いたずら投稿が多いので、BBCは中止をしています。
掲載ご希望のかたはお手数ですが<メール>にてお願いいたします。
先輩方、並びに後輩の方々はじめまして。このようなHPがあった事に感動?いや驚いております。今では同期の面々と顔を逢わせる機会も無くなりました。玉生寮で過ごした3年間、楕円の球で明け暮れた3年間は今でも自分の自慢です。
剣道部の飲み会開催!! 参加希望者は私宛に返信を下さい。
日時 平成18年6月22日 木曜日 午後7時より
場所 「和民」青山外苑前店 03-5414-2081 地下鉄銀座線「外苑前」下車 渋谷方面へ徒歩数分
参加予定 9期園田--- 11期熊谷(帰国しました) 等等、、、、
剣道談義、近況報告、「西多摩霊園」の思い出など・・・ 楽しい時間を共に過ごしましょう。
あー、ここってHTMLじゃないのね。ということで、下記↓↓↓の書き込みのリンク先を紹介しておきます。クリックしてくれー。
えー、私が書き下ろした小説が、本日から全国書店で発売です。
『東京百鬼』陰陽師石田千尋の事件簿 660円 祥伝社文庫です。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396332785/qid=1142419469/sr=8-6/ref=sr_8_xs_ap_i6_xgl14/503-8970357-1312704
http://nifty.bk1.co.jp/product/2646229
本日、表紙とタイトルをご覧になった、某20代女性が、
「えーっ、でもあたし……ホラーは苦手なので……」
とおっしゃって、ちょっとガクンとしました。
なるほど、このタイトルと表紙でおどろおどろしい恐怖小説を想像してしまう人もいるのか。
じつは書籍のタイトルは著者が決めるよりも出版社が決めるケースが多い。
もちろん表紙のカバー絵も著者は関わらないのです。
どちらかというと、いやし系のお話しです。謎解きの要素もあります。そしてホッと心を安らげてもらえるス−トリーです。
主人公の石田千尋は、実在の人物にして、我が盟友です。
http://chihiro.nifty.com/chihilog/
先輩、同輩、後輩の皆さん。ぜひ読んで、感想を聞かせてください。
っつーか、これ。メアド入力しないと、書き込めないのだね。これは……、いかがなものか。
10期は見あたりませんねぇ。秘話というよりあの10代の半ばから後半というのは、風説だろうが噂だろうが、子供のような好奇心と大人になりかけの懐疑心との間で、自分の精神年齢を確かめるような、あるいはその精神年齢をいたぶって、ちょっぴり舌を出してみせるような、そんなあどけなさと自我の確立との間でゆれていた、酸っぱい年齢だったんだなと思います。作家をやっているので、いつか書くかもしれません。……どうかな。書かないかも。
こんなHPがあったとは・・・
引地に石井ちゃんあきよしまで・・・懐かしいね〜
先日石井ちゃんとはばったり茅場町でw
みなさんは何してるんですか?
私は都内の広告代理店で働いてます!
11期剣道部の鶴岡です。「剣魂不滅」懐かしい方も大勢いらっしゃる事と存じます。
原宿にある「みちのこ道場」(琉冤澎灼有り)では、9期園田、10期鳥飼、14期塩澤の各氏が今でも稽古に
励んでおります。・・・・平成17年の終わりには剣道部主催の忘年会でも企画したいところです、、、。
近況をお教え下さい。。11期熊谷の灼ヘ俺からの帰国時期はまだ未定です・・・。
今夜始めてここの存在を知りました。廃校は寂しいことでしたが、三宅島の人たちのお役に立っている母校は、なんだかけなげに思えて、お疲れ様という思い出いっぱいでした。出来ればずっと残しておいて欲しかったとも思うし、なんとか時代にあった残し方もあったのではないかと思えて・・・。写真の数々、4期の頃はそんなに汚れてもいなかったし(とは言ってもきれいではなかった)、けっこうみんな大掃除では床磨きに精出していましたからね。一番の思いでは、夏休み明けの校庭の草引きです。身の丈ほどに伸びた雑草を、まさに、草むしりではなく草引き。雨が降ればドロドロの校庭。そんな中で試合して、鼻が曲がったラグビー部員もいました。天気が続けば、かちかちの校庭、下手なスライディングでビフテキばっかり作ってる奴もいたサッカー部。太ももの裏に出来たビフテキは食べられないけどね。今思えば、懐かしい3年間でした。毎日何考えて暮らしてたんだろうかなあ?
