三心通信 2007年12月

臘八接心は無事に終わりました。とても静かな7日間でした。少人数で、本当に坐りたい人だけが、腹いっぱい坐れる接心はとても貴重なものだと思います。 11月30日の夕方から12月7日の深夜12時まで坐り、その後「般若心経」を読誦して就寝。8日の朝、8時に起きて朝食を取り、掃除をし、一緒に坐った 人たちと話しをして、昼前に接心が終わりました。9日の日曜日は、いつもの日曜参禅会の行持に加えて、成道会のお経を読み、その後持ち寄りの昼食会をしま した。
12日、午後5時過ぎの飛行機でインデアナポリスを出発、ニュージャージー州のニューアーク空港、(マンハッタンからハドソン川を挟んですぐ隣です。 ニューヨーク市の摩天楼がよく見えます。) で午後10時過ぎのサンパウロ行きの便に乗り換えました。9時間半の飛行でサンパウロに着いたのは午前10時 頃でした。ブルーミングトンとは3時間の時差があります。日系人のご夫婦に迎えにきていただきました。かなり蒸し暑いと聞いていたのですが、温度はそれほ どでもありませんでした。前の日に雨が降って、それまでとても暑かったのが涼しくなったとのことでした。空港からサンパウロの町までは、道が混んでいて1 時間以上かかりました。
午後1時頃にサンパウロの中心部にある仏心寺に到着しました。采川道昭総監を始め、ブラジル各地、コロンビア、チリなどからの参加者約30人ほどが、1週 間の接心の最中でした。私は最後の3日間だけ参加させていただくことになります。昼食をいただいてホテルに帰り4時半まで休ませていただき、お寺に戻っ て、夕食をいただき、6時から最初の講義をしました。私自身は法戦式に首座の本師として出席するだけのつもりで、接心に参加するつもりも、講義をすること も予定していなかったのですが、采川総監のご依頼で3回の講義をすることになりました。采川師とは駒澤大学以来の法友ですので、お断りすることは出来ませ んでした。臘八接心をはさんで、殆ど準備する時間がありませんでしたので、先月フランスでしたのと同じく、「教授戒文」を講本にしました。今回はポルトガ ル語の通訳が入りました。
2日目、14日は5時起床、5時半にホテルを出て、仏心寺まで10分ほど歩き、6時から坐禅がありました。2炷坐って、朝課、行鉢。9時から再び坐禅があ り、10時から11時半まで私の講義。昼食後は1炷の坐禅の後、法戦式のリハーサルがありました。その後また1炷坐って夕食。夕方には、本則行茶。普通は 法幢師か、助化師が本則になる公案の提唱をするのですが、今回は采川総監の指示で首座の伝照さんが本則について自分の理解を1時間にわたって、述べまし た。原稿を英語で書き、ご本人はその原稿を読み、それをポルトガル語に訳したものを通訳の人が読みました。日本では首座をするのは殆どの場合若い人で、問 答も全部暗記するのですから、ちょっと日本では考えられないことです。その後、坐禅がもう1炷あって、1日の終わり。
3日目、15日は、10時から法戦式。それまでは昨日と同じ差定でした。法戦式は日本の寺院で行われるのと全く同じ差定、進退でした。ただ問答では、日本 と違って、暗記したものではなく、夫々が自由な問いをかけ、首座はその場で自分なりの応答をします。ただ首座のとなえごとは英語で行われ、問答では、ポル トガル語、スペイン語、フランス語、日本語が飛び交いました。合衆国でも多くの文化が交じり合っているのですが、私が知っている限りの禅センターでは使用 される言葉は殆ど英語だけです。この点南アメリカや、フランス語、ドイツ語、スペイン語その他が使われるヨーロッパとは大変違います。
午後は、坐禅の後、2時半から私の講義。采川総監の要請で4時45分まで2時間以上話しましたが、三聚浄戒のところまで話すのがやっとでした。十重禁戒に は入れませんでした。フランスでは10回の講義をしてようやく終わったのですから、3回だけの今回は無理もないのですが。
接心は翌16日の午前4時まで夜通し続くのですが、私は講義の後、失礼してホテルに帰って休ませていただきました。
16日には、午前中、伝照さんたちコロンビアの人達と、ブラジル人とチリから来ている人、それに私と6人で町を散歩しました。サンパウロの私たちが滞在し たあたりは、日本や中国の商店やレストランが並んでいる盛り場で、観光客もたくさん来るところでした。狭い通りの両側に隙間なく自動車が駐車していて、車 が通れるのは真ん中1台分だけでした。たくさんの人が歩道を歩き、屋台のような店が無数に出ていました。日本の縁日のような混雑です。私が住んでいるブ ルーミングトンではこんなに路上に人がいることはありえませんので圧倒されました。最も大阪の梅田駅や東京の新宿駅の雑踏に比べればものの比ではありませ ん。ホームレスの人達がたくさん路上で坐ったり、寝転んだりしていたのも目に付きました。最初の日、子供づれのホームレスの家族が寝ていた建物の軒下に、 次の日見るとコールタールのような液体がまかれ、人がおれない様になっていました。この町にも苦しみが多いことが分かりました。
午後からは、ブラジル人の尼僧で、ロスアンジェルスの禅センターや日本の尼僧堂などで長年修行し、仏心寺の開教師を何年もつとめられたソーザ・孤圓師に自 動車でサンパウロの町を案内していただき、孤圓師のお寺、天瑞禅寺をお訪ねしました。
17日午前中は、1月にサンフランシスコ禅センターで行われる眼蔵会で講本に使う「行佛威儀」の講義の準備をしました。采川総監、駐在布教師の越賀師、仏 心寺の理事長の玉田氏と日本食レストランで昼食。仏心寺では、日系の人達を対象とした日本の寺院と同じようなお葬式や年会法事などの檀務と、日系以外の人 達を対象とした坐禅を中心とする活動の両面があること、ブラジルだけではなく、南米各地に曹洞禅が広がりつつあり、それらをつなげて総監部を中心とした ネットワークを作ることに努力されている様子などをお聞きしました。
夕方6時に迎えに来ていただいて、空港に出発。深夜11時過ぎに離陸した飛行機が、来る時に乗り換えたのと同じニューアークの空港に着いたのは午前6時で した。4時間ほどの待ち合わせのあと、10時過ぎの飛行機に乗り、午後1時頃にインデアナポリスに帰り着きました。蒸し暑かったサンパウロと季節は反対に なり、ニューアークでも、インデアナポリスでも、ブルーミングトンでも雪が積もっていました。

