ヤ ツ ボ(湧水)
大沢地域のヤツボ
・清岩寺下のヤツボ

「幻の清岩寺下のヤツボを再発見!」 

 昔から相模原は水が少なく貴重でした。大島地区(北は上大島境松から、南は古清水まで)や隣接する田名地区(堀之内・滝・陽原・半在家・望地)では、水道がない時代に井戸水やヤツボという相模川に面した段丘崖から湧き出す水を溜めた壺状のヤツボを生活用水として活用していました。

『昭和51年文化財展資料』によると、昭和51年頃には、大島11件、田名7件の全体で約18ケ所のヤツボが伝承されていました。水道が普及してからも地域の人々は、これら自然に湧き出すヤツボの水を大切に守り洗い物などに使用してきました。(特に、よそから嫁いで来たお嫁さんもお姑さんから教わり、上のヤツボでは野菜を洗い、下のヤツボでは洗濯などもしたと言います)

しかし、時代の流れの中で、これらのヤツボは埋められたり、コンクリートでふさがれ、いつしか忘れさられました。ところが、ヤツボの水は雨水がテフラ層や段丘礫層でろ過されるので清らかで、水温も16℃前後と冬 温かく、夏 冷たく感じられるところから今でも残っている場所があります。この内、「水場のヤツボ」と「中ノ郷のヤツボ」は平成18年に相模原市登録史跡の文化財になりました。また、弁天様が祀られた洞窟状の山口(H)宅ヤツボでは、夏にはスイカやビールを冷やしたり、ポンプで上に揚げて畑の水まきや靴を洗うのに使用されています。また、田名地区においてヤツボの水を池とし魚を育てている家を見ました。

 今回、再発見した“清岩寺下のヤツボ”ですが、『昭和51年文化財展資料』では“山口(K)氏宅下”と呼称され、『相模川水の旅』」では“平本家の裏”と記載しています。私としては場所を特定し易いところから『清岩寺下のヤツボ』とします。

再発見出来たのは、偶然にこの神沢の坂から清岩寺にかけて道路工事があり、斜面緑地の竹藪が取り除かれた201067月頃に一瞬、上の道路からこのヤツボが見られました。

ヤツボの位置は斜面緑地の中央より上方にあり、幅 約5m・奥行 約4mと規模的には一番大きく、石の囲いをはじめ保存状態も良好です。深さ約40cmで、透明度も高く、夏の水温は約16℃です。魚やカエルなどは棲んでいませんでした。

ヤツボの語源としては、『柳田國男全集20』地名の研究を要約すると、「関東の「何ヶ谷戸」である。~谷をヤツというのはもちろん、アイヌ語のヤチすなわち湿地が起こりで、現に常陸でも祖洳の地をヤチ・ヤチッボあるいはヤチッペなどと呼び(茨城県方言集覧)、会津でも下湿の地をヤチと言い(新編風土記)、江戸附近では草茂り水ある所をヤといい(俚言集覧)、佐渡でも低地水多き所をヤチ(谷地)またはフケと呼び(佐渡方言集)~。従って、ヤトもまたヤツからの再転訛か~。」(注1)より、一つ目は茨城県のヤチッボと発音が似ているところから、祖洳(そじょ)の地つまり湿地から来ているのかと思います。二つ目はヤチ(湿地・谷地)のツボ(壷)が縮まってヤツボになったのかと推測します。ちなみに、“水場のヤツボ”にある御神水と書かれた石碑に“水場ヶ谷“と付記されています。ここは、その昔 谷だったわけです。

(引用文献)
1.柳田國男著『柳田國男全集20』筑摩書房、19907月、 234235頁。
(参考文献)
・相模原博物館編『大島地区の自然と文化』平成113月。
・文化財展実行委員会編『昭和51年文化財展資料』昭和5111・川とみず文化研究会編『相模川水の旅』19967

水場のヤツボ
■水場のヤツボ
 ・日々神社の御神水です。
 ・ヤツボの淵に、水の守護神倶利伽藍竜王の祠があります。
 *平成23年(2011年)に倶利伽藍竜王の祠が新装されました。
   (写真は、2月13日現在撮影)
  また、階段の手すりも付けられました。

 大島地区には河岸段丘斜面には、かって11ケ所にわき水を石垣で囲った水場がありました。八ケ所あった所から八壺とも表記してます。水道の普及とともに現在は生活用水としては使用されていませんが、昔は飲料水、野菜等洗い場として利用されたようです。相模台地は水が少なく大昔から貴重な湧き水でした。上に住む人のお話によると、この池から流れる溝にはホタルのヤゴが生息し、5月頃から遅い時期2005年には9月頃にも舞っていたという。
*綺麗に清掃されたヤツボの全景 *新たに付け加えられた保護柵
 恐ろしい不動明王のいでたちです。最初覗き込んだときはビツクリしました 田んぼや水車等の水を守る水神として祭られていました。齋藤さんのお話によると、昔 鏡の池で修行した人の目が治ったので、そのお礼に置いていったもので、設置場所は3~4回移動し10年前にいまの所に落ち着いたとの事でした。目が光った時もあつたそうな
*新装された祠

