三心通信2009年12月

2009年も大晦日になってしまいました。お陰様で、今年も何とか坐禅を続ける
ことが出来ました。一緒に坐ってくれた多くの人々、様々にご支援をいただいた
方々に心より御礼を申し上げます。

11月30日から、12月7日深夜までの臘八摂心は無事に終わりました。出入りは
ありましたが12人の人たちが、お釈迦さまの成道とそれ以後の御教えに感謝し
て7日間座りました。
11日の日曜日に、一般の人々も参加して成道会の法要を行いました。
14日から、カリフォルニア州南部にある、禪・マウンティン・センター、陽光寺に
於いて開單された曹洞宗宗立専門僧堂に講師として参加させていただくべく、
出発しました。開単式が15日にあり、安居が始まったばかりの16日、早朝の
坐禅、朝課が終わって、僧堂での行鉢が始まるとき、單に上がろうとしたとたんに、
腰痛に襲われました。痛みをこらえながら行鉢は何とか終えましたが、其の
まま24日まで、殆どをベッドの中で過ごさせていただくという情けない事態に
なりました。同室だった斉藤芳寛老師はじめ、多くの方々に、お世話になったり、
ご迷惑をおかけしたりで、面目次第もない事になってしまいました。
腰が痛いだけで、その外の身体はなんともないので、何かしないともったいないと
思い、ベッドの中でラップトップを使い、「山水經」のテープ起こしの原稿の整理、
書き直しをしておりました。数年前にサンフランシスコ禅センターで行った眼蔵会の
講義のテープ起こしを整理して、一冊の本にする計画です。
25日にブルーミングトンの三心寺に還ってきましたが、痛みはほぼ治まったものの、
まだ治った、是で大丈夫、という感じはしません。出来るだけ毎日1時間以上歩く
ようにし、ストレッチもしていますので腰痛はこの2年ほど、起こりませんでした。
それで、このところ膝のことを主に気にしていました。忘れた頃に来る災難の
ようなものなのでしょうか?然しこの突然の腰痛のお蔭で、「山水經」の仕事が
予想以上に進展しました。

2009年の最後は、思いがけない腰痛のために情けない幕切れとなりました。
2010年こそはよい年になりますように願っております。

12月31日
奥村正博 九拝

三心通信2009年11月

先月の通信に書きましたように、4日から9日まで眼蔵会があり、「全機」と「生死」
を読みました。カリフォルニア、フロリダ、ミネソタ、カナダ、フランスから来てくれた
人もいて、私を含めて16人になりました。「全機」と「生死」の主題は、いうまでもなく
「生也全機現、死也全機現」「生死は仏の御いのち」です。「全機現」、「仏の御いのち」
としての生死を、沢木老師は「70年や80年で死んでしまうような命を生きていたのでは
つまらない」と言われました。内山老師は「生死法句詩抄」の中で結びの詩として、
「光明藏三昧」という題の詩を書いておられます。

光明藏三昧

貧しくても貧しからず
病んでも病まず
老いても老いず
死んでも死なず
すべて二つに分かれる以前の実物 ―
ここには 無限の奥がある

これは個体としての命は、70年か80年、長くても100年ちょっとで死んでしまう
けれども、その奥には不老不死の永遠の命があるなどということではなく、
自己中心に欲望を満足させることを目標とするのではなく、誓願に導かれて、
一切衆生と共に歩む、行き方の質のことを言われているのだと思います。
眼蔵会が終わって、2日ほど休んで、例年のようにピッツバーグに行きました。
Stillpointと云う在家の人たちの坐禅のグループと3日間の摂心をしました。
昨年からこのグループでは、「学道用心集」の講読をしています。昨年は、
序講として、「学道用心集」の成り立ちや、題号の説明をし、第一則の「菩提心
を発すべき事」に入って、「発菩提心」と「観無常」の仏教的意味を話しただけで
3日間が終わってしまい、本文の話は殆ど出来ませんでした。今回は、本文の
最初から話し、第一則と第二則「正法を見聞して必ず修習すべき事」までを話し
ました。「全機」の生死、と云うことと「観無常」と云うこと、一緒に考え直すことが
出来る有り難い機会になりました。
1989年ですから丁度20年前のことですが、まだ京都府のお寺にいた頃、アメリカ
の禅センターを何箇所か訪ねて、お話をする機会がありました。最後に訪ねたのが
タサハラで行われた摂心でしたが、その時も「学道用心集」の話をしました。最初に
訪問したのがミネソタ州ミネアポリス市にある片桐大忍老師の禅センターでした。
片桐老師は前年から癌に罹かられて療養しておられました。その時はまだそれほど
弱られてはいませんでしたが、次の年の3月に遷化されました。ミネアポリスから
マサチューセッツ州のバレー禅堂に行きました。1976年から81年まで私が住んで
いたところでした。禅堂の近くに、ハワイ出身の日系人で片桐老師について坐禅
されていた人が住んで居られました。喉頭癌にかかり、余命幾ばくもない状態でした。
お見舞いしたとき、喉を手術されたため、声も出ず、食事も口からは出来ない状態
でした。当時バレー禅堂に居られた藤田一照さんの話では、「このような状態に
なっても生きていなければならないのですか?」と質問されたこともあったとのことで
あった。その方はそれから10日ほど後に亡くなられました。
その時の旅行中は、訪れた禅センターの何カ所かで、「無常」を観ぜざるを得ない
出来事や出会いがありました。そのことをある雑誌に書いたところ、内山老師も
それを読んでくださって、「『学道用心集』の話をするときには観無常を強調する
のは間違いではないけれど、ただ無常だけを説いていたのでは仏法の半分しか
云っていないことになる。」と注意していただいたことをピッツバーグの摂心中に
懐かしく思い出しました。

11月もおしまいです。明日の夕方から12月の7日の深夜12時まで、臘八摂心です。
昨年の今頃から顕在化した膝の痛み、左膝はニンニク灸その他の治療の効果が
あったのか、かなりよくなりましたが、右膝の痛みは進行しています。平らな場所を
歩く時にはそうでもないのですが、階段の上り下りや、立ったり座ったり、かがんだり、
膝を曲げて体重をかけると痛みを感じます。考えたり悩んだりしてもしょうがないので、
まあ何とか坐れるだろうとタカをくくっています。是も無常の一齣ですから如何とも
しようがありません。

