郷土 相模原市の概況と歴史 |
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名称 |
神奈川県相模原市 |
場所 |
相模原市 |
交通 |
■JR横浜線:東神奈川〜→古淵駅→渕野辺駅→矢部駅→相模原駅
■JR横浜線:八王子駅〜→相原→橋本→相模原駅
■京王電鉄:新宿〜調布(相模線)→橋本にてJR横浜線乗換 |
記録日 |
2004年6月〜 |
■平成22年4月1日から政令指定都市となります。
このため、区制がひかれ、緑区、中央区、南区の3区となります。郵便番号も変わります。
人口 712、883 世帯数299、160 (2月1日現在)
■新“相模原市”誕生!平成18年月3月20日 相模原市は、津久井郡4町である津久井町・相模湖町と合併後、さらに平成19年3月11日 城山町・藤野町と合併し70万人年が誕生しました。
■相模原市は1941年(昭和16年)に相模原町として町制施行後、1948年(昭和23年)に座間町を分離して、1954年(昭和29年)に市制施行し誕生しました。戦前の軍都化から解き放たれ、終戦後は工場誘致と急激な人口増加の若く新しい都市です。人口は市制時の約8万人から今日では8倍弱の約62万人です。都市化に伴い、ほとんどの施設は戦後になって構築されたといっても過言ではありません。
・人口:705,183人 (男:357,457人、女:347,726人)
・世帯数:290,472 (2007年8月現在)
左記は横浜の赤煉瓦倉庫。幕末・明治時代 日本の近代化はここ横浜から世界に向けて広がりました。相模原で生産した絹もここから輸出されました。 |
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相模原は横浜と深く関わりあってきました。
(横浜開港資料館にて)

・相模原市の中心である市役所の位置は、北緯35度、東経139度、海抜124.96mです。
・相模原市の花 あじさい。
・市域には6つの河川(相模川鳩川、八瀬川、道保川、姥川、境川)と幾つかの雑木林や緑地が残っていますが、都市化に伴い年々、減少しています。(合併前) |
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・左記は、サイコの花です。黄色の小さな花です。根は解熱剤の漢方薬であったため乱獲されたか、
薬に弱く、環境の変化で野生のものはありません。これは大島 古民家庭園で育てられているもの
です。実生から育てると、1年目はほとんど背丈が伸びませんので、辛抱強く育てる根気が必要なようです。
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相模原市役所建物です。
・平和宣言都市 |
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相模原市民憲章の碑 |
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市役所敷地内 |
注.上記の地図は、「白地図KenMap」で作成、編集したものです。
<新相模原市の概要>
・人口 :704,038人(男 356,849人/女 347,189人)
・面積 :328,84平方km
・最高地点:蛭ケ岳 1672.7m
・最低地点:磯野小学校 35.7m
・水源 :相模湖、津久井湖、宮ケ瀬湖
<旧相模原市の概要>
・面積は90.41ku、東西14.3q、南北12.8qです。
・年間平均気温15.4℃、最低−4.4℃、最高38.5℃、平均湿度69.8%、降雨量1,748o、雨45日程度です。(平成13年)
出典:「統計資料」情報システム課 |
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市役所前の街路樹 |
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市役所前の花壇 |

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相模原市域は神奈川県の北部で県央に位置し、南北に長く東西約4〜8km、南北約40kmと烏帽子のような形をしています。城山町付近から湧き出たような相模川の扇状地で相模野台地上にあります。東に多摩丘陵と境川、西に相模川と丹沢山系、中央部に道保川、鳩川、姥川、八瀬川が南北に流れています。
台地は火山灰土・関東ローム層厚いところでは20m近く堆積しています。また、台地は河成段丘により、上段(うわだん)/相模原面、中段(なかだん)/田名原面そして、下段(しただん)/陽原面(みなはらめん)と三つの川成段丘から構成されています。台地は湧き水が少なく井戸はかなり深くまで掘る必要がありました。従って、相模野の原野を開拓するには水がおみやげになるくらい貴重なものになりました。