三心寺に帰ってきてはや1週間がたち、今日はクリスマスイブです。昨日までよく雨が降り、時には雪がチラついていたのですが、今日はよく晴れた穏やかな日 和です。ともあれ、これで今年の予定は総て終わり、あと1週間ほどで2008年が始まります。数えてみると、今年は旅行で三心寺を留守にしたのが、全部で 113日に上りました。一年の3分の1近く留守をしていたことになります。来年の6月には還暦になります。体力が落ちているのも年々わかるようになりまし た。他所に行くのをなるべく控えて、三心寺で落ち着けるようにと願っています。
この願いがかなうのはいつになることか?来年一月には早々に東京の宗務庁の会議に出席するために日本に行き、そのあとすぐに、例年のサンフランシスコ禅セ ンターでの眼蔵会があります。

皆様どうぞよいお年をお迎えください。来年もまたよろしくお願いいたします。

奥村正博 九拝


三心通信 2007年11月

11月14日にブルーミングトンを出発し、フランスに行きました。今年の6月にヨーロッパ開教40周年の記念行事があったのと同じ禅道尼苑で、9月から 3ヶ月間の安居が行われています。曹洞宗が始めて海外で主催する結制安居です。私は5日間だけ講師として参加しました。15日にパリの空港に着くと、折か ら公務員のストライキがあって、鉄道はストップしていましたので、3時間ほどかかる禅道尼苑から横山泰賢師に自動車で迎えに来ていただきました。
「教授戒文」を講本にして7回講義をするように依頼されていたのですが、私の英語での話しにフランス語の通訳が入ったもので、時間の配分がいつもと違い、 結局9回講義をすることになってしまいました。道元禅師の「教授戒文」自体は短いテキストですが、仏教の倫理的基礎、具足戒と菩薩戒との違い、菩薩戒と宗 門の禅戒との同異、そして「梵網経」の十重禁戒、「菩提達磨一心戒文」、と道元禅師の「教授戒文」に於ける16条戒についてのコメントを比較すること、坐 禅と戒の関係、等等、宗門の戒をはっきりと理解するためには考えなければならないことが無限にあります。それに加えて、現代の世界に於ける倫理と仏教或い は宗門の戒律との関係などを考えるとすれば、いくら時間があっても足らないでしょう。もちろん、時間の制限のせいだけではなく、私の勉強と語学力が不足し ているせいで、そこまでは話せませんでした。
フランスでは、氷が張ったり、霜が降りたり、ブルーミングトンよりかなり寒かったのですが、こちらに帰ると木々の葉はすでに落葉し、すっかり初冬のたたず まいになっておりました。
フランスから帰ってからは、来年1月サンフランシスコ禅センターでの眼蔵会の講本とするために「正法眼蔵行佛威儀」の翻訳を仕上げる事に時間を費やしてお りました。「行佛威儀」は「私記」を書いた蔵海師が「予久しく行佛威儀に参ずといへども、宿惑のとけがたき、懈怠蹂懶とのゆへをもて、面牆而立のごとくな りき、」と「行佛威儀私記」の最初に書いていますが、私も同様で、是まで何回読んでもほとんど理解できませんでした。西有禅師の「啓迪」や内山老師の提唱 をよんでも、そこに書かれていることは理解できても、「眼蔵」の本文が如何してそのように読めるのかが分かりませんでした。今でも本当に読めているか自身 がありませんが、一度は挑戦してみないと「眼蔵」の先の巻きに進めないと覚悟を決めて翻訳に取り掛かりました。しかも是を英語で話さなければならないので すから、どうなることか全く自信がありません。
すでに11月も終わりになり、本日の夕方から、恒例の臘八接心がはじまります。12月7日の深夜12時まで、内山老師がおられたころ京都の安泰寺で行われ ていた接心と同じ差定で、1炷50分、一日14炷坐禅だけの静かな接心です。スウェーデン人が一人、アイスランド人が一人、オハイオ州、フロリダ州から来 る人達と、ブルーミングトンで私といつも坐っている人たち、全部で9人だけです。この接心に参加するために何十人もの人が来るようになることは考えられま せんが、わざわざ外国や、アメリカの中でも遠方から来てくれる人が毎年2,3人はあります。
何回も同じ事を書きますが、この接心は何年続けても、慣れて、平気で楽々と坐れるということがありません。直前になると、なにか重苦しい気分になり、無事 に全部坐れるだろうかと心配になります。接心が始まってしまうと、そういう気分もどこかに行ってしまって、一炷ずつ唯坐るだけになるのですが。特に近年、 体力が衰え、膝や腰に痛みを感じるようになってきたもので、後何年この接心が続けられるのだろうかと考えざるを得ないようになりました。
例年ですと、臘八接心が終わると一年が終わったようなもので、後は新年を迎えるばかりなのですが、今年は、接心が終わってすぐ、12日からブラジルのサン パウロに行かなければなりません。私の弟子になっている南米コロンビア人の伝照さんがサンパウロの両大本山別院の仏心寺で、南アメリカ国際布教総監の采川 道昭師を法幢師として、12月15日に首座法戦式をさせていただくので、それに参列するためです。来月はブラジルでの経験を書かせていただきます。

