昔うちの入り浸っていた野良猫:クロ兵衛




いつのころからか、彼は私の寮にやってくるようになった。

ベランダに置いてある壊れた椅子が「彼」の指定席だ。
南向きでとてもよく陽が当たるうえ、古ぼけた毛布が無造作に置いてあるので、特にこの季節は昼間は日向ぼっこ、夜は毛布に包まって暖をとっているらしい。そして、そこに気だるそうに寝そべっては、私が帰ってくるのを待っている。

私が寮に帰ってくるのは、たいてい夜遅いのだが、部屋の電気をつけると、毛布の中から黒曜石のような瞳で部屋の中を伺っている。
空気を入れ替えようと戸をあけると、彼は遅いじゃないかというかのように、ぐっと背を伸ばし、狭い隙間からスルリと身を滑り込ませる。そして部屋の中の指定席であるソファに向けて歩き出し、そこでまたごろりと横になる。

野良のくせに…。いや、野良の割には綺麗な毛艶をしている。
胸と腹と足先だけは白だが、背中は黒と灰の縞模様がくっきりと浮かんでいる。
黒い尾は、細く長くしなやかで、そして非常によく動く。
瞳は…黒? いや、光が当たるとトパーズのような色に変わる。
そんな賢そうな瞳は、私の勤務評定をする上司のように、時に冷たく厳しい。

それにしてもこんな綺麗な猫だ。きっと、入り浸っている家が他にも何件かあるのだろう。
野良とは思えないような贅沢な食生活。ブラッシングなどもしてもらっているのかもしれない。
青年のオス猫ならば他のオスとけんかして、生傷の一つや二つはあるものだが、外見上には傷といわれるようなものは見当たらない。平和主義者なのか、はたまた傍で見るよりケンカに強いのか…。

ともかく綺麗なオス猫なのだ。

彼はソファで真っ白な腹毛を見せながら、それとは対照的な黒い尾をくねくねと揺らして、冷蔵庫を開ける私の動きを観察している。
「うちには、お前に食わせるものなんか、ないんだからな」
そういいながら、おつまみのスモークチーズを少しちぎって手に乗せて、彼の鼻先に差し出すが、どうやら関心はないらしい。なるほど、すでに豪華な夕食を、どこかの有閑マダムのところで終わらせてきたってわけだ。
「そうか、いらないんだな」と、私がそれをゴミ箱に投げ捨てる仕草をすると、細い首を伸ばして仕方なく食べようとする。可愛いところもある。

「今日も株価は低迷続きか…」
ソファに座ってビールをあけ夕刊を広げる。相変わらず不景気だ。
すると彼が膝の上に乗ってきて、わかりもしない経済面を覗き込む。
「バブル前の水準だってよ。…たく、政治が悪すぎるんだ」
思わず、愚痴を吐いている。
タバコをふかしながら、からかいついでに白い喉を撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じてゴロゴロと喉を鳴らしている。そうだよな、おまえには株価なんて関係ないもんな。
尾の先が八の字を描くように動いている。ご機嫌な証拠だ。

ところが甘えているのかと思うと、ものすごく気まぐれで、特に形のよい耳に触れようとすると、トンと床に飛び降りて、そのまま外へ出て行ってしまう。
そうかい、そこは禁断の場所だってことだな。わかったよ、そういうところは彼女に触ってもらいたまえ。

王子さまの外出を待ちかまえていたかのように、近所の雌猫たちの甘える声が聞こえてきた。



翌朝、出勤しようとすると、塀の上にすまし顔でとまっている彼に、管理人のおばさんが赤い紐を揺らせながら、ちょかいを出そうとしているのに出くわした。
彼は、私とおばさんをチラチラと見ながら、大きなあくびを一つする。
「綺麗な猫ちゃんだから、この赤いリボンをつけてあげようと思ったんだけど、ダメねえ」
「ムリでしょうねえ。あいつは拘束されることが大嫌いなのですから」
「ああ、触りたいわあ。あのつやつやとした毛」
苦笑しながら軽く会釈をして、私は駅へ向かった。

ああ、そうなんだ。彼を触れるというのは特権なのだ。
電車に揺られながら、急にそんなことが思い浮かんだ。
どういうわけか彼に選ばれた私は、彼を抱いて眠ることも許されているのだ。

布団の端を少し開けてやると、彼は遠慮も躊躇もしないで飛び込んでくる。
窓の外からは雌猫の呼ぶ声がする。彼の耳がピクリと動く。
「おい、彼女が呼んでいるんじゃないのか、行かなくていいのか?」
彼女の呼ぶ声が一層大きくなるが、彼は一向に知らん顔で私の腕を枕にしていた。

ははは…。何と、私は雌猫に勝ってしまったのだ。
思わず苦笑がもれた。
勝利の証は、木枯らしの吹きはじめた寒い夜、柔らかで艶やかで暖かい体を独占することだった。そうして単身赴任の私は眠りに落ちる。
しかし朝起きると、すでに彼はキッチンの窓から、どこかへ朝食をしに出かけていってしまっていた。
気まぐれな彼にとって、私はいったい何なのだろうか。



そんな奇妙な半同居生活が、半年以上続いていた。
ところが季節が変わった頃から、彼はぱったりと姿を見せなくなった。
どこかのお屋敷に飼われるようになったのか。それならそれでいいと思う。彼にはそういう生活が似合う。
しかし、いつものベランダの椅子の上に彼の姿がないというのは、やはり少し寂しい。

単身赴任中の中年男の生活は、本当にわびしく味気ないものだ。
コンビニの弁当も飽きてしまったので、最近は昼食を多めに取って夜は食べないようにしている。その分、自宅でのビールの消費が増えている。この前の検診で注意されたっけ。
そんな親父のところへ、最近は電話もよこさなくなった家族。それでも私の稼ぎはしっかり使っているだからな。ああ、来年は下の子の受験だったな。住宅ローンもあるし。
そろそろ本社から呼びもどされるかと、異動の時期はちょっぴり期待しているのだが、この不景気ではそれもままならない。もしかすると定年までこのままか? おいおい、マジか〜?