11月29日
奥村正博 九拝




三心通信2009年10月

10月は、当地では紅葉の季節です。ブルーミングトンがあるインデアナ州南部は
イリノイ州やインデアナ州の北部のように真っ平らで地平線から地平線まで畑が
続いているのとは違い、少しは起伏があります。しかし、山とよべるほどの物はなく、
高い建物から見ると何処までも続く森の中に町があるような感じです。ぜんたいが
黄葉すると目を見張るように美しくなります。月初めから少しずつ色づきはじめ、
月末には殆ど落葉してしまいます。雨が降ったり、強い風が吹いたりするごとに、
大量に木の葉が落ちて、地面はそれこそ錦を敷いたようになります。三心寺では、
落ち葉を一カ所に集めて、翌年使う堆肥にしています。落ち葉を熊手で集めて、
堆肥を作る場所に積み上げるだけでも、結構時間と労力を費やす仕事です。毎週
日曜日、午前中に参禅会があり、午後には作務の時間があります。数名で落ち葉
を集めますが、すぐに新しい葉が落ちて次の日には又元の通りになっていたりしま
す。今はすでに、大半が落ちてしまい、空がすっきりと大きく見えるようになりました。
11月の4日から9日まで5日間の眼蔵会があります。今回は正法眼蔵「全機」の巻と
「生死」の巻を講本にします。両巻とも短いものですが、道元禅師の生死観を学ぶ
には一緒に読む必要があります。「全機」という表現は、円悟克勤の「生也全機現、
死也全機現」という表現に由来するのですが、これは「円悟禅師語録」の拈古の中
に出てくる表現で、「道悟漸源弔慰」という公案に対する著語です。道元禅師は、こ
の話を「知事清規」で引用されています。又「永平広録」巻2の第161上堂で言及され、
ご自分の著語をつけておられます。真字「正法眼蔵三百則」にはどういうわけか第29則
と第289則の2回出てきます。この2つの話がかなり違うことに興味を持って、どうして
そうなのかを調べてみました。道元禅師の著作の中に出るのも、4つとも少しずつ違う
のですが、中国の禪籍を調べると、かなりの違いがあります。一つの話が、長い年月
かけて、何人もの人によって、より面白く、意味深く作り変えて行かれるプロセスがよく
分かります。 
先ず、952年に出来た「祖堂集」では、次のようになっています。薬山禅師の弟子の
道吾円智が、その弟子の漸源和尚をお供として、檀越の家のお葬式に行きます。
亡くなった人の棺桶を見ると、弟子の漸源はそれを敲いて道吾に、「生か死か?」
と問います。道吾は、「生とも亦た道はず、死とも亦た道はず、」と返答を拒否した
ような言葉を返します。漸源が、「什麼としてか道はざる。」と問いつめても道吾は、
「道はず道はず」を繰り返すばかりです。漸源は師匠の応対に納得できず、お寺から
出て行ってしまいます。その後、陽渓と云う場所で一晩宿泊した折り、真夜中に惺悟して、
大声で啼哭したと書かれています。それでお寺に帰りますと、道吾和尚はとても喜んで
自分で山門まで出迎えました。   
この話に続いて、漸源が兄弟子の石霜慶緒を訪問したときの話がでます。「祖堂集」
のテキストは白文なので、上の話と、次の話が連続した物語なのか、別々の話なの
かよく分かりません。ある日、漸源は鍬を持ち出してそれを抱えて法堂の前を行ったり
来たりします。石霜が、「什麼をしているのか?」といぶかって問いかけると、漸源は、
「先師の靈骨を探しているのだ」と答えます。石霜は、「洪水は天まで滔れ、流浪して
去ってしまった。」と答えます。漸源が、「だからこそ、力を致して修行しなければなら
ない。」と答えると、石霜は、「ここには、針を突き刺す余地もない、何処に努力して
修行する場所があるのか?」と突き放しました。後に太原孚上座と云う人が、漸源に
代わって、「先師の靈骨はいまでも猶を在る。」と謂ったと云うことです。
以上が「祖堂集」に出る漸源仲興伝の全てです。前半の「生か死か」の話と、後半の
道吾の霊骨を探す話が一続きなのか、二つの別々の話なのかは判然としません。
別々の話として読んだ人がいて、真字「正法眼蔵」の第289則のように改作されたようです。
それによると、漸源が道吾の寺を出た後、某所に滞在していた折り、誰かが「観音経」
の「応以比丘身得度者、即現比丘身而為説法、」の箇所を読誦しているのを聞いたときに
大悟したのだと付け加えられています。
「祖堂集」より50年ほど遅れて作られた「景徳傳燈録」では、前半と後半とを一続きの話
にするように、大幅に改造されています。
檀家のお葬式の時「生か死か」と漸源が問い、道吾が答えることを拒否した場面は同じ
です。その後、お寺に帰る道すがら、漸源がもう一度問いを繰り返します。「答えてくれ
なければ、和尚を殴りますよ」というのです。道吾はそれでも、「打つことは即ち打つに
任かす。生とも道はず、死とも道はず。」とはぐらかします。それで漸源は自分の師匠
である道吾を何度も打ちのめしたというのです。お寺に帰った後、道吾は、「主事がこの
ことを知ったら罰としておまえを打つだろう」と行って、親切心で漸源をお寺から出て行か
せます。
其処で漸源は、兄弟子の石霜を訪ね、お葬式でのやり取りと、師匠を殴ってしまったことを
話します。そして石霜に「お願いですから、何とか言ってください。」と頼みます。石霜は、
「お前は、道吾が、生とも道はず、死とも道はず、と何回も言ったのがわからないのか?」
と答えます。漸源はここで大悟し、お齋を設けて懺悔します。そのあとで、鍬を持ち出して、
後半の道吾の遺骨を探す話が続きます。前半と後半を結び付けるために、漸源が道吾を
殴ったというショッキングな出来事が付け加えられ、それ故に漸源は道吾に対して懺悔せず
におれなかったという筋書きになります。
円悟の「碧巌録」の本則では、「景徳傳燈録」とほぼ同じですが、漸源が石霜を訪ねる前に、
道吾が遷化したという一言が付け加えられます。「祖堂集」では、漸源は醒悟した後、道吾の
寺に帰り、道吾は大喜びで自分で門まで迎えにでたと、ハッピーエンドになっていますが、
師匠を殴って寺を出たら、師匠が死んでしまったと云う悲劇になっています。最後の遺骨を
探す場面をより劇的にし、報恩の行として何をしたらいいのかという問題を提起するための
プロットなのでしょう。しかし若しもこれが史実だとしたら、どうして漸源は道吾の法嗣だと
よばれうるのかと云う疑問が出てきます。師匠の言葉が分からず、ぶん殴って寺を出て、
石霜に言われるまで何が何だか分からなかった漸源が、道吾から嗣法を受けることは
あり得ないでしょう。

ところが、「碧巌録」の円悟による評唱の中では、もう一つの改作が行われます。漸源が、
ある場所で「観音経」の偈を聞いて悟ったというストーリーと、「景徳傳燈録」で作られた
筋書きとを合作してあるのです。つまり、漸源は、石霜を訪ねる前に、自分で悟りを
開いていたので、兄弟子に疑問に対する答えを求めたのではなく、自分の悟りの証明を
求めたのだと云うことになっています。
この公案の要点は、漸源の棺桶を敲いての「生か死か」という問いの意味は何か。
道吾の「道はじ、道はじ」と云う言葉の意味は何か。師匠を殴って、寺を出た後、
師匠の真意を悟った漸源の懺悔。そして、その様に親切だった師匠にどうすれば
恩返しが出来るのか?結局、生とは何なのか?死とは何なのか?それを見極めて、
どのように生きていけばよいのか?ということでしょう。そこに、生も死も全機の現成
だと言うことと、だから生死を透脱して生き無ければならないという、正法眼蔵「全機」
「生死」の内容が出てくるのでしょう。
一つ興味深いのは、道元禅師は、上に述べた4カ所でこの話を引用されて居るのに、
そのいづれにも後半の遺骨を探す部分が削除されている事です。道元禅師が公案の
話を改造される場合は、何か深い意図があってのことが多いのですが、この場合はどうなのでしょうか?

