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アジャシャンティ「あなたの世界の終わり―目覚めとその"あと"のプロセス」勉強会(読書会)レジメ9、10章


アジャシャンティ「あなたの世界の終わり―目覚めとその"あと"のプロセス」

第9章 目覚めが、マインド、ハート、腹を突き抜けるとき

・分離していないとは、どういうことか

自由であること、目覚めているということは、目覚めたものとはどうあるのか、という考えを手放すこと。「不完全さについての不安がないこと」。普通さへ、不安のなさへ死ぬこと。

非分離の状態は、あなたの内部でそれが目覚め始めるまで、理解することができない何か。分離していないこと〜非分離や一つであること(ワンネス)から見て行動すること〜は、私たちが自分自身で発見しなければならないこと。

真正な目覚めの瞬間に、存在のあらゆるレベルでスピリットが一気に完全に解放される。突然、私たちは今まで知っていたどんなこととも完全に違う認識の仕方、物の見方に目覚める。

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・マインドレベルでの目覚め

マインドレベルでの目覚めが起こると、思考構造の中には究極的には真実は何もないことを見る。

マインド=思考は単なる道具にしかすぎないのに、自己感覚の源泉として見てします。自分とは何かについての自分の考え、自分の自己イメージを本当の自分だと思ってしまう。

マインドレベルでの目覚めとはあなたの全世界の破壊。
「私は一人の人間である」「世界といったものがある」「世界はある特定の状態である必要がある」といったすべての信念構造が壊れていく。

悟りとは、よりよくなることや、より幸福になること、より不幸になることとは何の関係もない。ただ、真実でないことが崩れさるだけ。

真実の思考、悟った思考、などというものはない。

思考や話すことやコミュニケーションは沈黙からわき起こることができる。

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・ハートレベルでの目覚め

ハートレベルでの目覚めとは、私たちの感じることが、自分が何で誰であるのかを私たちに教えないのだと理解し始めること。それは、私が感じていることを教えてくれるだけ。

しかし、感情を避けることでそこに到着することはできない。感情的混乱は、私たちが真実ではない無意識の信念を持っていることを教えてくれるので、それを通してどんな信念、どんな思考を信じているかに気づく必要がある。分離を引き起こすどんな思考も真実ではない。

私たちはある種の否定的な感情が正当化されると考えられている世界で育ってきた。「〜が起こったので私は怒りを感じた。〜は起こるべきではなかった。」しかし現実はそうなった。現実と言い争っていると分離を体験する。

覚醒のより深い領域に入っていくと、現実と言い争うどんな正当化された理由も存在しないと理解する。

自分に分離を経験させるパワーを持っているものが何かに気づくために、自分の感情をありのままに見る必要がある。

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・感情は、どのようにして分離した自己の幻想をまとめあげるのか

感情的自己をまとめているものは「恐れ」。自分は傷つけられ、損なわれ、侮辱されることができる誰かであるというイメージを持っているから「恐れ」を感じる。

マインドとハートレベルでの固定化から目覚め始めると、傷つけられる誰もいない、ことを見るようになる。「私たちが生そのものである」から。

ハートレベルで目覚めると、私たちはもっと自由に世界を深く感じることができるようになる。そのとき、私たちは自分自身を究極の意味で完全に無防備に体験する。私たちが無防備であるとき、私たちから自然に流れるものは無条件の愛。そのとき、あらゆるものを自分自身として見る。

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・腹レベルでの目覚め

腹レベルとは自己感覚のもっとも実存的な部分。もっとも原始的な自己感覚。制限された現象の世界に突然押し出されたときに起こるある種のしがみつき。そこで感じる恐れに出会う必要がある。

目覚めへと向かう運動そのものが恐れを生み出すこともある。目覚めとは腹レベルでのしがみつきからの解放だから。目覚めのプロセスの途中ではよくあることで、問題ではない。

そのときに大切なことは、自分にできることは何もないという事実を許し、受け入れること。完全に許して、その気づきに貫かれることが、最終的に手放すこと。

腹レベルでのしがみつきを手放すとき、自分がこれから死ぬように感じるかもしれない。でも「あなた」は死なない。分離した自己が死ぬだけ。

人生でとても困難な時代を経験した人たちは、より深い意識の段階に近づくにつれ、腹レベルでのしがみつきが強化されるかもしれない。このとき、何も強制しないことが大切。目覚めのこの面に対処するには、特別な助けが必要かもしれない。

究極的には個人的意思とは幻想である。このことに気づき始めると幻滅を感じるかもしれない。何かに幻滅を感じるとき、自分の意思の終わりに来つつある。そのとき初めて変容が起こる。

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第10章 努力か、恩寵か

非二元論の過激な派 あらゆることは恩寵で努力の余地はない
努力中心の他の派  幻想を超越するために大変な量の修行をしなければならない

自分の内側に答えを探すこと。
自分自身に誠実で正直であれば、努力が必要なときには自分自身の中にそれを感じるし、手放すときにはそれを感じる。

先生の役割は生徒たちが自分自身の直感的な自然の方向感覚(内なる先生)と結びつけるのを助けること。

どんな道を通っても、最終的には明け渡す方向に向かっていく。道のあらゆる一歩が明け渡す機会となる。

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Written by Shinsaku Nakano <shinsaku@mahoroba.ne.jp>
Last Update: 2013/01/06