サバンナを夢見て
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「あたしの担当のコラムのイメージ写真。この前のでOKって事で、印刷所の担当から電話があったら、よろしく伝えておいてねっ!」
アニー・ブライトンはそう伝言すると、革のコートを掴んで勢い良くオフィスを飛び出した。
約束の時間に間に合うだろうか。彼女は時計を気にしながらタクシーをつかまえると、
「ランカスターホテルへ。お願い、急いでちょうだい」
と乗り込んだ。そして後部座席で、車の揺れを気にしながらルージュを取り出した。
彼女は人気ファッション雑誌の超多忙な編集者である。これから大切なお客との打合せが入っている。
『まったく我ながら情けないわ。あんな仕事にこんなに時間取られちゃって。もっと要領よかったのになあ』
鏡の中の自分が、疲れた顔でため息をついている。
ホテルに到着すると、彼女はドアボーイが恭しく扉を開けてくれる前にタクシーから飛び下り、ハイヒールで駆けだした。
ここのラウンジで、クライアントと会うことになっているのだが、団体の観光客が到着したばかりなのか、ロビーもごったがえしていた。
『もう、嫌になっちゃう』
彼女はイライラしながら人込みをかき分けて行った。しかし、幸運の女神は彼女に舌を出しているのか、エレベーターも閉まりかけている。
「まっ、待ってーぇっ」
彼女の必死の形相と声に気がついて、サングラスをかけた髭の男が、OPENの釦を押していてくれた。
「ありがとう、ミスター」
息を弾ませながら彼女は形式的に礼を述べた。
男は「どういたしまして(^^)」と、豊かな髭の間から白い歯を見せてニコリと笑う。しかし、それを見ている余裕は今のアニーには一かけらもない。ラウンジのある階に着くと、われ先にエレベーターを飛び下りていった。
「お待たせしまして、申し訳ありません。ミスター・マックグーハン」
「相変わらず忙しそうですね、ミス・アニー。ほら気をつけて。イヤリングが片方とれかけていますよ」
今日の仕事の相手が、気さくなマックグーハン氏でよかった。アニーは大ぶりのイヤリングを留めなおすと、照れを隠すように「ほほほ」と笑う。
その様子を興味深そうにじっと見つめていたのは、エレベーターの中の髭の男。彼は大きな旅行カバンとサファリジャケットを持って、カフェの隅の席に腰掛けた。
打合せが終わり、マックグーハン氏が立ち去ると、アニーは書類のファイルを取り出して、原稿の取りまとめ作業を始めようとした。
「失礼。こちらの席にご一緒してもよろしいですか」
「どうぞ」
「その話し方、全然変わらないね。ミス・アニー」
その声に顔を上げたアニーの目の前に、サングラスの男が苦笑しながら座っていた。
なんでこの人が自分のファーストネームを知っているのだろうか? 自分の知り合いに、こんな(むさい)色黒の髭男はいただろうか?
彼女の棲む業界は、中性的な美男子かパンク系あんちゃんたちの世界である。いずれにしても、この男は対極にいる人種だった。彼女は怪訝そうな瞳で髭男を見上げた。
「忘れちゃったの? 冷たいなあ。ジョンだよ。ジョン・オブライエン」
そう名乗ると、男はサングラスを外して、掌で髭を隠そうとした。茶色い瞳が優しく光っている。
「やだー、本当だ。ジョンだったの。そんなむさ苦しい髭なんかくっつけているから、全然分からなかったじゃないの」
アニーは表情を大きく崩して、彼の肩をポンポンと叩いた。二人はハイスク−ル時代の同級生だった。
「確か医者になって、外国に行ってた…って風の噂で聞いたけど」
「ケニア帰りなんだよ。イギリスは十年ぶり…だったかな。ロンドンで片付けなければならない仕事があるので、昨日、今日はここに泊まって、明日ウェールズに行こうと思っているんだ」
そういうと、ジョンはサングラスを折り畳んで胸のポケットに差し込み、冷めてしまったコーヒーをすすった。
「ケニアか…」
アニーは、まだ見ぬ大地に憧れるような瞳を、窓の下に広がるハイドパークの森に落とした。冬枯れた木々はダークグリーンに沈黙している。
「ねえ、アニー。今夜、時間はとれないかな。せっかく会ったんだもの、久しぶりにロンドンの酒に付き合ってくれないかな」
「うーん、今夜か…突然言われてもねえ…」
彼女の頭の中で、ぎゅうぎゅうのスケジュール表がめくられる。締め切りが近い仕事が、まだいくつか積み残されていたはずである。
「いいわ。8時まで待っていてくれる? 何とか片づけるから」
今夜の仕事は半分放り出すことに決めた。仕事なんて…なんとかなるわ!
