秋川文庫

このコーナーは秋川高校での体験談を文庫形式でお送り致します。

目 次
1)かつて、ダンディズム溢れる校風の高校が存在した(15期F・O氏の作品)
2)ある男の半生(15期F・O氏の作品)
3)教師への通信簿(人物評)(15期F・O氏の作品)
4)小説・ 阿伎留台事件簿(15期F・O氏の作品)

1)かつて、ダンディズム溢れる校風の高校が存在した

時は西暦200X年、彼はインテリジェントビルが立並ぶ神田神保町の古本屋で偶然見つけた秋川高校について書かれた本を手にしていた。その高校は既に廃校となり跡地には現在は東京都が初めて手掛けたPFI事業の一つとして現在大変な賑わいを見せている巨大なアスレチッククラブに姿を変えていた。
彼はその秋川高校について書かれた本を熱心に読み進むうちにこの様な高校が30数年も存在したこと自体が彼には大変な驚きだった。何故ならその本の著者はかつてその学校で校長を務めた増田某であったが彼の筆による様々な、学校での行事や或いは寮内での出来事(遅れ馳せながら付け加えるとこの高校は全寮制の男子校であり何と寮は現在の全寮制の常識でもある個室ではなく8人部屋であった)は現在では全く考えられない思考・行動基準でないと到底起こり得ない出来事ばかりだったからだ。
一例を挙げると先ず夜行軍という夜中に山の中を歩き、タイムを競う(早くではない。学校が任意に設定した時間に近ければ良い)という、現在では全く考えられない行事が挙げられる。ましてその優勝チーム(それも勿論部屋単位である)の賞品は夏蜜柑であった。現在の自己・利己主義或いは何かをすると必ず見返りを求められる考えが横溢する時代からは全く考えられない行事である。
その他にも卒業式の後に在校生が卒業生に向かいトイレットペーパーを投げるという何の意味もなくまた環境的にも大変な悪影響である行事も存在したらしい。(かつて風の強い日にその行事を行い風に舞った遠くに飛ばされたトイレットペーパーを取りに行かされた馬鹿な学年があったらしい)また行事ではないが特にこの高校は食事を食べるのが早かったらしい。
彼はそれを昔の軍隊と同次元に考え余った時間を有意義に利用する為、と考えた。しかしその様なことではなくただ単に寝不足を解消するために食事より睡眠を選んだだけの様だった。特にその寝不足を解消するために授業中ひたすら睡眠に励むという不逞の輩も存在したらしい。彼は余程夜遅くまで勉学に励んでいた、と思っていたが夜の学習時間の終了が22時半ということと当時の受験雑誌を参照すると大した進学率でもないという事実から、少なくとも勉強の為ではないことがわかった。
では他に何かと考えていくうちに彼は先の学習時間終了後に先輩の処に呼ばれ筋トレという現代では死語になったものが本の中に記載があったのを思い出した。これは単純にクラブの先輩が後輩を肉体的にしごくという習慣であったがこれをやったからといってこの高校がスポーツで東京都で優秀な成績を残したという事実がない以上余程非効率的なトレーニングを強制し実践していたらしい。そのために授業中に睡眠を取るものが多かったというのは何をかいわんやである。(数多くあるクラブの中でもハンドボール部は特にひどくその中でも15期生のTN という生徒は特にひどかったという風聞がある)
以上の様におよそ模範とした英国のパブリックスクールとは完全に似て非なるものであった。そのほかにも現代では全く思いもよらないような風習・因習があるが割愛する。彼は今述べた様な色々な考えを抱きながら一気に読み終えた。
その時彼の胸にある疑問が生まれた。今迄執拗に述べた様に全く現代の生活慣習、意識から大きく乖離した教育期間が何故30数年も存在したのか。その当時はその様な考え、常識(秋川での)は世間一般に受け入れられていたのであろうか。いやいやそんな事はない。少なくとも本に記載されていた様な行事やら日常生活の出来事は昭和40年、50年代の我が国の教育環境に於いても容認されるようなものではない。では何故、彼は数分考え結論に至った。
かつて世界に様々な文明が栄えそして滅亡た。インカ文明然り、アンデス文明然り。そして我が国では江戸時代に庶民を中心とした文化・文明が存在した。この江戸における文化は“粋”の精神を日常の中心においた文明であった。いわゆる初鰹を食べる為に女房を質においても、というこれまた現代の常識では到底理解し得ない行動基準が存在した。彼にはその江戸の文明が大変秋川高校における行動基準と酷似しているように感じた。夜行軍を毎年行う、賞品は夏蜜柑という点などを考えてみても骨の髄まで“粋”の精神が染み付いていると思った。(いわゆる伊達や酔狂のレベルである)彼はこれを“江戸の粋”に対し“秋川のダンディズム”と称することにした。
