雪の回廊 陳羣は、許昌にある司空府の役所で、その夜も遅くまで竹管や書物の整理をしていた。 「う〜っ、冷えてきたな」 筆を置くと、彼は両手を擦りあわせながら、回廊に面した扉を少し開けた。 「冷えるはずだ…。雪か…」 うっすらと、役所の屋根が白くなりはじめている。この降り方では明け方まで続くだろう。適当に切り上げないと、今夜の帰宅は難儀になりそうだ。しかし、今日中にこの書類だけは片付けてしまいたい。そう思い始めると、頭の中は仕事一色になってしまう陳羣である。 「…暖をとらないと能率が上がらんな。誰かいるかっ 」 彼は火を持ってこさせようと夜勤の職員を呼んだが、みなそれぞれの詰所に篭っているのか人の姿は見えない。 チッと舌打ちして、陳羣は自ら火を取りに行こうと回廊に出た。すると最初の角を周った所に、背の高い影が見えた。 「なんだ、いるではないか。用があるのだ。呼んだら早く来い」 陳羣は少しイライラしながら男を怒鳴りつけた。しかし、男は彼の方へ飛んでくるでもなく、むしろ陳羣に対して、何か笑いをこらえているように肩を揺らしていた。よくよく見れば、下っ端の役人ではない。こざっぱりとした朝服を着こなしている若い文官だ。 「きさま、失礼だろう。何を笑う」 回廊にところどころ灯されている火では、男の顔の判別はできない。 陳羣は、この無礼な者が誰か見てやろうと男の方へ歩いていった。しかし、雪明かりに相手の顔が判別できたとき、彼は思わず息を呑み込んだ。 「おまえ…、なんでここにいる?」 「…なんだ、威張りくさっていたのは長文だったのか」 男は懐から眼鏡を取り出すと、長身から陳羣を見下した。 「なんだじゃない。奉孝、お、お前、主席軍師として烏丸の戦線に従軍していたのではないか? まだ戦勝の知らせなど聞いておらんぞ」 「相変わらず、甲高い声でピーピーわめくヤツだなあ」 郭嘉は、うるさいのはごめんとばかりに耳を塞ぐしぐさをした。こめかみに当てた指と青白い頬が透き通るようだった。 「だ、だったら、なんで今ごろ」 そんな陳羣の鼻先に、郭嘉は小指を立てた。 「…まさか、女に会うために…;;;」 「あ、間違えた。こっちだった」 と、今度は親指を立てた。 「ふ、ふざけるな」 「べつにふざけてなんかいないぜ。大事な用があったから、雪の中を飛んできたんだ。おい、文若はいるか?」 郭嘉は悪びれた風もみせず、眼鏡をひょいと持ち上げた。 「荀[或〃]どのを呼捨てにするんじゃない。今日は下のお嬢さんの生日のお祝いがあるからって、早く帰られた」 「ああ、あの文若が目に入れても痛くないってほど可愛がっている末の娘のことだな。お前、見たことあるか? 父親譲りのすっげえ美人だぞ」 郭嘉の瞳が妖しく揺れているのを察知して、陳羣は眉間に深い皺をよせる。 「お前ねー、考えすぎ! まだ、十かそこらのネンネだぞ」 「…お前ならやりかねないと思ってな」 「ば〜か、いくらなんでも、俺にはそういう趣味はないさ」 郭嘉は眼鏡を外して懐に戻すと、目を細めて笑った。 「しょうがないなぁ、いつも夜遅くまで仕事していると思ったからこっちに来たんだけど、じゃあ、これから文若の家に行くか」 郭嘉は薄暗い回廊の先に視線を移したたかと思うと、す…っと、陳羣の脇から離れた。まるで宙に浮くようなその動きに、陳羣は一瞬息の呑んだ。まさかと思って目を凝らしてみると、郭嘉の朝服を通して欄干が透けて見えるではないか。 「ほ、奉孝…」 「何だよ? 俺は忙しいんだよ」 陳羣は郭嘉に駆け寄ると、その存在を確かめようと両手を伸ばした。しかし、確かに掴まえたはずの郭嘉の腕は、実体のない冷気でしかなかった。 「やめな。長文」 郭嘉は顔色を失っている陳羣を見ると、すこし切なそうな表情を浮かべた。 「なぜ…なぜなんだ…」 陳羣の驚きは、やがて悲しみに変化していく。 