三心通信 2006年12月
ブルーミングトンに三心寺を創立し、坐禅修行を始めてから、3年半が経ちました。 2006年も後一週間で終わろうとしております。今冬は暖かい日が続き、今外では雨が降っています。雪は臘八接心中に、うっすらと霜が降りた程度に降った だけです。先週、所用でサンフランシスコに行く途中、乗り換えのためミネアポリスの空港に寄りましたが、寒いので有名なミネアポリス近辺でさえ雪が全くあ りませんでした。暖かくていいようなものの、地球温暖化の病理現象なのではないかと心配にもなってきます。
今月はじめ、毎年恒例の臘八接心がありました。例によって7日間、3度の食事を除いて、 毎日14炷の坐禅だけの接心です。7日間全部坐ったのは7,8人でしたが常時10人前後が坐禅堂に坐っていました。近くに住む人で何炷か坐りに来た人を含 めると15人くらいになりました。ブルーミングトンの外からきた人は、南アメリカ・コロンビアの伝照さんだけでしたので、身内だけの接心という感じで、落 ち着いて坐れました。この時期には多くの禅センターで臘八接心がありますので、他所の禅センターで坐っている人が来ることは余りありません。
私は1970年の12月8日に出家得度を受けましたので、毎年臘八接心が終わる日は、私 の得度記念日ということになります。今年は36年目です。師匠の内山老師は私と36歳違う同じネズミ年でしたので、私が得度した時の師匠の年齢に達したこ とになります。振り返ってみればあっという間だったような気もします。とにかく、胡乱の歩みではありますが、その時々に多くの人々に支えられてこれまで坐 禅を続けてこられたことに感謝せずにはおられません。
内山老師の教えをまっすぐに実践していくのは、老師が始められた「玩具あそび無しの接 心」を続けていくことだと、単純に考えております。7月の三心通信に書いた、80歳で在家得度を受けたリチャードさんが今回の接心にも参加しました。最初 の3日間は午後の何炷かを休んだほかは殆ど坐り、4日目からは主に午後何炷か坐りに来ました。別に接心全部を坐れなくても、坐れるだけ坐ればいいのだとい う事を教えられました。後何年坐れるかなどと、考え出すと寂しくもなりますが、体力と環境が許す限り、坐れるだけ坐り続けるつもりです。また、次の世代に この接心を受け継いでくれる人が少人数でもあることを願っております。
この坐禅だけの接心といい、「正法眼蔵」を中心とした仏法の参究といい、それほど多くの のアメリカ人が参加してくれるとは思えなかったので、三心寺を創立する前もしてからも、長く存続できるかどうか100%確信があったとはいえないのです が、建物の銀行ローンを払いながら、何とか思うような修行が出来てきたことを感謝せずにはおれません。
今後とも、ささやかに努力を続け てまいります。
今年もお世話になりまして有難うございました。どうぞよいお年をお迎えください。
12月25日
奥村正博 九拝
三心通信 2006年11月
今月の初めに、「眼蔵会」がありました。「辦道話」を講本にしたのですが、5日間、9回の講義で、最初の自受用三昧の部分しか読めませんでした。18問答
の部分は、来年5月の「眼蔵会」に続けて参究する予定で居ります。この眼蔵会での講義の準備として、「流布本」と「正法寺本」を丁寧に読み比べ、「正法寺
本」も英語に訳し、どちらかにない部分と、あっても違っている部分のフォントの色を変えて、視覚的に違いが見て取れるようにしてみました。コンピューター
がなければ、こういう作業をこれほど簡単には出来ないでしょうから、コンピューターにも感謝しなければなりません。こんなことをしたからといって、何か大
発見があったというわけではありませんが、道元禅師の執筆の過程での思考法のようなものに少し触れることが出来ました。
今回の眼蔵会に、お線香にアレルギーがある人が参加したもので、この5日間は全く線香を使いませんでした。インド以来2000年以上、献香、焼香は仏教に
つき物でしたが、それが使えない場合がアメリカにはあります。日本でもそう言う事例が出てくるかも知れません。アメリカに来てから、これまでに数人、線香
のアレルギーがある人にであいました。殆ど、長年禅センターで坐禅をしている人達です。ミネアポリスの禅センターでも、私がヘッド・テイーチャーとしてい
