azurite (アズライト)

1 e-mail

「いったいどうしたんだ?」
あまりにも驚いたので、パソコンの画面に向かって僕は話しかけていた。
「ウイルスにでもやられたのか? あんなに慎重な君が…考えられないな」
届いたメールの添付ファイルの内容は、妖しい画像だった。

数時間後、同じ相手からメールが届いた。
先ほどの妖しいメールの説明と詫び、そして近況が、ほんの短い文章で添えられていた。
「ははは。とんだ災難だったな。そうか、アメリカに留学か。やっとだな」
独り言が声をもつ。
デスクの前の椅子に深く沈みこみ、僕は返信用の文面を考えようとした。
しかし目線がモニターから外せない。どうしてもパソコンの画面上に浮かぶ文字に吸い寄せられてしまう。

From Kazuya Tezuka

息が苦しくなって、深く息を吸い込んだ。どうやら息をするのを忘れていたようだ。
メールを読んでから、どのぐらいの時間がたったのだろう。
書斎の窓から見える景色は、すっかり夜の帳に覆われていた。
家の中は静かだった。
妻のエレナと娘のアイは友人のホームパーティに招待され、夕方から出かけていった。
僕は来月行われる新車発表のプレゼン資料をまとめるため家に残ったのだが、妻の不興をかってしまった。
やっとの思いで椅子から立ちあがる。書斎を出て階段を降りて、キッチンへ向かう。
マホガニーのカウンター下のボードからウィスキーを取り出して、氷の入ったグラスに注いだ。
軽く手の中でグラスをまわすと、カラン…という軽やかな、しかしどことなく冷たい音が誰もいないキッチンに響いた。

「雨だ…」
「気温がさがってきたな。飲むか? 和也?」
「ああ、もらうよ。氷は入れないでくれ」
「ストレートで飲むのか? 強すぎる酒は毒にしかならないぞ」
「お前が健康について語るなんて、説得力はないな」
「悪かったな。これでも心配してやっているのに」
「じゃあ、酒を勧めるなよ」

気がつくと、僕はまだキッチンのカウンターの前に立っていた。手に持っていたグラスの冷たさが指に伝わってくる。
「情けないな」
幻影をみた自分が女々しかった。
僕はグラスの中身を一気に飲み干すと、書斎に戻り再びパソコンの前に座った。


2 rainy day

あの冷たい雨の夜―――
僕の部屋に転がり込んできた彼は、捨てられた子犬のようだった。
前途有望で教授たちからの信望も厚く、自信にあふれているいつもの姿は見る影もない。
そんな彼に、僕はいつも追いつけなかった。彼の背中を追いかけているうちに、嫉妬と憧れに捕らわれていた。
だけど、たぶん惹かれていたのだろう。
彼は親しみやすいタイプではなかったが、人を惹きつける何かを持っていた。
その彼が、いま僕の目の前にいる。
あまりにも無防備な姿で…。
いいのか、そこまで僕を信じても―――

彼を抱いた。
強引に。
現実を忘れて、僕等は行為に溺れた
抱き合っていれば命が続くかのように…。
落ち着きを取り戻しベッドから半身をおこした僕の横には、黒髪を乱し、体をまるめるようにして寝入ってしまった彼がいた。
僕の見せかけだけの優しさと同情に、カンの鋭い彼が気づいていないわけがない。
しかし、こんな僕に縋らなければならないほど、彼の心はボロボロだったのだ。

僕に向けていたその背中には、白い傷跡―――
まるで翼をもがれたような跡…。
そっと触れてみた。指で。そして唇で。
目覚める気配もない。
背中の傷から首筋に、そして彼の顔の輪郭までを唇でなぞった。
顔にかかった黒髪を指で掻きあげると、彼の頬に涙の跡を見つけた。
心臓をつかまれた気がした。
今夜、どんな理由であろうと僕のところにきてくれた。そのことが、僕の胸に突き刺さる。