「夜が明ける前に、文若に会って、伝えなければならないことがある」 郭嘉の頬は、気味が悪いほど青白く輝き、深夜の雪と同化している。そのせいか、切れ長の黒い瞳と冠から幾筋か落ちている黒髪が、静かに舞い落ちてくる雪とともに映えて見えた。 「…だから、こんな雪の中を…お前は戻ってきたのか…」 郭嘉は、ただ照れたような笑みを浮かべているだけ――― 「私には…何もないのか。お前と同郷の私には、別れの挨拶のひとつもないのか」 自分で何を言っているのか、陳羣は混乱していた。郭嘉が死んだなんて連絡は、まだどこからも届いていない。それなのに、こんなことをわめいている自分がいるなんて。 陳羣は郭嘉に近づくと、その身体を抱きしめた。しかし、それは冷えきった丸い柱を郭嘉の代わりに掴まえた格好でしかない。それでも陳羣は、郭嘉の頬と思える位置をいとおしむように撫で始めた。柱に付いた氷のつぶが、まるで郭嘉の頬を伝う涙のように感じて、陳羣の悲しみを深くする。そんな陳羣の行為を、郭嘉は神妙な顔で受けとめていた。 「お前には、ガキの頃から、いろいろと言われつづけた…」 ぽつりと、郭嘉が言う。 「心配で見ていられなかったからだ」 「あまりうるさかったので、俺は世間から一線を引くことにした…」 「…私のせいにするんじゃないっ」 「だけど、お前が劉備の元にいたと聞いたときは、正直驚いた」 ふと、陳羣は、すぐ目の前にうっすら見えている郭嘉の顔を見た。 「でも、すぐに見切りをつけて、主公の元に出仕してきたというのには、さすが陳羣どのだと思ったけどな」 曹操の名が出て、郭嘉の黒曜石の瞳が夢見るように輝いていた。 *** 同郷の彼らは、物心ついたころからお互いの存在を知っていた。 潁川の名門の御曹司だった陳羣は、同じ地元の名門郭家の傍系に生まれた郭嘉に、いじめられた思い出ばかりがあった。しかも何をやらせても器用で頭の回転の速い郭嘉を、ついに打ち負かすことはできなかった。それは、乱世では運と才能さえあれば、国を動かすこともできるのではないかと密かに考えていた郭嘉の父親の影響が大きかったのかもしれない。子供だった陳羣の目からみても、郭嘉の父親には何か大きな事をやってみたいと考えているように思った。そんな父の野望を刷り込まれて、この切れ者といわれた幼馴染は育った。 「奉孝は、お父さんによく似ているね」 郭嘉は陳羣の家によく遊びに来ては、膨大な書庫の中で本を読み漁っていた。陳羣も読書家だが、郭嘉の早さにはとても追いつけない。そんなある日、陳羣は書庫の床に寝そべりながら小難しい本を読んでいた郭嘉に声をかけた。 「そうか? 俺の顔はおふくろに似ているって、よく親父は言うけどな」 その郭嘉の母親を、陳羣は見たことがない。郭嘉の家には、父親と彼のほか、身の回りの世話をしている年老いた下女が一人いるだけだ。父親はまだ若いのに後添えも貰わずに、男手一つで彼を育てていたらしい。そんなところからも、変わり者という風評がついて回ったのだった。 そのせいか郭嘉は母親についてあまり話したがらないが、以前、自分を生んですぐに死んでしまったという話をしてくれたことがある。 「いや、顔じゃなくてさ、ほら…、その性格がさあ…」 ゆっくりと起き上がると、郭嘉は陳羣の鼻先に指を突きつけ 「とんでもない野望を持っているって…か?」 そう言って、郭嘉は声を立てて笑った。 そんな郭嘉の父親が突然亡くなったとき、郭嘉は、まだ十代半だった。 家長が死んだ傍系の家は、たいして財産があるわけでもなく、また後継ぎも若すぎるということで、本家からは断絶されてしまった。本家の伯父たちが、彼らにとっては過激と思えた思想を持ち、怪しい隠者たちと交流していた郭嘉の父親を疎んじていたという きな臭い話も、潁川ではまことしやかに囁かれていた。 