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アジャシャンティ「あなたの世界の終わり―目覚めとその"あと"のプロセス」勉強会(読書会)レジメ第3、4章


アジャシャンティ「あなたの世界の終わり―目覚めとその"あと"のプロセス」

第3章 私はそれを得た、私はそれを失った

夢の状態から現実(リアリティ)への目覚めはプロセスではなく、常に突然起こるが、エゴの消滅には時間がかかる。目覚めの一瞥は瞬間的だが、そのあとに夢の状態の重力を超えるというプロセスがある。

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・私は目覚めている、でも……

エゴとしての「自分」が目覚めることはない。本当の目覚めとは目覚めそのものが「自分」から目覚めること。スピリットがエゴとの一体化から目覚めること。悟りが悟っている。

これは自分自身で経験するまでは理解するのが難しい。スピリチュアリティの中ではあらゆることが自分自身で確認されなければならない。

「私はそれを得た、私はそれを失った」現象は自分の本質と想像された自己感覚との間の葛藤。私たちの意識がエゴの夢状態の重力圏を超えていないことを意味している。

どこかで真実を理解しているのに、真実ではないと自分でわかっているやり方で行動させらていると感じるようなもの。こういったことが起こっても、それは間違いではない。何も間違ったことはないと知っておくことが重要。

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・目覚めとともに、賞金が上がる

夢の状態の中にいるときは、私たちは自分がしていることを知らず、ただ根深いプログラミングから行動しているだけ。いったんスピリットの目が開いたら、突然、自分が何をしているかを知る。

真実を知りながら真実でない場所から行動してしまうのは、自分の行動が真実でないと知らなかったときよりも苦痛が大きい。

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・私たちの条件付けの推進力

私たちの内部にはあまりに条件づけられているので、最初は目覚めさえもそれを貫通できないものがある。条件づけ=カルマ。

ほとんどの人間は自分の条件づけから自己感覚のすべてを引き出す。この条件づけが偽の自己感覚を生み出す。よい人、悪い人、価値のある人、価値のない人、愛される人、愛されない人、、、。

世界を見るときにも特定の見方を通して見るように条件づけられている。世界を素晴らしい場所だと思う人、怖い場所だと思う人、、、。

目覚めが起こると、この条件づけられた自己から目覚める。にもかかわらず、目覚めを体験しても、ある時点で再び条件づけがわき起こることがある。

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・正しい質問をする

「どうやって目覚めた状態にとどまれるのか」よりも「どうやって自分自身を目覚めから追い出すのか」ということを尋ねること、自分を分離の夢へと戻してしまう原因を深く見ることが大切。

これは高尚なスピリチュアルな修行というよりは、生活の様々な衝突や混乱の中で提示されるもの。自分の苦しみの原因は外側の環境や人ではなく、自分自身の内部にある。

しかし、もし本当に目覚めているなら残っているカルマ的条件づけと個人的な関係を持つことはない。たとえ幻想が続くとしても、それらが私たちを定義しないことを理解する。すると、その条件づけに働きかけることがずっと簡単になる。

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・自分の人間性を避ける方法として、絶対へ固執する

目覚めや悟りとは完全になったり、神聖になったり、聖人になることではなくて、全体から認識すること。目覚めの一瞥のあとには、根本的な正直さで、どうやって自分に分離をゆるしているのか、ということを進んで見ることが大切になる。

エゴ的構造の中には、自分の目覚めていない部分から隠れるために目覚めを利用する強力な傾向がある。「自分は目覚めたのだから、もう何も問題はない」など。

絶対的視点からは何の問題もないが、正直に自分自身を見れば、自分の存在の内部にはあらゆる制限を解放しようとする内在的な運動があることに気づく。私たちの存在の真実は、それがそれ自体の誤解、それ自体の執着、それ自体の幻想から自分自身を解放するまで、満足しない。

それが起こることを許すためには、自分自身に対して心から正直になる必要がある。

目覚めることで、物事の本質を非常に深く見ながら、同時に人間として苦しんだままでいる、ということがありえる。

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第4章 私たちは俗世を経由して涅槃にやってくる

目覚めのあとも、ある種の「粘着的(ベルクロ的)」思考パターン、自分を苦しめる原因となる思考パターン、が繰り返し起こることがある。

目覚めが起こると、抑圧能力のふたがはずれるので、それまで見ないようにしていたもっとも深く収縮した思考パターンがわき起こってくることも珍しくない。

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・問いかけを通じての自由

思考と再び一体化してしまうという事実を避けないこと。どの思考や信念が私を捉えるのかをはっきりと見ること。

こういった問いかけを単なる思考的道具としないことが大切。問いかけるときは、肉体とマインド、感情と思考の両方を使うこと。どの思考がどの感情を生み出し、どの思考が感情によって生み出されるのかを見なければならない。

過去には有効だった信念パターンは、困難な時代に対処するのには役立ったかもしれないが、もう有効期限がすぎている。どんな出来事についてのどんな物語を自分自身に語っても、それは常に苦痛を生み出す。

人生で避けていることは、自分がそれにすすんで直面するまで、その本当の性質を見抜くまで何度も戻ってくる。

それが抜け落ちるまで執着していなさい。


幻想に進んで直面する意欲がとても大切。私たちは束縛を経由して、真実と自由へやってくる。物事の幻想的性質を見通すことで、物事の本質を見るようになる。

人生から逃げないこと、実際に起こっていることに正直に辛抱強く直面することが必要。これをするとき、私たちは本当に俗世経由で涅槃にやってくる。

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Written by Shinsaku Nakano <shinsaku@mahoroba.ne.jp>
Last Update: 2012/09/29