10月29日

奥村正博 九拝




三心通信2009年9月

予定されていた、テキサス州オースティン市での眼蔵会が諸般の事情で中止になり
ましたので、今月は、7日に摂心が終わってずっと三心寺にいることが出来ました。
1997年に開教センターの仕事を始めてから、10年以上、摂心や坐禅の指導、講義
のために、あちらこちら飛び回っていました。様々な場所や環境で坐禅修行を続け
ている大勢の人々に出会うことが出来て、大変勉強にもなり、意義のある活動だった
と思います。しかし、一カ所に落ち着いて、毎日、毎週、毎月同じ人々と坐り続け、
仏法を参究し、同じサンガの仲間として、お互いの関係と理解を深めていく事の大切
さも忘れてはならないと思います。60歳を過ぎたという年齢の加減もあるかも知れま
せんが、何処にも行かずに、毎日、同じ場所で坐り、同じ時間に同じ事をする規則的
な生活に安らぎを感じるようになりました。
現在、3冊の本を制作する仕事に追われています。本は「制作する」と言うよりは、
「書く」という方が一般的だと思いますが、私がしているのは、「制作する」あるいは
「作る」と言う方がふさわしいと思います。今作っている三冊とも、私の話した講義の
録音をテープ起こししたものを材料とし、誰かに、或る程度手を入れて、無駄な繰り
返しや、文法的な間違いを取り除いてもらったものに、話の続き具合や、説明が充分
で分かりやすいかどうか、喩えや例が適切かどうか、私が手を入れて、第二稿を作り、
それをまた読むに耐える英語に直してもらい、それをまた私が見直す、と云うプロセス
を何度も繰り返します。私も、手伝ってくれる人たちもそれぞれに多忙な生活の中でし
て居る仕事なのでその間に10年くらいの年月はすぐ過ぎてしまいます。その間に一人
の人が何らかの事情で出来なくなり、別の人に受け継いでもらうというようなことも起こ
ります。あらまし出来たものを、何人かの人に目を通してもらって、これでよいか、もっと
良い本にするにはどうすればいいか意見を言ってもらうと云うことも必要です。当にチーム
・ワークで、私の「著作」などとは到底言えないものです。
三冊の内の一つは、私が1997年から8年にかけて1年間、ロスアンゼルスにいた頃にし
た「現成公案」の講義のテープ起こしに私が手を入れて、国際センター(旧名開教センター)
のニュースレター「法眼」に数年間にわたって連載したものです。その連載した原稿をも
とに、私の弟子の一人が英語を手直しし、前後の整合性を考慮して一冊の本になるように
してくれたものです。現在、出版社の編集者と最後の編集作業の最中で、来年の春に出版
される予定です。
二冊目は、それよりも古く、1993年から96年まで、ミネアポリスの禅センターにいた頃、毎日
読誦する経本の中に含まれている、「般若心経」、「參同契」、「搭袈裟偈」、「懺悔文」、
「三帰礼文」、「四弘誓願文」、「行鉢念誦」等についてした講義のテープ起こしや整理を
長年かけて続けてくれている人の仕事です。
三冊目は、2002年にサンフランシスコ禅センターで行った初めての眼蔵会における講義
「正法眼蔵山水經」のテープ起こしを材料にしたものです。7日間、1時間半の講義を毎日
2回しかも英語でするのは苦行でした。然し読み直してみると、大切なことが抜けていたり、
横道に入って本筋と関係のないことを話していたり、発音がまずいので、全然違う言葉に
なっていたり、また話をした時点と今とでは私の理解が変わっていたり、もう少しましな説明
が出来ると思う部分があったり、最初から書き下ろした方が良いのではないかと思うことも
あります。
同じような作業を何人かの人が別の材料についてしてくれています。「坐禅箴」、「辨道話」、
「袈裟功徳」、「教授戒文」などです。これらの本の「制作」を60歳代の主な仕事にしていくつ
もりでおります。

今日の夕方から10月の5日間リトリートが始まります。今年の夏期安居から続いている
「梵網経」の講読をします。4月から初めてまだ十重禁戒が終わって、四十八軽戒に入った
ばかりです。来年の3月までには終わらせたいと願っています。4月からまた夏期安居が
始まりますので、別のテキストを読む予定にしています。

9月も末になり、木の葉が紅葉し、強い風が吹く度に大量の落ち葉になります。落ち葉はきが
大変な季節です。今年は胡桃が沢山なり、リスたちが忙しく集めて廻っています。日本でも
過ごしやすい気候になったことと存じます。どうぞ、お元気でお過ごしください。