それぞれの文明が何故起り、何故滅亡したかを解き明かす知識を彼はあいにくと持ち合わせてはいなかった。しかし東京の西の外れにかつて秋川という精神的なダンディズムを身に付けた部族が形成した部落が存在したことは厳然たる事実である。彼は深く考える事を止め同時に神保町で購入した別の本を手にしその本に目を走らせた。因みにその本の題名は“自由と規律”であった。

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2)あ る 男 の 半 生

ここにある男がいる。名は特に秘す。
彼は19年前青雲の志を胸に抱き足立区の中学から都立秋川高校に入学し1棟46室に配属された。同じ時期に秋川の門を叩いた2百数十名と同じように彼は当時流行っていたドラマで見た全寮制の学校に大変憧れを持っていた。あたかもそこに行けば必ずや幸せが待っているという戦前の満州或いはブラジル移民のケースと全く同じレベルの幻影だった。彼は今迄親元でのんびりと過ごしていたのでこの寮での(部屋での)出来事に驚きの連続だった。というより恐れ慄いたといった方が適切かもしれない。
先ず四六時中同じ顔の男が常に間近にいるということ。まして就寝時に隣のベットに赤の他人がいることなど、今迄の自分なりに抱いていた生活観・人生観が次々と全て打ち砕かれるのを痛切に感じた。特に兄弟部屋と称する一見先輩が後輩の面倒を見る、という甘いイメージの制度も実は同じルームナンバーの先輩が後輩をゴミのように扱うということと全く変わらないということも全寮制に対する彼の甘美な思いを打ち砕くに充分であった。しかし彼は耐えに耐えた。彼をここまで頑張らせたのはもともと中学校時代は大して目立たなかったので見知らぬ土地で思いっきり自分を変えそして中学時代自分を馬鹿にした仲間たちを見返したいという気持ちだけであった。体力的に恵まれない彼は運動部ではその目的を果たせないのは明確であった。
そこで彼は勉強に活路を見出すことにした。何をやるか、彼はいろいろな学科の中から英語を選択した。猛烈に勉強をした、と書きたいところだがそうではなく猛烈に大量に参考書を購入した。ざっと列挙してみても「試験にでる英単語」は当然のこと、同じシリーズの英熟語、だじゃれで覚える連想シリーズの単語・熟語、英文解釈では新々英文解釈そして赤本シリーズ等々がある。
そして彼は教材購入に飽き足らず「共同学習」というゼミナール形式の学習会にも参加した。その学習会での教師は若い教師であったがこの教師は自分だけでなく秋川高校を進学校にしたい、進学率を高めたいという彼とは違った意味での野心を抱いていた。この教師は自分の事を熱血教師と思っていた。話は脱線するが後に政経を教える事になる教師も熱血漢という点では人後に落ちないものがあった。青空教室(その教師の命名による)という屋上で授業を行うということもあった。
話をもとに戻すと彼は参考書を大量に購入し且つ共同学習にも出席したが結論を述べるとその意気込みは長くは続かなかった。理由は2点ある。第一はその学習を行うに際して基礎学力が絶対的に不足していた事。(この点に関しては殆どのこの高校の生徒に当てはまる。)
第二に周りの足の引っ張りである。周りの者は巧妙に彼の足を引っ張った。「しこ勉」という言葉を浴びせることによりそれを行った。入学して数ヶ月も経ち彼はこの学校で生きていく術を完全に会得していた。それはとにかく自分を出さず周りと同調するという事だった。
彼はそれを忠実にそして完璧に実行した。次第に共同学習からも足が遠のいた。その代わり同僚と北辰館で購入したポテチを食べながらダベる(懐かしい言葉である)時間が増えた。勿論同僚は彼の態度の変化を喜んだ。そのうち彼もこのままの状態の方が心地よいことがわかった。このような態度の結果、彼は推されて応援団も務めた。この野蛮な学校で応援団を務めるということは大変な事であった。彼はこれを立派に務めたことにより自分の変身が完全に正しかったことがわかった。そして2年になり、3年になっても彼はこれを崩さなかった。英語の参考書を購入し続けるのも変わらなかった。常に自分を出さず(下手に自分を出すとこの高校では一番恐い言葉であるシャシャるという言葉を浴びせられ完全に無視されてしまう。)周りの意見に迎合した。しかし周りの者は彼を完全に仲間と思い予餞会では彼に独唱する機会を提供し彼は「長い夜」を熱唱した。この予餞会の数ヶ月後この秋川高校の負の部分だけを身に付けた男が実社会に飛び出した。
学力は向上しなかったが相変わらず英語に憧れを持っていた彼は英語の専門学校に進んだ。その時から彼は高校時代と異なり今に至るまで全く輝くことはなかった。
彼が今秋川高校に対してどの様な感情を抱いているかは、寡聞にして私は知らない。

(以上書き綴った事は“彼”に近いイメージの男性は実在しますが記述にはかなり誇張あるいは事実とはかけ離れている点も多数存在いたします。この点をお含みのうえお目を通して頂ければ望外の幸せです。)