た頃から、禅センターの建物の中で線香を焚くことはしなくなりました。日本ではお線香に対するアレルギーというのは聴いたことがありませんでしたが、ある
いはそういう可能性があるということも認識されないまま、放置されているのかもしれません。聞くところによると、生来そういうアレルギー体質があるという
のではなく、長年線香の煙を吸っていることによって、線香の煙なのか、香りなのか、線香に含まれている何らかの化学物質が体内に蓄積されることによって、
アレルギー症状が起こってくるという事なのです。日本の寺院建築や一般の家屋では夏の暑さと湿気に対する対策として空気の流通が考えられていますが、西洋
の建物は、冬の寒さに対する防御の方に重点を置いているためか、建物全体が外に対して密封されています。密閉された部屋の中で毎日何年も線香をたき、その
煙を吸っていると、ことにそれに対する免疫のようなものがない人達には有害なのかもしれません。
ともあれ、仏教文化も、教理云々ではなく、このあたりから、変わらざるを得なくなるのかもしれません。日本でお寺や一般家庭の仏壇から線香の煙や香りが消
えるということはほとんど想像も出来ないことですけれども。線香を焚かなくても、仏教が生き延びられるかというと、それは全く可能です。5日間お線香を全
く使いませんでしたが、坐禅や、其の他の行持がそれによって出来なくなったり、気が抜けてしまうということは全くありませんでした。眼蔵会が終わってから
は普通のように座禅の時、朝課の時には線香や焼香を使っておりますが、線香や抹香がなければ仏教が成り立たないというほどのものではないという認識がある
のとないのとでは少し、感じが違います。これも小さなパラダイム・シフトなのでしょうか?
明後日から恒例の臘八接心が始まります。
11月27日
奥村正博 九拝
三心通信 2006年10月
今月は、三心寺での5日間のリトリートが終わった後、ノースカロライナ州のアッシュビルという町の近くにある、グレート・ツリー禅センター
(大樹寺)に行きました。故片桐大忍老師のお弟子さんの貞静・ミュニック師が創立された主に女性のためのお寺(男性も行事には参加できるが、住み込めるの
は女性だけ。)です。貞静さんは日本の僧堂で修行したこともあり、私が京都のお寺にいたときに、半年ほど滞在されて一緒に坐禅をした頃からの知り合いで
す。私たち家族がアメリカに来たときから何かと助けていただいております。主に女性を対象としたお寺の創立を発願して以来、ノースカロライナ西部において
活動を続け、何年もの準備期間を経た後、昨年、土地と建物を購入してお寺にされたものです。今回は、家内と一緒に行きました。貞静さんについて何年も坐禅
修行をしてきた女性が出家得度を受けるのですが、そのための如法衣の裁縫を手伝ってほしいと家内が貞静さんから依頼されたからです。
私は、大樹寺から40分ほどの距離があるホット・スプリングという、その名の通りに温泉がある町で、ウォーキング・リトリートをしました。南
部のジョージア州から最北部のニュー・イングランドにあるメイン州まで、アパラチア山脈にそって、アパラチアン・トレイルというハイキングのコースがあり
ます。日本の東海自然歩道などのモデルになったものですが、全体では2000マイル(3200キロ)の距離があります。その自然歩道がホット・スプリング
の町を通っています。この町に、エルマー・ホールという人がサニー・バンク・インというハイカーのための宿を30年ほど前から経営しています。もともとは
1840年に建てられたというアメリカでは珍しく古い建物です。
ウォーキング・リトリートを始めたのは、私自身が自然の中を歩きたかったからなのですが、エルマーさんと貞静さんが、一緒に歩きたい人もいる
だろうからリトリートにしたらと勧めてくれたからです。もともとは自然歩道を歩くだけのつもりだったので、4年前の最初の年は、朝9時から午後5時までひ
たすら歩きました。2年目からは、坐禅と、経行と、テク・ナット・ハン師が進めている瞑想としての緩歩と、普通の速度での歩行とを組み合わせるようになり
ました。昨年は4人しか参加者がなかったのですが、今年は17人になりました。紅・黄葉が最高潮の時で、アパラチア山脈の広大な自然を満喫しました。日本
