三心通信 2008年10月、11月
9月6日に前回の三心通信を書いてから3月近くが経ってしまい、すでに11月も末になってしまいました。木々たちは全て落葉してしまい、空が広く明るくな
りました。この2週間ほどは寒い日が続き、霜が降りたり、氷が張ったりする日が続いておりました。今日は久しぶりにやや気温が高めで、朝から静かな雨が
降っております。
9月には、三心寺での摂心の後、ミネアポリスにあるダルマ・フィールド・禪センターにいき、5日間の眼蔵会をつとめました。眼蔵会は年に4回と数を限って
います。4回の内、5月と11月の2回は三心寺で行い、1月にサンフランシスコ禅センター、9月には一年おきにミネアポリスかテキサスのオースティン禅セ
ンターで行うようになっています。一昨年ミネアポリスで「仏性」の巻の最初の3分の1ほどを読み、今回は第2回目でした。龍樹の「身現円月相」の処まで読
み進めることができました。再来年に、全巻を読み終えたいと願っております。
ミネアポリスは1993年から97年まで住んでおりましたのでそのころからの知人も多く、町や湖にも懐かしさを感じました。
9月21日には、二人の人の出家得度式がありました。二人ともフロリダ州に住む女性で長年坐禅をしている人たちです。宗務庁に私の弟子として登録した人の
数は是で14人になりました。その内の4人は現在ブルーミングトンに住み、毎日の坐禅をし、毎月の摂心やリトリートに参加しています。その他の人たちは仕
事や家族の事情があり、遠隔地に住んでいます。車で1時間ほどのインデアナ大学のインデアナポリスのキャンパスで哲学を教えている人、フランス在住の人、
南アメリカのコロンビアにいる人、日本にいる人、カリフォルニアにいる人、ミネアポリスにいる人たち、フロリダに住む人たちなど様々な場所に散らばってい
ます。日本のような疑似家族的な師弟関係というのはこのような事情もあって成り立たないでしょう。ではどのようになっていくのか、私自身にもはっきりとし
て見通しはついておりません。
10月には1日から6日まで、三心寺でコミュニティ・リトリートがありました。昨年から、毎週日曜日の参禅会の法話と年に2回のコミュニティ・リトリート
には、内山老師の「生命の実物」と「安泰寺に残す言葉」の英語訳を主な内容としたOpening the Hand of
Thoughtを講本にして話をしています。毎回、1段落(パラグラフ)ほどづつ話していますので、既に50回を超えますが、まだ46ページです。内山老
師の書かれた物は、なるべく仏教用語を使わず、ご自分の経験に基づいて、現代人に身近な譬えや表現で説明されていますので、西洋の人たちにも大変理解しや
すく、実際に坐禅をしている人たちから評価されています。ただ問題なのは、分かりやすいので、簡単なことが書かれているのだと思いこみがちなことです。若
い頃の私にもそういう傾向がありました。それで、老師が分かりやすく書かれていることを伝統的な仏教教理や禪の表現の文脈でいえばどういう事なのかを主眼
にして話しています。いわば、老師が仏教語や禪語を現代語に言い直されたのを、もう一度仏教語に翻訳し直すという試みです。例えば、老師が坐禅の説明の中
で、「居眠り」と「考え事」について書かれている部分では、「宝慶記」に記録されている道元禅師と如浄禅師の「身心脱落」についての問答にでる、「五蓋」
から天台智の「摩訶止観」の「五蓋を棄てる」の部分まで遡って、仏教一般での禅定、止観の修行における「居眠り」と「考え事」を含めた五蓋に対する態度
と、道元禅師の坐禅における私たちの態度と違いがあるとすればどのように違うのか、共通点があるとすればどのような点なのか、などということを考えながら
話しています。私の理解の程度がどの程度の物か、聴いている人たちがどの程度理解してくれているのか、心もとないことも多々ありますが、とりあえず試みて
おります。