段丘の境は斜面緑地になっています。中央部のかなりの面積は、かっては野原が広がる入会地(共同草刈地)で、「柴胡の原」と呼ばれていたそうです。この相模野にはミシマサイコという種類で秋に黄色い花を咲かせ風情はオミナエシに似ていたと言います。根は解熱剤の薬草で高く売れ地元の娘達は採取し売って生活の足しにしたと言います。除草剤が使用されれはじめてから台地から姿を消し現在、天然ではこの相模原台地で、見ることはありません。一度、栽培されているものでよいので見たいと思っています。
相模原市役所前西側の銀杏並木です。
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相模原市の概要と変遷 |
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相模原市は関東平野の南西部にある神奈川県の北部に位置し県央と呼ばれます。面積は県下19市の中で8番目の広さ
(約90kuを持ちます。
<市町村の変遷>
■新相模原市誕生予定
平成18年月3月20日 相模原市は津久井町と相模湖町と合併し、新“相模原市”誕生予定。これにより市の
概況は下記のようになります。
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2005年7月現在 |
新相模原市2006年3月20日 |
比較 |
人口 |
626,020人 |
668,150人 |
42,107人増 |
面積 |
90.40平方キロ |
244.03平方キロ |
2.7倍 |
山林 |
3.53平方キロ |
127.26平方キロ |
36倍 |
河川・湖 |
1.16平方キロ |
6.54平方キロ |
5.6倍 |
国定公園 |
無
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67.25平方キロ
(1ケ所) |
−
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県立自然公園 |
無 |
24.44平方キロ
(2ケ所) |
−
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最高海抜 |
151m
(相原小学校) |
1,673m
(津久井町 蛭が岳) |
−
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出典:広報さがみはら No1079 2005.8.15/合併特集号 2006.3.20
■相模原市は1954年(昭和29年)に、相模原町から座間市を分離し、7地区により市政を施行して誕生。人口 80,374人
⇒@大沢、A田名、B上溝、C麻溝、D新磯、E相原、F大野
■相模町は1941年(昭和16年)に7ケ村に座間町を加えた2町6ケ村により成立。
⇒@大沢村、A田名村、B上溝町、C麻溝村、D新磯村、E相原村、F大野村+G座間町
■1924年 大正15年の町制施行により溝村は上溝町となりました。
⇒@大沢村、A田名村、B上溝町、C麻溝村、D新磯村、E相原村、F大野村
■1889年 明治22年に市制・町村制施行により下記の7ケ村に統廃合されました。
⇒@大沢村、A田名村、B溝村、C麻溝村、D新磯村、E相原村、F大野村
■1871年 明治4年に廃藩置県により18ケ村は神奈川県に所属することになりました。
⇒大島村、上九沢村、田名村、当麻村、磯部村、新戸村、上溝村、下溝村、相原村、橋本村、
小山村、下九沢村、上矢部村、渕野辺村、鵜野森村、上鶴間村、上矢部新田村、清兵新田
■ 清兵新田が加わり下記の18ケ村となりました。
⇒大島村、上九沢村、田名村、当麻村、磯部村、新戸村、上溝村、下溝村、相原村、橋本村、
小山村、下九沢村、上矢部村、渕野辺村、鵜野森村、上鶴間村、上矢部新田村+清兵新田
■1684年 上矢部新田村が成立して下記の17ケ村となりました。
⇒大島村、上九沢村、田名村、当麻村、磯部村、新戸村、上溝村、下溝村、上相原村、橋本村、
小山村、下九沢村、上矢部村、渕野辺村、鵜野森村、上鶴間村+上矢部新田村
■1646年 上相原村が上相原村、橋本村、小山村、下九沢村の4ケ村に分離し下記の16ケ村となりました。、、
⇒大島村、上九沢村、田名村、当麻村、磯部村、新戸村、上溝村、下溝村、上相原村、橋本村、
小山村、上矢部村、上矢部新田村、渕野辺村、鵜野森村、上鶴間村
■1590年 徳川家康は江戸に入り関東を治めました。この時、相模原は下記の12ケ村より構成されました。
⇒大島村、田名村、当麻村、磯部村、新戸村、上溝村、下溝村、相原村、上矢部村、渕野辺村、
鵜野森村、上鶴間村、
■1590年 豊臣秀吉は小田原城を攻めて後北条氏を滅ぼしました。