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3)教師への通信簿(人物評)

私は15期生のF・Oです。
秋川高校在学中の3年間に大変素晴らしい先生・素晴らしくない先生に接した事は今の自分にとって大変勉強になりました。その接した先生方の通信簿を主に人物評を中心に行いたいと思います。(尚この人物評は遭遇した出来事、接点の多かった先生に偏っていますので悪しからず。個人の名誉もありますので担当科目とイニシアルにて明記致します。)

S・T(化学・舎監)
人生の先輩として、学科の先生として、舎監として、人格的な素晴らしさ、授業の進め方の巧みさは超一級品である。担当科目は化学という事で文系の者には、私を含め全く内容は記憶していないがつまらなくて退屈をしたという記憶はない事から授業の進め方はうまかったと思う。(個人的にはコーラを飲むとインポになる、パチンコは指の力とレバーの角度が問題でありと、難しい公式を延々と言った事を覚えている。)性格的には普段は温厚で滅多に怒らないがここ一番の激怒ぶりは何度も身のすくむ思いがした。15期1年生の夏休み明けに喫煙が相次ぎ退学・停学者が続発した時と14期の卒業の時にトイレットペーパーを投げ運悪く強い風に舞い隣の栗畑を一面白に染めた時の激怒ぶりは本当にびびった。特に前者は本当に凄かった。また学習時間内の見回り時に忍者の如き忍び足ですーっと部屋の中に入って来てはふらふらしている者が捕まりそして別室で監視つきで学習という仕打ちを受けた者は何人もいた。ただ個人的には先生宅に宿泊した事もあるので客観的な人物評価になったとは言い難い。
K・W先生(体育)
入学早々、中学時代に熱中していた野球の事について尋ねられここまで自分の事を知っているのかと感激したことを昨日のように思い出します。またこれも入学早々の挨拶でクラスの席の一列が卒業までに退学でいなくなる、これ位秋川はきつい処だ、言った事も強烈な記憶として残っています。しかしそれ意外には特に思い出はなくまた体育の先生というよりバスケット部の顧問という方が通りの良いことなどからして特に影響を受けた生徒がいたのかしらと思う。今一つよく人間性が見えてこない先生の一人。
Y・M先生(英語)
とにかく元気がいいのが印象的。また英語の先生というより神主という方が記憶に残っている、という珍しいタイプの先生。ラグビー部のグランド開き(?)を執り行った事を覚えている。
A・M先生(古文、現代国語)
自分でも、「俺は、でもしか先生だ」と放言していた位型破りの先生。学科においては噂ではZ会の添削の仕事もやっていたという位、大変テストは難しかったのが印象に残っている。あの太い腕でよくパンチをみまっていたのも印象的。ある意味では大変存在感のあった先生でした。
Y・W先生(体育・舎監)
現在、秋川高校に在籍中ということもあり大変印象深くまた生徒に影響を与えた先生。本人の使命感からか特に寮での喫煙摘発に命を懸け寮内での館内放送直後に喫煙の摘発に巡回するなど、いわゆる喫煙者には鬼の様に恐れられた先生。(また鼻も良かった)馬というあだ名だったが馬はそんなに鼻は良くないと思う。入学早々食堂でのオリエンテーションに遅れた寮生達を竹刀で殴った時は本当に痛かった。(私も殴られた)。また寮内放送時の語り口に大変特徴があり物真似をする生徒が大変多かった。
Y・Y先生(数学・舎監)
卒業して約20年経っているのにも拘らず未だにあの先生元気かな、と思う回数の一番多い先生。未だに独身(部屋も相当汚いという噂あり)、独特の授業の進め方、ラグビー部の顧問、そして魅力的な?人柄と本当に思い出の多い先生。この先生がいなかったらもっと秋川を退学或いは数学が嫌いな人が増えていたと思う。
S先生(英語・舎監)
熱血漢に見える時あり、冷血漢に見える時ありとこの人の評価は全く定まってない。剣道部の連中の人物表を聞いてみたい。他の印象としては地元の大地主という事位。
H・N先生(国語・舎監)
私立高校出身(秋川高校から後に、その出身校に転任になった)ということと早稲田大学にて演劇の勉強をし、秋川にも演劇の同好会を結成する等この人が秋川に吹き込んだ息吹はなかなかのモノ。また野球部に於いては理論的な面からの貢献度は大変大きかった。開校以来初の三回戦進出の原動力となった。本当に秋川に於いて果たした役割は大きかった。私も卒業後その私立高校に尋ねて行った事があるが全く在学時を変わらず応対してくれたのは嬉しかった。授業の面においては高校2年の時の中島 敦の山月記の授業が印象に残っている(大変カッコ良かった。)事実この授業以後中国文学に興味を持った者が何人もいた。
T・Y先生(漢文)