今のアメリカでは、日本では考えられないほどの多様な仏教の伝統が紹介され、持ち込まれて、それがアメリカの人たちに様々に理解され、咀嚼され、実践され
ています。仏教瞑想の解説の本だけでも多数出回っています。ですから、ただ坐ればいいと言っているだけでは、実際にどのような理解に基づいて坐っているの
か、分かりかねることがあります。「ただ坐る」とはどういう事で、それは仏教の他の伝統の瞑想とどのように違い、どのような共通点があるのか、を考えてい
かなければなりません。
10月9日、家内と一緒に自動車でノースカロライナ州に行き、その日の夕方、アシュビルの禅センターで坐禅の後法話をしました。その夜は、片桐大忍老師の
嗣法の弟子であり、京都にいた頃からの友人である貞静・ミュニック師が創立された大樹寺に宿泊しました。次の日、ホット・スプリングの町に行き、2泊3日
のウォーキング・リトリートがありました。今年で5回目でした。毎年この時期は、アパラチア山脈の紅葉が真盛りで、目も心も洗われ、山の中を歩くことと、
温泉につかることで身体全体が活性化するような感じがします。
それもつかのま、ブルーミングトンに13日に帰り、14日にはフランスに向けて出発しなければなりませんでした。15日から23日まで、フランスの禪道尼
苑で行われている宗立僧堂の安居で、講義をするためでした。「典座教訓」を1週間で何とか読み終えました。私が英語で話し、私の弟子でフランスに住む正珠
さんがフランス語に訳してくれました。正珠さんは、私と太源・レイトン師が英訳した「典座教訓」のフランス語訳も事前に作ってくれました。眼蔵会の間と同
じく、午前と午後1時間半の講義を2回行うのは大変でした。
10月23日にフランスからブルーミングトンに帰り、1週間後の29日から三心寺での眼蔵会が始まりました。今回は「正法眼蔵大悟」を講本にしました。英
語訳は春先に一応の物は作っていたのですが、英語を母国語にする人に点検してもらう暇がなく、私の下手な英語の逐語訳をテキストに使いました。是にも又言
い面もあって、日本語の表現を私の言葉で説明し、英語でそれをどのように表現すればいいのか、講義を聴いてくれている人と質疑応答しながら考えられるので
す。もちろん、質的に日本の眼蔵会などのお師家さんの「提唱」とは全く違う物になります。「提唱」では、お師家さんは自分の経験からの理解を話されること
が主で、「言葉」の意味の説明はあまりなく、それは辞書や解説書を使って自分で勉強することを要求されますが、アメリカでは、「言葉」の意味から説明しな
ければ、ほかに勉強のしようがないのです。
眼蔵会が11月3日に終わり、2日して、ペンシルバニア州のピッツバーグに行きました。此処もこの10年以上毎年行っているところです。今回は「学道用心
集」を読み始めました。題号や菩提心の説明などに手間取って、第1則の「菩提心を発おこすべき事」の第1段落しか読めませんでした。
ピッツバーグから10日に帰ってから、留守中に受け取ったEメールの返事書きや、水曜日夕方の勉強会での「金剛經」の講読、日曜日参禅会の法話、頼まれた
インデアナ大学での講義、近くの私立の高校生のために仏教と日本文化についての話、などなど、次から次へと起こることに何とか対応している内に、サンク
ス・ギヴィングが目の前に迫ってしまいました。来週には臘八摂心が始まり、今年も終わりに近づきました。9月から目の回るような忙しさで、この通信を毎月
書くことができなかったことをお詫びいたします。
11月24日
奥村正博 九拝
諸般の事情で7月、8月分の通信がかけ
ず、9月分と共に3ヶ月分一度に書くことになってしまいました。申し訳ありません。
7月は、3ヶ月の夏期安居の最後の行持である禪戒会で始まりました。最初の4日間、私が、「教授戒文」を講本にして宗門の戒律の話をし、最後の日には受戒
の式があり、4人が在家の仏弟子となりました。その内の1人は、アイスランド人の男性です。