9月30日

奥村正博 九拝


三心通信2009年8月

7月26日、家内と共にスェーデンに出発しました。27日にデンマークの首都コペンハーゲン
の空港に到着しました。コペンハーゲンとスェーデンの南端のマルモと云う町は海を渡る
橋で結ばれていて、私たちの知人のステンさんが住むルンドの町まで、電車に乗って一時
間程度でいくことが出来ます。一番近い国際空港なのです。
ルンドに一泊して、28日に電車で北ドイツのキールという、バルト海に面した港町から車で
20分ほどの小さな村に住む知人を訪ねました。ルンドから電車で同じ橋を渡ってコペンハ
ーゲンにもどり、そこでハンブルク行きの特急電車に乗り換えました。途中、列車ごとフェリー
にのって、デンマークとドイツの間の海峡を渡りました。40分くらいでわたりきるほどの距離
ですので、すぐそこという感じです。ハンブルクの少し手前のリューベックという駅でまたローカル
電車に乗り換えて、1時間ほど、ルンドから5,6時間ほどでキールまでつきました。たどり
着いたところは、人間よりも牛の数が多いと言うほど、小さな村でした。受戒した法名で、
英心さんと南山さんという、共にお医者さんのご夫妻のお住まいに泊めていただきました。
お二人は若い頃からヨーロッパやアメリカの禅センターで坐禅を続けてきました。7,8年前、
ご主人のキールの大学での勤務の都合で、こちらに移転してきて、ご自分たちの家に坐禅堂
を作り、20名ほどのメンバーと坐禅を続けています。坐禅会に一緒に坐らせていただきました。
12名ほどの参禅者がありました。今回はバケーションを使っての旅行なので、何も準備を
しないように言われていたので、坐禅のあと質問に答えるという形で話しました。奥さんの
英心さんに私のつたない英語をドイツ語に通訳していただきました。次の日の夕方には、
1192年、日本で言えば鎌倉幕府が出来た年に創立されたという修道院の中の建物の地下室
での坐禅会に連れて行っていただきました。貧乏貴族の子女達が修道女となって住んでいた
ところなのだそうですが、現在は90歳を超える修道院長さんがたった一人だそうです。院内の
部屋は一般の人にアパートとして貸しているとのこと。然し建物は創立当時のものも残っている
とのことでした。修道院の中の一つの建物だけが聖書博物館として、古文書などを展示して
ありました。400年前に建てられたアパートに住んでいる人たちのお宅で昼食をご馳走になりました。
そこに5泊したあと、8月2日に再び同じ電車でルンドに帰りました。8月の3日には娘の葉子も
我々に合流しました。今回の旅行は我々の結婚25周年の記念でもあります。ルンドの町も
12世紀に建てられたカセドラルが町の中央にあり、それを中心に発達した町で、18世紀に
創立されたルンド大学があります。一時は東のロンドンと云われて隆盛を誇った町なのだそうです。
ルンドから北に自動車で2時間程の距離にある、ステンさんの親戚の農場に連れて行って
いただきました。これ又200年程の古い建物でした。ステンさんの家系はスェーデンでは
由緒のある貴族なのだそうです。ステンさんのおじいさんが長男でこの家を継ぐはずだった
のが、キリスト教の牧師さんになりたくて、家を継がなかったとのこと。とても高名な牧師さん
だったそうです。現在の当主は、ステンさんのお父さんの従兄弟だとのこと。昼食をご馳走
になったあと、広々とした農場を案内していただきました。ここにも、12世紀に建てられた教会
があり、それが未だに教会として礼拝に使われていると云うことでした。
北ドイツでも、スェーデンでも、古い建物がよく保存され、遺跡としてではなく、実際に使われ
ていることに驚きました。勿論石や煉瓦で造られた建物と、日本の木と土と紙とで造られた
建物とを単純に比較することは出来ません。また日本の大都市はその多くが戦災で焼かれ
たので、仕方がない面もあります。しかし、戦災に遭わなかった京都と比べても、日本人には
古いものを壊して新しくすることに比較的抵抗がないのだなと感じました。富国強兵とか、
右肩上がりの成長とか、世界で何番目かの経済大国で有り続けなければならないとか
言う願望とは殆ど無関係のようです。技術の進歩でも、何が何でも先端にいなければ
行けないというのではなく、自分たちに必要で、役に立つものだけを取り入れて居るような
感じがしました。15,6年日本から離れていて、時々東京や大阪に帰ると、昔の面影は
全くなく、以前住んでいたところなのに何処が何処なのかさっぱり分からず、自分が本当
の異邦人のように感じるのとは違って、ゆるやかに時が流れていました。
ルンドに5泊して、8日にストックホルムに行きました。9日には王宮などがあるオールド・
タウンを観光しました。ストックホルムは多くの島からなる水に囲まれたとてもきれいな町
です。見苦しい現代風の建物は殆ど目につきませんでした。町の中の通りも、石で舗装
された昔の儘のところが多く、道幅も狭いまま保存されていました。
ストックホルムでも、小さな禪のグループをしている人のお宅に泊めていただき、夕方の
坐禅を一緒にしたあと、12,3名の人たちとお話をしました。この人も日本の禪寺や
アメリカの禅センターで坐禅をしてきたひとで、書道や陶芸もしているとのこと。
10日には家内と娘が帰りました。私は、13日から16日まで、ストックホルムの近くの
小さな島にあるリトリート・センターでの摂心がありました。昨年にも来たところです。30名
ほどの参加者がありました。道元禅師の「教授戒文」を講本に使って宗門の十六条戒の
講義をしました。参加者全員が真面目に坐り、私の英語の話を本気で聞いてくれました。
摂心の最後の日には在家得度の式があり、以前に三心寺に来て1ヶ月程参禅したことの
ある人が受戒しました。
日本のようにそこら中に仏教のお寺があるのではなく、キリスト教の圧倒的な伝統と文化
の中で、よい指導者にも恵まれず、ほんの少数の人たちとねばり強く坐禅を続けている人
たちの苦労を感じました。もっとも、それは私が住んでいるアメリカ中西部でもそれほど変
わりません。西海岸や東海岸では仏教がかなり普及していますが、インデアナ州では、今
でも三心寺が唯一の曹洞宗系の坐禅道場です。播かれたばかりの種や、芽吹いたばかり
の仏法の若芽を枯らさないように、ささやかではありますが渾身の努力をして生きたいという
願いを新たにしました。