11月30日
奥村正博 九拝


三心通信200710

 

すでに11月には言って一週間が過ぎてしまいましたが、10月の通信を書いております。 遅れてしまいましたことをお詫びします。

10月の5日間のリトリートが終わった後、ノースカロライナ州西部、テネシー州との州境に近い山間 の地にあるホット・スプリングという町に行きました。温泉があるのでこの名前がついています。ここで毎年この時期にウォーキング・リトリートをしていま す。昨年は紅葉の真っ盛りだったのですが、今年は暖かいせいか、まだ緑のほうが多い感じでした。この夏は気温が高く、雨が少なくて、フレンチ・ブロード川 の水位も例年に比べると異常に低く、このあたりの山々に野生している石楠花の木々は可哀想なくらいにしおれていました。私と家内を入れて123人の参加者がありました。その 中に写真家の人がいていい写真を撮ってくれましたので一枚添付します。

その次の週には、ハワイと北アメリカの日系の寺院の檀信徒大会がネバダ州のラスベガスで ありました。国際布教師の先生方や、窮地の檀信徒の方々とお会いして楽しい時を過ごしましたが、会場のカジノ兼ホテルは騒々しくて私むきの場所ではありま せんでした。

ラスベガスから帰ったあくる日、23日には、ダライラマがブルーミングトンに来られてカソリックの教会でインター・フェイス(Inter-faith)の祈 りの集会があり、それに招待されていたもので、準備のために剃髪をし、頭を洗おうと腰をかがめた瞬間に腰にぎくりとした痛みが来ました。そのときにはさほ どとは思わなかったのですが、法衣に着替えて、迎えの自動車に乗り込もうとした時には痛みで座席に坐ることができませんでした。それから4日間をベッドで過ごしました。4日目に歩けるようになり、カイ ロプラクターに行きましたが、全快には至らず、31日から一昨日5日までの眼蔵会では、朝の最初の1炷の坐禅を椅子に座ってし、講義の時もいつもは座蒲に坐ってするのですが、今回は椅子に 座らせていただきました。この通信を書くのが遅れたのもそれが原因です。

今回の眼蔵会では、昨年11月、今年5月の三心寺での眼蔵会に引き続いて[辦道話]を講本にしました。3回でようやく読み終わりまし た。一回の眼蔵会では、90分の講義を9回しますので、全部で27回の講義をしたことになります。道元禅師の主要な著作は殆ど英語に訳されていますが、日 本語の現代語訳を読んでも行き届いた理解が出来るわけではないのと同様、英語訳を読んだだけで道元禅師が云われることを、坐禅修行や生きるうえでの滋養や 活力になるほどに理解することは殆ど不可能です。英語で書かれた解説書や提唱本もまだ殆どありませんので、一つ一つの表現の意味、日本の仏教の歴史、禅宗 の歴史、仏教全体の流れの中での道元禅師の教えの意味などを少しだけでも理解してもらうにはこれくらいの時間をかけなければなりません。もちろん私自身の 理解もそれほど深くもなく、知識も広くはなく、英語での表現能力も限られていますので、とても十分とはいえませんが、努力を続けて行きたいと願っておりま す。熱心に聴いてくれる人があるのが私にとっては救いであり、励ましであります。

ブルーミングトンでは秋の盛りを少し過ぎたところです。落葉して枝だけになった木々が目 立つようになりました。

 

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奥村正博 九拝





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三心通信 2007年9月

8月29日から9月3日まで5日間の接心がありました。7月は旅行が多くブルーミングトンにいたのは2,3日だけでした。8月は、アトランタから帰ってか ら、本拠地で一息つくことが出来ました。京都の安泰寺で内山老師が始められた、1日14炷、坐禅だけの接心は、今でも私の生活の中心です。あるいは基盤と いった方がいいのかもしれません。ここでは、年に五回しかできませんが、外の一切を手放しにして、壁に向かって坐っているだけの接心に支えられて、今まで 生きてこられたのだと思います。
接心のあと、13日から20日まで、テキサス州オースティン市の禅センターで5日間の眼蔵会がありました。今回は「正法眼蔵恁麼」の巻きを講本にしまし た。拙いながら、自分の英訳を作る作業を通して、道元禅師の言葉が、単なる言葉ではなく、坐禅とともに私の今までの生活を支えてくれてきた生命のあり方か ら湧き出てくるものとして味わうことが出来ます。英語に翻訳したり、それを亦英語で説明することは、大変に難しいことで、時には絶望を感じることもありま すが、聞いてくれる人々の熱心さが、亦私を支えてくれています。
オースティン市から帰ってからは、来年1月サンフランシスコ禅センターである眼蔵会のために「行佛威儀」の巻きを訳し始めています。これまで何回も読みま したが、未だによく理解できているとは言えない巻です。翻訳作業を通して、一語一語の意味を調べなおしております。いみじくも、「しかあれば、句中取則 し、言外求巧する再三撈ロク、それ把定にあまれる把定あり、放行にあまれる放行あり。」という文を今英語に訳そうと苦労しているところです。言葉の中には 真実そのものはないという真実を言葉の中から、言葉を使って取り出さなければならない。そのために、どこまでも言葉の意味を把握することと、言葉や、言葉 を使った思考を手放しにすることを続けていかなければならない、ということでしょう。このようなことは、身体で思いの手放しを実際に行ずる坐禅をしていな ければ、それこそ頭の中のぐるぐる廻りで終わってしまうことだと思います。
今日の夕方から5日間のリトリートが始まります。リトリートは接心とは違って、坐禅、講話、作務などがある研修会です。昨年から、内山老師の「生命の実 物」を中心にして、いくつかの老師の文章をまとめて英語に訳した、「Opening the Hand of Thought (思いの手放し)」をテキストにして、一回に一段落ずつ話しをしております。これは「正法眼蔵」の翻訳とは違って、楽しい仕事です。