それ以来、郭嘉は屋敷にこもっていたが、そのうちに人里はなれた土地に移り住み、世間との交流を断ち切ってしまった。郭家本家との遠慮もあったので、陳羣としても、いくら幼馴染とは言っても、訪れるのは憚られたので、そこへ足を運ぶことは、ついになかった。 噂によると、父親の時代から出入りしていた隠者たちが、時々、彼の草庵を訪れることがあるらしい。彼らに誘われて、時々ふらりと旅に出てしまうことも多いということだった。そのうち、主が戻らなくなった草庵は風雨にさらされて朽ち果て、隠者郭嘉の名もまた、潁川から完全に消えてしまっていた。 *** 「俺たち、潁川を出てから、ずいぶんと長く曲がりくねった回廊を巡り巡って、ここへたどり着いたな。俺は袁紹、お前は劉備に一度は仕えようとした…。もしそのままそこへいたら、今ごろお互いにどんな人生を歩んでいただろう」 そういう郭嘉の口調には、最後に曹操という当代随一の英雄にめぐり合い、その後の十余年間、知謀の全てを捧げてきたことへの誇りを感じることができた。陳羣もまた、紆余曲折を経て、曹操、荀[或〃]にめぐり合い、今日の自分がいることを思うと、郭嘉の言いたいことはよくわかる。 「親父が望んでもできなかったこと…それは、芯まで惚れ込んだ主人に出会えなかったことだな…」 曹操によって、その才能を開花させられた郭嘉。そして曹操もまた、どれほどそんな郭嘉の才能を愛していたか…。 噂では、今回の烏丸討伐を前にして、郭嘉は体調を崩していたといわれていた。それでも、郭嘉は無理を押して従軍していったという。敬愛する曹操のために、彼は命をも捧げたのだろう。もしかすると、郭嘉は志半ばで倒れた父親の姿を、曹操に重ねあわせていたのかもしれない。 「…そろそろいくぜ」 「待て、奉孝!」 「るさいなあ、お前にもちゃんと挨拶したからいいだろう」 陳羣は、無駄と知りながら柱を両手でしっかりと掴まえて声を荒げた。 「ばかやろう、お前はいつもそうだ、いつも私の前から忽然と消えてしまう。残されるものの気持ちなんか、全然考えもせず…」 陳羣は郭嘉を抱きしめ、その肩あたりに顔を埋めた。いつもの文句の口調が、やがて涙声に変る。 「北の戦は、じき終結する。主公の頭の中は、戦ではない、新しい国づくりのことで一杯だ。お前の内政の才能は、お前が思っている以上に高く買われているぞ」 郭嘉はそういうと、陳羣の冠に乗った雪のつぶを、ふっと吹き飛ばした。 「これからが主公にとって大事なときで、文武ともに全力を尽くして主公を盛り立てていかねばならないというのに、お前はどうなんだ。さっさと生き急ぎやがって…」 ――― 死にたくなんか…なかったさ。 主公の、晴れがましい姿を見るまでは… 郭嘉は口を閉じている。そして、遠い目をして灰色の虚空を見上げた。 「長文。お前に、頼みがある」 「頼み?」 「主公に最高の位についていただくように、臣下一同でお勧めしてくれ」 最高の地位、つまり後漢王朝を倒して皇帝になれと言っているのだ。 郭嘉の意外な申し出に、陳羣は呆然とした。確かに、現在、丞相の地位にあり、実質的に国を動かしているのは曹操だ。このまま河北を、そして噂される江東まで制圧してしまえば、曹操を皇帝として擁こうという声がでてきても、なんらおかしな話ではない。 「…そ、そんなことは、陛下に対して不敬ではないか。荀[或〃]どのが、けして認めないぞ」 陳羣が思わず発した荀[或〃]の名を聞いたとたんに、郭嘉はうっすら浮かべていた笑みを消し、口を固く結んでしまった。そして陳羣の手を振り切るようにして、郭嘉は、回廊の先に続く闇の中に消えていった。 「奉孝…それが、お前の最期の望みなのか…」 回廊に吹き込んでいた雪は、なにごともなかったように、うっすらと白いじゅうたんを敷き詰めていた。 《終》
|
|
| 小説目次へ |