第一次硝子体過形成遺残
(PHPV)

無事に1ヶ月検診を終え、創太、恭平も新しい環境に慣れ始めほっとしていたころ、 いつものように友理をあやしていると、なんとなく友理の瞳の奥が光ることに気づいた。 「照明のあたり具合のせいかな。 太陽の光のせいかな。」と思ったけど、日に日に気になりだし、妙に胸騒ぎがしたのでインターネットで調べてみると、そこには「神経芽細胞腫」(癌)の文字が。 「友理が癌だったらどうしよう・・・」 でも心配して騒いでいるのは私だけで、みんな「まさか」という反応。 折しも翌日、友理はお兄ちゃんたちの風邪がうつったのか熱を出した。 どしゃぶりの雨の中、タクシーを呼んで近くの小児科へ向かった。

「熱も心配なんですが、それより眼の奥がなんとなく黄緑色に見えるんですが、癌じゃありませんか」。 ドクターは友理の眼をペンライトで覗いて「ご心配の神経芽細胞腫ではないと思いますね・・・お母さんの気にしすぎじゃないかと思います。」というようなことだった。 ドクターとしては生後1ヶ月で高い熱を出すほうが心配。 入院して様子を見たほうがいいかも。ということで、国際親善病院を紹介された。 「一応、眼のことも記載しておきます。」とのことだった。

私の心配しすぎかな・・・不安で寝られなかった。 翌朝、国際親善病院ではずいぶん待った。 その間も「癌だと言われたらどうしよう・・・」 「まさかそんなはずないよね。」と、そればかりだった。 初めに小児科で診てもらった。 熱は少し下がり、おっぱいも飲んでいるので大丈夫。 眼も診てもらったが「黄緑色ですか・・・そうかなぁ・・・お母さんの気にしすぎだと思いますよ。」と言われた。 「なーんだ、私の早とちりか。」ちょっとほっとして診察室を出た。 「でもおかしい。 絶対なんかあると思う。 嫌な予感がする。 だって確かに友理の眼は光ってみえるもん。」 

念のために小児科の先生に頼んで眼科で診てもらうことにした。 受付は終了していたが特別に診て貰った。 「赤ちゃんが泣くのでお母さんは外へ出てください」と言われる。 動かないように体をぐるぐる巻きにされて眼も押さえられるようだ。 しばらくして、今まで聞いたことのない友理の激しい泣き声が聞こえてきた。 2〜3分かな、長い時間に感じた。 検査が終って私に抱っこされると、泣き疲れたのかすぐに寝てしまった。

「神経芽細胞腫ではないと思います。 が、お母さんのおっしゃるとおり、何らかの病片があると思います。」と言われた。 「やっぱり・・・私の勘が当たってしまった。」 「こども医療センターに紹介状を書きます。」と言われる。 「友理はそこで生まれたんです。 だからすぐに見てもらえると思うんですが。 診察券もあります!」と言ったけど、「ルールなのでこの紹介状をご自分で郵送してください。 診察日を知らせるのはがきで後日届きます。」と言われた。 今日は土曜日。 あと何日この不安なまま待ったらいいのか・・・一日がとても長くてじっとしていられなかった。

だが、その日はすぐにやってきた。 よほど緊急性があったらしく、すぐに電話がかかってきた。心配で寝られない。 ひとりでお地蔵さんに行った。 まだ何も聞いたわけではないのに後から後から涙が出て止まらない。 パパは「まさか」という気持ちだったのだろうが特に心配している風でもない。 私があまりに心配するので前日になって「一応病院について行こうか。」と言ってくれた。 

そして翌朝。 こども医療センターでの長い長い待ち時間の末、友理の両眼は「第一次硝子体過形成遺残(PHPV)」と診断された。 主治医からPHPVの説明を受けている間、「この先生、何言ってるんだろう? 本当に私達に言ってるの?」と何度も思った。 「視力が出ることはない」この言葉が頭の中をぐるぐる回る。 「残念ながら治療がないんです。」と言われる。 そんなばかなことあってたまるか! こんなに元気で生まれてきたのに・・・あんなに待ち望んだかわいいかわいい女の子なんだからー! たまらず友理を見ると、真っ赤な目をしたパパに抱かれてすやすや眠っていた。 主治医は言葉を選びながら、私達の気持ちに配慮して淡々と話してくださっていることは伝わった。 私が疑っていた癌ではなかった。 けれども私達にとって希望の持てる言葉は何もなかった。