8月25日

奥村正博 九拝



三心通信 2009年6月、7月

また2ヶ月に一度のペースになってしまいました。申し訳ありません。
6月の第1週、3日(水曜日)の夕方からから7日(月曜日)の午前中まで5日間の摂心が
ありました。京都にあった頃の安泰寺と同じ差定で、一炷50分の坐禅を14炷、坐ります。
ただ安泰寺と違う点もあります。椅子に坐っても良いこと、どうしても必要な場合は1炷か
2炷、適宜自分の判断で休憩を取ってもよい事です。
安泰寺では、安居者は病気その他の特別な理由がない限り摂心中一炷たりとも勝手に
坐禅を抜けることは許されていませんでした。外から通ってくる在家の人々でさえ、お寺
の中にいる限り、坐禅を休んではならないという不文律がありました。また、坐禅の場所
に椅子を持ち込むこと自体、想像も出来ないことでした。私の記憶が正しければ、安泰寺
には椅子はたった一つしかありませんでした。それは内山老師が提唱をされるときに使わ
れていたもので、その他の用途に使われることはありませんでした。最近では日本でも
椅子坐禅が勧められるようになりましたが、私が安泰寺にいた頃は、坐禅というのは、
道元禅師が「普勧坐禅儀」に書かれているように、坐褥、座蒲のうえに、結跏趺坐か
半跏趺坐で坐ることで、椅子に坐ることも坐禅と呼ぶことが出来るなどとは想像も出来
ないことでした。
私が安泰寺で坐禅の係りをしていたとき、1973年か74年だったと思いますが、摂心が
始まる前の日、一人のアメリカ人が摂心に参加したいと云ってやってきました。当時は、
多数の外国人が毎月参禅しておりましたので、別に珍しいことでも何でもなかったので
すが、ただ、足を組んで坐れないので椅子に坐りたいというので、このお寺に椅子はな
い事を説明しました。すると、玄関の上がりかまちを指さして、「此処に坐れないのか。」
と聞かれました。「人が出入りするところだから、坐禅の場所ではない。」といって、気の
毒だったのですが、帰ってもらいました。その時にその人が、「将来、坐禅したいけれど
も足を組んで座蒲に坐れない人が沢山来るだろう。その人たちのことを考えておいた方
が良い」と云うようなことを言い残して立ち去っていったことを覚えております。その時の
私は、坐蒲の上に足を組んで坐れないと言うことは坐禅が出来ないと言うことだろう、そ
ういう人がどうして摂心に来たがることがあるのか、といぶかしく思いました。
1875年にアメリカに来てバレー禅堂にいた頃、やはり安泰寺と同じ差定の5日間の摂心
を毎月しておりました。内山老師からの、人やカネを集めることを考えず、自分たちが坐
り抜くことだけを考えるようにとのご指示に従って、宣伝もせず、摂心の参加費も取らず、
来たい人は何時来て、坐れるだけ坐って、いつ帰ってもよい、と云う方針で、自分たちだけ
が坐る事を第一に考えておりました。そのころはまだ、アメリカでは所謂、禪ブームの
最中で、大きな禅センターでの摂心には、何十人もの人が坐っているような記事や写真が、
禅センターから来るニュースレターにはいつものように書かれていました。それらの禅セン
ターで坐った人たちも何人かバレー禅堂の摂心に来ましたが、5日間全部坐れる人が少な
いことに驚き、また拍子抜けしました。禪ブームで大勢の人が坐禅をしていると言っても、
まだまだ底が浅いものだと感じました。それと同時に、一つの疑問も感じました。マサチュ
ーセッツ州西部の、森の中の小さな禅堂で、自然だけを相手に坐禅や作務に専念出来る
ことは、自分の修行としてはとても恵まれたことで、坐禅の場所の創立のために力一杯
働けること、毎月坐禅だけに専念する摂心ができることを、厳しくはありましたがとても
有り難いことだと感謝しておりました。そのことは今になっても変わりません。バレー禅堂
での経験がなければ、今までアメリカの人たちと一緒に坐禅を続けることは出来なかった
ことでしょう。
しかし、殆どのアメリカ人がしたくても出来ない摂心を、日本ではなくアメリカで、日本人の
雲水3人だけで、続ける事にどういう意味があるのだろうか?すでにこの摂心が出来る
ほどに坐禅の経験があり、仏道修行に堅固な志を持ち、信心決定している人たちが訪ねて
くるのを待ち、そういう人たちだけを相手にするというのであれば、日本の山奥のお寺でも
出来るのではないか?というのが私の疑問でした。達磨大師の「面壁九年」や、道元禅師
の「一箇半箇の接得」などの表現から言ってもそれが禪の伝燈の中の一つの行き方である
ことは確かなのですが。
三心寺を創立するとき、修行を水で薄めて、多くの人を集めようなどとはつゆほども思いま
せんでしたが、もう少し間口を広くすることは出来ないかと考えました。
坐禅堂の中で、椅子で坐ることも殆どのアメリカの禅センターでは当たり前のように行われ
ています。1993年に再びアメリカに来て、ミネアポリスの禅センターで教え始めていた頃にも、
椅子に坐ることが本当に坐禅と呼べるのか、私の中では疑問でした。ただ椅子にしか坐れ
ない人たちを拒絶するのはよくないだろうと、いわば黙認しておりました。そのころ、ミルウ
ォーキー禅センターで指導されておられた秋山洞禅さんが、膝の手術をされ、坐禅の時、
暫く椅子に坐っておられましたので、「椅子に坐るのも坐禅だと言えますか」と、不躾な質問
しました。洞禅さんが、「椅子に坐るのも坐禅だと言えると思う」と答えられましたので、その
時から「椅子坐禅」も坐禅だと認めることにしました。然し、自分自身が坐禅堂で椅子に坐る
ことになるとは夢にも思いませんでした。
2,3年前の眼蔵会の少し前に、持病のぎっくり腰がでて、とても座蒲の上には座れませんで
した。しかし、中止するわけにはいかず、坐禅の時と講義の時、椅子に坐りました。それ以前
には、1時間半の講義の時にも半跏趺坐で坐って話をしておりました。ときには、質疑応答が
長引いて2時間になることもありましたが、問題はありませんでした。その眼蔵会の直後に、
ピッツバーグでの週末3日間の摂心があったのですが、一年前から予定を組んであったので
キャンセルするわけにはいかず、これも3日間椅子に坐りました。足を組んで坐るのとは矢張
り違います。特に上半身の体重を腰と尻だけで支えますので、安定感が十分でなく、最初は
随分ととまどいました。しかし、3日間工夫しながら坐ってみて、「これは坐禅ではない」と言う
ほどの根本的な違いがあるわけでもないと言うことが分かりました。ただ、足を組んで坐るこ
とも出来る時にも椅子に坐りたいかというと、そんなことはありません。足を組んで坐る方が
遙かに安楽です。私にとって椅子坐禅は、足や腰の痛みで足を組んで坐れないときの急場し
のぎにはなるという程度です。因みに、昨年膝の痛みがきつくなってからは、1時間半の講義
の時には、いつも椅子に坐るようにしております。
アメリカで坐禅をする人には、長年坐禅をしてきたけれども、年を取って椅子にしか坐れなく
なった人、ひざの故障で手術をして坐れない人、足腰の筋肉が固くてどう見ても足を結跏や
半跏には組めそうもない人、それでも、坐禅をしたい人が沢山あります。その人たちを坐禅
堂から閉め出すことは矢張り出来ません。
私も、膝の痛みが進んで、5日間の摂心が出来なくなったらどうしようかと昨年くらいから考え
ざるをえなくなりました。私には、内山老師のように、坐禅が出来なくなれば「南無観世音」の
称名で、と言うことも出来そうにはありません。足を組んで坐ることが出来なくなれば、積極的
に椅子坐禅に取り組んでみようかとも考え始めています。

6月は、首座法戦式などがあり、あっという間に過ぎ去ってしまいました。21日に私は61歳になり、
老人の一年生として、ようやく、五十歳代とは違った修行のペースが飲み込めてきたように思
います。7月1日から6日までの禪戒会で今年の3ヶ月の夏期安居も無事に円成しました。最後
の日に受戒があり、3人の人が菩薩戒を受けて在家の仏弟子となりました。今回で三心寺創立
以来5回目の夏期安居、多くの人々のご支援と、参加者の真面目な修行で続けてこられたこと
を何よりも有り難く存じております。