「嬉しいなあ。あこがれのアニーお姉さまとデートできるなんて(^^)」
「何言ってるのよ。1カ月しか誕生日は違わないでしょ。お姉さまだなんて」
「1日だってお姉さんなことは間違いないだろ?」
大らかなアフリカの太陽のように、ジョンは浅黒い顔に笑みを浮かべた。アニーも、それに釣られてニッコリと笑う。
「じゃあ、8時に。えーと…」
「トラファルガー・スクエアのライオンの前で」
「ぷっ…。やだ〜、あなた、全くのおのぼりさんじゃない」
「ロンドンなんて十年ぶりだもの」
「まあいいでしょう。ライオンの前っていうのは、いかにもあなたらしいもんね。ふふふ…今夜はアフリカの話をたくさん聞かせてよね」
「ごめーん。遅刻、遅刻!」
案の定、アニーは約束の時間に大幅に遅れてトラファルガー広場にやって来た。
ジョンは、ライオン像の前脚に寄りかかるようにして待っていたが、アニーを見つけると
「凍え死ぬかと思ったよ。アフリカ帰りにこの寒さは辛いな」
と、大きな肩をすぼめるようにして駆け寄ってきた。
「あなたがここを指定したんでしょ。まだイギリスは冬なんだからね。ホテルのロビーにでもしておけば良かったのに…」
改めて見ると彼はけっこう童顔だ。しかし、隣にぬっと立たれると、まるで見下ろされるようだった。学生の頃はこんなに背が高かったかなとアニーは思った。
「やっぱりアフリカに住むとなると、身体が資本なんでしょうねえ」
アニーはジョンにぶら下がるように腕を組むと、彼女のジャングルである夜のロンドンの街をリードしながら歩きだした。
「そうだよ。ちょうどこの腕にぶら下がっているぐらいのチンパンジーがいてね。これがまたいたずらで…」
「嘘をつきなさい。…あ、ここ。行きつけのパブなの」
二人が立ち止まった古い石作りの建物には、蔓だけのアイビーが絡まっている。
「冬なんだね…」
ジョンは目を細めて、一枚だけ残ったアイビーの葉を摘んだ。
「ビールがおいしいわよ、ここ」
重厚な扉をそっと押すと、扉にかけられた金のベルが、小さな音で二人を迎えてくれた。
「何年ぶりかしらね」
「ハイスク−ル卒業以来だからね。えーと…」
「ま、歳のことは忘れましょう。ともかくジョン・オブライエンの帰国を祝して、乾杯!」
ほの暗いパブの片隅のテーブルに腰掛け、二人はグラスを合わせた。
小さなキャンドルの灯りが、アニーとジョンを暖めてくれる。
ジョンは噛みしめるようにロンドンのビールを味わっていたが、何か言いたいのかアニーの顔を見つめていた。茶色の瞳に映るキャンドルの炎も、どこか優しげだ。
「…で、ケニアのどこでお医者さまやってるの。ナイロビ…だっけ、首都?」
「いや、僕のいるところはもっと内陸さ。小さな診療所に勤めているんだ。ときどき動物を診ることもある」
「へぇ〜、すっごーい。まるでシュバイツァーだわね」
アニーは頬杖をついて興味深そうにジョンの話に聞き入っている。彼女の視線が眩しいのか、それともビールのせいか、ジョンの顔が少し赤い。
「…今回戻ってきたのはね、実は去年、母が亡くなってね…」
「えっ、そうだったの。知らなかった」
キドニー・パイに手を伸ばそうとしていたアニーの手が一瞬止まる。
「ロンドンで野暮用を片づけたら、ウエールズの実家に寄るって言ったよね。実家には兄が住んでいるだけど、長年、海外暮らしをしていたからイギリスには自分の足場もないし、母が亡くなったことで心理的にも引き止めるものもなくなっちゃったし。で、決心したんだ」
「決心?」
「ケニアに移住しようと」
ジョンはグラスに残ったビールを泡まで、すっと飲み干した。
「…もう戻ってこないの?」
「たぶんね」
俯いた顔が、気のせいか少しだけ寂しそうにも見えた。
「その前に、故郷をしっかり脳裏に刻み込んでおこうと思って、約一か月休暇を取ってきたんだ。でも、しょっぱなから君に会えるなんて幸先いいぞと思った。何たってアニーはクラスの勝利の女神だったからね」
