞がれてしまったかのようだ』 ―――このお嘆き、常に新しい人材を求め続ける 主公らしくありませんね。 いや、あなたらしいと、言うべきか… 『せめて彼の子を探し出して、奉孝の功績に見合う十分な恩賞を与えてやりたい。そんなことが死んだ奉孝にとって何の益があるだろうとも思う。しかし、今のわしには、こんなことしかしてやれないのだ。なんと空しく哀しいことだろうか』 ―――奉孝の子…か… 荀[或〃]は組紐を指に巻きつけると、ふうっ…と、ため息をついた。それは官渡に従軍する前、郭嘉が荀[或〃]に渡す竹管を束ねるために、自分の髪を結んでいたものを解いて使ったものだった。それが今は彼の形見となっていた。 「あなたが、ため息をつかれるなんて、珍しいですね」 荀[或〃]夫人唐氏が、薄暗くなった書斎に明かりを灯しにやってきた。このところ体調を崩していた荀[或〃]は、今日は一日休暇をとり自宅で過ごしていたのだった。 「ああ、ありがとう」 淡い光に浮かび上がった夫は優しく微笑んでいたが、疲れの翳はぬぐえない。 「もう一日、お休みをいただいてはいかがです?」 「そんなわけにはいかないよ。今日だって、無理して休みをもらったのだから」 官渡以来、荀[或〃]は前線には出なかったものの、後方支援で骨身を削る毎日を送っていた。その後もさまざまな戦後処理の事務や郭嘉の葬儀などがある一方、尚書令としての朝廷の仕事も、荀[或〃]に休みを与えなかった。 「それに、主公から新しい下命があってね…」 「難しいお仕事ですか?」 「郭嘉の忘れ形見を探し出せというのだけど、彼は女性との交際の噂が絶えなかったから、予想通りといっては何だが、毎日のように子連れの女がやってくる。どう考えても、彼の子供には見えない大きな子供をつれて来たり…」 そういって、荀[或〃]は、ふっと苦笑した。 「奉孝の子だと認められれば貞侯の爵位が相続できる。所領が目当てのものもいるだろう」 「どうやって、それを判断するのでしょう」 「さあ、どうするのかなあ…」 荀[或〃]が休暇を取っている今日も、役所では文官たちが書類の整理に追われているだろう。 そのとき、一人の侍女が荀[或〃]夫妻のいる書斎にやってきて、唐夫人に例の女が、またやってきたと告げた。 「客人か?」 「ええ、あなたがお留守の間にも何度か訪問してきたのですが、実は先ほどのお話の…郭嘉どのに関係した者のようなのです」 丁度、郭嘉のことを考えていたときに彼にゆかりの者が現れるとは、何かの縁に引き寄せられてきたのかもしれない。荀[或〃]はその訪問客に会ってみようと腰を上げた。 |
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その若い女は、客間の隅で息子らしき子供の手をぎゅっと握りしめて立っていた。母親は終始怯えているようだったが、十歳前後の息子は、大きな瞳で瀟洒な調度を興味深そうに眺めていた。 荀[或〃]が部屋に現れると、女はあわてて息子と共に床に跪いた。 「お立ちなさい。まず名前をお聞きしましょう」 優しげな声にほっとしたのか、女はおずおずと顔を上げて荀[或〃]を見上げた。地味な服を着ていたが、ちょっと磨けば、そこそこ美人で通りそうな女である。 「…郭奕(カクエキ)…字は伯益と申します」 女は自分の事は一切語らず、ただ荀[或〃]によく見てくれとばかりに、息子の両腕をつかんで前に押し出した。 切れ長の瞳が、目の前に座っているこの家の主:荀[或〃]の顔を見つめている。 「今、主公が必死に郭嘉どのの忘れ形見を捜していることはご存知でしょう。それなのに、あなたはどうして役所の方に行かずに、私の家にやってきたのです?」 女は、最初口篭もっていたが、 「…荀[或〃]さまを頼れと…奉孝さまが…」と、消え入りそうな声で言った。 「残念ですが、このことは私には決定権はないのですよ。調査した資料を基に、最後は主公がお決めになると思います。だから、やはりちゃんと役所に出向いて…」 そう言いながらも、荀[或〃]は先ほどから少年の瞳が気になって仕方がなかった。鼻筋や口元に若い頃の郭嘉の面影が確かに息づいている。直感的に、間違いないと思った。 「それにしても、こんな大きな子がいるのに、どうして奉孝が生きているうちに一緒にならなかったのです。奉孝だって家族を放っておくなんてことはしなかったでしょう。彼は常に孤独だった。だけど、本当は温かい家庭が欲しかっただろうし、必要だったのですよ。特に最後、体を壊してからは…」 思わず詰問口調になっていたのに気づき、荀[或〃]は少し言い過ぎたかと口を閉じた。 「今日はもう遅い。もしも泊まるところがないのならば、ここに泊まりなさい。そして明日、私と共に役所へ行きましょう。そして必要な書類を作って主公の面接を待つことにしましょう」 女はうつむいたまま、ありがとうございますと小さな声で答えたが、翌朝、郭奕を置いて姿を消してしまった。 ―――なぜだ。郭嘉の子として認められれば、母親も恵まれた暮らしができるではないか。 母親が失踪したと聞いた荀[或〃]は、何も知らずに寝息を立てている郭奕の寝顔を困惑した表情で見つめていた。 ―――子どもだけ残して出て行ってしまったのか? それでも母親か 昨夜の詰問が母親を追い出してしまったように感じて、荀[或〃]は非常に不愉快だった。 「…まだ、うちの奉倩(ホウセン)と同じ年頃のようですね…」 荀[或〃]の後ろから部屋に入ってきた唐夫人が、郭奕の布団を掛けなおしてやりながら、そっとつぶやいた。奉倩とは、彼らの五男荀粲(ジュンサン)の字である。 「あの女性は自分のことよりも、殿がお望みの郭奕どのをこのまま市井に埋もれさせてはならないと、必死の思いで我が家の門を叩いたのでしょう。か弱い女の身で、立派な武人や文官がたくさん詰めている役所になど、とても怖くて行けませんわ。あの女性のことは召使たちに探させていますから、あなた、あまりお気になさらないで」 荀[或〃]の気持ちを察してか、唐夫人は夫の手にそっと触れて優しく微笑んだ。 「いずれにしても郭奕どのは、当面は我が家で預かることになりますね。子供たちにも仲良くするようにいいますわ」 |