はじめまして 私、37歳です。
秋川高校の卒業生ではないのですが 秋川高校の卒業生で米丸智己さんというかたを探しております。
大学の同級生で、私が関西で大震災に遭遇した際、電話をいただいたのですが不在にしており、それ以来連絡が取れません。昔、彼に全寮制の秋川高校にいっていたという話を聞いたのを思い出しここに訪れました。どなたか彼をご存じの方情報をいただけませんでしょうか? よろしくお願いします。
今年34だから17期か?たぶん?男くさい学校だったなあ。刑務所のイメージが強くて風呂とか1年はシャワーだけとか(笑)俺はアホらしくて風呂入ったけど。朝は尾崎豊で起こされて(哀愁)
入学してすぐ先輩達にジャンピングばばあ話、や画鋲でおなにい話、瓶なげ話聞いてみんなに俺らも瓶なげやろうって声かけて結局やったのが仲のいい3人だけ(笑)しかも点数稼ぎバカにちくられ下で張ってた変態ホモ外山とデビルナントカに見つかり一月であえなく退学。
その夜変態外山に誰もいない教室に呼ばれ『ここはお化けがでるんですよー。』って『でももう見れなくなりますよ』って退学っていえよこの変質者。みたいな(笑)
朝食事の時間独房に入れられ飯抜き&親待ちの時みんな食べ物持ってきてくれたの憶えてるよ。
その後親がきて誰もいない部屋で俺の机にあった部屋仲間からの手紙。
先公は最悪だったけど仲間は最高にあったかかったなあ。真介、深町、めがねの室長元気かなあ?あとエジプト帰りの戸田だっけッ?
とりあえず名前のせてみた・・・。
文字化けしてるよー。関
そろそろ35歳になる21期ですが皆さん元気にしていますか?
各部活事、部屋事、友達事に連絡は取り合ってるみたいな情報はたまーに入ってきます。
今年のゴールデンウィークに怪我をして入院、手術を初めて経験しました。
皆さん健康には留意して元気に頑張りましょう!
21期の皆さんお久しぶりです〇笋燭舛蓮カ帖垢任浪颪辰討い泙垢ソ澗里撚颪Φ_颪鮗困辰討い泙后会う機会を作りましょう]⇒蹐魏爾気ぁ
〜12期同期会 四半世紀ぶりの再開〜
2003年7月に中野で12期同期会があった。総勢10名以上。
きっかけは海外在住の2名が同じタイミングで来日してため急遽連絡が付くメンバーが集まることに。
卒業以来四半世紀を過ぎ、久々に再会する友も多かったが、そこは3年間寝起きを共にした仲、一言二言の会話で昔に戻る
ことが出来た。
白髪が目立つようになった友(自分が筆頭かも)、白髪を通り越してしまった友、高校時代よりだいぶ肥えた友と、皆、
人生を重ねてきた。
もちろん、見た目だけでなく、それぞれの仕事で急に重たくなってきている責任やプレッシャーを抱えているのはみんな同じ。
深夜になって仕事や生活の悩みを打ち明けたりしたが、同期のみんながポジティブに頑張っている姿に感激した。嬉しかった。
自分も悩みを聞いて貰えて元気が出た。秋川同期の素晴らしさだと思う。
12期のみなさん、素晴らしい時間をありがとう。また元気で再会しよう。
お礼:飯島君、会の招集と場所の提供に感謝します。
やっぱ無いと寂しいですよね
19期・20期・21期 剣道部の皆様へ現連絡先教えて下さい。
私は、090−1432−6363