例年ですと、その直後に宗務庁での会議に出席するために日本に行っていました。3ヶ月の安居の修行で疲れ切った身体で、時差呆けと、日本の蒸し暑さに悩ま
されながら、殆ど毎日眠る場所が違う駆け足旅行でしたので、難行苦行に近いものでした。今年はその会議がなかったもので、ブルーミングトンで休養すること
ができました。
8月には2日から15日まで約2週間スウェーデンに行きました。もともとは、家内と私の結婚25周年になりますので、バケーションの旅行のつ
もりで計画したのですが、いくつかの事情で家内が行けなくなり、私1人で行きました。
1980年代の後半、京都の近くのお寺にいたときに、スウェーデン人のステンさんという大学院で文化人類学を勉強している人が、2,3ヶ月参禅しました。
その人がどういう訳か私や禪の修行に興味を持ち、スタンフォード大学で禪仏教の勉強をしたり、安泰寺や永平寺に行ったり、1990年代前半、私がいたミネ
アポリスにきて、禅センターのメンバーにインタビューしたりして、博士論文を書きました。とてつもなく大きい著作で、2003年に本になって出版されたと
きには、1200ページを越えるものでした。質はどうか分かりませんが、量的には感心しました。スウェーデン語ですので、どの程度の内容なのか私には分か
りませんが、ご本人の話をかいつまむと、宗教学、仏教学、文化人類学などの学際を越えた、「人間学」のようなものを目指しているようです。その目論見が成
功したのかどうか分かりませんが、博士論文として通ったのですから或る程度のものではあったのでしょう。もっとも、1500部印刷した本はまだ残部がある
そうです。今回ご本人から聞いたところでは、あのような博士論文を書かせたのは担当教授の「失敗」であったとのことです。今の安泰寺の堂頭である無方さん
はドイツ人ですが、彼によると、ヨーロッパでは、PHDを取るような人は、社会では通用しない人たちなのでそうです。
ともあれ、今回の旅行の目的は、7日から10日までストックホルムの近くの小さな島で4日間のリトリートをすることと、ステンさんが住んでいるルンドとい
う町の大学で講義をすることでした。
8月2日にブルーミングトンを出発し、3日にデンマークのコペンハーゲンの空港に着きました。ルンドは、スウェーデンの最南端に近く、コペンハーゲンから
海を渡る橋を越える鉄道で1時間半程度の距離なのです。2日間ルンドに滞在して、バルト海に面した崖の上に船の形に巨大な石が並んでいるアレスステナール
という遺跡に連れて行ってもらったり、ルンドの町を案内してもらいました。ルンドは10世紀にデンマークの王によって作り始められ、1145年に建設され
た大聖堂が、ローマの法王庁から北欧全体を統括するよう認定されたという、由緒のある町です。現在でもその当時以来の建物が残っています。殆どが煉瓦造り
の建物で、古い建築物を保存するのに力を注いでいるとのことで、現在風の建物は郊外に行かないと見られませんでした。10万人ほどの人口の半分近くが学生
か、教職員という大学の町です。その点では三心寺があるブルーミングトンと同じです。
6日にルンドから鉄道でストックホルムに行きました。特急列車で4時間ほどかかりました。午後早く到着し、ホテルに荷物を置いたあと、ストックホルムの町
を歩きました。多くの島々の上に作られた都市で、もちろんスウェーデンでは最大の都市なのですが、人口は100万人足らずとのことでした。オールド・シ
ティの国王の宮殿があるあたりまで歩きましたが、いかにも歴史がそのまま残っているという建築物や町並みを歩くと、時間がゆっくりと流れているという感じ
がしました。戦災や震災や、戦後の経済成長で、古いものを失ってしまった東京や大阪とは比べることもできません。
リトリートがあったのはストックホルムから船で2時間ほどの小さな島でした。あたりには無数の小さな島々がありました。端から端まで歩くのに5分もかから