7月11日
奥村正博 九拝




三心通信 2009年5月

5月も今日が最後の日になってしまいました。このところ三心通信をかくのが2ヶ月に一
度のペースになっていたのを、何とか修復しなければ行けないと思いながら、その日
その日にしなければならない仕事に追われて、ぎりぎり最終日になってしまいまし
た。
五月初旬の眼蔵会は、先月にかきましたように「正法眼蔵一顆明珠」を講本にしまし
た。この巻は、正法眼蔵のシリーズとしては、「現成公案」「摩訶般若波羅密」に次
いで早くかかれたものですが、道元禅師の著作の特色がよく出ている巻だと思いま
す。私には、一顆の明珠をインドラの網の一つの結び目の摩尼珠だというイメージが
あります。その一つの摩尼珠が全世界とつながっており、世界中の個々の存在を映
し、照らされていると云うのが道元禅師の一顆の明珠の意味するところだと考えてい
ます。「現成公案」にでる無限の月の光を宿している水滴のイメージとつながってい
るものです。
4月から、水曜日夕方の勉強会(ダルマ・スタディ・グループと呼んでいます)で
「梵網経」の講読をしています。私たちが受ける十六条戒の内の十重禁戒は「梵網
経」が根拠になっています。これまで序章を読み終わって、先回第一重戒、不殺生戒
に入ったところです。学者の研究によると、「梵網経」は、鳩摩羅什によって梵語か
ら訳されたのではなく、5世紀に中国で作られたものだと云うことですが、戒の根本
に「孝順心」を置いている処からも、其れは頷けます。先々回読んだところに、「爾
の時、釋迦牟尼佛、初めて菩提樹下に坐して無上覺を成じ、初めに菩薩の波羅提木叉
を結したまふ。父母・師僧・三寶に孝順せよ。孝順は至道の法にして、孝を名けて戒
と為し、亦た制止と名く、」と云う文がありました。釈尊が菩提樹の下で成道された
後、まだ法輪を転じて法を説く事を躊躇されていた釈尊が、「孝順心」が仏教倫理の
根源だと云われたというのは、私には奇妙に聞こえますが、仏教が中国社会の道徳の
根源である、家族倫理を破壊するものではないと云うことを、仏教の出家主義、出世
間主義に反感を持つかも知れない中国社会一般の人々だけではなく、中国人仏教徒の
人々自身も納得しなければ、仏教が中国社会の健全な構成要素として認められること
はあり得なかったのでしょう。儒教の五常と仏教の五戒とが同じものだとか、一人が
出家すれば九族が天に生ずることが出来る、などと云う観念もその様な事情から作ら
れていったもののようです。家族制度を社会の根幹としていた中国文化の影響下に
あった朝鮮、日本などの東アジアの国々では、これがつい最近まで効力を持ち続けて
きました。然し、大家族が分散して核家族となり、離婚率の上昇によって、核家族さ
え分裂している例が多数あるアメリカ社会で、「孝順心」が仏教の戒だけではなく、
社会倫理の根幹となりうるかどうかは甚だ疑問です。親子、兄弟、親戚などの繋がり
の大切さは変わらないとしても、家系を継続させるために、子供が先祖や両親に服従
しなければならないと云うような「家族制度」や「親孝行」が社会倫理の根源的な概
念たり得ることはあり得ないように思えます。其れでは、これからの仏教倫理の根拠
を何に求めればよいのか?が大切な問題になっています。
仏教の中では、一切衆生と繋がり、万物に生かされて、生きていると云う縁起の思想
が、ともするとエゴに変化しがちな伝統的な家族制度よりも広やかな、規範の根拠と
なりうるかも知れませんが、人々の行動の規範となるには観念的で具体性にかける様
に思えます。然し、我々の日常生活の仕方によって、地球全体が温暖化し、生態系が
破壊され、様々な生物の存在基盤が失われ、我々人間自身の存在が可能かどうかにま
で影響が及ぶことを考慮すれば、もはや観念的だと云っているわけにはいかないかも
知れません。
5月の23日には、三心寺としては、初めてヤード・セールをしました。お寺に関係し
ている人たちの家庭で眠っている不要品を寄付してもらい、其れを一般の人たちに
買ってもらって、お寺の運営費の足しにするというものです。日本でバザーと呼ばれ
る催しと同じかも知れません。唯アメリカでは、教会や学校などの公共団体だけでは
なく、個人の家でも引っ越しの際にまだ使える不要品を始末するために普通に行われ
ます。衣類や書籍や、台所用品、旧式の電気製品などが主なものです。多くの人々の
協力を得て、朝八時から、午後3時までで、400ドル以上の収入になりました。
眼蔵会が終わってすぐに、9月にテキサスのオースティンの禅センターである、次の
眼蔵会のために準備を始めました。「海印三昧」を講本にします。是も又、正法眼蔵
の中で私にとっては最も難解な巻の一つです。又悪戦苦闘の日が続きそうです。
6月21日には、例年のように首座法戦式が行われます。3ヶ月の夏期安居の中で大きな
行持の一つです。
私の膝は、ニンニク灸が功を奏しているのか、左膝はかなり改善された様です。曲げ
ると膝の内側が痛かったのですが、今はそれほどでもありません。右膝は、階段の上
り下りの時や坂道を歩くときに中央の分が痛むのですが、これは余り変わりません。
おそらく、右膝は、1975年から81年まで、バレー禅堂にいた頃に、シャベルの使いす
ぎで痛めたものの後遺症ではないかと思います。畑の開墾や、井戸掘り、その他の土
方仕事で、一日中右膝でシャベルを蹴っていたのを思い出します。
5月31日に書き始めたのですが、月を越してしまって既に6月2日です。日本では既に
梅雨に入った頃でしょうか?皆様どうぞ、お元気でお過ごしください。

奥村正博 九拝


三心通信2009年3月、4月

2月10日に日本からこちらに帰ってから、早くも2ヶ月半が経ってしまいました。このところ、三心通信が2ヶ月ごとというペースが定着してしまいました。 申し訳ありません。
言い訳から書かなければなりません。3冊の本の出版準備が同時進行しております。一つは、私が国際センターのニュースレター、「法眼」に連載した「正法眼 蔵現成公案」の解説書です。私の弟子の正龍・ブラッドレイが原稿の作成をしてくれたのですが、本の内容についての責任は私にあるものですから、変更がある 度に目を通して、其れで良いかどうか考えなければなりません。これは3月末に最終原稿を出版社に送りました。これから出版社の編集を担当してくれる人との やり取りが始まります。
二つめは、この前の通信に紹介した、私がミネアポリスにいた頃に訳した内山老師の「現成公案を味わう」の翻訳を、サンフランシスコ禅センターの創立者であ る鈴木俊隆老師の現成公案の提唱、西有禅師の「現成公案啓迪」の英語訳とを一冊の本として出版する計画です。内山老師の提唱の翻訳原稿と私が日本にいると きに書いた序文の原稿の英語を点検し、添削してもらい、手直ししてもらった物をもう一度私が点検するという作業をしております。これはまだ完了しておりま せん。
三つ目は、私がミネアポリスにいた頃に、「般若心経」、「參同契」、「行鉢念誦」、「開經偈」、「四弘誓願文」、など、日常読むお経や偈文について講義を したものです。もう十年以上前のものですが、テープ起こしをし、英語を読みやすくする作業を、忙しい生活の中で、続けてくれている人がいます。本業はお医 者さんで、自分の農園を持ち、羊などを飼っている人です。録音していない講義や、テープが紛失してしまっているものがあって、その抜けている部分を新たに 書きおろす作業をしておりました。
英語の本を作るのは私一人では到底できませんので、協力者のペースに合わせて仕事をしなければなりません。時としていくつもの仕事がかち合うことがありま す。基本的に、私の時間は、現在破産状態で、いくつもの仕事に追いかけ回されております。それでも、土曜日以外週6日間は、朝4時半に起きて5時から7時 まで坐禅がありますので、夜なべ仕事をするということができません。日曜日の朝の法話や、水曜日夕方の勉強会の講義の準備もしなければなりません。現在 は、来週から始まる眼蔵会の講義の準備におわれています。
以上、通信が書けなかった言い訳です。
2月は、3日間の涅槃会摂心以外は、何も予定が無く、ほぼ上に書いた原稿書きやその点検作業に集中しておりました。3月は5日間の摂心の後、南アメリカの コロンビア人で、もともと安泰寺の前の堂頭であられた宮浦信雄さんの得度を受けた人で、信雄さんが遷化されたあと私の弟子になった伝照さんという人の嗣法 の式がありました。摂心前から三心寺に来て、5日間の摂心を一緒に坐った後、7日間の加行をし、三物を書写しました。
4月のはじめの5日間のコミュニティ・リトリートから、三ヶ月間の夏期安居が始まりました。今年はまだ二十歳代の閑道・ドーシィが首座をしています。首座 は安居の間毎週日曜日の朝の法話をすることになっています。閑道さんは龍樹の「中論」をテキストにして「空」について話をしております。まだ先週第1回が 始まったばかりですが、空の教えと我々の日常生活の修行の関わりを話すことを目標にしているようです。どのように展開していくのか、楽しみにしています。 首座法戦式は昨年と同じく6月21日の日曜日に予定しております。
水曜日の勉強会は、「梵網経」の講読を始めました。菩薩戒の原典からの勉強で、7月の禪戒会までに終わればと願っております。例年のように人数は少ないで すが、充実した修行と、勉強ができております。
来週水曜日から始まる眼蔵会には、20名ほどの人が参加する予定で、地下室の禪堂兼本堂は満員になりそうです。今回は「正法眼蔵一顆明珠」を講本にして参 究します。その準備として、上に書いた本の原稿の準備の作業と並行して、玄沙師備の教説全体の中で、「一顆明珠」という表現がどのような位置にあるのか知 りたくて、「玄沙広録」を読み始めました。その解説によると、「尽十方界一顆明珠」のような表現は、玄沙の教説の中では初期のもので、ある時点から玄沙は 自己批判を行って、自己変革を遂げていったというようなことが書いてありました。とすれば、道元禅師は玄沙が後期には捨ててしまった表現を取り上げて、絶 賛されているのでしょうか?また「眼蔵一顆明珠」の注釈書はどれも、「一顆明珠」は玄沙の全挙力、「玄沙は生涯をこの明珠で尽くす」(「啓迪」)というよ うにいわれていますが、果たしてそう単純に言えるのかどうか、考えております。
或いは、玄沙の「一顆明珠」の表現は、「楞伽經」、「円覚經」、「首楞嚴経」などの「随色摩尼」の説から出ているものだそうですが、道元禅師の場合もそう なのか?道元禅師の一顆明珠は玄沙がいおうとしていたのとは違っているのではないか?などなど、様々考えております。勿論、こういう様々なことをしっかり と考えるためには、何よりも道元禅師が書かれた文章を正確に読み取る必要があります。それ以上のことは、今後の宿題として取っておかなければなりません。