から来て、アメリカ中西部に住んでいると、真平らで山が一つも見えないのがいささか物足りない感じがします。年に一度ノースカロライナの山を歩くことでそ
の物足りなさを補っております。
16日にブルーミングトンに戻り、一日おいて18日に日本に出発しました。静岡県の可睡斎専門僧堂で行われたアメリカとヨーロッパの宗侶の為
の1ヶ月の研修に、講師として参加するためです。今回は英語訳の「辦道話」を講本として5日間に10回の講義をしました。短期間ですが、僧堂での修行生活
をさせていただきました。可睡斎のあたりは、私が住んでいるインデアナ州や、ノースカロライナ州よりはずっと暖かく、まだ黄葉が始まったばかりという感じ
でした。ブルーミングトンに帰ってみると、すでに半分以上が落葉して、空が広く見え、全体が明るくなりました。晩秋の風景です。空気も肌に冷たく、外に出
ると身も心も引き締まる感じがします。もう今年も残すところ2ヶ月だけになってしまいました。明日から11月の眼蔵会リトリートが始まります。
10月30日
奥村正博 九拝
三心通信 2006年9月
9月も最後の日になってしまいました。ブルーミングトンでは、紅葉が始まり、秋の気配が深 くなっています。花壇では、菊の花が咲き、ススキの穂が出ています。今年初めて植えた朝顔の花がまだ咲いていますが、夏の間のような元気はなくなりまし た。気の早い胡桃の木々はすでに葉が全部落ちて、越冬体制に入っています。其の木々から落ちた胡桃をリスたちが冬の準備のためにせっせと集めています。私 たち人間は、長袖の下着や衣類を出して、冬の準備をする季節です。
中旬にミネアポリスに行きまし た。ミネアポリスは故片桐大忍老師が1972年にサンフランシスコから移転して、ミネソタ禅メデティション・センターを創立されたと ころです。曹洞宗系の禅センターでは、鈴木俊隆老師創立のサンフランシスコ・禅センター、前角博雄老師のロスアンゼルス・禅センター、慈友・ケネット老師 のシャスタ・アベイなどとともに最も古い禅センターの一つです。片桐老師は惜しくも、1990年に癌の為に遷化されました。亡くなる直前に、12人のお弟子さんに嗣法をされ ましたが、其のうちの何人かは独立して自分の禅センターを創立しました。現在、ツィン・シティと呼ばれるミネアポリスとセント・ポールには4つの禅センターが存在します。
今回は、そのうちの一つのダル マ・フィールド・禅センター(日本語の寺号は法田寺、透関・スティーブ・ヘーガン師創立)に於いて5日間の眼蔵会がありました。私が4年間ミネアポリスに住んでいた頃からの古い友人たちを含めて30人ほどの人が参加しました。 「正法眼蔵仏性」の巻きを講本にしました。仏性の巻きは長く、且つ難解ですので、5日間では到底終わらず、今回は最初の三分の一だけ講義しました。「仏性」の巻きは昨年 も、2回 に分けてSFZCと三心寺において講義したのですが、ヘーガン師が昨年の「有時」の巻きに続けて、「仏 性」の話をしてほしいということで、決めたものです。開教センターがサンフランシスコの桑港寺の中にあった時にも月例の勉強会で3年間にわたって「仏性」の巻き を読みましたので、私にとっては三回目です。「正法眼蔵」はどの巻きも、何回読んでも、これで十分ということがありません。読めば読むほど、これまで分か らなかったことが明確になったり、間違って理解していたことが分かったり、より深い意味が見えてきたりします。その都度、できるだけの準備をし、手に入る だけの注釈書には目を通し、調べるべきところは調べるように努力しているのですが、それでももう一度読み直すと、いかに不十分だったかということがわかり ます。特に英語の翻訳を使って、英語で話をするのですから、私の英語での表現能力の限界があります。一生退屈せずに参究を続けられるようです。
23日秋分の日には、三心寺に坐禅に来ている人の結婚式がありました。ご本人は、受戒もして 仏教徒になったのですが、奥さんになる女性はクリスチャンです。しかしお父さんが中国系のアメリカ人で、祖父母は仏教徒なのだそうです。結婚式はキリスト 教の教会であったのですが、お二人の希望で私に、その教会の牧師さんと共同で式師をしてほしいと依頼されました。その教会の牧師さんも了解され、共同の結 婚式をするという珍しい経験をしました。