漢文の先生というより進路指導の先生という方が知名度が余程高い先生。秋川という世間から断絶された世界においてこの先生が持ってくる受験の知識(受験雑誌には出ていない)は大変有り難かった。ただこの先生のおかげてろくに勉強もしないのに受験の知識ばっかり吸収し他の生徒にレクチャーをするという生徒が多くなったのもこれまた事実。が総合的に考えると受験だけでなく就職面においても一生懸命企業回りをして企業の秋川に対する採用枠を獲得・拡大するなど大変功績のあった先生。
S先生(政経・担任)
この先生位授業の内容が良いにつけ悪しきにつけ面白い授業はなかった。特に印象に残るのは戦後直後の事件モノ(憲法九条問題、下山事件等)、更に憲法改正問題、徴兵制問題と盛り沢山。この高校における他の殆どの先生の授業は、一般の高校(秋川が異常ということではない。まあそういう見方もあるが)はこんなレベルの低い授業はやっていないんだろうなーと常に思いながら授業を受けていたがこの先生の授業だけは受けていて自分が大人になったような気分がする授業内容だった。今も聞きたいと思う唯一の授業内容。しかし秋川というある意味では普通とは異なる教育環境・生徒の気質があったからこそ存在感のあった先生というのもまた事実。先のY・Y先生(数学)とは異なった意味で今何をしているのかなーと思う先生。
T・S(校長先生)
あの時代(昭和50年代)に海軍兵学校だかなんだか知らないがその流儀を秋川に持ち込んだ人、という事以外何も印象にない。がそこらの「でもしか先生(校長)」とは違い秋川を変えたかった、或いは自己実現の場にしたかった等、何かわからないが何かをやろうとしていた人だったなーと今になって思う程度。(その後某私立大学の教授となりその授業を受けた某15期生が単位を貰ったらしい。)
T・N(物理・舎監)
嘱託後警備員として秋川に在職していることからしてもっと印象に残っていい先生なのに私はこの先生に関しては殆ど記憶にない。担当科目に関しても何を教えていたんだっけなーと一瞬考えてしまった。僅かに淡い記憶をたどってみると物理を教えていたことやハムの免許を取得していたこと位。(勿論ホエホエというあだ名は記憶している。)と書いていてこの先生が朝の点呼(秋川体操というのがありました)を行っている時、自分の班の点呼が終わり数秒後に生徒が脱走する(=寮に逃げ帰る)という事件があったのを思い出した。この事件は15期生が2年生の時だった。この時その日の日直を務めた男の話では点呼が終了し舎監室に戻った時大変悲しそうな表情をしていたらしい。
H・I(音楽)
ある意味では一番存在感のあった先生。私は秋川は男子校且つ全寮制なので当然女の先生は存在しないと思っていた。であるからこの先生が男の園に迷い込んで来た時は本当にビックリした。更に驚いたのは、なんと14期のI先輩と結婚したということだった。故に私のこの先生に対する評価は最低のレベルとなった。
T・M先生(生物・いろいろ)
良くも悪くもどっぷり秋川に漬かりきり秋川魂を体現していたという感じ。私の記憶が確かならば、設立に参加しその後一旦他の高校に転出し15期生が入学した当時に戻ってきて、更に転出し今度は教頭(校長?)として戻ってきたという根っからの秋川フリーク。しかし私の印象は自分が発明したニコンE型(?)の顕微鏡の自慢たらしい説明であるとか、図書館の司書室に長時間入り浸っているとか(個人的には私も入り浸りたかった)、当時は余り良い印象がなかった。しかし卒業後約15年位経って偶然会った時にはその様な毒気が抜けていて普通の好々爺であった。
H・K先生(地学・いろいろ)
15期生からみるとまさに伝説の先生。設立当初から秋川に在職ということで遠野地方の語りべ・秋川版といってもよい存在だった。授業の途中に話す設立当初の話も大変興味が持てた。土方の1期、花植えの2期という有名な言葉もこの先生から初めて聞いたような気がする。(そういえば15期は何の15期なんだろう)秋川より転出後は東京都の偉い教育機関に収まったと聞いたが、今はどういう地位にいるのだろうか?個人的には大学1年の一般教養で地学を履修しはしたがテストが全く難しく、一問も回答する事ができなかったがこの先生の名前を出したら単位を習得できた(単位を貰えた)という事実があるのでこの先生には頭が上がらない。
I先生(世界史)
「でもしか先生」というイメージがぴったりの先生。授業中にチョークを投げる、チャイムとともに即座に授業を終了させる、アフリカの南の岬を喜望峰と名付けた理由等、思い出は意外と多い。(うっせーよ、と怒鳴る声も今は懐かしい。)しかし授業(世界史)への興味を深めるという教師本来の職務から考察すると職務怠慢の一言に尽きる。「世界史の焦点(緑の新書版を覚えていますか)」を暗記するだけでそこそこの点が取れる、という授業・指導方針はどう考えても絶対間違っている。と責めてばかりいるが笑った顔は大変愛嬌のある顔だった。