新年のご挨拶に膝の痛みのことを書きましたところ、何人かの方々からご親切な教示をいただいたり、貼り薬を送っていただいたり、コーケントーという光線治 療器を送っていただいたりしました。2月に日本に行った折りに、広島の禪晶寺の方丈様からニンニク灸がよく効くと教えていただき、艾まで頂戴しました。今 ニンニク灸を毎日しております。 
歩いて10分ほどで行ける距離にYMCAがありますので、週に3,4日は1時間ほど歩き、ストレッチ体操をするようにしております。それと、膝の負担をな るべく少なくするべく、体重を減らすように、少なくとも増やさないように気をつけております。お陰様で3月の5日間の摂心も何とか全部坐ることができまし た。 御礼を申し上げます。
4月24日 奥村正博    九拝                                                                                                               
三心通信2009年3月、4月

2月10日に日本からこちらに帰ってから、早くも2ヶ月半が経ってしまいました。このところ、三心通信が2ヶ月ごとというペースが定着してしまいました。 申し訳ありません。
言い訳から書かなければなりません。3冊の本の出版準備が同時進行しております。一つは、私が国際センターのニュースレター、「法眼」に連載した「正法眼 蔵現成公案」の解説書です。私の弟子の正龍・ブラッドレイが原稿の作成をしてくれたのですが、本の内容についての責任は私にあるものですから、変更がある 度に目を通して、其れで良いかどうか考えなければなりません。これは3月末に最終原稿を出版社に送りました。これから出版社の編集を担当してくれる人との やり取りが始まります。
二つめは、この前の通信に紹介した、私がミネアポリスにいた頃に訳した内山老師の「現成公案を味わう」の翻訳を、サンフランシスコ禅センターの創立者であ る鈴木俊隆老師の現成公案の提唱、西有禅師の「現成公案啓迪」の英語訳とを一冊の本として出版する計画です。内山老師の提唱の翻訳原稿と私が日本にいると きに書いた序文の原稿の英語を点検し、添削してもらい、手直ししてもらった物をもう一度私が点検するという作業をしております。これはまだ完了しておりま せん。
三つ目は、私がミネアポリスにいた頃に、「般若心経」、「參同契」、「行鉢念誦」、「開經偈」、「四弘誓願文」、など、日常読むお経や偈文について講義を したものです。もう十年以上前のものですが、テープ起こしをし、英語を読みやすくする作業を、忙しい生活の中で、続けてくれている人がいます。本業はお医 者さんで、自分の農園を持ち、羊などを飼っている人です。録音していない講義や、テープが紛失してしまっているものがあって、その抜けている部分を新たに 書きおろす作業をしておりました。
英語の本を作るのは私一人では到底できませんので、協力者のペースに合わせて仕事をしなければなりません。時としていくつもの仕事がかち合うことがありま す。基本的に、私の時間は、現在破産状態で、いくつもの仕事に追いかけ回されております。それでも、土曜日以外週6日間は、朝4時半に起きて5時から7時 まで坐禅がありますので、夜なべ仕事をするということができません。日曜日の朝の法話や、水曜日夕方の勉強会の講義の準備もしなければなりません。現在 は、来週から始まる眼蔵会の講義の準備におわれています。
以上、通信が書けなかった言い訳です。
2月は、3日間の涅槃会摂心以外は、何も予定が無く、ほぼ上に書いた原稿書きやその点検作業に集中しておりました。3月は5日間の摂心の後、南アメリカの コロンビア人で、もともと安泰寺の前の堂頭であられた宮浦信雄さんの得度を受けた人で、信雄さんが遷化されたあと私の弟子になった伝照さんという人の嗣法 の式がありました。摂心前から三心寺に来て、5日間の摂心を一緒に坐った後、7日間の加行をし、三物を書写しました。
4月のはじめの5日間のコミュニティ・リトリートから、三ヶ月間の夏期安居が始まりました。今年はまだ二十歳代の閑道・ドーシィが首座をしています。首座 は安居の間毎週日曜日の朝の法話をすることになっています。閑道さんは龍樹の「中論」をテキストにして「空」について話をしております。まだ先週第1回が 始まったばかりですが、空の教えと我々の日常生活の修行の関わりを話すことを目標にしているようです。どのように展開していくのか、楽しみにしています。 首座法戦式は昨年と同じく6月21日の日曜日に予定しております。
水曜日の勉強会は、「梵網経」の講読を始めました。菩薩戒の原典からの勉強で、7月の禪戒会までに終わればと願っております。例年のように人数は少ないで すが、充実した修行と、勉強ができております。
来週水曜日から始まる眼蔵会には、20名ほどの人が参加する予定で、地下室の禪堂兼本堂は満員になりそうです。今回は「正法眼蔵一顆明珠」を講本にして参 究します。その準備として、上に書いた本の原稿の準備の作業と並行して、玄沙師備の教説全体の中で、「一顆明珠」という表現がどのような位置にあるのか知 りたくて、「玄沙広録」を読み始めました。その解説によると、「尽十方界一顆明珠」のような表現は、玄沙の教説の中では初期のもので、ある時点から玄沙は 自己批判を行って、自己変革を遂げていったというようなことが書いてありました。とすれば、道元禅師は玄沙が後期には捨ててしまった表現を取り上げて、絶 賛されているのでしょうか?また「眼蔵一顆明珠」の注釈書はどれも、「一顆明珠」は玄沙の全挙力、「玄沙は生涯をこの明珠で尽くす」(「啓迪」)というよ うにいわれていますが、果たしてそう単純に言えるのかどうか、考えております。
或いは、玄沙の「一顆明珠」の表現は、「楞伽經」、「円覚經」、「首楞嚴経」などの「随色摩尼」の説から出ているものだそうですが、道元禅師の場合もそう なのか?道元禅師の一顆明珠は玄沙がいおうとしていたのとは違っているのではないか?などなど、様々考えております。勿論、こういう様々なことをしっかり と考えるためには、何よりも道元禅師が書かれた文章を正確に読み取る必要があります。それ以上のことは、今後の宿題として取っておかなければなりません。