ミネアポリスにいたとき、禅セン ターのメンバーの人が亡くなり、その人の奥さんがプロテスタントの牧師さんだったので、キリスト教の教会で私が式師の一人になって、合同のお葬式をしたこ ともあります。アメリカでは、「家の宗教」という観念はすでに過去のものになり、信仰は個人のものになっています。夫婦の間でもそれぞれ違う宗教に属し、 それをお互いに尊重していることが珍しくありません。ですから、これからもこういう結婚式やお葬式が増えてくるだろうと思います。日本では「無宗教」のお 葬式が増えているそうですが、異なった宗教合同のお葬式や結婚式というのはまだ考えにくいでしょう。
私が高校生の頃ですからもう40年も前のことですが、英会話 のテキストの中で、同じキリスト教徒でもカソリックとプロテスタントの間の結婚が難しいという話が出てきたことを覚えています。その頃と比較すれば隔世の 感があります。
来月は、4日から9日まで、5日間のリトリートが三心寺であ り、その後12日にノースカロライナに行きます。ホット・スプリングという温泉のある小さな町で、 ウォーキング・リトリートがあるからです。日本でも歩行禅という言葉がありますが、ジョージア州からメイン州までアパラチアン山脈を縫って2000マイル(3200キロ)続く自然歩道の一 部を歩きます。
16日にブルーミングトンに帰って、そのあと一日置いて、また日本に行きます。静岡県の可睡 斎で宗務庁主催の「伝道教師研修所」の研修があり、欧米の曹洞宗僧侶の人達に講義をするためです。18日に出発して、28日に還りますので、旅行日を入れて10日間の旅です。いつものように殆どとんぼ返りですが、11月1日からまた三心寺で眼蔵会があ りますのでいたし方ありません。
奥村正博 九拝
三心通信 2006年8月
8月は接心やリトリートもなく、旅行もありませんでしたので、比較的ゆっくりと過ごせました。前半はかなり暑かったのですが、中旬から比較的涼しく、過ご
し安くなりました。
明日から、5日間の接心が始まります。始まってしまえばなんともないのですが、始まる前日は何か重苦しい感じがするのは、20代の頃と少しも変わりませ
ん。
この春頃から、20歳台の若い人達が何人か坐禅にきてくれるようになりました。少し前まで、40歳代以上の人達がどこの禅センターでも多かったのですが、
少し時代のコマが動いたようです。私と同じか少し上の世代の人達、所謂ヒッピーと呼ばれた年代の人達が20代の頃、アメリカの最初の禅ブームの主な担い手
だったのですが、あの頃の人達とはかなり違います。既製の社会概念や、道徳を批判したり否定して何か新しいものを見つけ出したり、創り出したりしようとす
る、反抗性、批判性、創造性は今の若い人たちにはそれほど見られません。禅や仏教を何か特別に新奇なものとしてではなく、すでにある当たり前のものとし
て、学んだり修行したりしているような気がします。私たちの若い頃に比べると、落ち着いておとなしい感じがします。
今ここで坐っている人たちの中から、将来のアメリカの禅仏教を担ってくれる人が出てくれることを願っております。
奥村正博 九拝
三心通信 2006年7月
暑中お見舞い申し上げます。
はや7月も最後の日になってしまいました。もう今年も半分以上が過ぎてしまったのかと、時の流れの速さにいまさらのように驚いております。特に今月は、日
本に帰ってあちらこちら旅をし、様々なことがあったので、すでに月末であることが信じられないくらいです。
6月27日から7月2日までの5日間、今年の夏期安居の最後の行事である禅戒会がありました。その最終日である2日に在家得度式があり、5人の人が受戒し
ました。受戒を希望する人達には、何箇月か前に申し出てもらい、絡子が7月までに出来るように把針の計画を立てることになっています。ところが今回、禅戒
会が始まる前日になって受戒したいといってきた人がいました。三心寺が出来る前から、ブルーミングトン・禅・センターのメンバーとして何年も坐禅をしてき
た人ですが、81歳の老人で、一月ほど前に何かの病気で入院して手術をしたばかりの人です。普通だと来年まで待つようにというのですが、高齢なので、そう
言って断るわけにもいかず、かといって絡子無しで受戒をするわけにもいかないので、他の人達に助けてもらって、5日間の間に絡子を縫うことにしました。坐
