1.大島地区の自然と文化財
名称 相模原市 大島地域
アイコン場所 大島
アイコン交通 ■JR横浜線:
   東神奈川駅〜→古淵駅→渕野辺駅→矢部駅→相模原駅→橋本駅
■京王電鉄:
   新宿駅〜調布駅(相模線)→橋本駅
*橋本駅からバス
 橋本駅南口から望地キャンプ場行きの神奈川中央バスにのり、約20分大沢出長所前/榎戸下車し徒歩。
メール アイコン記録日 ■諏訪橋と小倉橋
  2007.1.31〜
左記は上大島付近からみた初春の城山風景です。
■ドングリ(マテバシ−)の実
 マテバシーとクヌギは2年に1回 実を付けます。一方、コナラは毎年 実を付けます。(2006.10)
■大沢公民館 
■大沢公民館まつり

・実施日:平成23年3月5〜6日

 
内容>
 平成21年5月〜平成22年2月間に調査した大沢の景観と石造物について、概要を展示しました。
■大島諏訪明神 一人立ち三頭獅子舞
「大島諏訪明神の獅子舞」 記号番号は、登−7
・市登録無形民俗文化財 平成13年
0401日登録
・県指定無形民俗文化財 昭和51年1015日登録
・保持団体:大島諏訪明神獅子舞保存会

獅子舞には獅子の持つ呪力により悪魔や邪気を追い払う意味があり、神社の聖域を守護する唐獅子や狛犬が動態化したものと言えます。ここの獅子舞は、1人立3頭獅子舞で、1人が1頭の獅子をいだきお腹にさげた太鼓を打ち鳴らしながら舞います。雄獅子2頭、雌獅子1頭のそれぞれが獅子頭をかぶった剣獅子、巻獅子、雌獅子(玉獅子とも云う)の計3頭の獅子と、天狗、赤鬼、そして道化役の岡崎および笛と唄手によって構成されています。文化・文政年間(1804〜1818/1818〜1830) 光格・仁孝天皇 江戸末期 徳川家斉将軍−異国船打払令が出され、幕府は騒然としていたが、庶民は東海道中膝栗毛、浮世絵が盛んな頃で、小林一茶や杉田玄白、伊能忠敬らが活躍していた江戸文化華やかな時代に多摩地方から伝わりました。ちなみに、剣獅子に文政12年(1829年)に修理したときの墨書があります。

古老の話では、境内に獅子舞が夕涼みに来て水を飲み、舞い狂ったのが始まりとも。例祭の日、自治会館で待ち合わせてから、井上醤油屋の庭に勢揃いして、神社まで行進します。

行列の順序は、花飾り万灯を先頭に天狗、鬼面、道化師の岡崎そして、剣獅子、雌獅子、巻獅子、笛吹、謡い衆と続き、道笛に合わせて行進します。鳥居の前で休憩の後、再び態勢を整え、天狗は腰の大剣でしめ縄を切って中に入り、盛砂を蹴ちらして舞が始まります。鳥居の曲、土俵の曲、頭舞の曲(水を飲むしぐさ)、トホカザキの舞、キッカタ(3頭獅子に鬼と4人が加わり舞う)、トンカタの曲、シャギリの曲(最高潮の舞)と順次舞い狂います。唄は昔は10曲あったといいます。

相州(相模原地域)への獅子舞の伝来経過としては、下九沢の日本獅子舞来由によると、文政4年(1821年)8月 武州多摩郡三田領小留浦村(ことずらむら)の村木家伝来のものを写しとったとして、名主 榎本重蔵の署名があり、獅子世話人として、小川忠三郎・内山次郎左右衛門・榎本仁左右衛門・同幾八・島田市郎右衛門・久野太左衛門の名が連署されています。名主 村木家は獅子舞の元祖山崎角太夫から、今から約350年前、他言無用で伝授されていました。村木家の獅子舞には岡崎は無く、花笠は4人で舞うそうです。獅子頭は4kgもあり4時間かけて舞い狂うそうです。