――― 僕以外のヤツの前で泣かないでくれ

涙の跡に、そっと口づけをした。
彼に対する独占欲と、僕が彼の苦痛を取り除けるという思い上がった気持ちが湧き上がるのを、僕はもう押さえられなかった。
それから僕たちは熱にうかされたように抱き合った。
僕の部屋で、彼の家で、研究室までも―――
二人でいる時間が総てだった。

僕は錯覚していた。彼を呪縛から開放して心の壁を取り払い、その芯にふれ、やさしくすることを許されたのは僕なのだと。
しかし、そんな日々は長くは続かなかった。
現実が僕等の前に突きつけられたからだ。

留学選考

僕はどうしても行きたかった。大学を卒業後、両親の反対を押し切って研究者への道を歩むため上京した。そのためにも実績がほしかった。
だが、自分の実力はわかっていた。当然、彼がドイツ行きの切符を手にするはずだった。
あの日までは。

黒田教授に呼ばれて教授室まで出向いた。
とてもにこやかに教授は話しかけてきた。
「君は、確か実家の会社の跡取りを蹴って研究の道に進んだとか。今回の留学は、そのままドイツで研究者のポストに就くことも可能なのだが…。まあ、君の気持ち次第だがね」
最初、その意味がまったく理解できなかった。僕にどうしろというのだ。
「僕が留学に推薦されたらの話ですから、今からそんなことまで考えられません」
デスクに向き合うように置かれた椅子に座って、僕は教授を見た。
「僕が推薦してあげよう」
「え?」
「ドイツに行きたいだろう?」
「しかし…僕は自分の実力はわかっています。手塚の方がふさわしいと思います」
「ほう…。麗しいね。手塚君は君にとって親しい友人だからかね」
「親友だと思っています」
「親友…ね」
デスクの上で組んでいる手を、教授はゆっくりと動かしている。
「…特別な関係なのだろう、君たちは」
教授の声のトーンが変化した。
「…」
「今夜、このメモの場所に来なさい。もしも君が来なかったときは手塚君を推薦することになるだろうな。ただ、選考会では特別なご友人がいることを黙ってはいられないかもしれんな。教授会が楽しみだ」
教授はにこやかな笑顔の中に毒針のような言葉を添えると、神経質そうな文字のメモ用紙を差し出した。
「教授。それはどういう意味ですか」
「自分で考えられるだろう。じゃ、後で待っているよ」

彼を守りたかった。彼の将来にダメージを与えたくなかった。
そう思う一方で、彼を守るという大義名分を頼りに、僕は留学の切符を手に入れたかった。
教授に手渡されたメモの場所は、都心にある高層ホテルのスィートルームだった。
呼び出しのベルを押して、ほの暗い廊下で待っていると、目の前のドアがすっと開いた。
招き入れられた部屋には、むせ返るようなバラの香りと、かすかに音楽が聞こえた。ブラームスだ。
「君は賢い選択をしたね」
そう言った教授は、隣の部屋へ僕をいざなう。
とても現実のこととは思えなかった。
そして、僕は―――。


3 再会

彼は何も聞こうとはせず、いつも静かに僕を見ていた。
僕が留学することが決定した時、留学期間が終了しても日本に帰らなかった時
そして僕が結婚した時すら、何の理由も聞かず、僕を責めることなどもしなかった。
そんなまっすぐな視線に耐えられず逃げまわっていたのは、僕の方だった。
どうしようもなく我侭で卑怯な僕は、彼の傷つきやすい心と優しさを利用して、向き合うことを避け、決定的な言葉を享けることなく今日まできたのだった。
僕が留学してからの4年間は、彼を捉えていたのは過去の亡霊などではなく、ほかならぬ僕だったのだ。
だけど今、彼は飛び立とうとしている。そして僕は罪滅ぼしのためにも、この鎖を解いてやらねばならないのだ。