N・O(数学・野球部)
私は2年生の時に数学Uを教わったが大変わかりやすかった。(難しい事を簡単な事に喩えて教える・理解させる能力に秀でていた。)また野球部の顧問としても技術的な細かい指導はさておき生徒にやる気だけは持たせるという指導方法に特化していた。私の印象は、外見はバンカラだが内面は大変理論的で冷徹な先生だった。意外とあのバンカラの振る舞いは秋川に於いて生きる為の術だったのかなーと思う。秋川より転出後はその学校に応じた態度(指導方法)で世渡りしているのかなーとも思う。
A・O(数学・担任)
私はこの先生のお蔭で数学に対する興味が大変湧き、また実力がついたと思っているが殆どの生徒にとってはこの先生の為に数学が嫌いになったケースはものすごく多いと思う。とにかく上記の先生(N・O)とは異なり生徒を騙してでもやる気にさせる、という努力が欠けていた先生だと思う。この先生の思い出は高校1年か2年の時にその当時流行ったキュービック・キューブを理路整然と数学的な小難しい理論をこねくりまわしながら完成させた事である。その時は無味乾燥に感じた数学の公式・理論も応用の仕方によってはこんな日常レベルでも使えるという、意識を持った事を覚えている。ただ反面、それがどうしたと思った事も事実。
T先生(英語)
最初から失礼な批評だが大変うっとうしい(=うざったい)先生だった。15期が入学当初は共同学習など華々しく行い意気込みを感じたが、段々時が経つにつれてなぜ、ただ単にうざったい先生という印象に定着してしまったのかなーと思う。所詮人柄といってしまえばそれまでかなーとも思う。
F先生(倫社)
秋川高校3期生という事もあり先生という印象よりは先輩という印象の方が強い。授業内容は殆ど記憶になく覚えているのは生徒の面からの秋川設立当初の話(確か女子の全寮制高校が同じ敷地内に出来る予定があったと聞いた様な気がする)位、先生としては存在感は薄かった。勿論担当教科が倫社という大変地味な教科というのも影響していると思う。
T先生(英語・担任)
この先生の私の評価は芳しいモノではない。授業面に於いてはとにかく面白くなく、人間的にも人を引き付ける魅力があった先生とも思わなかった。しかし担任のC組のメンバーを中心に(15期生1年時)盛り立てられ何とか秋川生活を全うしたという程度の印象。それとは別に記憶に残るのは皆様ご存知の通り、生じる(しょうじる)を「せいじる」と読んだ事。他には私の個人的な体験ではあるが卒業後、秋川を訪問した時に教員住宅を訪問した処、「今、大学では第二外国語は何を選択している」と聞かれた上、「ドイツ語です」と答えると、延々とそれも真面目にドイツ語の学習方法やら蘊蓄を傾けられたのには本当にうんざりし、やっぱりこの先生は面白くない先生だったんだ、という思い出位。
旧姓S先生(現T先生、古文・舎監)
15期生は接した期間は僅か一年と短いながら一番良くも悪くも思い出の多い一年時の舎監であった為か割と思い出の多い先生。喋り方に大変特徴がありよく物真似の対象になった。この事に関しての思い出は15期生のS・Fが古文の音読のテストの時にふざけてその口調を真似て音読をし最低の評価になったのを覚えている。またこれも15期生のM・Oが点呼の時の秋川体操が終了し朝礼台を降りるや否やダラダラした体操をしたという理由で殴打された事が思い出。まあいずれにしてもこの先生の指導スタイルは所詮、秋川にしか通用しないという感じ。(ちょっと辛口)
H先生(日本史?・舎監)
この先生も上記のT・N先生と同じく何となく覚えてはいるが特に印象がない先生。そもそも担当科目が日本史だったことも記憶として怪しい。ただ一つかすかに印象として残っているのはこの先生は冬休みを伊豆諸島で過ごす事を好みその為実家に帰る私と何回か船で一緒になった位。(この時はビールを飲めないので参った)
N先生(舎監長)
前任の舎監長が大変偉大な人であっただけにスタートから大変損をした人。私がこの人に対し印象に残っているのは風呂の空焚きをした事と山の神を怒らせるなと絶叫した場面のみ。特に前者の出来事については朝食時N氏が全寮生の前で謝罪した時に上級生が「気にするな」等激励の声を投げかけたのを特に覚えている(今思うと特に3年生は完全になめきっていた)

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4)小説・ 阿伎留台事件簿

 え、今の私ですか、40年間務めた警視庁を昨年退職し近所のスーパーの駐車場の管理をやっています。まあ現役時代に比べると気楽なモノです。年金も入るし子供たちも独立してしまったので夫婦二人でノンビリ暮らすには何の問題もありません。孫の顔を見るだけが楽しみのどこにでもいる老人ですよ。 そんな私に何を喋らせたいんですか?