10月に入って、ブルーミングトンでは秋の気配がし始めました。今年は胡桃の木に実が沢山なっています。リスたちが冬の食料に、地面に落ちた胡桃の実を集 めて廻っているところです。
日本では最も遅い猛暑日が何回も記録されたということですが、お彼岸も過ぎた今、暑さも一段落したことと存じます。どうぞお元気でお過ごしください。

忙しさに負われて、9月中に三心通信を書くことが出来なかったことをお詫びいたします。

2007年10月3日
奥村正博 九拝


三心通信 2007年6月、7月、8月

6月から今まで波状的にいろいろなことが起こって、この通信を書くことが出来ませんでした。お詫びを申し上げます。この3ヶ月の間に起こったことをまとめ て書かせていただきます。

6月
6月4日に三心寺での接心が終わった翌日、フランスに出発しました。ヨーロッパの開教40周年記念行事としてのシンポジウムに発表者の一人として参加する ためでした。ヨーロッパに行くのは生まれて初めてでした。5日に夕方インデアナポリスを出発し、途中ニューアークで飛行機を乗り換えて、パリの空港に着い たのが6日の午前10時。パリにある曹洞宗ヨーロッパ国際布教総監部にご挨拶した後、ルーブル美術館の中を通ってセーヌ川に反対側にあるホテルまで、歩き ました。夕方には、スウェーデンから来たステンさんとヨハンナさんと出会い、散歩をし、夕食をともにしました
7日。昼過ぎ、日本から来られた愛知専門尼僧堂の青山俊董老師とお会いし、総監部の横山泰賢師運転の自動車で会場である禅道尼苑へ移動。パリから3時間ほ ど南西に下ったブロアという町の近くにあります。我々はブロアにあるホテルに宿泊して、毎日会場に通います。ホテルにチェックインの後、会場に行きまし た。禅道尼苑の内部を視察し、夕食をご馳走になってホテルに帰ると10時を過ぎていました。その頃まで明るいので驚きました。
8日、9日、10日と記念行事があり、午前中は法要、午後はシンポジウムという日程でした。私は第1日目の最初の発表者でした。シンポジウム全体のテーマ が「仏教の普遍性」ということでしたので、「道元禅師の坐禅の独自性と普遍性」と題して話をしました。日本語、英語、フランス語に通訳されますので、私は 先ず英語で原稿を書き、其れを日本語に訳しました。事前にヨーロッパの総監部にその原稿を提出し、フランス語訳が作成されていました。私は英語の原稿を読 み、通訳のブースで日本語訳、フランス語訳が読まれそれがヘッドフォーンを通して会場に人達に伝わるという方式でした。青山老師と私以外の発表者は、フラ ンス人のレッシュ・雄能師、ワンゲン・霊元師、イタリア人のグアレスキー・泰天師、マラッシ・悠心師、ドイツ人のテンブロイ・天龍師、そしてヨーロッパ総 監部の横山泰賢師でした。会場には400人以上の人々がおられました。マラッシ・悠心師は80年代に7年間安泰寺に安居していた人でその頃からの知り合い です。
10日の昼食ですべての行事が終わった後、パリに帰りました。パリでは、アメリカ人でパリに住んでいるクリスさんのアパートに泊めていただきました。以前 ノースカロライナ州のシャーロット市に住んでいたころ接心を一緒にしたことのある人です。そのアパートはエッフェル塔のすぐそばにあり、セーヌ川も見下ろ せるところでした。11日、12日とステンさんやヨハンナさんとアジア・アートの美術館やその他いろいろ、パリの街を見物しながら歩きました。町全体が博 物館のようで驚きました。12日の朝にはクリスさんに案内してもらって、パリの禅道場の朝の坐禅に参加しました。13日朝、10時くらいの飛行機に乗り、 インデアナポリスに着いたのは同じ日の夕方6時頃でした。
フランスから帰って一日措いた、15日と16日には三心寺のボード・ミーティング(理事会)がありました。三心寺を創立し、ブルーミングトンに移転してき て4年が過ぎ、坐禅や、仏教、道元禅師の教えの参究など修行の面はカタチがはっきりとしてきたのですが、運営や事務的な面はまだまだ整備が必要ですので、 其れについての論議が主に行われました。
一週間後の24日の日曜日には首座法戦式がありました。4月から始まった今回の夏期安居の首座は正道・スプリングさんでした。秋葉玄吾総監老師に助化師と しておいでいただきました。昨年と同様、23日には彰顕・ワインコフ師が創立されたアイオワ州の龍門寺で首座法戦式があり、それが終わってからインデアナ ポリスまで夜10時過ぎに到着する飛行機で来られて、空港近くのホテルで一泊し、24日の朝9時頃に三心寺ご到着、法戦式が終わった後、御法話をいただ き、昼食もそこそこにインデアナポリスの空港にとって帰して、その日のうちにカリフォルニアに帰られるという強行日程でした。宗務庁の規定で、首座法戦式 を行うには助化師を招聘し、10名の出家得度者が会衆としていなければならないとのことなのです。助化師となることが出来るのは北アメリカでは総監老師お 一人ですので、法戦式があるところにはアメリカ中何処でも、必ず総監老師が行かなければならないというのが現実です。また、インデアナ州の曹洞宗宗侶がい るお寺は三心寺唯一つですので、10名の出家者に参集してもらうのも大変です。州外から飛行機や自動車で来てもらわなければなりません。そして、3ヶ月の 修行期間の行事の一つとしての首座法戦式ですので、日本の晋山式と一緒にやる法戦式とは違って、特別な予算があるわけではなく、旅費や謝礼も出せませんの で、時間と旅費を使ってきてもらわなければなりません。自動車で来るといっても州外から来るには少なくとも10時間以上はかかります。日本のように一つの 街に宗門寺院が10も20もあるのとは全く事情が違いますので、同じ規則を適用されると大変です。
首座法戦式が終わって2日後、27日から7月2日まで、夏期安居の最後の大きな行事である禅戒会がありました。毎年7月に、戒律の勉強と希望者があれば授 戒会を行っています。4日間、「教授戒文」をテキストにして道元禅師の戒についての参究をし、最後の日に、4名の人が受戒をしました。