横浜のホテルのバーで、僕は彼が来るのを待っていた。
急な呼び出しだったが、時間を調整して彼は来てくれるはずだ。
必ず…。
待っている間にウィスキーを飲み続けた。喉を焼くような刺激。酒が体の中に溶け込んでゆく。
しかし、僕はまったく酔えなかった。体中の神経は、ピリピリした緊張感にとらわれているというのに。
こんな状態で僕は平静を保っていられるだろうか。
僕はあえて左手の薬指のリングははずさなかった。

「すまない、こんなに遅くなってしまって…」
「まだ十時前だ。これからだよ」

自分の声が、どこか遠いところから聞こえた―――

唇を合わせると、ウィスキーとタバコの味がした。
記憶が呼び覚まされ、体が震える。こんなにも僕は渇望していたのだ。
もっと深く彼を味わいたくて、僕らを遮る白いシャツを剥ぎ取った。背中から抱きしめ、首筋に背中に刻印を刻んだ。

僕等の息づかいが早くなる。ベッドのきしむ音、シーツがこすれる音、吐息が部屋の中に響く。
僕等は4年の空白を埋めるかのように溺れていった。

部屋に誘っても、きっと拒否される。それならば決別の言葉だけを残して早々に去ってしまおうと思っていた。
肌を合わせることに期待がなかったとは言わない。最後まで彼の優しさに付け込み別れを惜しむ、そんな自分が卑しかった。
だが、いま僕の腕の中にいる懐かしくも狂おしい温もりを感じてしまうと、もう僕には自分を止めることができなかった。
彼の決断を尊重しようとする気持ちと、このまま離したくないという我侭が理性を超えて僕の口からあふれてしまう。

―――離れたくない

僕の心はずっと叫び続けていた。


4 楽園

僕はたった一人で窓の外の海を眺めていた。
ほんの2時間前まで互いのぬくもりを感じていたベッドは、主を失くして冷たく無機質なものになっていた。

「だが、もう終わりにしたほうがいい」

翼を取り戻した大天使はそう言うと、まばゆいばかりの光を放って天へと帰っていった。
覚悟はしていた。
そうなることを望み、彼の決断を、最後の審判を僕は享受したはずだった。
それなのに、こんなにも苦しいのは何故なのだろう。
すべてを壊したのは僕自身だというのに。
抑えても、とめどなく涙が頬を伝う。
僕の心と同調したかのように、雨が灰色の海に降り注いでいた。

4年前、僕等は楽園にいた。
古いコンクリートの教室の乾いた空気
窓からは斜めになった陽がそそぎ、机の前に座っている二人の影が床に長く伸びている。
検討課題を前にして、二人で検証し論議をかわす。
いつも鋭い指摘をして新たな視点を導き出すのは彼だ。そのたびに僕は彼にひれ伏し、そして嫉妬する。

時々触れ合う肩先から体温を感じる。隣を向くと彼の端正な横顔が見える。
僕の視線に気が付いたのか、彼がゆっくりとこちらを振り向く。
彼の眼鏡に僕が映る。
彼は、ちょっと困ったような顔をする。
そんな彼を見て、僕が笑う。
不真面目だと彼は僕をたしなめる。
言葉がとまる。
僕は彼の眼鏡に手をかけ、そして…

もう楽園は消えたのだ。

THE END (copyright Yu)


潮さまの36回目の誕生日(8/15)のお祝いとして、悠さんから本編の潮さまが語らなかった苦しい心情を描いたSSをいただきました。作者はここまで潮さまのことを考えてなかったので、こうして代りに切々と書いてもらうと喜ぶだろうなあ。どうもありがとうございました。
ちなみにタイトルの「アズライト」とはパワーストーンの名称で、既成概念を打ち消し深い洞察力を与える「哲学者のクリスタル」、「魂を解放する石」なんだそうです。色は紫。軽石みたいな感じで、見た目はあまりかわいくないらしい…。悠さん、ありがとうございました。(06/08/14)

TOP