禅や、食事や講義など他の人々と一緒に出来るかどうかも心配だったのですが、非常に真面目に、みんなに合わせて修行をしていました。ご本人は目があまり見
えないので殆ど縫うことは出来なかったのですが、最後の数針は、手をとってもらって、自分で縫ったそうです。受戒の式がある前の日にようやく出来上がりま
した。ご本人の真摯な態度にも、縫うのを助けてくれた人々の好意にも感銘を受けました。「大衆の威神力」という言葉を思い出しました。
一息つく暇もなく受戒の式が終わった翌朝、日本に出発しました。5日、6日と東京の宗務庁であった会議に出席するのが主な目的だったのですが、今回はその
あと10日ほど日本に滞在することができました。大きな荷物を引きずって旅をし、毎日眠るところが違うというのは、時差ボケから回復するまではかなりの苦
行でした。つい最近までは、駅の階段なども、両手に荷物を抱えて上がることが出来たのですが、今回は先ずエスカレーターかエレベーターを探して、遠回りし
てでも階段を避けるようになりました。毎年体力の衰えを感じるようになりました。
福井県天竜寺の笹川浩仙老師、宝慶寺の田中真海堂頭老師と十何年ぶりかでお話させていただくことが出来ました。駒澤大学に入って、まだ仏教や坐禅のことも
何も知らなかった頃にご指導いただき、お世話になった方々です。もう40年近く前のことになります。長い間ご無沙汰ばかりしていたのに、お会いすると以前
と変わらぬご法情を頂き、本当に有難く、懐かしく存じました。
また、私がミネアポリスにいた頃、永平寺から派遣されてアイオワ州の宝鏡寺に暫らくおられた宗清志さんが住んでおられる龍雲寺にも拝登させていただきまし
た。沢木興道老師がまだ得度される以前に居られて、休みの日に部屋で坐禅をしているところに老婆が入ってきて、老師の座禅を、仏さんのように拝んだという
経験をされたお寺です。また沢木老師がお生まれになった三重県津市に行き、老師が子供の頃に境内で遊ばれたという四天王寺にも、副住職の倉島隆行さんを尋
ねて拝登させていただき、沢木老師の生家のあたりを自動車で案内していただきました。また四天王寺の坐禅会の人々と一緒に坐らせていただき、お話をさせて
いただきました。沢木老師にゆかりのあるお寺を訪ねることができたことも今回の旅で有難いことでした。
長くなりますので書ききれませんが、そのほかにも何人もの、親族や旧知の懐かしい人々にお会いしてお話しすることが出来ました。またお会いしたかったのに
時間がなくてお訪ねすることができなかった人々もたくさんあります。もう少し時間に余裕を持って旅が出来るといいのですが、日本での用件と、アメリカでの
スケジュールの合間を縫ってですので思うようになりません。
アメリカに17日に帰ってきて、2日休んだ後、カリフォルニアのカーメルという風光明媚な海辺の町に行きました。当地の禅のグループの週末の研修会で坐禅
と講話をするためです。「正法眼蔵葛藤」を講本にして話をしました。
カリフォルニアからブルーミングトンに戻ってたのが23日でした。それから、去年から依頼されていた、インデアナ大学のインデアナポリスのキャンパスで内
山老師の「生命の実物」その他の英語訳をまとめて一冊の本にした、「Opening the Hand of
Thought」について三回の講義をしました。一回が2時間半でしたので、合計7時間半、一冊の本について英語で話したことになります。聴講する学生が
坐禅をしたい人ではなく、哲学のクラスの人達でしたので、禅センターで坐禅をしている人達と話すのとはだいぶ勝手が違いました。
この話の準備として、日本から帰ってから、内山老師の著作を日本語と英語で、初めて読む本のように丁寧に読んでみました。長時間英語で話すのは大変でした
が、老師の教えを再び新鮮に学ぶことが出来て、有難く感じました。
日本から帰ってからも、休む時間が殆どなかったのですが、8月は接心もなく、旅行の予定も入っていませんので、少しゆったりと過ごせそうです。
私事になりますが、長女の葉子が5月にミネアポリスのハイスクールを卒業して、9月からカリフォルニアの大学に行くことになりました。日本からこちらに来
たときには5歳でした。時の流れの速さを感じざるを得ないこのごろです。