そんな愚痴も聞いてくれたのが彼だった。(あれが聞いてくれているというのかどうかは、わからないが)
しかし、恵まれているヤツは、とことん恵まれているのだな。
あいつは雌猫たちはもちろん、寮のおばさんにももてるし、今ごろは暖かいお屋敷で…。
おっと、野良猫に嫉妬するだなんて、そこまで落ちぶれたくないものだ。

そう、あいつはただの野良猫なんだ。



仕事に追われ、彼のことを忘れかけていたある日。
その日は朝から冷たい雨が降っていた。

私は帰宅すると、ベランダに久々に彼の姿を見つけた。
「どうした? びしょ濡れだぞ。お前は濡れるのが大嫌いだったろう」
そういってベランダの戸を開けてやる。
いつもなら我れ先にと部屋に飛び込むのだが、その日は様子が違っていた。彼はぐったりとして、どうやら動くこともままならないようだった。
私は彼を抱きかかえて部屋に入った。綺麗な毛並みは雨に濡れてくっついている。彼は目をつぶったまま、時々口をあけて、いかにも苦しそうな息をしていた。

「悪いものでも食ったのか?」
いつものソファにバスタオルを敷いて、彼をそっと乗せる。
「この時間では…獣医もやっていないだろう」
腕時計を確認した後、私は別のタオルを持ってきて、濡れた身体を負担にならないように、そっと拭いてやった。

「死」という言葉が脳裏に浮かぶ。
ここで死んでしまったとしても、それはそれが彼の運命なのだろう。
しかし本当に死んでしまったら、どうしたらいいのだろう? 
管理人のおばさんに頼むわけにはいかんだろうし。困ったな、ゴミ袋に入れて…だなんて、血も涙もないことはしたくないし…。しょうがない、明日、区役所に聞いてみるか…。

ガタガタと風に窓が揺すられた音に、ハッと我に返った。
縁起でもない。こいつが、こんなに気高い彼が、情けない姿をさらして死ぬわけないじゃないか。
そんなひどいことに考えをめぐらせていたなんて。そんな自分が、とてつもなく腹立たしかった。


死なないでくれ――――

心の中で何度も謝りながら、私は逃げるようにキッチンに駆け込み缶ビールをあけた。飲まなければ、とても一人で過ごせそうもない夜だった。
その夜はとても眠れそうもなかった。いつもは電灯も真っ暗に消すのだが、今夜だけは小さな明かりをつけておいた。夜中に何度も目がさめたが、ソファーの方を見る勇気は、私にはなかった。

おふくろが死んだ夜を思い出した。
病院で、その瞬間を待たされていた。母に繋がれた医療機器の規則正しい音がいつ止まってしまうのか、怖くて長い夜だった。
そして、朝を待たずに母は逝った。
あの時は弟たちもいたから、冷静にそれを受け止められたのかもしれないが、今夜は私一人だ。

その日に限って、おふくろの夢を見た。


翌朝、浅い眠りから何度目かの覚醒をして、恐る恐るソファの方を見た。
そこには、くしゃくしゃなバスタオルだけが残されていて、彼の姿はなかった。
視線をキッチンへ廻す。窓が開いている。いつもの朝…。
「あいつ…」

…ありがとうぐらい、言っていけ…。

私はバスタオルを掴むとベランダを見た。
夕べの雨もやみ、爽やかな朝日が差し込んでいた。



時計を見ると、出勤時間が迫っている。


今日は少し早めに帰ってくるか。
そして、もし…

いつもの場所で私の帰りを待っていてくれたら…

彼の全快祝いでもしてやろう。
                              

(終)


【あとがき】
単身赴任の疲れた中年と、ものすごく綺麗な(笑) オスの野良猫の、ちょっとせつない日常を描いてみました。
猫は自分の死ぬところを見せないというあたりが、ちょっと切なくてツボになっています。さて、おじさんちのベランダに、今宵また彼はフラリと現れてくれるんでしょうか。…現れて欲しいですよね…何となく。
写真は、昔、うちに入り浸っていた野良猫のスナップです。名前は「クロべえ」(笑) けして触らせてくれなかったけど、とてもきれいで賢いオスネコでした。

◆裏話◆
実は、これは某三国志サイトで内々に描いた(裏っぽい)話がベースになっています。三国志に出てくる美青年と年上の渋い軍師のおじさんの話だったのですが、フツーのページで公開したくて、こんな形に焼きなおしました。元のキャラが誰を指すのかを知っている人は、きっと大笑いしていることでしょう。
#なぜ「三国志」という任侠の物語が「そういう風に」読めるのかについては、追求しないように(笑)

2001/01/01 Linda Yuan

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