倶利迦羅竜王について

 倶利迦羅竜王を水場ヤツボの淵に建つ小?の中をのぞき込み、初めて見た時、その形相に驚きました。頭に角が生え、眼はらんらんと見開き、体は鱗に覆われ前足と後ろ足が剣に巻きつき今まさに飲み込もうとしていました。人を寄せ付けない形相から、「湧き水の守護神かなァー」と思いました。神沢不動尊のお堂に安置されている倶利迦羅不動も、元は弁天池にあったようです。やはり、湧き水や池の水を守るように祀ってあります。

そこで、倶利迦羅不動を『日本石仏事典』で調べてみますと、「インドの伝承ではクリカは頭に半月を戴く黒褐色の竜王であるといわれる。倶利迦羅竜が剣にまとう形が不動明王の三昧耶形(密教に於いて仏を表す象徴物)であるところから、この形を倶利迦羅不動と言う。その像容は、磐石上に立つ利剣に四足をからめて巻き付き、竜王が剣先をまさにのもうとするもので、その背後には火炎が燃え上がった状態で表現される。~倶利迦羅不動の石仏造立の目的は、滝口や清水の湧出する水辺などに祀られていることからもわかるように、水神としての造像がある。~浮き彫り像は、水源地の守護神としての造立である~水口の水神~不動明王を本尊とする寺や修験道の行場に見られる不動信仰に基づいたものがある~広く各地で造像されたものは江戸中期以降のものであり、修験道の行場や不動を祀る寺の境内、あるいは滝や湧水地などの丸彫り像や浮彫り像が主である。」1.と説明されています。

竜は十二支の一つです。この十二支には、子・丑・寅・卯・辰・巳・未・午・申・酉・戌・亥の12種があり、覚えやすいように動物の鼠・牛・虎・兎・龍(竜)・蛇・馬・羊・猿・鶏・犬・猪を当てられています。古代中国の殷時代に甲骨文で十干と十二支を組み合わせて日付を表すのに用い、戦国時代になり年・月・時刻・方位も表すようになりました。

日本でも近世まで、日常生活の中に深く浸透していて、現在でも年賀状の図柄や、龍年生まれとか言うように残っています。占い的には、来年の兎年は、“性格は温厚で人に好かれる。五穀豊穣を司る。草木が地面を蔽うようになった状態などです。また、丙午の年(例えば昭和41)に生まれた人は、凶歳の俗説(迷信)もあり人口が少ないものです。

ここで取り上げる竜の特性は、“陰陽の陽、五行の土、方角の南東微北、月の3月、時刻の79時”です。十二支の中で唯一、想像上の動物です。植物としては、草木の形が整った状態といわれます。 

そんな中、生物学者であり民俗学者である南方熊楠(慶応3~昭和16年)の『十二支考』(1914年から虎を最初に雑誌太陽に連載された十二支(牛を除く)の動物にまつわる話)の中から、田原藤田竜宮入りの話を拾い出してみました。「欧州でも支那でも、竜の形状は多く現世全滅せる大蜥蜴の遺骸を観て言い出したは疑いを容れず。支那や日本の竜は、空中を行くといえど翼なしと。~支那でも黄帝の世に在った応竜は翼あった。」(注2)とあるように、竜の姿は、蜥蜴に似せていて四脚と鱗があります。ちなみに、蛇には足がありません。爬虫類から亀の一群を除き、残った諸群の足のあるものを竜(有鱗卵生四足から亀を除外)、足がないものを蛇(卵生無足)としています。また、蛙は無鱗卵生四足です。

倶利迦羅竜王の形は、やはり足があるので蛇ではなく竜といえます。支那の竜形の詳細は、『十二支考』の中に、『本目網目』の引用として、「竜形九似あり、頭駝に似る、角鹿に似る、眼鬼に似る、耳牛に似る、項蛇に似る、腹蜃に似る、(蜃は蛇に似て大きく、角ありて竜状のごとく紅鬣、腰以下鱗ことごとく逆生す)、鱗鯉に似る、爪鷹に似る、掌虎に似るなり、背八十一鱗あり、九々の陽数を具え、その声銅盤を戞《う》つがごとし、口旁に鬚髯あり、頷下に明珠あり、喉下に逆鱗あり、頭上に博山あり、尺水と名づく、尺水なければ天に昇る能わず、気を呵して雲を成す、既に能く水と変ず、また能く火と変じ、その竜火湿を得ればすなわち焔《も》ゆ、水を得ればすなわち燔《や》く、人火を以てこれを逐えばすなわち息《や》む、竜は卵生にして思抱す〉(思抱とは卵を生んだ親が、卵ばかり思い詰める力で、卵が隔たった所にありながら孵《かえ》り育つ事だ。」(注2