三心寺の境内にちょっとした竹やぶがあります。その竹を使って、この4月から参禅者の人達が塀を作っています。まだ完成していませんが、その写真を添付し
ます。またこの季節になると、日本の彼岸花のように、葉がなく、地面から茎だけが伸びてきてきれいなピンクの花をつける植物があります。英語では
naked
ladyといいます。辞書によると日本語の名前はイヌサフランというのだそうです。日本にもあるのかもしれませんが私は日本では見たことがありませんでし
た。その花の写真も添えます。
奥村正博 九拝
三心通信 2006年6月
5日間の接心が終わった後、首座法戦式の準備が始まりました。今年の夏期安居の首座は、正龍・ブラッドレイです。テキサス州のオースティン禅センターで坐
禅を始め、カリフォルニア州のタサハラ禅マウンテイン・モナステリーで修行し、2年半前からブルーミングトンに来て三心寺で坐っています。今年の安居で
は、「般若心経」と「正法眼蔵摩訶般若波羅蜜」を参究しています。4月から、日曜日の朝の法話に正龍師が「般若心経」の話をし、私が水曜日の夕方の勉強会
で、「正法眼蔵摩訶般若波羅蜜」の講義をしてきました。今回の法戦式では、「従容録」第26則「仰山指雪」を本則として問答が行われました。
宗務庁から、法戦式を行うには10名以上の僧侶の参集が必要だということで、秋葉国際布教総監老師を西堂として拝請し、出来るだけの人々にお願いして、私
を含めて10名のお坊さんにきていただくことが出来ました。インデアナ州では曹洞宗の寺院は三心寺ただ一つですので、来ていただくというと州外からという
ことになります。時間や、費用を考えると大変な負担です。同じ町の中に何軒もの組寺がある日本と同じ規則を適用されるとつらい面が多々あります。ともあ
れ、多くの人達のご協力のおかげで、首座法戦式も無事に円成いたしました。写真を添付いたします。
後、夏期安居の行事として残っているのは、7月の禅戒会の最後に予定されている「受戒式」です。五月は眼蔵会、六月は坐禅に専注する接心、7月は「教授戒
文」を講本として禅戒の参究をする禅戒会と、戒、定、慧のバランスが取れた安居になるようにと考えております。参加者ままだ少数ですが、少しづつ充実した
ものにしていきたいと願っております。
それが終わると、私は3日にこちらを出発して、日本に行きます。7月5日、6日と東京の宗務庁で行われる会議に出席するためですが、その後10日ほど日本
に滞在して、できるだけ多くの親族、友人、知人にお会いしたいと願っております。いつものことですが、駆け足旅行ですので、お尋ね出来ない方々の方が多
く、申し訳なく存じております。
6月19日
奥村正博 九拝
三心通信 2006年5月
今月の初めには5日間の眼蔵会がありました。今回は「正法眼蔵坐禅箴」を講本にして道元 禅師の坐禅についての教えを参究しました。この巻きの中心は南岳懐譲と馬祖道一の「磨塼」の話ですが、その部分は何年か前に一度話したことがあり、三人の 人にテープ起ししていただいたものに私が手を加え、更に英語を手直ししてもらって、これまで7回にわたって、イギリスから出ている、Buddhism Nowという 雑誌に連載していますので、その部分は、参加者に雑誌のコピーを配って、読んでもらうこととし、今回は、最初に道元禅師が引用され拈提される薬山維厳の 「非思量」の部分と、最後の宏智正覚の「坐禅箴」及び道元禅師ご自身の「坐禅箴」の部分について話しました。仏教であればどの宗派にも坐禅あるいは何らか の瞑想の修行があり、夫々に特色のあるアプローチがありますが、道元禅師の「只管打坐」ほどシンプルなものはありません。他の禅宗の系統ではもちいられ る、数息観も、瑞息観もせず、公案も使わず、他の伝統で開発された、観法ももちいず、マントラも使わず、ただひたすらに坐るだけなのですから。しかしただ 坐るだけの坐禅が簡単かというと、とんでもないことで、これほど難しいことはないと私は思います。ただひたすら坐ること自体も難しいですが、その単純な行 についての道元禅師の表現を参究し、理解し、私なりの理解を人に分かってもらえるように自分なりの言い方で表現することも亦とてつもなく難しいことです。 ことに英語に翻訳し、英語で説明するとなると、その難しさはなんとも説明の仕方がありません。自分の最善は尽くしているつもりですが、かえって、道元禅師 の坐禅をゆがんで伝えているのではないかと、恐れています。しかしいかに不完全であっても、自分に与えられた修行ですので、無理無理ですが続けておりま す。何等か間違いがあれば、あとから来る人に、批判し訂正してもらえるだろうと信じております。私に出来ることは、日本で、日本語で教わったこと、勉強し たことを何とか英語にして伝えようとすることだけですので。