一尺みみずの話:体育館の五日市側のグラウンドは我等二期生が桑畑を開墾したものですが工事中に一尺(約30センチ)のみみずが続々と現れ都会の者は皆びびりました。みみずの頭に毛が生えているのを始めて知り(巨大だからすぐわかる)この偉大なる発見の刺激で私は初代生物部長になり研究にいそしみました。でも実態といえば解剖用と称して都の予算で鶏を購入して鳥鍋にしちゃうのだ。勿論骨格標本は製作した。当時は蛋白質が不足で現サマーランド前にてハヤを釣り小枝を集めてBBQしていましたけど面白かったなあ。11/2に二期生の宴会を熱海翠光園でやるんですが話の中心はだいたいこんなサバイバルの話なので凄く面白いよ。ドクペを含む自販機が許されたのは開校して二年目だったっけかなあ。その前はリプトンティーバッグの色が無くなるまで絞っていた。貴君等二桁の秋川生と比べると我々の初期の暮らしは殆ど「北の国から」なのです。
一尺みみずの話:体育館の五日市側のグラウンドは我等二期生が桑畑を開墾したものですが工事中に一尺(約30センチ)のみみずが続々と現れ都会の者は皆びびりました。みみずの頭に毛が生えているのを始めて知り(巨大だからすぐわかる)この偉大なる発見の刺激で私は初代生物部長になり研究にいそしみました。でも実態といえば解剖用と称して都の予算で鶏を購入して鳥鍋にしちゃうのだ。勿論骨格標本は製作した。当時は蛋白質が不足で現サマーランド前にてハヤを釣り小枝を集めてBBQしていましたけど面白かったなあ。11/2に二期生の宴会を熱海翠光園でやるんですが話の中心はだいたいこんなサバイバルの話なので凄く面白いよ。ドクペを含む自販機が許されたのは開校して二年目だったっけかなあ。その前はリプトンティーバッグの色が無くなるまで絞っていた。貴君等二桁の秋川生と比べると我々の初期の暮らしは殆ど「北の国から」なのです。
秋川高校よ 甦れ― ドクぺを買うたびにそう思う。日本一の秋川よ 永遠なり
>『ジャンピングばばあ』って知ってますか?
>1棟、2棟、3棟をジャンプして超えていくババアだそーです。
>私が在校していた時は、有名だった。
なつかしい〜。
>当時、真夜中に寮の窓からいっせいにドクターペッパーの瓶を投げる「瓶投げ」と呼ばれる奇行が存在してました。
一番印象に残っているのは旧寮の時の21期生による瓶投げでした。凄まじい音がして怖かったのを今でも覚えてい>ます。若気のいたりなんでしょうね・・・
なつかし〜。そして、ごめんなさい。
この間、本当に久し振りに秋川にいったら北辰猫がいた!
当時、真夜中に寮の窓からいっせいにドクターペッパーの瓶を投げる「瓶投げ」と呼ばれる奇行が存在してました。
一番印象に残っているのは旧寮の時の21期生による瓶投げでした。凄まじい音がして怖かったのを今でも覚えています。若気のいたりなんでしょうね・・・
『ジャンピングばばあ』って知ってますか?
1棟、2棟、3棟をジャンプして超えていくババアだそーです。
私が在校していた時は、有名だった。
以前のこのコーナーを見ていたら13期の山口利通先輩の投稿がありました。先輩、お元気ですか?同じく一中の大久保 福昭です、私の姉も懐かしがっています。
いや〜久しぶりに秋校の風景見ていたら感動しました。
皆それぞれ歩むべく道を行ってるのかな〜?