肝心な、大島諏訪明神には、獅子舞諸道具を入れる箱の蓋に文政5年(1822年)とあるところから、御嶽神社の翌年、今から約183年前に伝来したものと思われます。両方の獅子舞の手振りからみると江戸の舞踊の要素が含まれていると云われます。毎年8月の例祭に奉納されます。参考までに、近くの長徳寺境内の不動明王は、同時期 文政5年(1822年)に建立されています。又、徳本名号塔は、文政2年(1819年)(下九沢から移転)とあります。もともと、獅子舞は、約7百数十年前 宝治元年(1247年 鎌倉時代の北条時頼の頃)、房州の住人 山崎角兵衛・角助・角内の3人が後深草天皇の御前で舞ったのが始まりで、後3人流派に分かれて世に伝えられたのだそうです。奥多摩は昔から獅子舞の宝庫と云われ、この獅子舞は角兵衛流に属しており、非常に優雅で江戸の花と呼ばれたそうです。その江戸時代、この相模原の農村も年に1度の夏祭りに楽しんだのでしょうか。 

■大島諏訪明神獅子舞保存会
  三頭獅子役も含めて25名で構成されています。獅子役は19才〜23才の青年。
古清水地区のどんど焼き
 神澤滝の前 グラウンド広場で消防車立ち会いの下に雨の中、地元の子供達や大人が正月飾りを景気よく燃やし一年の健康と豊穣を祈れました。
■皆さん、それぞれ工夫した竿で繭玉団子をさして焼き自宅へ持ち帰っていました。無病息災を祈ります。

■竹竿ヲ繰り出して、釣り?
■10月初旬 大島農地の陸稲
■10月末 陸稲の刈り入れ
大島農地には、いくらかの陸稲の栽培がみられます。晩秋のころ稲狩刈りが終わった畑に稲束が干されていました。
■諏訪森下
大島坂の道標
 上大島集落から相模川の河原迄を結び、大島坂の下に相模川自然の村が広がっています。
諏訪森下の中州田圃への農道でした。昭和21年に細い2本の道を改修工事し現在の坂道が
完成しました。
■双対道祖神(実際は念仏供養塔)
 綺麗な道祖神が、大島坂の辻に隠れるようにたたずんでいます。
 享和3年(1803年)の建立。伊能忠敬が蝦夷地を測量した3年後のことです。
珍しい大島坂の鳥獣供養塔。
上の双体道祖神(実際は念仏供養塔)と並んで立っています。
鳥獣供養塔は、昭和16年建立とある。第二次世界大戦勃発の頃です。戦前、この辺りには、鳥や獣が多かったのだろうか。獣は馬?馬なら馬頭観音のはずだから、狐とか狸とかに違いありません。
■大島坂の不動明王
鮎釣り
 6月解禁です。釣り人が沢山います。
■漸進社
1728年前後の世は江戸時代中期でした。 中御門天皇−桜町天皇 、将軍 徳川吉宗 大老 井伊直該 江戸町奉行は1717年大岡忠相(越前守) 、1722年新田開発を奨励、1728年 幕領の祖米を重くし、1732年 西国虫害により大飢饉発生、1732年結城にて綿布生産、1743年 甘藷栽培奨励した頃でした。養蚕産業は干ばつの多い相模野台地に於いて、領主 大久保からの奨励もあり、1728年享保13年頃、売上145〜300両と盛んになり、農業の中心となりつつありました。(村鏡)
1877年 明治10年の世は西南の役勃発した頃、糸価騰貴のため共同生糸揚返所を設立し漸進社と命名しました。初代社長は宮崎重一郎→明治22年 社長 中里鶴吉(大島1668) 商法施行に伴い、大島2795に漸進合資会社設立す→歴代社長斉藤福次郎/笹野三吉/田所種吉、1913年 大正2年(第一次世界大戦前年)座繰製糸としては全国四大社の規模となりました→1936年 昭和11年(二.二六事件) 愛甲郡に製紙工場が設立され閉社。創業記念碑は大貫昇氏の邸宅内にあると云います。
右の写真は現在の跡地。
■漸進社の記念碑
  明治19年建立
■山本一族
■内山玄貞
■刀匠 藤原泰近
■大山街道
鳩川沿いの竹林。大きく真っ直ぐにのびた立派な孟宗竹です。かって、江戸城のすす払いに献上されていたと言います。
■大沢出張所
  相模原市長第三代目 山口元市長の顕彰碑
馬頭観音
石棒
■光背型地蔵菩薩 36
  承應元年 建立というと1652年なります。相模原市で現存する最も古いお地蔵様になります。次に古いお地蔵様は、渕野辺にある1657年の六地蔵です。又、1680年の地蔵菩薩が大島にはあります。
1652年当時の世は、後光明天皇 将軍 徳川家綱の時代で、オランダ人を長崎出島に移し鎖国が完成した頃。浪人改めされる。また、この頃、若衆歌舞伎禁止された。10年後の1642年には、百姓に米の常食を禁じました。
◇頭上の主尊種子(梵字)は、地蔵菩薩を表す“カ”
◇像容
   ・立像
   ・剃髪頭(比丘形)で、衲衣(のうえ)をまとう
   ・右手に錫杖を持ち、左手に宝珠を持つ
◇地蔵信仰の発祥はインドで、日本には奈良時代に伝わり、平安時代から普及し、石仏としては鎌倉時代になり各地で造られました。江戸時代には、現世利益を求める民間信仰と出合い多用なお地蔵様が造られるようになりました。この大島の地蔵菩薩は、この民間信仰が盛んとなりはじめる江戸初期に建立された古いものです。それにしても、きりりとした目鼻立ちと造形は、くっきりしていて素晴らしいものです。
■日々神社
日之社と呼ばれていました、明治2年に日々神社と改称され、祭神は伊邪那岐命、天照大神。ご神体は鏡の滝から出た鏡である。明治の頃まで、御輿が滝を渡る滝降り神事がありました。境内には、相模原天満宮、稲荷神社、八坂神社、祖霊社があります。
■徳本念仏供養塔、くすの木/たぶの木
■秋祭り8/30、雨乞い供養
■ご神体は鏡の滝から出た鏡である。
■明治の頃まで、御輿が滝を渡る滝降り神事があった。
■相模原天満宮
■稲荷神社
■八坂神社
■祖霊社
■榛名山供養塔
■馬頭観音
■狛犬
■灯籠
■光明真言供養塔(真言とは聖なる言葉)
■くすの木/たぶの木
■秋祭り8/30、雨乞い供養
  