「そういえば、いつもチアリーダーだったわね、私」
「君のチアガール姿を思い出すなあ。健康的な太股…」
思い出し笑いが、一気に二人を学生時代に引き戻していた。
「いやらしーっ、そんなところばかり見ていたのね」
頬をぷぅーっと膨らませて、アニーはジョンの耳を引っ張った。
目を閉じると、あの懐かしい学生時代が蘇ってくる。
あの頃はよかった。緑豊かなウエールズの自然の中で、友人たちと恋や人生を語り、ただその日を燃え尽くして生きていけばよかった。時間に追われて自分を失うこともなかった…。
「ところで、君は今、何をしているの。見たところ、バリバリのキャリアみたいだけど…」
今度はジョンが、興味深そうにアニーの瞳を覗き込んでいる。
「雑誌の編集よ。どうしてこんなことをやっているのかわからないけど、気がついたら、15年以上やっていたわ」
そう言うと、彼女は大きなバッグから自分が編集している雑誌の最新号を取り出した。
それを受け取ったジョンは、パラパラとページをめくりながら、「ふーん」とあまり気のなさそうな反応をした。
「今のモデルって、中性的っていうのか…。確かにみんな美人だけど、性的魅力はいまいちだな」
「性的…あははははは…確かに。フツーの人から見たら、そうかもしれないわね。あなたみたいなワイルドな男性は、うちの業界では希少価値でしょうねえ」
彼の陽にやけた顔と豊かな髭に、アニーは何か都会人が忘れている大地の温かさのようなものを感じている。
「そうそう、ところで、この女性、どう思う?」
アニーはジョンの手の中の雑誌の、最後のページを開いた。
腰までの長い髪と黒い瞳を持った女性が、物憂げな表情で宙を見つめている。
「彼女は存在感のある、不思議な雰囲気をもったモデルだったわ」
「過去形?」
「亡くなったの。病気で…エイズだった」
アニーはグラビアに視線を落として、小さなため息をついた。その様子を、ジョンは黙って見つめていた。
「ねえ、お医者さまの意見を聞かせて。私たちの生活にひたひたと近づいてくる病魔。このまま人類は、この現代の難病に負けてしまうのかしら」
職業柄、アニーの周りにはエイズに倒れる若者たちの話題が少なくない。友人が苦しみながら死を迎えるのにも、何度か立ち会った。
「医学はね、これでも日々進歩しているんだよ。だからエイズもきっと不治の病ではなくなるはずさ。一番大きな問題は、爆発的に感染者が増えているアジア・アフリカの途上国と、感染者に対する差別と偏見だろうね」
医師という立場に戻って、ジョンは淡々と話した。
「そうね、彼女も最期の最期までエイズだってことを伏せていたわ。死ぬことよりも、友人が自分を避けていく事が辛いって。馬鹿よ、もっと早く打ち明けてくれれば力になったのに。一人で苦しみを抱いて逝ってしまった…」
アニーが口を閉じてしまったので、そこで二人の会話も止まってしまった。
ビールの泡だけが静かに発泡している。
「君は今でもチアリーダーなんだね。きっと彼女は、君の声援に勇気付けられて、天に召されたと思うよ」
ジョンは笑みを浮かべながら手を伸ばすと、アニーの頬に流れ落ちた涙をぬぐい取ってあげた。
「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいわ。あらら…何だか辛気臭い話になっちゃったわね。少し話題を変えましょうよ。…で、ケニアってどんな所なの。一度行ってみたいと思っていたのよ」
深夜近くになって二人はパブを出た。
アニーはさっきと同じようにジョンの腕にぶら下がって、だいぶ静かになったロンドンの街を意気揚々と歩いていた。
「しかし強いねえ。一人でスコッチ一瓶あけちゃったんじゃないの。肝臓大丈夫?」
アニーは、そんなジョンの顔をとろんとした瞳で見つめ、