 ええ、確かに私は40年の警察勤務のうち、秋川高校を所轄する警察署、派出所に殆ど勤務していた、というちょっと珍しいキャリアの持主です。こんなキャリアは他には私以外全く見当たりません。それだけにこの秋川の地には深い愛情を感じますし、またその中でも秋川高校の、遠く親元を離れた子供たちを、ちょうど私にも同じ年頃の息子がいた時期もあったので自分の息子の様に感じたこともありました。ですからこの高校の事は在職中から同じ所轄内の他の高校とは比較にならない位、関心を持っていましたし、ですから今回の廃校というニュースには大変驚きもしましたし、がっかりもしました。はいはい、わかりました。それで何から話せばいいのですか?
 そうですねえ、ちょうど私が秋川高校の一番近くの派出所に勤務していた当時昭和54年から昭和57年当時の出来事をお話しすればいいですか。先ず順番にいきますと昭和54年ですか。あの当時はインベーダーゲームというモノがこの田舎でも流行ってましてね、勿論単純にゲームだけで終わればいいのですが、どうしてもその様なゲームには喫煙等、いろいろな非行の芽も宿っていましてね。その関係でどうしても私は神経質になり、かなり厳しくそのような学生を見つけては指導していました。秋川の生徒もかなりいましたよ。特に高校の近くのパークというスーパーでよくやってましてね。でも他の高校の生徒とは異なり素直な良い子が多かったですよ。外見の割にね。何でこの高校の生徒は今の言葉でいうとオヤジ臭い生徒が多いのですかね。本当に。まあ関係ないですから構わないですけどね。
 次にこの年の話題は口割け女ですか。私たちはこのような存在は全く信じていませんでしたが、特にこの高校では存在が深く信じられていたようですね。福生まで来たとかね。他にも同じような例としてはジャイアント馬場が死んだとか、歌手の堀江 淳が死んだとか、いろいろあったみたいですね。これなんか如何にこの高校が世間一般の情報から遮断されているかを如実に物語っているんじゃないでしょうか。
 話しは逆になりますが、東京都知事に鈴木 俊一さんが当選したのもこの年の4月でした。私はこの方が副知事時代にこの高校を設立された、と聞いていたのでこの頃から新聞・受験雑誌を見ると相当この高校の学力が低下してきていたので、何か梃入れでもするのかな、と思ったんですがね。まして次の年にその都知事が実際に視察に来たりしていましたからね。でも結局は推薦入試とか面接とかをちょっとつけ加えたこと位で大した事はやらなかったですね。その頃からこうなる事が決まっていたんですかね。まあ先を急ぎましょうか。
 この学校の季節的な行事の事にもついでだから触れましょうか。先ず入寮式ですか。みんな不安そうな顔をしていましたね。あの頃は西秋留駅、今はないですけどね、から五日市街道に入りそこからこの高校に入る道が舗装されてなくてね。雨の日なんか靴が私も泥でべとべとになってね、参りましたよ。特に父兄参観なんかで両親が着物を着てきた時は本当に気の毒でしたね。今はそんな事もないですけどね。
 次は5月の連休の寮祭ですか。これは地元の人間が唯一この高校の実態、それほどのものではないんですが、を知る良い機会だったですよ。私なんかも何回も行かせてもらいました。どうしても一般の人間から考えると年頃の男の子が親元から離れて大変だろうな、と思いがちですが屈託なく丸太を切ったり、相撲を取ったりという場面を見てると結構何のかんのと言ってもうまくやっているんだな、と思いました。まして夜行軍とかいう夜中に山の中を歩くという行事もわりと参加する人数が多いと、聞いていますので外から見ると禁欲的な生活を送っていてストレスが相当たまっているのかな、と思っていましたが今時の高校生よりもよっぽどしゃれっ気もあり精神的にも余裕があるな、と思いました。しかしこの寮祭も最近は連休中ではなく平日に行われるようになってきたので、全く私は足を運ぶことができなくなってしまいました。原因は生徒の方か先生の方かはわかりませんが、要は連休中に休みをとりたいということだと思います。以前はそんな声は全くなかったと思いますが、これも時代の流れでしょうか。まあもう言っても始まらないですけどね、終わっちゃった事は。
 次は行事ではないのですが夏休みですか。みんな楽しそうに真新しい制服を着て親元に帰っていきましたよ。そのまま帰って来ない生徒もいましたけどね。まして私が近くの派出所に勤務する前には夏休み最終日に生徒が飛降り自殺をしたという事件もありましてね。やぱり全寮制・団体生活に合う生徒と合わない生徒がいるんですかね。まあ夏休みを過ぎると10月の体育際ですか。