新年のご挨拶に膝の痛みのことを書きましたところ、何人かの方々からご親切な教示をいただいたり、貼り薬を送っていただいたり、コーケントーという光線治 療器を送っていただいたりしました。2月に日本に行った折りに、広島の禪晶寺の方丈様からニンニク灸がよく効くと教えていただき、艾まで頂戴しました。今 ニンニク灸を毎日しております。 
歩いて10分ほどで行ける距離にYMCAがありますので、週に3,4日は1時間ほど歩き、ストレッチ体操をするようにしております。それと、膝の負担をな るべく少なくするべく、体重を減らすように、少なくとも増やさないように気をつけております。お陰様で3月の5日間の摂心も何とか全部坐ることができまし た。 御礼を申し上げます。
4月24日 奥村正博    九拝                                                                                                               


三心通信 2009年1月、2月

1月15日にブルーミングトンを出発し、サンフランシスコに10日あまり滞在し、そこ
から27日に日本に来て10日程になります。2月10日に三心寺に帰山します。この旅行
のために1月の三心通信を書く時間のゆとりが無く、今日に至りました。

1月は3ガ日の間、禅堂を閉めてお休みしました。元旦には、例年通り日本の方々への
新年のご挨拶を書きました。それを印刷し、封筒の宛名を書き、切手を貼り、郵便局
に持って行って郵送するだけに、新年の最初の3日間を使うのがここ何年かの習慣に
なりました。
7日から12日まで、5日間の摂心。12月の臘八摂心では3日目にギブ・アップしていま
すので、坐り通せるか自信がなかったのですが、何とか最後まで坐る事ができまし
た。
2日間休んで15日にサンフランシスコに出発。16日夕方から23日の昼食まで7日間の眼
蔵会がありました。今回は「正法眼蔵神通」を講本にしました。「神通」という言葉
は、テキストとして使ったカール・ビュルフェルト先生の英語訳では、spiritual
power と訳されています。その他の訳語としては、supernatural power, superhuman
power, psychic power, divine powerなどが使われています。神通の「神」を、「カ
ミ」と読めばdivine, 「精神」、「神霊」など、心理的は能力と解釈すれば、
spiritual, psychic などと訳す事が可能です。言葉通りではなく、人間の通常の能
力を超えた、超自然的な能力とすれば、superhuman, supernatural などと訳されま
す。勿論禪仏教の伝統では、?蘊居士の「神通並びに妙用、運水及び搬柴」という表
現の文脈で、要するに日常の当たり前の行動が神通なのだという解釈が正しいとさ
れ、道元禅師自身もそのように書いておられます。また正法眼蔵の注釈も例外なくそ
のように解説されています。勿論「眼蔵神通」の巻の説明としてはそれ以外にあり得
ません。
しかし、中国禪以前に「神通」がどのように説かれ、禪仏教ではどうして日常の、当
たり前の行為を「神通」とするようになったのかを考えるために、今回は、成道後ま
もなく、火を崇拝していて、1000人の弟子を持っていた、いずれも迦葉と呼ばれる3
人の宗教指導者を改宗させるために釈尊が、火を噴く毒蛇を退治するなどの神通力を
使われたという話を紹介することから始めました。その1000人を自分の弟子とされて
から象頭山で「眼は燃えている、眼の対象は燃えている、眼と眼の対象との接触に
よって起こされる眼識は燃えている、云々」の説法をされたと云う話がパーリ律藏に
あります。六根が六境と接触したとき三毒の炎に燃やされないこと、が流転輪廻の苦
しみから解放されることであり、道元禅師が引用される臨済の言葉を通して、「眼蔵
神通」まで真っ直ぐに受け継がれている仏教の本質的な教えです。ふつうの意味での
超常的な能力としての「神通」と、仏教の本質としての「神通」とが、パーリ語の律
藏大事の釈尊伝の中にすでに一緒に説かれていることは大変意味深い事だと思いま
す。
それから、パーリ語のニカーヤで「神通」がどのように説かれたかを検討しました。
大多数の経典の中では、六神通が、戒、定、慧の修行を成就したならば得ることがで
きる能力として何の疑問もなく正統的な教えとして説かれています。長部経典の中で
一度だけ、釈尊が、在家信者を増やすために神通力を使うことを弟子たちに禁止され
たことが出ている程度です。しかし大目蓮が神通第一と云われ、その他の仏弟子たち
にも神通力を使った話がいくつも残されていることから見ても、「神通」について否
定的な見方というものは殆ど無かったようです。
次に大乗仏教の「維摩經不思議品」、「法華經如来神力品」などで「神通」がどのよ
うに説かれているかを検討しました。大乗経典では、「神通」を個人が修行の結果と
して得られる特殊な能力としてではなく、諸法実相の不可思議さを示す、仏如来の方
便の力として説かれている事が多いようです。
その後で、禪仏教の伝統で、「運水搬柴」が神通だとされたと云うところから「眼蔵
神通」の巻に入りました。釈尊の象頭山での説教と繋げることによって、どうして六
根が六境に出会うときに、それに惑わされないで行動することが「神通」だという中
国禪や道元禅師の言い分が正統な仏教の教えだと言いうるのかを考えました。

24日には、バークレイ禅センターに行き、例年のように良寛さんの詩について話しま
した。今年は、Great Foolと題された良寛さんの伝記、漢詩、和歌を含んだ英語の本
の中で、「胡蝶の夢」というタイトルでくくられたいくつかの漢詩について話しまし
た。1週間「正法眼蔵」について話すのに悪戦苦闘した後で、良寛さんの詩について
話すのは、誠に楽しいことでした。
25日の日曜日には、日本の八王子に在住し、このセメスターの間、サンフランシスコ
の近くのスタンフォード大学で教えているジョン・マクレーさんと昼食を共にしまし
た。午後には三心寺の理事の一人であるノーマ・フォゲルバーグさんのお宅で三心寺
のファンドレイジングの催しをしていただきました。
その翌日26日午後の飛行機で日本に出発。27日の夕方成田空港に到着しました。その
夜は川口の鈴木龍太郎氏のお宅にとめていただき、28日、29日と宗務庁の国際布教連
絡会議に出席しました。この3月末日で国際センター所長の職を辞したい旨を伝えた
のですが、3月までに後任を探すのは不可能なので後一年間続けてほしいとの回答で
した。跡を濁して辞めることはしたくないので、了承しました。ですから2010年の3
月で辞職することになりました。その後は、三心寺の修行、運営の基盤を作ること
と、内山老師の著作の翻訳、私自身の眼蔵の重要な巻の解説書を作ることに専念した
いと願っております。世界中あちこち旅行して、坐禅と講義をするのは体力的にも限
界に来ています。
その後、九州、広島、京都を経て、群馬県の草津温泉の小さな旅館に滞在して、身体
を休めています。
私がミネアポリスにいた頃に訳した内山老師の「現成公案を味わう」の翻訳を、サン
フランシスコ禅センターの創立者である鈴木俊隆老師の現成公案の提唱、西有禅師の
「現成公案啓迪」の英語訳とを一冊の本として出版する計画があり、内山老師の「現
成公案を味わう」のイントロダクションを書いております。また、これから自分の60
代に何をどの順番でしていくかを考えています。
9日まで此処に滞在し、10日にはブルーミングトンに帰ります。昨日は雲一つ無く晴
れた日で、気温も4月上旬並と言うことでしたが、今日は朝方雪が降っておりまし
た。

2月6日
奥村正博 九拝