「じゃあ、お医者さまに診てもらおうかしら…」
と、少し媚びるように寄り掛かった。
「やっぱり、少しよくないな」
「えー、どこが悪いっていうのよ」
「足元がふらついている」
そう言うと、ジョンはアニーをひょいと背負いあげた。
「恥ずかしいじゃないの。下ろしてよ」
「いいじゃないか、少しこうして歩きたいんだ」
アニーには彼の心がいまひとつ読めない。私との夜を思い出にしたいならば、もっと違った誘い方もあるだろうに…。
ジョンの広い背中に頬を寄せると、草原の香りがしたような気がした。温かくて、とても気持ちのいい背中だった。
ところが、ジョンは不意に立ち止まると、夢心地のアニーを無造作に降ろしてしまった。
「な、何よ。急に」
アニーの苦情を背中に受けながら、ジョンは公園の生け垣の方に歩いて行く。しばらくすると、彼は腕の中に子猫を三匹抱えて戻ってきた。この寒空、子猫たちは空腹らしく「ミー、ミー」と鳴いている。
「弱ったな。せめてミルクでも飲ませてやりたいんだが、ホテルに連れていく訳にはいかないし…」
「…あたしの家に行くしか、ないってことよね」
アニーはため息をひとつついて、その中の一番小さい黒猫の頭を、ちょんとつついた。
「えーと、ミルクね」
アニーはアパートに戻るとストーブを点け、冷蔵庫からミルクとプラスチックのトレーを持ってきた。
「哺乳瓶なんて…ないよね」
「あったりまえじゃないの」
「しかたない。本人たちの本能に任せるか」
ジョンはトレーにミルクを入れると、3匹をその周りに置いた。子猫たちは赤い小さな舌に全神経が集中しているかのように、あっと言う間にトレーを空にしてしまった。
「…だけど、あたし飼えないわよ」
ジョンはしばらくの間、しゃがみこんで3匹の様子を見ていたが、
「迎えにくるよ。それまで頼む」と、ぽつりと言った。
「それまでって、あなたこれからウエールズに行くのでしょう。あたしだって昼間は仕事でいないのよ。その間どうするの?」
アニーは両腕を腰に当て、少し強い語調でジョンの背中に訴えた。
「…ごめん。君には君の生活があるんだった。僕のわがままで困らせてはいけないね。ホテルに帰る途中に、元の公園に戻してくるよ」
家を持たない旅人の辛さ。優しい人だからこそ、自分が寒空に放り出されるように感じているのだろう。
「待ってよ。待ちなさいよ。今すぐ行くことないじゃない。明日の朝、出勤前にあたしが連れていくわよ。こんな寒い夜更けに可哀相な子猫と心優しいお医者サマを追い出すほど、あたし薄情じゃないわよ」
そういうとアニーはジョンの腕を掴んで、まあ、お茶でも入れるからと、リビングの方へ促した。
「例えば、ロンドン生まれの猫をケニアに連れていくことって、できるものなの?」
「もう少し大きくなれば、気候の変化には慣れると思うけど…。でもそれ以上にアフリカに住むとなると、ここでは考えられない過酷な試練がある」
「試練?」
「そう、弱肉強食の世界なんだ。彼らが鼠を追うように、野性の猛獣が彼らを襲ってくるかもしれない」
そう言ってジョンは、ライオンのように爪を立てておどけたふりをした。
「自然なのよね。それが…」
「そう、だから僕はアフリカは人間も人間らしく生きられる最後の大地だと思っている」
ジョンは、紅茶のぬくもりを両手で抱えて言った。
「都会に住んで便利な生活をするのも、人間の英知が生み出したものだから僕は否定はしない。でも僕は、僕を必要としてくれるところで、残りの人生を過ごしたいんだ」
「なんか、人生を悟りきった聖人みたい」
どちらかといえば学生時代は目立たなかった友人が、一回りも二回りも大きくなって自分の前に座っているような気がして、アニーは少しだけ羨ましく感じた。
「あなたを必要としている人が…いるんでしょう。草原の大地に」
「もちろんさ。小さな診療所はいつも患者でいっぱいだ」
「そういう意味ではなく(^^)」