■境内の大欅
  まだまだ若くて、大空に向かって伸び盛り
■おのころ松
境内には源頼朝が12歳頃に植えた松の切り株があります。
昭和41年に台風により枯れました。
■日々神社徳本念仏塔
 境内の左奥にあります。相模原市登録文化財 登−31。
榛名山供養塔
徳本念仏塔の左側です。
水場の双体道祖神と馬頭観音
  風化で痛んでいます。
■横浜水道道
  大島には北から南にかけて、真っ直ぐな水道道が伸びています。横浜市民に津久井の清らかな飲み水を供給しています。
■秋葉大権現
大きな一本松の下にかなり大きい灯籠があります。
■馬頭観音
 盗まれたので、昭和63年再建。
■清岩寺
水場と小清水の中間にある清岩寺です。民家の中にあるので、近所の人に聞いてやっと探しあてました。
臨済宗寺院。鎌倉の建長寺の末寺で山号を白雲山と号、本尊は阿弥陀如来です。(風土記稿)。
月桂裕天(天文12年 1546年 没)が開山しました。寺伝では1317年 文保元年に清水三左衛門が仏燈大光を招いて開山したと記されます。1317年は花園天皇 将軍 守邦親王 将軍 北条宗宣で大友氏が元と私貿易している鎌倉幕府衰運の頃です。
■臨済宗寺院。鎌倉の建長寺の末寺で山号を白雲山と号す。
■本尊は阿弥陀如来である。(風土記稿)。月桂裕天(天文12年 1546年 没)が開山。
寺伝では1317年 文保元年に清水三左衛門が仏燈大光を招いて開山したと記される。1317年は花園天皇 将軍 守邦親王 将軍 北条宗宣で大友氏が元と私貿易している鎌倉幕府衰運の頃。
■標石(白雲山清岩寺)
■地蔵菩薩(丸彫)
■石幢(せきどう)
六角柱の龕部がんぶに六地蔵が浮き彫りされている)石幢せきどうは、重制は宝珠・請花・笠・龕部・中台・竿・基礎の部分からなる。単制は竿がないものをいう。
■供養塔(聖観音菩薩浮彫立像)
■一字一石供養塔
■清水不動尊
■古清水の八坂神社(改修前)
 