ど〜も!34期生生徒会会長の前島です。閉校式典で代表として挨拶をしたものです。先輩方の面白い秘話楽しく見させていただきました。この場を借りて一つ質問をしたいと思います。34期生にも先生方や先輩などからいろいろな怖い話を聞かされてきました。例えば一番有名なので、「ダッシュジジイ」と「ジャンピングババア」の話です。これは夜みんなが寝静まった頃になると、頭に懐中電灯を付けたジジイが夜の廊下をものすごい早さで走っていて、窓の外を見ると4階の高さまでババアがジャンプをしているという話です。いったいこの話は何期生の先輩から始まったか、けっこう気になります。ほかにも、夜の二時になると二棟の窓に顔が映るという話や、舎監室にいるとピヤノの音が聞こえる。などと怖い話があります。もしこの話について真相を知っている先輩または先生方がいれば教えてください。あと羽生のメンテナンスなどやマジンガーなどの話しについて知っている方もいたら教えてください。でわ・・・・
廃校を目前に控え、もしかしたらと思いホームページを見ていたら、こんなページがあるなんて・・・
卒業生のみなさんの書き込みを見て、どれも懐かしく思いました。
私は、3年間バスケットボール部に在籍してました。そういえば3年の時は威張りくさってたっけな・・(なんたって3年生は天皇だったもんな)部活の顧問は、1・2年は、ケイショウ先生(字は分からない)3年になって、モリブン(確か生物の森田先生)だった。先生たちも、トミー(トミタ先生)とかってあだ名で呼んでたから、本当の名前ってよく分からなかったな。
夜外・パーク・ゲーセン・ドクペ・謎の地下室・カッコウの鳴き声・初めてみたムカデ・・なんかいろいろ思い出してきたな・・・今でも時々高校時代の夢を見たりして・・・やはり大事な青春の1ページだったんだなとつくづく思います。
37歳になった今でも同じ部活だった、吉田 聖彦・渡辺 勝・西川 清とは家族ぐるみでつき合いがあり、年に数回旅行に行ったり、お互いの家に行って食事をしたりしています。
今後も、同じ秋川の卒業生として、世代を越えていろいろつき合うことが出来れば良いと思っています。
P.S.今仕事で、隣の駅の武蔵増戸下車1分「五日市ファインプラザのトレーニング室で月曜日に指導員として働いています。お近くの方は顔を出してください。
昨日、このホームページを見つけたところ住所不明者になっており驚いた次第です。
秘話と言うわけでもありませんが、私が3年の頃だったと思いますが、ある日の昼食で集団食中毒事件が発生しまたし。ニュース報道もされたと思いますので覚えている方も多いとは思います。
この時印象深かったのは、食中毒の症状が発生した人数の割合が多い順に@教職員、A1年、B2年、C3年の順番であり、3年に至っては確か数名程度しかいなかった!つまり細菌等に対する耐性も寮生活の中で何故か確実に養われていたということです。または、逆に細菌並みの進化しかしなかったのでしょうか・・・・。疑問が残るところです?
羽生はサイボーグ 嘉戸はイジリ-岡田です
安西は超いびきがうるさかった
この春夜行軍に参加し、廃校にも腹をくくっていた所、今回の三宅騒ぎ。三宅の方々お見舞い申し上げます。
それにしても秋川に避難するなんて、三宅の子供たちには絶対いいことだと思います。
いろいろなメディアで秋川が流れるなか、今まで触れられなかった秋川の良いところ、バンカラなところ、めちゃ
厳しいところ、そして三年天国、二年平民、一年地獄の現実を今の若者に提案出来たらなぁ〜と思います。
私も、秋川でつちかった『押忍』の精神で頑張っています。
三宅島の子供たちが最後の寮生です。
我々OBが何かできないでしょうか?・・・ご提案、御待ちしています。
この春に夜行軍に参加し
富士通株式会社に勤務
タイトル「204号室の悪行」
その頃204号室には「土岐(とき)」「辻」「小出(室長)」という三人の若者
(ばか者という説も)が住んでおった、その三人は風紀委員であり、彼らの行いは