PHPVというのは、胎児の時(2ヶ月くらい)に、眼が形成されていく過程で成長が止まってしまい、本来9ヶ月ごろまでになくなるはずの組織が眼の中に残っている状態をいう。 この組織は水晶体のすぐうしろの硝子体というところにあり、つよい濁りとして見える。 PHPVも程度は様々で、視力に影響の出ないくらい軽度のものから、友理の場合はこれが網膜にもつながっていてかなり重度のダメージをあたえているものまであるという。 また、PHPVは小眼球を伴うことが多いらしいが、友理は今のところ少し小さいくらいで、一見しても全く異常がない。 ただ将来的なことは誰にも分からない。 今言えることは、良くて明暗が分かる程度だろうということ。

その後病院でどうしたかよく覚えていない。 呆然としながら帰ってきた。 これが夢ならいつ覚めるんだろう・・・。 無邪気な恭平が私の帰りを待っていた。 創太も元気に学校から帰ってきた。 私だってまだ心の整理がつかないけれど、二人には言っておかなければ、と思い、二人を座らせ「ゆりちゃんね、おめめが見えないんだって」と言った。 「今はまだ見えないんでしょ?」と創太が聞く。 「今も、これからも、大人になっても見えないの。 だから創太と恭平は友理ちゃんを助けてあげてね。 お耳はとってもいいと思うから、いっぱいお話してあげてね。」 それだけ言うのが精一杯だった。 恭平は「ドラえもんに目の見える道具だしてもらおう。」何とか泣いている私を笑わそうとしたのかな。  創太は私の顔をじーっと見て、眼にいっぱい涙をためながらも、うん、うん、と頷いていた。 しばらくすると、友理のベッドにひとりでそうっと近づき、「ゆりちゃん、そうたにいちゃんだよ。 おめめみえないの?」と話しかけていた。 その日は何度も「ゆりちゃん、見えないの?」と私に聞く。 やさしい子だからよほどショックだったんだろうな。 

夕方、友理と二人きりになったとき、友理を抱きしめて初めてわんわん泣いた。 ごめんね、ごめんね、と何度もあやまった。 私はママなのに何にもしてあげられない。 神さまは耐えられない試練はお与えにならないと言うけど、私には耐えられそうもないと思った。 友理の顔を覗き込むと、まっすぐ私の顔を見つめているように見える。 「本当は見えてるって言ってよー!」 ママやパパの顔を一生知らないなんて! 誰か助けてー!と泣き叫んだ。 なんかちょっとすっきりした。 とりあえず現実を受け止められた気がした。 一日一日友理は成長しているんだから、私が立ち止まってどうする。 友理はママが守るからねっ!

それからは泣いているヒマなんてなかった。 その日からインターネットや本でPHPVについて調べたり、視覚障害に関する情報収集で忙しかった。 視覚は「見る」ことによってしか発達しない。 生まれて数ヶ月の間に「見る」ということをしないと、なかなか視力は出ないということが分かった。 何とかして世界中で誰か一人くらい治せる医者はいないものかと親ならだれでも思うはず。 親として「なすすべがない」ことが何よりつらい。 あきらめる、あきらめない、ということではなく、自分達が納得できるだけのことはしたいと思った。 セカンドオピニオンを聞くために、小児眼科の世界では神さまと言われる名医も受診することにした。 予約は1ヶ月先だ。 1日も無駄にしたくない私達にとって1ヶ月は長すぎる。 最新医療や手術に積極的なアメリカでも根本的な治療法はなかった。

数日後インターネットで知り合った視覚障害の子どもをもつお母さんたちから、あたたかいメールを次々もらった。 私は友理が眼が見えないと分かって、あまりに自分の知らない世界なので、どうやって子育てをしていけばいいのか想像もつかず、不安だったが、みんなが口をそろえていうのは、「普通に」ということだった。 そうなんだー、目が見えても見えなくても同じなんだ。 勝手に見えることと見えないことの間に壁を作っていた自分が恥ずかしくなった。 誰でも苦手なことは、うまくできるように練習したり工夫したりする。 それと同じで見えなくても工夫次第で何でもできるようになる、と聞いて少し驚いたし同時にとても安心した。  

「障害も個性のうち」なんていう人もいるけど、障害(者)に対する理解はそんなに進んでいるんだろうか。 あまりに言葉だけが軽く使われていないだろうか。 私が本当にそう言い切るにはまだ時間がかかりそうだけど、いつか社会も友理自身もそうおもえるようになってほしい。 たくましく生きて、すてきな人生を歩んでほしいと願っている。