 おっと忘れたました。この年の9月は何と食中毒事件がありました。何やらサバの煮付けが原因だったらしいですが、関係機関は対策に大変だったみたいですよ。聞いたところによりますと、当分の間の食事はご飯と味噌汁だけだったみたいですよ。その副産物として寮内の娯楽施設である北辰館の丼モノ、北辰丼ですか、が大売れだったみたいですよ。
 そういえば話しがそれて申し訳ないですが、ここで販売しているドクターペッパーとかポテトチップがよく盗まれる、と聞いた事がありますが、本当はどうなんでしょうかね。わからない、そうですか。失礼致しました。
 話しを元に戻しますとこの食中毒に関連した食材を納入した業者は噂によると半年後に無料で極上のステーキを納入させられたらしいですよ。この高校では、たまにステーキがでてもガム・ステーキだのゴム・ステーキだの言われる位粗雑な食肉だったらしいですが、それとは格段に違っていたらしいですよ。
 え、今の話しですか。もう名前は忘れましたがあの生物の、顕微鏡をニコンと共同で開発した先生から聞いたんですがね。そして体育際ですか。ここの体育祭は男の私が見ても大変荒々しくて面白かったですよ。今はどの学校でも、もし何かあったら…という感じでとにかく危険な可能性があるなら手を触れない、という風潮が蔓延してますがこの高校はそんなモノ、くそ食らえという感じでしたね。今時、棒倒し、俵合戦、騎馬戦が一遍に見る事のできる体育祭はないですよ。秋川市内の全ての外科医が側に控えていたのもわかりますよ。あれは本当に面白かった。
 それともう一つ忘れていました。9月に文化祭というものありました。これはちょっとどうですかね。やはり女子学生がいないというのがあるんでしょうかね。余り面白くなかった、と言うより、少なくとも文化的ではなかった。ただ演劇は面白かったモノはありましたよ。特に熱海殺人事件ですか。あれは面白かった。誰か本格的に演劇を勉強したことのある先生が居て、その先生が指導したんじゃないんでしょうかね。そういえば演劇の話しがでたところで思い出したのですが、映画を製作するのでお金が要る、という事で資金を集めるだけ集めて全く出来なかった、という事があったようですが、事実はどうなんでしょうね。知ってますか?知らない。失礼致しました。度々、話しがそれて申し訳ありません。後は年内は無風ですかね。まあ日々の、どったんばったんはあったんでしょうけど。
 また話しは飛びますが、あの使い走りと10:30過ぎの筋トレですか。これなんかも他の高校から見るとただ単にいじめ、としか写らないんですが、まあこれも命令する方も、される方も一種の惰性ですかね。こういうのをこの高校では無理性、意図なし、と言っているらしいですけどね。それとエロ本を見てとか、一円玉とかのレポートを書かせるとかの習慣もあったみたいですが、これもやる方もやられる方もお互い、洒落の気持ちでやっていたようなところがあったみたいで本当にこの高校の生徒は大人だったとおもいますよ。次の行事関係は冬休みを経て餅つき、クロスカントリーですか。まあこの餅つきという行事も発足当初は親元から離れている生徒達に少しでも寂しい思いをさせないように、という考えもあったと思いますが、今時餅つきを行っている家庭も殆どないですしこれも一種の洒落ですかね。
  餅つきといえば、生徒がついた餅には上手くつけていない為に、臼か杵かわかりませんが木が入っていたみたいですよ。またクロスカントリーですが傍から見ててもかなりきつい競技ですよ。ただ有無を言わせずこの様なきつい競技を全生徒に課すというのもこの高校のいいところで、普段目立たない生徒が活き活きと走っている姿というのは見ていても大変気分がいいものですよ。他の学校ではあまり見られませんがね。この競技の時に毎年何人かの生徒が迷子になり我々の世話になったことがありましたがこれはまあ愛嬌の部類ですから何とも思っていませんでしたがね。その後はもう卒業・学年末試験まで飛んでしまいますね。
 まあ全寮制とはいえ普通の都立高校ですから単位が足りなければ進級できないことも、ありますが、ただついこの間まであごでつかっていた下級生と同じ教室はともかく同じ部屋というのは本当に精神的にしんどい、と思いますよ。長い人生ですから一年くらい、とは思いますがやはり当人は相当気にしますからね、殆ど退学してるみたいですね。そういえば退学といえばこの高校の喫煙2回で退学という制度は大新聞が散々叩いてましたが、これは私は支持しますよ。悪いことは悪いんですから。これは厳格に適用していい制度だと思いますよ。また話しが飛んだので元に戻しますと学期末の予餞会ですか。あれは面白いらしいですね。一回見たかったですよ。この予餞会の食事もそうですが何でこの高校は節目、節目の食事はカレーなんですかね。確かに何十年前はカレー=ご馳走という位置づけでしたけど今はカレーといえば普通の食事だと思うんですが、この高校ではまだその様な雰囲気を引きずっているんですかね。まあ何回も言いますけど一種の洒落っ気ですかね。