今月の第3の週末には、この近くのキリスト教系のリトリートセンターを借りて、2泊3日 のWalking Meditation (歩行禅)の会をしました。ブルーミング トンから車で30−40分の森林の中にある場所です。4炷の坐禅をし、1時間の講話をし、森の中の道をただ歩くだけですが、接心になれていない人達には自 己に親しみ、自然に親しむ良い機会になりました。
そして最後の週末には、娘の葉子のハイスクールの卒業式に出席するために、家内の優子、 息子の正樹とともにミネアポリスに行きました。自動車でブルーミングトンからミネアポリスまでおよそ12時間かかります。700マイル〔約1000キロ〕 の距離があります。私たち家族が日本からこちらに来た1993年には葉子は5歳でした。この13年間、多くの人々に支えられて、私も私の家族も何とか無事 に生きてきました。本当に感謝しなければなりません。
今日から6月の接心が始まります。この接心は京都の安泰寺でしていたのと同じ1日14 炷、坐禅だけの接心です。私を含めて11人の人が参加する予定です。この接心を何とかアメリカに定着させたいというのが私の願いです。
この4月から夏期安居の最中で、7月2日の在家得度式まで続きます。この接心が終わると 首座法戦式があります。安居が終わると、7月5日、6日に東京の宗務庁で行われる会議に出席するために日本に参ります。
5月31日
奥村正博 九拝
皆様お変わりなく新しい年を迎えられたこととお喜び申し上げます。
三心寺では、昨日5日間の正月接心が終わりました。京都の安泰寺での接心と同じ、50分
の坐禅をただ14炷繰り返して坐るだけの接心です。今年から年に5回この接心をすることにしました。私は、1969年お正月に始めて安泰寺での接心に参加
してから、1992年まで20年以上、あちらこちら場所は変わりましたが、年に10回はこの接心をしました。1993年にアメリカに移ってから、ミネアポ
リスでは創立者であられた片桐大忍老師の家風を変えないで、次の人に受け継ぐことに決めておりましたし、その後ブルーミングトンに移転するまでほぼ10年
間自分の道場を持っておりませんでしたので、内山老師方式の接心をすることは2,3回しかできませんでした。アメリカの禅センターでは、檀家制度というも
のがありませんから、センターを維持する収入の大半を接心や、研修会(リトリート)、講義、その他の催しの参加費に依存しています。ですから、人があんま
り来ない類の催しはたとえしたくても中々出来ないのです。
この内山老師方式の接心は、人が集まらないものの最たるものです。何しろ、5日間ただ坐
るだけで、提唱、講義や法話、の類はなく、作務も独参も朝課も何もないのですから。大体、これだけの時間坐禅に専注できる人がまだそれほど多くはいないの
です。ただ坐っているだけですから、やってみれば、出来ないということはないはずなのですが、差定を聞いただけで恐怖感を持つ人さえあります。最も日本で
もこれだけ坐禅をしている人はそれほどにはないでしょうけれども。私は、20歳の時から接心といえばこういうものだと思っていますので、どこででもこの接
心が出来ると我が家に帰ったような気分になります。あるいは、二十歳代前半に内山老師と一緒に坐ったのと同じ気持ちで坐禅が出来ます。これにはとても感謝
しています。
1969年に始めて安泰寺で接心をしたときには、とても寒かったような記憶が残っていま
す。本堂の中に石油ストーブが一つだけおいてあって、内山老師の本に出てくる、隙間風を防ぐための、米袋で作った紙のカーテンがまだ健在でした。今まで、
あちこちの場所で坐りましたが、一番寒かったのは、73年でしたか、オイルショックで灯油の供給が減り、値段もとても高くて内山老師のお部屋で使う分しか
