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アジャシャンティ「あなたの世界の終わり―目覚めとその"あと"のプロセス」勉強会(読書会)レジメ11、12章


アジャシャンティ「あなたの世界の終わり―目覚めとその"あと"のプロセス」

第11章 自然な状態

目覚めは私たちをどこへ連れていくのか。この質問は答えるのが難しいし、何を言ってもマインドの目標になってしまう可能性がある。完全に意識的になり、完全に目覚めるためにはマインドの目標は邪魔になる。それでも、目覚めから悟りと呼ばれるものへの成熟がある。

非二元性の本当の感覚の中へ入る。非二元性とは相対と絶対を超えて生きること。

自分の核、自分の本質は、純粋な潜在的可能性と同じ何かであることを理解する。

私たちのあるがままの現実への単純さへの奥深い回帰。

自然で安楽な状態。深い安楽さ、深い自然さ、深い単純さ。

確かな最終的感覚があるという、疑い得ない感覚。

スピリチュアリティという考えも含めて、すべてのでっち上げが消滅する。

あらゆるものははかないものである、ということを見る。

自分自身の偉大な目覚めさえ、けっして起こらなかったもう一つの夢にすぎないと理解する。

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完全な手放し、真実のためだけの完全な献身があるとき、私たちは自分がまさに手放したもの(二元論的夢、自分だと思っていた人物、現実だと思っていた自分の人生)へとシンプルで普通のやり方で戻ってくる。

再び人生に入ると、人生は非常にシンプルで普通になる。ある意味では悟りとは、驚くべき普通さの中に死ぬこと。普通さが驚くべきことだと理解し始める。

初めから私たちは約束に地にいた、初めから私たちは天国にいた。でも、それを理解していなかった。

「今ここ」とは異なった、よりよい瞬間の必要性はない。今ここはあるがままで驚くべきものである。私たちがこれを認識するとき、私たちは自分自身の内部の幻想的分裂を癒した。そして、人類のより大きな意識の内部の幻想的分裂も癒し始める。

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悟りとは「単に存在の自然な状態」。

悟りとは変性意識ではない。悟りとは何かに変えられる前のあるがままの純粋な意識。私たちが単に意識的に存在するとき、自分が何であり、誰であるかを覚醒することによってのみ経験されること。

それはただ自然。どんなものやどんな人より、よいとか高いわけではない。

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第12章 結婚式の話

私に残されたやるべき唯一のことは、世界の中へまた戻ること。

もし私たちが自分の目を開けてそれを見さえすれば、ここが実際のああるがままの約束の地である。

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Written by Shinsaku Nakano <shinsaku@mahoroba.ne.jp>
Last Update: 2013/02/03