 そうそう、この予餞会の一ヶ月程後に卒業式があるんですがこの時、何でトイレットペーパーを投げるんですかね。あれは私は最後まで、意味がわかりませんでした。特に風の強い日にそれを強行してそのトイレットペーパーが風に飛ばされ隣の栗畑一面を真白に染めたという年があったみたいですよ。またそれを全員で拾いに行かされた、というから愉快じゃないですか。もうこれで大体の一年のサイクルをお話しましたので記憶に残る事件を喋りましょうか。あれは昭和55年の秋くらいですかね。食堂からジョアが盗まれるという事件が起りました。ある寮生が盗難し同じ部屋の者がそれと知っていて飲んだ、ということで連帯責任で部屋全員が、確か2棟11室ですか、謹慎になったと聞きました。なぜこの部屋の者が特定されたかご存知ですか。?知らない、ではお話ししますと明日、ジョアが給食に出される、という日に職員が見回りをしたら既に数が少なかったらしいんですよ。そして周りを見てみたら足跡がありそれを辿っていったら、2棟11室に続いていたらしいじゃないですか。そこで現行犯、逮捕となった訳ですが、これなんか元警察官の私から見ると何とも可愛い事件でして、勿論悪い事ですよ、でも可愛いというか幼いというか。謹慎といえば同じ時期だと思いますが栗を拾って謹慎というのもありましたね。笑ってしまいました。あっ失敬。
 そして修学旅行ですか。 まあ、名所・旧跡を訪ねる、団体生活の修得という修学旅行の本来の意義がなくなって久しいですが、それでも仲の良い友達と親元を離れて旅行する、ということは別の意味で少しは意義があると個人的には思うんですが、しかしこの高校では24時間同じ顔の仲間と暮らしているんで余り意義のある行事ではなかったように、聞いています。そして、先にも言いましたが年を越し餅つき、クロスカントリーですか。しかし毎年そうなんですが、やはり入学してちょうど一年半位が一番だれる時期みたいですね。学校にも馴れ、後輩も出来、上の学年もあまりうるさい事を言わなくなった、という時期でしょうかね。一番退学者も多いのもこの時期と聞いたことがあります。
 だって、さっきのジョア盗難事件もこの時期ですよ。まあ、そうこうする内に最終学年です。自分の進路を真剣に考える時期でしょうし、またクラブにおいても最終学年ということで顔もしまってきますね、最終学年になると。特に私は野球が好きなものですから私が近くの派出所に勤務した同じ時期に入学した生徒達、15期生ですか、が都大会で3開戦までいった時は本当に嬉しかったですね。私はその15期生の、3学年上の生徒達が草むしりから始めて野球部を興した、というのを見てきているだけに自分の事のように嬉しかったですよ。他にスポーツといえばこの高校はラグビーが強かった。きつい練習をしていましたからね。しかし平均するとこの高校のスポーツは平均以下ですね。
  これだけの設備があれば、もう少し強くても良さそうなのに、何故ですかね。あまりにも根性とか、気合とかを強調しすぎたんじゃないでしょうかね。それと関連してこの学校の学力も毎日3時間の自習時間が設けられている、ということからしてもう少し進学率が高くても良かったんじゃないでしょうか。勿論進学率が高い学校が全て良い学校、とは断定はできないですが、一つの尺度にはなる訳で。何故ですかね。勿論、基礎学力そのものに問題があるのは事実ですが、時間を含めた学習環境は十分な訳ですから、私は不思議でしょうがないんです。あなたもそう思いませんか。?そう思う。そうでしょう。
  ところであなは私の処に急に訪ねてきて、秋川高校の話しを、と言ってじっと聞いていますが、そもそもあなたは何者なんですか。あっ、そうですか。失礼致しました。そんなに偉い方だとは思いませんでした。テレビとか新聞とかで見るのとは全然違いますね。私からも聞きたいことがあるんですが、何故今更、秋川高校なんかの話しを聞きたいのですか?えっ、
  今年の都知事選の公約の目玉にしたいですって、秋川廃校見直しをですか、?。青島さん本気なんでか。?それこそ無理性・意図なしというものですよ。

以上
(筆者注 この小説は平成11年1月29日に脱稿したものでありその後発生した事件とは全く無関係であることを記しておきます)

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