買えなくなり、一冬安泰寺の本堂で暖房無しで坐ったことがありました。着れるものを全部法衣の下に着込んで坐ったことを覚えています。そして、京都の夏の
蒸し暑さもまた格別でした。
それに比べれば今の三心寺の坐禅堂は天国のようなものです。安普請で、ツー・バイ・
フォーと石膏ボードで作った張りぼて建築ですが、全館暖冷房つきなのです。夏でも暑くて困った記憶はなく、冬でも、日本の夏用の法衣で坐っても寒さを感じ
たことはありません。しかしそのことが坐禅にとってはいいことなのかどうかちょっと即断できないところがあります。内山老師は「生命の実物」の中で、「迷
いも悟りも温度と湿気の加減」だといわれ、その例として、ある年の9月の接心の例を出しておられます。前半はとても蒸し暑くて坐禅がつらかったのに、3日
目からすっと涼しくなって、悟ったような気分で楽に坐禅が出来るようになったという話です。
私はずっと、この話で内山老師が言われることは正しいと思っていたのですが、冷暖房つき
の坐禅堂で坐るようになってから、疑問が出てきました。いつも温度を、その9月の接心の3日目と同じに調節できるようになると、いつもその時と同じような
すっきりした悟ったような気分で坐れるかというと、そのようなことは全くないのです。むしろ、最初の二日間蒸し暑さに苦しみながら、忍耐しながら坐った、
その苦しみから解放されたというのが、すっきりした気分の原因ではないでしょうか?その落差が大きな要因なのではないかと思います。ですから、「迷いも悟
りも温度と湿気の加減」だという言葉には、ある条件の下ではという限定をつけなければならないと思います。
残念ながら、いつも理想的な温度に調節できる坐禅堂で坐れば、いつもすっきりした悟った
ような気分で坐れるというほど、人間は単純にはできていないようです。私が思うに、その条件とは、温度と湿気は人間にはコントロールできないものであり、
その条件を誰もが受け入れて、暑さ寒さには文句を言わずに、つらくても我慢して坐っていくしか選択肢がないということです。そうすれば、温度と湿気が快適
なものに変わった時にすっきりした気分を味わえるということではないでしょうか?
その条件の下では、暑
くても寒くても、誰もが我慢して坐らなければならないという、人間の共同の状況から来る、連帯感があります。また日本で暑さ寒さも彼岸までというような、
季節感が持てるようになります。しかし、人間が温度を確実にコントロールできるようになると、温度に対する感性の個人差が大きく見えてくるのです。熱帯に
近いフロリダや、砂漠のように乾燥しているカリフォルニアや、ミネソタ州のように半年近く雪があり、真冬には氷点下30度になるのも稀ではないといった、
様々な場所に住んでいる人たちの暑さ寒さに対する感度は違うのが当たり前です。その人たちが同じ坐禅堂で一緒に坐る場合、誰の感度にあわせて温度を調節す
るかが問題になってくるのです。誰の感度に合わせても、その温度をコントロールする権限を持っている人以外の人々は暑すぎる、寒すぎるという不満を持って
いる可能性があります。
73年冬の安泰寺の坐
禅堂では、氷点下5度くらいに温度が下がった時もあるでしょう。また私の記憶の中で一番暑かった接心は、95年6月ミネソタ州の宝鏡寺での接心でした、一
週間の接心の間毎日華氏100度(摂氏35度くらいでしょうか?)以上になり、経行廊下の板が焼けるように暑くなって、足の裏に痛みを感じるくらいでし
た。ですから、人間はマイナス5度Cから35度Cくらいまでは、我慢をすれば坐禅が出来ないことはないのです。し
かし、温度を調節することが出来るという条件では、感度の個人差が大きな問題になってしまいます。自然の条件に対して全く無力でお互い我慢しながら修行し
ているのだという、人間同士の連帯感よりも、どうしてこんなに暑く、あるいは寒くしておくのかと、温度を設定する人への不満が出てきがちです。
つまり自然の条件に対
する人間の優位が確立され、人間の思うとおりに条件をコントロールできるようになると、人間同士が反目しあったり、不平不満を持ち合ったり、主導権争いが
始まったりしがちです。それを防ぐために話し合いやルールの設定が必要になってきます。文明の副産物である戦争やその他の人間同士の争いの基本的な原因
も、これと同じように単純なものかもしれません。