目の前でニヤニヤしているアニーの言いたいことはわかっていたが、ジョンはあえてその話題を避けようとしているようだった。しかし、しばらく考えた末、彼は胸のポケットから手帳を取り出して、その中から一枚の写真を抜き出した。そこにはアフリカの夕焼けをバックに、黒人の若い看護婦と仲良く写した白衣姿のジョンがいた。
「あ、やっぱりねー。可愛い看護婦さん」
「アニー。これからどんなことを僕が話しても、驚かないって約束してくれるかい」
声のトーンが少し低くなったかと思うと、ジョンは唐突にそんな言い方をした。そして彼はテーブルに写真を置くと、その上に両手を組んで、じっと目を閉じた。
「彼女は貧困の中で病に苦しむ人を救おうと看護婦の道を選んで、僕の診療所で一生懸命に働いてくれた。そして僕たちの間には、仕事のパートナーとしてだけでなく、お互いの人生にとって、かけがえのない人なのだということがわかったんだ」
「素晴らしいわ。幸せね。あなた」
「…そう1カ月前まではね。僕はとても幸せだった」
「1カ月前?」
ジョンは目をつぶったまま続けた。
「彼女は…もういないんだよ…」
「まさか…」
「君も知っているだろう。エイズはアフリカに患者の7割が集中しているんだ。国民の10人に1人は患者か感染者だと推計されているウガンダや、病院に運ばれる患者の2人に1人はHIV感染者というザイールの難民たちに比べれば、ケニアはまだいいほうだけれど、それでも僕たちは毎日のように死んでいく人々を前に救う術もなく、ただ見送らなければならない…」
医療関係者には常にエイズ感染の危険がつきものである。ジョンのような医者ばかりでなく、直接患者を世話する看護婦たちも命をかけて働いているのは、アニーも知っていた。
「一番危険なのは、直接傷口に触る手術の時だ。僕たちは感染を避けるためにビニール手袋はもちろんのこと、特に感染しやすい目の粘膜を保護するためにゴーグルをはめて執刀する。でも万全ということはない」
しばらくジョンは沈黙し、次の言葉を話すべきか悩んでいるようだった。
「…そして、彼女を愛していた僕にも…」
アニーは思わず息を飲んだ。
彼がどんなことを言っても、けして驚かないでほしいというのは、このことだったのだ。自分もまたエイズ感染者だということを告白してしまったジョンは、アニーがどんな反応をするか、判決を聞く被告人のように俯いて待っていた。
重苦しい沈黙が続く。
「ねえ、ジョン。あたしがそれを聞いて、態度をガラリと変えると思っていたの?」
ジョンは顔を上げて、アニーの大きな瞳を見つめていた。
「そうだったら残念だなあ。あたしのことを全然わかっていなかったわけだもの」
そういうと、アニーはテーブルの上に組まれたままのジョンの手を、両手で優しく握りしめた。
「彼女を失ったことは悲しいことだった。でも、だからこそあなたはアフリカに骨を埋める決心をしたんじゃないの? 彼女の死と感染をきっかけに、以前より優しい心で、病に苦しむ人たちを診てあげられるようになったんじゃないの? 今日、偶然あなたに会って活き活きと仕事をしているのを聞いて、あたし正直言って羨ましかったわ。生涯をかけられるものを見つけたのですもの…」
「アニー、君は…」
ゆっくりと窓に近づいたアニーは、指でガラスの曇りを拭き取ると、子供のように瞳を輝かせて振り向いた。
「見てよ、寒いとおもったら雪よ。冷えるはずだわ」
暗い窓の外に、白いものがふわふわと落ちてくる。
「…1カ月かけてイギリスを周るって言ってたわよね。そうだったら、ヒースやライラックの咲く初夏とか、もっといい季節を選んでくればよかったのに…」
晴れやかな顔は、いつもの元気なチアリーダーに戻っていた。
「…いや、いいんだよ。この季節で…」
アニーの隣に近づいてきたジョンは、同じように指で窓の曇りを拭った。