7月
禅戒会及び3ヶ月間の夏期安居が無事に終わって、休むまもなく、7月3日に日本に出発しました。4日の夕方成田について、5日、6日と東京の宗務庁で行わ れた会議に出席しました。その後3日間、八王子市に住むジョン・マクレー氏と翻訳の仕事をしました。ジョンさんはブルーミングトンにあるインデアナ大学で 教えていたのですが、三心寺が出来てまもなく日本に移転されたのです。1970年頃に京都で柳田聖山先生について中国禅宗史、ことに北宗禅の研究をした人 です。今日本語に翻訳しているのは、「Seeing through Zen」という原始禅から宋代の禅までの中国禅宗史を新しい視点から概観した著書です。外国人で禅の研究をしている学者はかなりあるのですが、ジョンさん は日本の学者や学生は英語の論文や著作を読んでくれないので、自分の研究を日本語に訳して日本人の学者に読んでもらいたいと考え、私が翻訳をすることにな りました。カリフォルニアからブルーミングトンに移転するに際して、私はハーフタイムになり、収入も半分になりましたので、この翻訳の第一稿を作っていた 1年間、ジョンさんから毎月500ドル翻訳料としていただいていました。私と家族が何とか生き延びられたのはそのおかげなのです。
その後、10日から20日まで例年のように駆け足旅行で各地を回り、懐かしい人、三心寺や私の弟子たちが日本にいる間にお世話になった人達をおたずねしま した。内山老師のお墓にもお参りさせていただきました。
また教えを受けた師匠や先生や、お世話になった先輩の方々だけではなく、同年代の人達が一人二人、亡くなったということも聞きました。私自身がそういう年 代に達しつつあるということだと思います。無常迅速を今更のように心に刻まなければなりません。そして30年以上も前に一緒に修行した人達がその人なり に、様々な状況の中で同じ姿勢で生きておられることに深く感銘を受けました。私も道心のタガを締めなおして、これから残されている年月を生きていかなけれ ばと志を新たにさせていただきました。
私が日本にいる間に大きな台風と地震がありました。新しい世紀に入っても天変地異が減るどころか、日本やアメリカに限らず、地球全体がこれからどうなって いくのだろうかと心配になるほどです。
7月20日にブルーミングトンに帰り、1日おいた22日にはアイオワ州アイオワシティに、家内、息子と3人で行きました。1993年に私たち家族が再びア メリカに来るきっかけを作ってくれ、その後も昨年まで三心禅コミュニティの理事として、私やお寺や家族を支えてくれた、スティーブ・フォックス氏が5月末 に急になくなられ、その四十九日の法要をするためです。お葬式の日にはフランスにいたもので出席できなかったので、日本から帰った直後で時差ボケの中でし たが、行かせていただきました。アメリカに来てからもスティーブさん以外にも数え切れないくらいの人々にお世話になり、支えていただいて今日まで何とか家 族ともども生き延びて来れたことに感謝せずにはおれません。この機会にアイオワシティから近いシダー・ラピッドの町にお寺を作られている瑞光・レッディン グ師を訪ねました。
25日にアイオワシティから帰って、3日休んで、29日からジョージア州のアトランタ市に行きました。同センターを30年前に創立し、ずっと指導してきた 泰雲・エリストン師に嗣法するのと、5日間の接心に講義をするためです。泰雲師は、戦前にアメリカに開教師としてこられ、その一生をアメリカ人に禅を伝え るために過ごされた松岡操雄師にシカゴで出会い、それ以後の半生、坐禅を続けてきた人です。事情があって、私から嗣法を受けることになりました。講義には 自分で英訳した「正法眼蔵全機」の巻きを講本にして話しました。「全機」という表現の仏教としての意味を説明するために時間がかかってしまって、テキスト の第1ページくらいしか話せませんでした。