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| 「それにしても、毎日よく来ますねえ」 役所では、今日も一部門が郭嘉の後継者調査の作業に追われている。郭嘉と親交のあった劉曄も調査に立ち会っていて、文官がまとめた目録を見て苦笑していた。 「あわよくば郭嘉の爵位や財産が転がり込むかもしれないからな。そういう魂胆でやってきたものも、私の見たところで半数以上はいるぞ。まったく庶民ってやつは、うまい話にはすぐに飛びつこうとする…」 同じく立ち会っていた陳羣も、いいかげんにしろといわんばかりに、口調が辛辣になっている。 「でも主公はお喜びだろうね。奉孝の血を受け継いだ子に会いたがっていたからね」 長い髭を撫でながら会話に関わっているのは程[日/立]である。彼もまた朝からこの部屋に出入りしていた。もっとも、彼の場合は仕事というより興味本位だったようだが…。 「あれ、奉孝どのの息子は一人だって、確か程[日/立]殿がおっしゃっていたんじゃ…?」 「自分が名と字をつけたのは一人だけだって、だいぶ前に本人から聞いたことがあるんだがね。それ以外に手をつけた相手いたとしたら…さて…いったい何人来るやら。ちょっと予想が付かないねえ」 「要するに、申請にやってきた親子は、全員調査しないといけないってことだ。みんな心してかかれよ。亡き貞候の後継者だからなっ」 陳羣はこんな仕事はさっさと終らせたいと思っていたので、若い文官たちにパッパをかけまくっている。 「おや、荀[或〃]どの。お加減はいかがですか?」 程[日/立]が調査室に現れた荀[或〃]に手を上げた。荀[或〃]は登庁すると調査の進行状況を聞こうと、最初にこの部屋にやってきたのだった。本当は、朝一番で郭奕も連れてくるつもりだったが、証言をする母親がいなくなってしまったため、彼のことはしばらく黙っていようと思っていた。 「程[日/立]どののお手まで煩わせておりましたか。申し訳ありません」 「尚書令どの。もう一日ぐらい、お休みになられたほうが…」 陳羣も立ち上がって、荀[或〃]の体調を気遣う。 「皆さんばかりに迷惑はかけられません。それに、一刻も早く主公にご報告しなければなりませんし…」 「その調査なのですが、ご覧ください。怪しいものも多いですが、もうすぐ十人を超えそうです」 劉曄が、目録を手に近づいてきた。そこには申請者の出身地や身体の特徴などが、事細かに書き込まれている。 「それにしても、郭嘉どのの血を受け継いでいる子が何人も出てきたら、いったいどうなるんですかね。所領は山分けですか?」 「やっぱり年の順じゃないですかね。一番の年長者が郭家を継いで…」 「いや、そうとも限らないでしょう。たぶん最後は主公が直接お会いになってお決めになると思います」 荀[或〃]の説明に、皆、もっともだろうなと頷いた。自分の息子でさえ、”才”こそを唯一の基準として評価するのが曹操である。たとえ何十人の郭嘉の血を受け継いだ者が現れても、その中に息づく”才”が認められなければ、全て追い返されてしまうかもしれない。 曹操は、郭嘉の血を受け継いだ者が欲しいのではない。郭嘉そのものを、まだ求めているのだ。 『どうして、わしが奉孝のことを忘れることができるだろうか』 書中に何度も繰り返された、曹操の嘆きの言葉。 荀[或〃]は、目録を抱えたまま目を閉じた。 在りし日の郭嘉の姿が、今も鮮明によみがえってくる。 そこは丞相府の中か、それとも幕舎の中なのだろうか。軍の配置図面を持った郭嘉は、荀[或〃]を出し抜くようにして曹操の前に歩み寄った。そんな曹操の目には荀[或〃]の姿は映っていないようで、その手は躊躇することもなく郭嘉の背中に伸ばされ、彼の華奢な体を引き寄せようとしている。 『わしのことを心から理解してくれるものは、奉孝だけだ』 愕然として立ち尽くしている荀[或〃]に、郭嘉は切れ長の瞳をゆっくりとめぐらせた。そして勝ち誇ったような笑みを浮かべると、スラリとした長身を曹操の胸に預け、その首に腕を絡ませようとしていた。 ――― 主公! 荀[或〃]の手から、目録の竹管がバラリと床に落ちた。その音に陳羣たちの視線が集まる。 なぜ、あんな場面が浮かんだのか、荀[或〃]にはわからなかった。実際にそんな場面を見たわけではない。しかし、自分が今どんな顔をしているのか、同僚たちに見せるわけには行かなかった。 「…あ、あとは…頼みます」 荀[或〃]は、逃げるようにして部屋を出て行った。 |
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注)リーインカーネーション(reincarnation):魂の再生、化身 |