2005年6月 古くなり雨漏りがするので、今年は屋根の修理完成。
■稲荷神社
 古清水 八坂神社境内の稲荷神社
毎年、7月天王祭のときにはしめ縄が張られ、子供御輿が繰り出します。8月は盆踊りが開催される。昔は、古清水集落の鎮守でしたが、現在は大島諏訪神社の氏子になつています。
■石棒、■しいの木、■怪獣ドラゴンス
■古清水の石棒
 八坂神社境内の稲荷様にある縄文時代の石棒です。
 長い方は長い方は2m近くあり、コンクリートのように灰色で綺麗に削ってあります。
 とても、数千 年前に製作されたものとは思えないほどすばらしいできばえです。
 水道工事の時に発掘されたと 言います。縄文時代に豊穣のシンボルとして祭られ
たのでしょうか。
妙見尊
■神沢坂の標柱
 神沢集落と古清水集落を結ぶ坂道です。
 神沢坂の下に神沢不動尊があります。さらにその下には 昔、相模川は坂の
下まで迫り、渡しがありました。
■神沢不動尊
  春の神沢不動尊 2005.5
・相模川沿いの神沢坂の途中にあります。
・境内の端に六地蔵がひっそりとただずんでいます。
□春の神沢不動尊 2005.4
■芭蕉の句碑
(写真の最左端自然石)
ここの石段下には、芭蕉の句碑があります。
<芭蕉の句>
  しばらくは 花の上なる 月夜哉
□倶利伽藍不動
 神沢不動堂に安置されている倶利伽藍不動です。
水神様です。
■中津層群
 相模川段丘沿いの大島鏡池の北斜面に位置し、250万年前の地層らしい。。海生貝類の化石が多産するところです。
中の郷にある鍛冶県道沿いの いろいろな石仏像です。
狸のおきものみたいなのもあり、カラフルでにぎやかです。
■法性寺(ほうしょうじ)
 日蓮宗寺院、千葉県天津小湊 誕生寺の末寺、山号を三宮山と号し、三宝祖師(現在は、大曼荼羅)を本尊とします。開基は日養(1532年 天文元年没)。開山は日修(寛文12年 1672年 没)。(風土記稿)。毎年、土用の丑の日に“ほうろく灸”の行事が゜あります。

■日蓮宗寺院、千葉県天津小湊 誕生寺の末寺、山号を三宮山と号し、三宝祖師(現在は、大曼荼羅)を本尊とします。開基は日養(1532年 天文元年没)。開山は日修(寛文12年 1672年 没)。(風土記稿)。

■毎年、土用の丑の日に“ほうろく灸”の行事がある。

■おはんと清吉の墓
 法性寺の山門西側にある萩原家の墓地に建立されていまます。
 おはん清吉の悲恋物語は本家の萩原さんが昭和41年9月に調査し著されました。
境内には沢山の石碑や石仏があります。
■題目塔
■教典読誦供養塔(板碑型)
■灯籠
■庚申塔
刀匠藤原泰近の碑
■九頭竜大権現
■馬頭観音
■持ち上げ観音
■徳本念仏供養塔供養塔(文化財指定外)
■井上醤油屋
 手作りの醤油だけでなく味噌、めんつゆも製造している地元の老舗。
■長徳寺
■曹洞宗寺院 津久井郡功雲寺の末寺、山号を大龍山と号し釈迦如来を本尊とする。
開基は元武田家臣の鳳山良長和尚で、天文2年1533年 下大島 崖下に小堂を建て、討ち死にした部下を供養したのが始まり。開山は慶長4年1599年 功雲寺から州山洞益を招いた。 天文年間は、戦国時代、今川義元/大内義隆が群雄し小田原は反映していた。また、北条氏康と武田春信は戦っていた頃で、永禄12年1570年には三増大合戦があった。1573年室町幕府滅びる。
■徳本念仏供養塔 文政2年1819年講中により建立。江戸時代後期 仁孝天皇 将軍 徳川家斉の頃、1800年 伊能忠敬 蝦夷地測量 、1808年 間宮林蔵 樺太探検、1810年 白河藩/会津藩に相模や房総の砲台築造命ず、1817年 水野忠成 老中となる、1820年 浦賀奉行に海岸防備強化さす。1822年 小田原藩は二宮尊徳を登用した。1825年 異国船打払令等が発令された頃。
■不動明王■標石■秋葉山供養塔(石灯籠)
■結界石(不許葷酒入山門)
■六地蔵
■念仏供養塔
■六十六部供養塔
■くすの木
■西孤の墓(安西家)
■盆踊り、除夜の鐘
■長徳寺境内
■徳本念仏塔
■長徳寺の納涼盆踊大会(2007.8.4)
長徳寺山門右側の六地蔵
■六十六部供養塔
■内出の石造物群
  ■百番観世音菩薩---現在、長徳寺境内に一時保管されています。
 