8月
アトランタから帰ってきたのは8月5日でした。7月3日に日本に出発して以来、席の温まる間もないという表現がぴったりなほど旅行が続き、時差ボケの中で 動き回りましたので本当に身体の芯から疲れたという感じでした。8月は三心寺は夏休みで、朝夕の坐禅以外の行事はありません。1週間は何もしないで休ませ ていただきました。というよりも何もする気力も体力もありませんでした。この日曜日から坐禅を始めました。ようやく気力も戻ってきました。
今月の29日から5日間の坐禅だけの接心が始まります。そのあと9月13日からテキサス州オースティンで眼蔵会があります。「正法眼蔵恁麼」を講本に使う 予定で今春からテキストの翻訳を準備してきました。その訳を見直し、講義の準備をしなければなりません。

以上、6月から今までのことを順を追って書き付けました。



三心通信 2007年5月

3月中旬にロスアンゼルスに行って以来2ヶ月半の間、旅行無しで三心寺に落ち着いております。本拠地で、サンガの人達と差定どおりの坐禅を中心にした生活 ができることが何より贅沢な生活だと思います。4月はじめから始まった夏期安居もおよそ三分の二が経過しました。明日から6月4日まで5日間の坐禅だけの 接心が始まります。

道元禅師は「知事清規」の監院の章の中で、「たとい七八九衆なりとも、道心あり稽古あるがごときは、龍象よりもすぐれ、聖賢よりも勝れたり。いわゆる道心 とは、仏祖の大道を抛撒せず、深く仏祖の大道を護惜するなり。ゆえに名利抛ち来り、家郷辞し去り、黄金を糞土に比し、声誉を涕唾に比し、真を瞞かず、偽に 順わず、規縄の曲直を護し、法度の進退に任す。ついに仏祖家常の茶飯をもって賎価に売弄せざるは、すなわち道心なり。」
道心(菩提心)について道元禅師は3つの方面から説かれています。「学道用心集」の第1則では、無常を感じる心が菩提心だといわれます。「正法眼蔵発菩提 心」の巻では、「自未得度先度他」の誓願を起こし実際にそのために働くことが菩提心だといわれます。菩提心には知恵の面と慈悲の面があるということでしょ う。「知事清規」のこの個所では道心(菩提心)のもう一つの面が説かれています。佛祖方が伝えてこられた、毎日三度三度ご飯を食べお茶を飲むような、何の 変哲もない、当たり前の坐禅を中心とした自受用三昧の生活を、何の変哲もなく継続してゆき、それを売り物にしないことが道心だといわれています。今アメリ カの中西部、インデアナ州のブルーミングトンという小さな町で、5日間、1日に14炷黙って坐るだけの接心をしたり、私が下手な英語でする「正法眼蔵」の 講義を聞いたりしても名誉にも利益にもならないことは誰の眼にも火を見るよりも明らかです。それにも拘らず、何人かの人がただ自己を学び、坐るためだけに アメリカ合衆国各地だけではなく、カナダやフランスや南米のコロンビアからも来てくれます。私には伝統的な僧堂の修行を指導する力量はありませんから、た だお互いに道元禅師の教えを参究し、黙々と坐っていくだけですが、佛祖の大道を大切にして参りたいと願っております。
先月の三心通信に、日当たりの良くない建物の西側の土地に苔庭を作り始めたと書きました。原稿を書いたり、翻訳をしたり、講義の準備をしたりする合間を見 て、下にある苔を傷めないように芝生を一本ずつ手で抜いていきました。昨日、境内にある竹薮の竹を利用して芝生と苔庭の境目になる垣根を作りました。また 家内が日陰に適した植物を植えたり、苔を移植したり、踏み石を置いたりしております。手作りですが、だんだんと苔庭の形をなして来ました。いつの間にか庭 いじりが楽しみな年齢になってしまったようです。
明日から始まる接心が終わると、私の生活は再び一転して、バタバタと動き回ることになります。6月4日に接心が終わると、5日にはフランスに行きます。 ヨーロッパで曹洞宗の布教活動が始まって40年になる記念の行事の一つとして、「仏教の普遍性」をテーマとしてシンポジウムが催され、それに発表者の一人 として招待をいただいたのです。私は「道元禅師の坐禅の独自性と普遍性」と言う大層な題で話をすることになりました。当日私は英語で発表しますが、ヨー ロッパ各地から来る人々、日本からおいでになる方々のために、あらかじめ書いた原稿をフランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語そして日本語などに翻 訳しておき、当日発表にあわせて何ヶ国語かで読まれるのだそうです。自分で英語で書いた原稿を自分で日本語に訳するのは変な感じがしました。
しかし、このように多くの言語を話す人々が一堂に会して、仏教や道元禅師の教えについて発表し、議論しあえるというそのこと自体が、何よりも端的に仏教や 坐禅の普遍性を示しているのだと思います。来月は生まれて始めていくヨーロッパの経験についてお伝えできると存じます。
6月13日にフランスからブルーミングトンに戻ると、夏期安居の後半の行事が待っています。25日、16日に三心寺の理事会。次の週には首座法戦式。その 次の週には5日間の禅戒会があります。禅戒会の最終日に当たる7月2日には4人の人が受戒します。今絡子を縫っているところです。法名をつくり、血脈の準 備をし、絡子の裏書のお習字をするという私の最も苦手とすることが待っております。
それが終わると、7月3日に宗務庁で行われる会議に出席するために日本に行く予定です。会議の後、例年のように10日間ほど日本各地を回って、できるだけ 多くの方々にお会いしたいと願っております。7月20日に日本から帰ると、1週間ほどでジョージア州のアトランタに接心の指導に行きます。そのあたりまで 考えるのがせいぜいで、その後のことはまだ視野の中に入ってきません。一つ一つ今直面していることに全力を尽くしていくように努力をします。