寮内の模範となるべきであった・・・が、しかしこのたわけ者どもの行いと言ったら
ひどいもので、当然毎朝朝点呼には出てこない、しょっちゅう食当は遅刻する。
寮内の清掃はサボってばっかりだし、あまつさえエロ本部屋などという不名誉な
称号まで戴いておった。ある時は朝点呼と食当を一週間のうちに二度もサボり
(203、204ともどもサボった)ある時は「土岐」「辻」が自宅謹慎をくらい、
またあるときは、退寮清掃を夏休みに入ってまで行い(これまた203、204ともども)
寮内の他の生徒に「土岐」「辻」「小出」の呼び名は広まりまくったのである(これは
当時の舎監が我々の部屋を呼ぶときは大抵この順番で呼んだ功績が大きい)、なにせ
それまで全く面識のない奴にまで「何号室?」「204号室」といっただけで「あーあー
あの204号室ね」と言われる始末である。
その我々が犯した最大の罪は、一年生最後の日に、朝点呼サボったことである。
その日の前夜、我らはお互いの親睦を深めるために布団を並べて一緒に寝ること
にしたのだった。見回りの舎監も「相変わらず仲がいいねぇ」といっていた。
そして当日、舎監が起こしに来て「最後の朝点呼くらいちゃんと出て来いよ」と
言っていたのを最後に我々はまた寝た。そして気が付くと班担当の増島先生(自称
秋川高校の良心)がぶちキレていた。その後の記憶は定かではない・・・。
ちなみに一つだけ訂正しておくと、小出一人が食当をやっていたことが多かった。
という証言が当時の同級生から多数挙がっていた。
「灰色の餅」 〜餅つき大会の思い出〜
遠嶺「大嶽おろし」が土埃を巻き上げる真冬の午後、3棟の庭で「餅つき大会」が行われた。
兄弟部屋で一つの臼を取り囲む。
14号室の臼では、早速、先輩(2年:11期)の指示が飛ぶ。
「よし、1年(12期)! 早くつけ!」
いつでも、1年はドレイである。
1年のなかでは一番ガタイのいい呉君(バスケ・サッカー部)が、杵を振り上げ、炊き立ての「もち米」と格闘し始める。
よろよろ、ペッタン、よろ、ペッタン…。
こね役は大沢清武君(柔道部 初代副寮長)。
でも、杵は何とかもち米の端に命中している程度で、餅をこねるタイミングも合わない。
なによりも、杵に「もち米」が纏わり付き、一向に餅に仕上がる気配がない。
もち米が少しだけ「ぐにゃぐにゃ」してきただけだ。
見るに見かねた剣道部主将の熊谷先輩(11期)が
「何やってんだ! こうやるんだ!」と、竹刀を上段に構え、じゃなかった、杵を振り上げた。
こういう状況では、誰も「しゃしゃり」とは言わない。
「よいしょ! せの! よいしょ!」
いつの間にか、こね役も交代している。
「はいよ! はいよ!」
と軽やかに掛け声を発しながらこね始めたのは、泣く子も黙るラグビー部の米川先輩(11期)。
腰をかがめて手を叩かれないようにひょいひょいと餅をこねるが、長身の米川先輩は中腰になっても大きい。
すると、あっという間に、つきたての餅ができあがった。すっげー。
つきあがれば、ドレイの出番はない。
2年生が手際よく、餅をちぎり、用意された「あんこ」や「きなこ」をまぶしていく。
既に阿伎留台地には、夕闇が迫り、気温は急激に下がっている。
「常装」では寒いな、と震えながら先輩連中を恨めしく眺めていると、
2年の益子先輩が、「お〜い1年、おめーらも食いたかったら早くとれ!」とドレイへの配給を許して下さる。
そのあと、僕たち1年は、先輩の大いなる配慮でちょっとだけ残された餅を8人で分け、「あんこ」のかすと皿にこびりついた「きなこ」をややかじかんだ手ですくった。
「餅って温かいんだね〜、白くないんだね〜」と川上君(テニス部)が泣きそうな声で言った。
メインストリートやグランドから飛んできたのであろうメタセコイヤの落ち葉や、すすきの枯れ枝が自然と混ぜ合わさり、そして、こね役の手垢も付いて何となく灰色がかった餅であった。
それでも、僕たちは生まれて初めて自分たちでついた灰色の餅を立ったままで食った。
何となく懐かしい味がした。ドレイはみんな黙ったまま頬張っていた。いつの間にか体の震えも収まっていた。