「雪なんて、もしかすると、もう見ないかもしれないから…」
「アフリカにも降るんでしょ。キリマンジャロの雪って言うじゃない」
「ヘミングウェイか…。でも雪ってさあ、遠くから見るだけじゃなくて、直接、触れてみたいと思わないかい」
ジョンは、本当に故郷を離れる決心をしたのだ。
「がんばってね。あなたを待っている人が、たくさんいるんだからね。それに、あなたはまだ約束を果していないんのよ」
「約束?」
「忘れたの。功労者にはチアリーダーから祝福のキスよ!」
髭もじゃの頬に両手を伸ばし、アニーはやさしく唇を寄せた。女神のキスに、ジョンは意外そうな顔をして少し赤くなった。
「それから、この子たち。やっぱりあたしが預かるわ。そして強く育てて、アフリカの大地を駆けさせてやるの。父祖の走った大地をね」
アニーは満腹になって幸せそうに眠っている子猫たちを抱え上げた。
「猫の先祖は虎じゃあ…(^^;;」
「あれ、ライオンじゃなかったっけ(笑) まあ、いいわ。きっと遠い親戚よ」
二人は、声を出して笑う。
「あたしがこの子たちを連れてケニアに行くまで、店じまいしないでよ」
自然に握りあった手を、アニーはもう一度強く握りしめた。
「Fight,John. O'brian!」
――― ありがとう、アニー。君に会えてよかった」
翌日、アニーは子猫たちをバスケットに入れて出勤した。
「ど、どうしたんですかぁ?」
編集部のスタッフたちは、突然の珍客にみんな目を丸くしていた。
「ふふふ…急に子持ちになっちゃってね〜」
怪訝そうな瞳で覗き込んでいる人間たちを、子猫たちも体を寄せ合って見つめている。
そのとき「ちびくろ」と名付けた1匹が、緊張の余りバスケットから飛び出してしまった。
「誰か、捕まえてーっ!」
原稿が、写真のネガが飛び散る中、「ちびくろ」は未だ見ぬサバンナを駆ける練習しているかのように飛び跳ねていた。
アニーは、ふと窓の外に目を移した。昨夜からの雪は、まだやみそうもない。
『列車がとまっていなければいいのだけれど…』
今朝のニュースでは、ウエールズも大雪だという。
でも、彼はきっとそれを満足げに見つめているだろう。
(終)
| 【あとがき】 これを書いたのは、今から7年も前だったんですね。まだエイズのことがよくわからないで、闇雲に恐れていた時代だったと思います。今も潜在的には増えているとは言われますが…。 ジョン・オブライエンは、今ごろどこで何をしているのでしょう。創作の人物にしてはめずらしく、非常に存在感のあるキャラクターでした。だから、本物の友人のように気になります。今はエイズ治療もだいぶ進歩したっていうし…元気でやっていると思いたいです。 さて、主人公アニー・ブライトンは、ず〜〜〜っと前(80年代)に描いた漫画の「脇役」だった女性ですが、なぜか作者に気に入られて94年に小説で主役を張ることになりました。 仕事もプライベートも元気印の彼女ですが、実は少しオーバーワーク気味。そんな日常に疲れていたところに現れたのが自然派の代表選手のジョン・オブライエン。今で言うところの癒し系キャラのようですな(笑) え、作者の理想かって?…どうかなあ?? 小説や漫画を書くにあたり「読者にホロリ(じーん)とさせるものを書く!」というのを究極の目標に置いていました。こういうのはテクニックがあるのだと思うけど、今回のジョンの告白の場面は、個人的には胸が詰まります。とともに、死んだ彼女の話は作者がイメージを作って語ったというより、彼が彼の世界から呼び寄せてくれたような気がします。 「キャラクターが語りだす(動き出す)」というのは、まさにこんな瞬間なのです(^^) だからこそ、現実に存在しているような生身の人間のイメージが、彼にはあるのかもしれませんね。 |
1994/12/18 Linda Yuan
Rewrite:2001/04/07