5月29日
奥村正博 九拝






三心通信 2007年4月

すでに4月も残り少なくなってきました。3月のこの通信を書いた頃までは、暖かくて、桜が咲き出し、様々な花が咲き始めていたのですが、4月に入ってから また寒くなり、ちらちらと雪が降ったり、霜が降りたりして、およそ半月の間冬が戻ってきたような感じでした。新しい芽を出していた紫陽花や桔梗は霜にやら れて、紫陽花は完全にしぼんでしまい、桔梗は凍傷にかかったようにちじれて黒くなってしまいました。桜やその他の木々の新芽もかなりの被害を受けてきれい な深緑とはいえなくなってしまいました。
建物の西側は木がたくさんあって、日当たりが良くないために芝生が良く育ちません。芝生の下に苔が生えていましたので、いっそのこと苔庭にすることにしま した。それで芝生を抜き、苔が生えていないところには、敷地内の別の場所の苔や、知人のところからもらってきた苔を家内が移植しております。
今月4日から7月2日まで、例年通り、3ヶ月の夏期安居が始まりました。毎月5日間、4月は、コミュニティ・リトリート、5月は眼蔵会、6月は坐禅だけの 接心、7月は禅戒会、があります。それ以外には、土曜日以外の週6日間朝5時から2炷の坐禅、7時から略朝課、掃除、朝食、月曜日から木曜日までの4日間 は、9時から12時まで作務があります。夕方は月曜日から木曜日まで坐禅。水曜日は坐禅の後、7時から8時半まで勉強会があります。今月から、「典座教 訓」を読んでいます。眼蔵会では「辦道話」を読みますので、日常生活における自受用三昧として、「典座教訓」の教えを学んで行きたいと願っております。
3ヶ月間ずっと安居するのは、私を含めて出家者が5人、在家者が2人ですが、毎朝の坐禅には、10人ほどの人が一緒に座ります。毎月5日間の接心などには 15人ほどの人が参加します。眼蔵会の時には20人近くになり、坐禅堂は満員になります。
日曜日には、早朝の坐禅の他に、9時から坐禅1炷、10時から法話、11時から茶話会、12時からデスカッションがあります。毎週およそ15人ほどの人が 参加します。夏期安居の間は、首座の正道さんが法話をしています。ミネアポリスの禅センターで片桐老師にかなり永い間参禅し、カリフォルニアの禅センター にも何年間かいた女性です。2005年にこちらで得度をしました。
まだまだ規模は小さいですが、それなりに坐禅の道場としての形は整ってきています。ことに、20歳代の若い人達が増えてきて、頼もしく思っています。
この夏期安居の間はやむをえない場合を除いて旅行をしないようにしています。今年は6月にヨーロッパの曹洞宗国際布教40周年の記念行事があり、シンポジ ウムの発表者の一人として参加することになりましたので、1週間だけフランスに行きます。話はいろいろと聞いておりましたが、ヨーロッパにはこれまで足を 踏み入れたことが無いので、あちらでの坐禅の状況がどのようなものか、この目で見られるのを楽しみにしております。

4月28日
奥村正博 九拝

花まつり


三心通信 2007年3月

2月15日からカリフォルニアのカーメルという小さな町に行きました。昨年も行ったところです。16日から18日まで、3日間の眼蔵会風のリトリートがあ りました。「正法眼蔵全機」を講本にして参究しました。
カーメルはサンフランシスコから自動車で2-3時間南に行った海岸沿いの町です。20年以上も前のことだと思いますが、俳優兼監督のクリント・イースト ウッドが市長になったことで一時日本でも話題になりました。高級住宅地、別荘地、そして観光地で、美しい砂浜や岩がゴツゴツとした磯があります。インデア ナポリスから来る時に飛行機を乗り換えたミネアポリスでは、摂氏では氷点下20度くらいで、雪と氷に覆われていたのに、この海岸ではラバー・スーツを着た 人達がサーフィンをしています。家々の庭には様々な名前も知らない花が咲いています。アメリカの各地を、西海岸から東海岸まで、北はアラスカから南はフロ リダやテキサスまで行った経験がありますので、気候の違いには、今更驚くことはありませんが。
19日、朝4時半に起き、サンノゼ空港行きのバスに乗りました。オレゴン州のポートランド空港に着いたのは昼過ぎでした。ポートランドの町から車で1時間 半ほどの小さな田舎町にあるグレート・バウ・禅・モナスタリー(大願寺)で、その日の夜から25日まで1週間の涅槃会接心がありました。「正法眼蔵八大人 覚」を講義するように依頼されました。これは眼蔵会とは違い、1時間の講義が日に一度だけでしたので、幾分余裕が持てました。
アメリカ西海岸の北の方は、気温は比較的高いのですが、とても湿気が多いところで、今回も日本の梅雨のように毎日雨が降りました。殆どの樹木にコケが生え ていて異様な感じがします。林業と製紙業が盛んなところで、森林から切り出した材木が港に大量に積まれてありました。そのうちのいくつかは日本にも運ばれ るのだそうです。日本の林業が不振になり、森林が荒れるようになったのは、外国から安価な材木が輸入されるようになったからだと聞きましたが、飛行機から 見たこのあたりの森林の広大さから、安価なのは納得できるような気がしました。
カーメルに着いた日から歯が痛み出し、ブルーミングトンに帰ってくるまで続きました。私は、これまで歯が痛くなった経験が殆どなく、歯医者に行ったのは、 子供の頃、歯が生え変わる時期に、古い歯が抜ける前に新しい歯が生えてきたときと、20年ほど前に歯の掃除をしてもらったのと、2回しか経験がありません でした。虫歯は未だに一つもありません。このことに関しては両親に感謝しなければなりません。歯が丈夫なのは、子供の頃、私が生まれたのは昭和23年です が、終戦後それほど時間がたっていなかったので、まだ日本中が貧しく、甘いお菓子がなく、ダシジャコ(大阪では煮干のことをこうよんでいました)ばかり食 べていたからだと両親から言われたことがあります。
ブルーミングトンに26日に帰って、すぐに歯医者に行きました。痛みは、親知らずの周りの感染症だということで即日抜かれてしまいました。それだけでな く、歯槽膿漏になっているとのことでした。歯の痛みの経験がないので、手入れの必要も感じず、殆どほったらかしだったものですから、仕方がありません。現 在まだ治療に通っております。
歯だけではなく、還暦が近くなってきて、身体のあちこちにガタが来ているようです。3月の接心、3日目から坐ろうとしたのですが、暁天の2炷坐っただけで 腰が痛くなり、ほとんど全休しました。中年、壮年が終わり、老年に近づいているのでしょう。少し手入れが必要なようです。
4月4日にコミュニティ・リトリートが始まります。それが7月まで3ヶ月間の夏期安居の始まりでもあります。6月に1週間、フランスに行かなければなりま せんが、それ以外はブルーミングトンに落ち着いて居れます。この間に出来るだけ身体の手入れもしたいと願っております。
一昨日から、三心寺の庭の桜が咲き始めました。木々にうっすらと緑の新芽が見えてきました。