ないほど小さな島で、個人によって所有されているとのことでした。所有者がチベット仏教の信者で、島全体をリトリート・センターにし、他の仏教のグループ
も使用することができます。島の中にメデティション・ホール(禪堂)と10ほどの建物がありました。スウェーデンには、まだ組織された大きな禅センターは
なく、日本や、アメリカやフランスなどの様々なお寺や禅センターとつながりがある小さなグループや個人で坐禅している人たちがあるようです。外国から仏教
や禪の指導者が来てリトリートや摂心をする時にはそれらの雑多な人々が、寄り合い所帯の一時的なサンガを形成すると言うのが現状のようです。ですからなに
がしかの指導者について20年30年、参禅している人たちから、坐禅をするのさえ初めての人たちまで、参加者は実にまちまちでした。30人ほどの参加者の
中にスウェーデンで30年間書道の指導をしているという、木村さんという書道家も参加されていました。わたしは、「現成公案」を講本にして、1日に午前と
午後と2回の講義をしました。スウェーデンでは英語の学習が必須だそうで、通訳無しで英語で話しました。
10日の昼食でリトリートが終わり、列車でルンドに帰り着いたのは深夜でした。12日の夕方と13日の朝にはルンドにある小さな禪堂をたずねて坐禅をしま
した。5,6人が一緒に坐りましたが、話によると、禪堂に使っている部屋の家賃を払うために毎月会費を払っている人は3人だけという事でした。
13日のルンド大学の講義には10人ほどの出席者がありました。大学の教授と禪堂で坐っている人たちが大半でした。道元禅師の思想にについての話をと言う
ことでしたので、「趙州狗子仏性」の公案について、臨済禪の「無門関」、中国曹洞禪の「従容録」、と「正法眼蔵仏性」のなかの道元禅師のコメントを比較し
て、道元禅師の解釈の特色について話しました。
14日にもう一度ルンド大学の同じ教室で数人の人たちと会いました。このときは講義というのではなく、人々の質問に答えて、特に私の坐禅修行について話し
ました。
ルンドに滞在中、ステンさんと一緒に、書店や古書店巡りをしました。大学の町ですから何軒かの古書店がありましたが、仏教関係の本は、ダライラマ関係の英
語の本と、スッタ・ニパータのスウェーデン語訳が1冊みつかっただけでした。ふつうの書店でもいくつかの棚にかなりの仏教書が並んでいるアメリカとは大分
事情が違いました。仏教に興味を持っている人たちは、英語や、フランス語の仏教書をインターネットで購入して読んでいると言うことでした。
15日にスウェーデンから帰って、しばらくは時差呆けでボーッとしていました。しなければならない仕事はいくつもあるのですが何も手が着かず、現実と自分
の間が薄い膜のようなもので隔てられていて、現実に現実感が伴っていないような感じが続きました。これまでも日本から帰って、昼と夜が逆なので夜眠れず昼
間はずっと眠いという状態は何度もありましたが、このような非現実感は経験したことがありませんでした。これも老化現象なのだろうかと思いました。
8月27日から9月1日まで5日間の摂心があり、ようやくその非現実感から解放され現実に戻ることができました。来週火曜日にはミネアポリスの是年ターで
眼蔵会があり、「仏性」の巻きを参究します。9月から年末までは、三心寺での摂心やリトリートに加えて、毎月旅行があり、再び忙しい日が続きます。
ステンさんが2百枚以上送ってきたスウェーデンでの写真、いくつか添付いたします。
9月6日
奥村正博 九拝
あっという間に6月も最後の日になってしまいました。4月の始めから続いている夏期安居も、明後日、7月2日から始まる禪戒会が最後の行持となります。5
日間のうち、最初の4日は、午前中私が禪戒についての話をします。暁天2、昼食前1,夕食前2,夜坐2,合計7チュー(火と主)の坐禅と、午後には作務が