■1569年 三増合戦で武田信玄と後北条氏が戦いました。
■1333年 北条氏は新田義貞に滅ぼされました。このころ渕辺義博は護良親王と関わりを持ったようです。
■1213年 横山党は和田合戦で和田義盛派につき北条氏に滅ぼされました。
■鎌倉時代初期には、武士団として武蔵国横山荘の横山党一族(粟飯原氏、藍原氏、小山氏、野辺氏、田名氏)が支配していました。この横山党の祖先は10世紀に武蔵国国司として京から下ってきた貴族“小野孝泰”です。また、横山党は源氏と繋がりました。
■古代の律令制であった奈良時代、相模国には8郡(高座郡、鎌倉郡、御浦郡、愛甲郡、大住郡、余綾郡、足上郡、足下郡、)が設置されていました。相模原市はこの中の高座郡(高倉郡)たかくらぐんに属していました。高座郡は14郷(塩田郷等)からなっていました。
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相模原市の7地域 |
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1. 大沢地区 |
大島、上九沢、下九沢 |
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2.相原地区 |
相原、橋本、小山、清兵衛新田 |
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3.田名地区 |
田名 |
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4.上溝地区 |
上溝 |
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5.麻溝地区 |
当麻、下溝 |
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6.大野地区 |
上矢部、矢部新田、渕野辺、鵜野森、上鶴間 |
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7.新磯地区 |
新戸、磯部 |
相模原市域の開墾 |
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<新田開発の推移>
■1888年 中村新開
■1887年 谷口新開
■1884年 下溝新開
■1880年 中和田新開
■1870年 橋本新開
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■1856年 清兵新田−−−小山村の豪農 原清兵衛 206町 大麦・小麦・そば・ひえ・粟
■1824年 渕野辺新田−−最上徳内の支援による。36町 薪・炭・養蚕
■1723年 溝境新田−−−渕野辺村、木曽村の農民により開発。薪・炭
■1707年 大沼新田−−−渕野辺村、木曽村、根岸村の農民により開発。 養蚕・薪・炭
■1684年 上矢部新田−−−甲斐の国出身で江戸の豪商 相模屋助右衛門 193町 16名 大麦・小麦・そば・ひえ・粟 |
相模原市に関係する伝承・歴史上の人物 |
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■舘盛静光−−−F昭和52年 1977年 相模原市長
■河津勝−−−−D1965年 相模原市長 E1969年 相模原市長
■山口茂治−−−B1959年 相模原市長 C1963年 相模原市長
■清水睦−−−−−1951年 相模原町町長、@1954年 相模原市長
■小林輿次右衛門−1947年相模原町町長就任、A1955年 相模原市長
■板垣退助
■神藤利八
■山本作左衛門
■小川忠右衛門−−上溝村小山甚左衛門の次男で相原 小川家の養子となり名主小川茂兵衛で開国直後の横浜で生糸商売
■二宮尊徳
■萩原安右衛門
■八郎右衛門
■南山古梁
■伊東方成
■小泉茂兵衛
■関山宗右衛門道利
■小山儀右衛門
■江成久兵衛
■最上徳内
■相模屋助右衛門
■清兵衛
■内藤清成
■青山忠成
■徳川家康
■豊臣秀吉
■北条氏照
■北条早雲
■足利氏満
■小栗判官
■照手姫
■足利直義
■護良親王
■渕辺義博
■新田義貞
■北条義時
■野辺義兼
■渋谷高重
■和田義盛
■横山時重
■横山経兼
■小野孝泰−−−武蔵国国司
■一遍上人−−−時宗により当麻山無量光寺の基を築く |
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[参考文献
・「相模原市史 全7巻
・「わたしたちの相模原] 著者:相模原市教育委員会 発行:平成15年 4月
・「相模原の史跡」 著者:座間美都治 |
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