 倶利迦羅竜王は、『十二支考』の中でも、「倶梨迦羅竜王支那で黒竜と訳し、不動明王の剣を纏《まと》い居る。これも梵名クリカラサで一種の蜥蜴だ。」(注2)とあります。

 つまり、倶利迦羅竜王のクリカラは、蜥蜴を梵名で言ったクリカラサから来ているともいいます。

また、竜王が巻きつき飲み込もうとしている剣はクリカラ剣といい、竜が剣に巻きついている形は、人と仏が一体になることを表す見方もできるそうです。竜が剣を飲み込む姿は、煩悩が払拭され空で満たされることを意味し、倶利迦羅竜王は、人間の煩悩を払う神様(仏様)ということになります。さらに、倶利迦羅不動明王は大日如来の化身ともいわれるそうです。

 また、竜は池や海中の竜宮に住むイメージがありますが、これは、竜蛇に鮫が似ており、鮫が海中にいるところから海中に住むとされ、鮫は川にも上ってくるので川などの水中にも住むとみなされたようです。つまり、水のあるところに関係があります。

(引用文献)
1.庚申懇話会編 『日本石仏事典』 雄山閣出版、昭和50年、51ページ。
2.南方熊楠著
 『十二支考(上)』 岩波書店、2003年、159144145184ページ。

*新装された祠に倶利迦羅竜王が安置され、心なしか喜んでいるようです。
 紋造ヤツボとも言ったようです。
この大島水場のヤツボは、日々神社のご神水として用いられました。
このヤツボからの水は崖下の滝に流れ落ちています。昔は水車小屋も
あったようです。滝壺は古鏡が出てきたことから鏡池と言ったそうです。
■御神水
 日々神社のご神水として用いられています。
大島古清水 山口家のヤツボ.I>
庭の西に段丘崖があり、石の階段を20段ほど下ると、大人が楽に数人立って入れる
3畳程の東に向いて細長い洞窟があり、清水がかなりの水量で
湧きだしています。今でも西瓜やビールを冷やしたりして生活用水として使用されています。
水量は渇水期に水位が約10㎝ほど下がる程度で、ここ58年枯れたことは無い。
夏は冷たく冬は不思議なことに暖かいとのこと。
また、戦前は崖の下に水車を設け動力を使って、洞窟の屋根に滑車を付けて、
糸を紡いでいたそうです。
また、庭先からは現在でも雨の後、野水が吹き出すんだそうです。
・ヤツボ洞窟の奥には弁天様が祭られています。
4月上旬には、弁天様のお祭りをするそうです。
弁才天は川の流れを象徴する仏様です。一方、海の神様としては恵比寿神があります。
・洞窟にいたる階段の右奥にある。足下が不安定なため注意しないと滑る。
・ヤツボの上は製糸工場跡があります。現在は畑になっています。
大島水場 斉藤家のヤツボ<H>
鏡の滝
日々神社の9月17日
の祭礼には、御輿がこの滝に渡御した滝降の神事が執り行われました。(参考:笹野邦一著おおさわ風土記、座間美都治著相模原民話伝説集)
昔、鏡の滝と言われているものは、現在水が流れ落ちている滝筋より
左側の滝筋ではないかと思います。滝壺もその下にあったようです
■不動明王
 鏡の滝に行く途中に、不動明王が祠に祭られています。
 不動明王は山岳修行者が滝に、修行することで仏の姿を見いだすという感得を求めたので、滝壺のそばに祀られるようになりました。
 
大島境松 吉村家のヤツボ.A>
大島坂上 笹野家のヤツボ.B>
・現在はみあたりません。
・大嶋坂の石碑が角に立っています。

大島中の郷 萩原家のヤツボ>
・河岸段丘崖中腹の竹と雑木林の木漏れ日の中にひっそりとありました.
・僅かながら清水が湧きだしていました。
八大龍王の石碑
・崖道を下ると、途中に数段の滝が現れます。
・中の郷八壺の木立や竹が生い茂る山道を下ると眼下に相模川の清流に出会います。釣り堀があります。鳥のさえずりが清々しい!

大島榎戸 大貫家のヤツボ.E>
大島原村 大貫家のヤツボ.F>
大島古清水 野崎Y家のヤツボ.J>
 
・屋敷の西側崖の中腹にあった。
・竹に覆われているが、水が少し流れている。
<渓松園下のヤツボ>
崖の中腹に昔、横穴があったそうである。とうとうと水がながれおちているものの水口は、木々に覆われ見えない。
<田所S家のヤツボ>

・昔、7基の粉挽き水車があったという。壺の石組は大きい。近隣30家で洗い場として使用していた。現在は、子供の遊び場となっている。
<田所家のヤツボ>

  
  
・崖は大きな丸い河原石からなり、広い湿地帯を形成しクレソンで覆われていた。
・水量は多く冷たく澄んだ湧水をコイ池に利用している。このあたりの崖面からはどの家も湧水があるようだ。

<半在家自治会館横の湧水>


 
・多く冷たく澄んだ湧水が流れている。
[参考文献]
 ・「相模原市史」 第1巻 
 ・「相模原の史跡」 第2版  著者:座間美都治 発行:昭和52年 8月
 ・「おおさわ風土記]      著者:笹野邦一 監修:長田かな子(おさだ) 発行:2000年 3月21日
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相模野の自然と文化財