あります。最終日の7日に授戒会があります。今年は4人の人が受戒します。
6月22日の日曜日、首座法戦式がありました。首座である正珠さんの家族が10人あまり、フランスやカリフォルニアから来られ、参会者は総勢40名ほどに
なりました。今年の法戦式の問答は、正珠さんが選んだ、「従容録」第54則の「雲厳大悲」についてでした。道元禅師が「正法眼蔵観音」の巻きで取り上げら
れている、雲厳曇晟と道悟円智との千手千眼観音についての問答です。前日の夕方、本則行茶の時に私が、30分ほどこの公案について話をしました。宏智禅師
の偈頌にある、「全機」という言葉がこの則のポイントだと思います。千手千眼をもつ大悲観世音菩薩というのは、どこかにいる人物ではなく、雲厳と道悟は、
仏の慈悲のシンボルである観音菩薩という超人の働きについて話しているのでもありません。私たち1人1人が、観音菩薩の、ひとつひとつの手と眼として、つ
ながりの中で生かされているのだということ。もちろん手というのは働き、眼というのは智慧のことです。私たちの修行は、いかにして、自分が、観音菩薩の一
つの手であることを自覚し、それぞれが、真っ暗な夜中に、眠りながらも(無分別)、手が身心全体として働くような、そして本当に必要なことを行っていくこ
とができるかが眼目なのだという話をしました。三心寺は本格的な僧堂ではありませんが、3ヶ月間一緒に修行してきた人たちですから、このことがサンガの生
活の中でどれほど大切で、且つ、難しいことか、と言うことは分かってもらえたと思います。
こちらの法戦式は、前後の進退は全く日本と同じですが、問答は、あらかじめ決まっていて、問者も首座もそれを記憶しておくというのではなく、問いも答えも
その時その場のものです。どちらが難しいか易しいかということはいえません。私が1975年に法戦式をしたときには、14人分の問答を暗記し、本番では、
間違いなく答えなければなりませんでした。しかもそれらの問答の意味など殆ど理解できていなかったので大変な苦労だった記憶があります。
法戦式の後、昼食は外で食べました。雨が降る可能性があって、みんな心配していたのですが、適度に曇り、それほど暑くもなく、外で食事をするのに丁度よい
天気になりました。この日は、5年前、私たち家族がミネアポリスからブルーミングトンに引っ越してきた記念日でもあり、また、私の60歳の誕生日でもあり
ました。
還暦のお祝いに、新しい応量器をみんなからいただきました。これまで、1970年に内山老師から得度していただいた時にいただいた応量器をずっと使い続け
てきたのですが、漆が殆ど剥げています。わずかに残っている部分もはがれつつあります。時々折水器の中に漆の破片が入るのを見かねた人がいたらしく、人々
に呼びかけて私に内緒で新しいものを日本から注文してくれたのでした。
もちろん有り難くいただいたのですが、やや寂しさも感じました。これまで38年間使ってきた応量器は、京都の安泰寺、四国の瑞応寺僧堂安居の時だけではな
く、1975年にアメリカ、マサチューセッツ州のバレー禪堂にいたときも、1981年に日本に帰って、京都で翻訳をしながら、毎月摂心をしていた間も、
1993年にミネアポリスに移転してから今までも、私と一緒に修行をしてくれたものです。バレー禪堂で、テントで生活しながら、ブルーベリーやジャガイモ
の農場で収穫の手伝いの仕事をいたときも、一緒でした。日本とアメリカの間を何回も往復し、アメリカの国内では、アラスカからフロリダまで、カリフォルニ
アからマサチュウーセッツまで、共に旅をしました。摂心ができるのももうそれほど長くはないでしょうから、師匠からいただいた応量器を一生使っていくつも
りだったのですが、私より先に引退することになりました。
昨年から、建物の西側の、樹木が沢山あるので、日当たりが悪く余り草花が育たないところに、家内と共同で苔庭を作っています。昨年には、桜の木の前の観音