2007年1月、2月

今年は、1月3日から正月接心が始まりましたので、お正月気分は殆どありませんでした。 8日に接心が終わり、その2日後、11日にサンフランシスコに行きました。12日から19日まで7日間の眼蔵会をするためです。できれば接心を一週間遅ら せたかったのですが、この眼蔵会があるためにそれができませんでした。
今回の眼蔵会では、「正法眼蔵諸法実相」を講本にして参究しました。この巻きは、今まで日本人が全訳した「正法眼蔵」の一部として2回訳されただけで、そ れ以外の訳は見つけられませんでした。それで、自分で翻訳をすることから始めなければなりませんでした。「諸法実相」を理解するには「法華経方便品」、 「中論青目釈第18章観法品」、天台智顗の「摩訶止観」、そして日本天台での「諸法実相」の解釈のされ方など基礎知識がないと、道元禅師がこの巻きで何を いおうとしておられるのか理解できませんので、中国語、日本語の仏教書が読めない人には理解することが難しい巻きでしょう。私自身も、十分に参考書がな く、また眼蔵会の準備の勉強をする時間も余りありませんので、どれだけ正確に「諸法実相」についての道元禅師以前の人々の思想や、道元禅師ご自身の考えも 理解できているのか心もとないところがあります。それでも「諸法実相」が分からないと「正法眼蔵」全体がはっきりとしませんので、あえて挑戦しました。
眼蔵会が19日の金曜日夕方に終わり、20日の土曜日にはバークレーの禅センターに移動して、昨年と同様に良寛の坐禅についての漢詩のいくつかについて、 午前と午後話しをしました。「正法眼蔵」の講義を、一日に2回、合計3時間、7日間続けた後では、良寛さんの詩の話をするのはとても楽しいことでした。
その翌日21日にサンフランシスコから東京に行きました。宗務庁で行われた国際布教実務者会議出席のためです。22日の夕方に成田に着き、23日は1日会 議でした。
その後4日間、八王子に住むジョン・マクレー氏と、中国禅宗史についてのその著書「Seeing through Zen」訳の仕事をしました。2003年から04年にかけて私が日本語訳第1稿をつくりましたが、私の翻訳の手法として、正確を期するため第1稿はガチガ チの逐語訳で日本語としては読みづらいものでした。それから少しこなれた日本語で私が第2稿を作り、それに基づいて原著作者であるジョンさんと第3稿を作 成しているところです。アメリカ人の学者が書いた中国禅宗史の本が日本語で読まれることは大変意味のあることだと思います。ジョンさんが自分の著書を日本 語に訳したいと思ったのは、外国の学者がいくら外国語で論文や著書を書いても日本人の学者は読んでくれないからということでした。日本人の、特に宗門に属 する学者からは出てこない発想がいくつもあって、訳しながら目から鱗が落ちたように感じたことが何度かありました。
ジョンさんの住まいの近くの散歩道からは富士山が見えました。暖冬で周りには雪など全くありませんでしたが、真っ白な富士山の頂上を見てようやく冬の日本 にいる感じがしました。
日本からブルーミングトンに帰ったのが29日。帰りの飛行機の中でインフルエンザをもらったらしく、三心寺に着くやいなやベッドに直行し2日間何も食べな いで寝ておりました。少し回復してから、締め切りが過ぎていた原稿を2本書き終えると2月に入ってすでに1週間が過ぎておりました。以上、1月の三心通信 がかけなかった言い訳です。
2月は三心寺では接心もリトリートもありません。第2の週末に、出入り自由で、食事も出さない、いつ来ていつ帰ってもよく、坐りたいだけ坐ればよいとい う、涅槃会接心があります。それが終わると、15日からカリフォルニアのカーメル、その後オレゴンの禅センターで7日間の接心があります。今日から講義の 準備を始めなければなりません。カーメルでは「正法眼蔵全機」、オレゴンでは「八大人覚」を読むつもりで居ります。今年もバタバタとあちこち飛び回りなが ら、三心寺の行持と、原稿書きや講義の準備をする日々が続きそうです。

2月7日
奥村正博 九拝