昭和52年の春まだ遠い、卒業まではもっと全然遥か遠い冬の出来事であった。
俺達も昔は血気さかんだった。ある時、寮の規則が厳しすぎる、舎監の誰それは気に入らない、ということ(だったと思う)で寮の規則改善を求めて反乱を計画しようと、同士が夜の校庭に集まった。で結局舎監に通報した者がいてお灸を据えられチョン。
Title 「それからのセンズリじじい」
昭和50年台初め、西秋留にも少しづつ開発の手が入って、舗装道路が目立ち始めた頃だったと思います。
世間では口割け女がいたるところに出没し、眉剃り軍団と長いスカートを引き摺ったお姉ちゃん達が立川の駅前ゃ歩しておりました。
西多摩地区が急激に変わり始めたこの時代にも、まだセンズリジジイは健在でした。
愛嬌いっぱいの某英語教師の授業中にジジイのカブが球場の端に止まったのを見つけた時には、1年生の教室が騒然となったものです。この時も、私たちが大声で「せんずってんじゃねえよ!!」と叫んでいるのを横目に、堂々とティッシュをグランドに捨てて走り去っていきました。
ある日、13期の兄弟部屋の使いっぱに呼ばれて、いつもの様にジャンプ、サンデー、ポテチとドクペ、それに氷を言いつけられ、お金を受け取って部屋を出ようとしたときでした。14期の恐持ての先輩数人が、「ちうぇ」と挨拶して入ってきました。じろりs濾まれて出るに出られず、カーテンの陰で立ち往生していると、当時大変恐れられていた13期の先輩がカーテンの奥から14期を呼び入れ、こう言っているのが聞こえてきました。
「おまえらさあ、せんずりじじい捕まえて来いよ。捕まえたら賞金出すからよ。カブで逃げるから、結構早いって話だ。ヤニバテしてたらつかまんねえぞ。」
危うし、せんずりじじい!!
それからしばらくして、14期のサッカー部の先輩が追いかけ、ラグビー部の先輩がタックルして、見事ジジイを捕まえた、という噂を耳にしました。
当時は、「馬場が死んだ!」という噂が瞬く間に広がったりした事もあって、最初のうちは、どうせまたフカシだろうと思っていたので、あまり本気にはしませんでしたが、その頃からパッタリとせんずりじじいの姿を見掛けなくなりました。
最初のうちは、「最近来ねえなー」なんて話もしていたのですが、せんずりじじいは次第に話題にのぼる事が少なくなり、人々の記憶からも遠のいていきましたました。
卒業を控えたある晴れた土曜日の午後、外出して、4.1kmコースに沿って散歩しようと裏門を出ました。
と、懐かしいカブに乗ったおやじの姿が、薬局の角を曲がって走って来たではありませんか!!
すれ違った後、振り返って「マスをかくかな?」と見ていたのですが、おやじはそのままグランドを通り過ぎて行ってしまいました。
あれは、懐かしいセンズリジジイだったのでしょうか?それとも、ただのカブに乗ったおやじだったのでしょうか?
本物のセンズリジジイは、本当に14期の先輩に捕らえられてしまったのでしょうか?だとしたら、あの地獄の虎の穴「ロッカー室」で、シゴキにあったりしたのでしょうか?
だれか、真相を知りませんか?
12期のころだと、「SENZURI-JIJII」なるオヤジがいました。
何を「おかず」にしていたのか、校舎を見ながら「SENZURI」していました。
ドカジャンを着て、ヘルメットをかぶって、スーパーカブに乗って毎日やってきていました。
10期の先輩があとを追っかけていったら、プレハブみたいなところに住んでいて
同じ顔をしたオヤジが三人もいたそうです。
「こと」をなしたあとには草むらに黄色のティシュだけがのこっていました。
1年の時の事、15期の花園が「1棟を建設中に工事作業員が足場から転落して死んだ、今でもその亡霊が
ヘルメットをかぶって木材をかつぎながらさまよって出てくる」と話しをしていました。
その日の学習時間、窓の外に人影が....で、出た〜!!と思ったら、言った本人が話し内容通りの姿で渡り
廊下の手すりの上を歩いているではないでしょうか...。花園!チクショー覚えてるか!