さまをいただきましたが、今年はその庭におくための小さな石の灯籠が苗木屋に売っていたのを寄贈していただきました。建物や庭も少しづつ体裁が整ってきつ
つあります。
例年、7月の始めに東京の宗務庁で、宗典の翻訳事業についての会議があって、2003年に三心寺に移転してからは、禪戒会が終わった翌日に日本に出発する
ことが多かったのですが、今年はその会議がありませんので、日本に行かないことになりました。疲れ切った身体で日本に行き、時差呆けと日本の蒸し暑さに苦
しみながら、しかも毎日寝る場所が違うという駆け足旅行でしたので、身体的には助かったという感じがしています。ただ、日本の親族、知人、友人の人々にお
会いできないのが残念です。
日本では梅雨が明けて、本格的な暑い夏が始まることと存じます。皆さまどうぞ、ご自愛のうえ、お元気でお過ごしください。
6月30日
奥村正博 九拝
三心通信2008年5月
4月の2日から7日まで5日間のコミュニティ・リトリート(坐禅と、毎朝の講義、午後の作務などがある研修会)を皮切りとして7月7日までの3ヶ月間、夏
期安居の最中です。なにかと忙しくて、4月の三心通信書くのをつい忘れてしまったことをお詫びいたします。実は書き忘れていたことも忘れていて、4月の分
はどこにあるのだろうと自分のコンピューターのファイルや、三心通信のサイトを探したのですが、どこにも見つからず、ようやく、書き忘れていたことに思い
当たったという体たらくで、老人性健忘症の症状が少しずつ顕著になりつつあることにおそれを感じております。
今年の安居の首座はフランス人の正珠さんです。毎週日曜日に「六波羅蜜」についての法話をしてもらっています。私は、毎週水曜日の夕方に「金剛般若経」の
話をしております。金剛經の漢訳、サンスクリット本、からの和訳、英訳を対照して読み、それと中国禪で金剛經の表現がどのように使われてきたか、そして道
元禅師はそれに対してどのように言われているか、を考えながら読んでいると面白いことがいくつか分かってきます。例えば、有名な「應無所住而生其心。」や
「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得」という表現で使われている「心」という言葉の解釈です。5月の眼蔵会で正法眼蔵「即心是佛」、「心不可
得」、「古仏心」の3つの巻きを通して道元禅師の著作の中での「心」を参究しましたので、この点がとても興味深く、今までの自分の理解の仕方も反省させら
れています。「應無所住而生其心。」ですが、漢訳の經文では、
「是故須菩提,諸菩薩摩訶薩應如是生清淨心,不應住色生心,不應住聲、香、味、觸、法生心,應無所住而生其心。」(是の故に須菩提よ,諸の菩薩・摩訶薩は
應に是くの如くに清淨の心を生ずべし。應に色に住して心を生ずべからず。應に聲、香、味、觸、法に住して心を生ずべからず。應に住する所無くして而(し
か)も其の心を生ずべし。)と書かれていますから、この心は色、聲、香、味、觸、法の6境に対する対境心(慮知心)を対象に執着すること無しに働かせなけ
ればならないと言う意味でしょう。サンスクリットからの英訳は、
Therefore, Subhuti, fearless bodhisattvas should thus give birth to a
thought that is not attached and not give birth to a thought attached
to anything. They should not give birth to a thought attached to a
sight. Nor should they give birth to a thought attached to a sound, a
smell, a taste, a touch, or a dharma.