中里但馬の墓
大島地区を最初に開拓した甲州の人です。長徳寺の奥にあります。
信州から移住し、武田信玄が活躍していた永禄8年1565年没。子 織部は名主となり平十郎に至ります。(新編相模国風土記稿)。
子孫は大島636。
■下九沢の俳人 西孤の墓
■大島諏訪神社
諏訪明神ともいわれ旧大島村の鎮守、祭神は御穂須々美命。祭日は8月27日。文化3年 1806年開基の覚心はこの神社をー式内社である石楯尾神社として社前に標柱を建てました。

(注)御穂須々美命大国主命は、越の国に「奴奈川姫」という賢く美しい姫がいると言う噂を聞き、求婚するために越の国に訪ねてゆく。奴奈川姫は大国主命と歌を贈答し、すぐには求婚に応じなかったが、一日後に求婚を受け入れ、結婚したという。『旧事本紀』によると、二人の間には諏訪の神「建御名方命」、(『出雲国風土記』では美保の神・御穂須々美命)が生まれたとされます

■鳥居には岩盾尾神社と書いてあります
大島諏訪明神は、大島諏訪神社(岩楯尾神社)とも言います。地理的には相模原市 北西の城山町との境界近くである、大島594番地に所在します。旧大島村の鎮守です。祭神は御穂須々美命(建御名方命)で、創建は不詳ですが、伝承によると、永正(えいしょう)年間(西暦1504−1521年)覚心によると云われます。約500年前(室町時代後期 後柏原天皇 足利将軍 北条早雲)です。この頃、日蓮宗・浄土真宗の宗論がありました。宝永7年(1710年)再建され、大島村・九沢村の総鎮守となる。ました。祭日は8月27日です。境内には、八坂神社、天満宮、水天宮そして、蚕影社もあります。
■雨乞い様(志満龍権現)
■標石(村社諏訪明神)
■地神塔
■大島の獅子舞(県無形文化財)
■庚申塔
■芭蕉の句碑(ものいえば くちびるさむし 秋の風)
■供養塔
■禰宜の娘おそよとの恋物語
天満宮
■蚕の神社
■八坂社殿
庚申塔
 下記の芭蕉の句が刻まれている庚申塔です。
庚申塔
 芭蕉の句が刻まれている面です。
 「ものいえば口びる寒し秋の風」
■一石六地蔵
成田山不動明王
■小仏層の露頭
 上大島の相模川段丘下に約6500万年前 中世代白亜紀末期に堆積しました。硬砂岩・粘板岩などから構成されています。
上には白い凝灰質砂岩と泥岩からなる約200万年前の中津層があります。中津層は上大島から田名の塩田まで続いているそうです。冷たい海にすむ貝の化石が見られます。ちなみに中津層の上は第四紀洪積世の相模原礫層で、その上には関東ローム層が堆積しています。段丘は第四紀洪積世に形成されています。
■堺松
[参考文献]
 ・「相模原市史」 第1巻 
 ・「相模原の史跡」 第2版  著者:座間美都治 発行:昭和52年 8月
 ・「おおさわ風土記]      著者:笹野邦一 監修:長田かな子(おさだ) 発行:2000年 3月21日
直線上に配置
相模野の自然と文化財