となっています。「心」をthought (思い、考え)を起こしてはならない(give
birth)と訳されていますから、この「心」が慮知心、分別心であることは一層明瞭です。
ところが徳異本「六祖壇經」では有名な慧能と神秀との偈頌のやり取りのあと、惠能が五祖の部屋に呼ばれて嗣法する場面で、五祖が金剛經の意味を説明すると
き、この文句にいたって、慧能が、一切萬法は自性を離れないことを大悟することになっています。(爲説金剛經。至應無所住而生其心。惠能言下大悟一切萬法
不離自性。)その後で慧能は、五祖に次のようにいます。
「何期自性本自清淨。何期自性本不生滅。何期自性本自具足。何期自性本無動搖。何期自性能生萬法。(何ぞ期せん自性は本自り清淨なることを。何ぞ期せん自
性は本より不生滅なることを。何ぞ期せん自性は本自より具足せることを。何ぞ期せん自性は本と動搖無きことを。何ぞ期せん自性は能く萬法を生ずること
を。)」
「六祖壇經」では金剛經の心を本来清浄で、生滅が無く、全てが円満具足しており、動きが全くなく、そこから万法が生じてくる本体、実体としての「一心」だ
と解釈されていることが明瞭です。馬祖に始まる洪州宗で使われる「即心是佛」の「心」も同じです。
しかし、道元禅師が「即心是佛」、「一心一切法、一切法一心」、「三界唯心」、「古仏心」などの表現で使われる「心」は「発心、修行、菩提、涅槃」の行持
を道環として具体的に行じていく主体ですから、「実体、本体の心」ではないと思います。「正法眼蔵発菩提心」の巻きでは、菩提心は慮知心ではないが慮知心
を以て発心すると書かれています。慮知心でないから「実体としての心」だとは書かれていません。内山老師は、道元禅師が使われる心は、「生命」と訳すのが
適当だと言われました。「生命」は実体、本体のように抽象的なものではなく、実際に、具体的に働く力(エネルギー)であり、慮知心ではないけれども慮知心
を含むものです。この点を理解することが、道元禅師の教えられる坐禅を理解するのに重要な点だと思います。
昨年から建物の西側に苔庭を造っています。今年は苔の部分を拡張し、苔のない部分には池の形に石をしく予定でおります。まわりに木が沢山あって、落ち葉の
落ちる量がすごいので本物の池は作れないからです。
5月29日
奥村正博 九拝
三心通信 2008年3月
今月は雨が多く、地面はいつも湿ってお
りました。お彼岸がすぎて、クロッカスの花がまず最初に咲き、水仙やチューリップの芽が出始めました。私の仕事部屋の窓の前にある桜の木の枝にも小さな蕾
が出始めております。昨年は、三月中暖かかったのですが、四月に入って又寒くなり、雪が降ったり、氷が張ったりしました。せっかく出た新芽が凍結してしま
い植物たちにかなりの被害を及ぼしました。おかげで、こちらに移転した翌春に植えた2本のソメイヨシノのうちの一本が枯れてしまいました。今年はそのよう
なことがないように願っております。
1997年にミネアポリスからロス・アンジェルスに移転して、曹洞宗開教センター(現在は国際センターと改名されました)で仕事を始めた直後から、毎月一
度、一年ほどかけて行った「現成公案」の講義の録音をテープ起こしした物に手を入れて、5年ほど、開教センターのニュースレター「法眼」に連載しました。
今回その連載した物にもう一度手を入れて、出版するべく原稿を作成しております。私の弟子の正龍さんが英語を手直しし、説明が不足なところなどを指摘して
くれた物に、再び私が手を入れて、正龍さんにもう一度見直してもらうために返したところです。それをもう一度私が点検し、その後、何人かの人々に読んでも
らって、意見を聞くという手順を踏みます。最初に講義をした頃からすでに十年の年月が経っております。英語の書物を一冊作るのはなかなか大変な作業です。
例年、夏期安居の間、首座をつとめる人が日曜日の朝の法話をすることになっています。今年の首座の正珠さんが、「波羅蜜」の話をするということで、私は、
毎週水曜日の夕方にある勉強会で「金剛般若經」を読むことにしました。そのテキストを作成しようと、今年の1月頃から暇をみて、鳩摩羅什の漢訳とその読み
下し、それと、サンスクリットから英語に訳した物を、写経のつもりで、コンピューターに入力しました。「金剛經」を一語一語気をつけながら丁寧に読むの
は、大学を卒業してから始めてのことです。道元禅師が「正法眼蔵」で「金剛經」に言及されるのは「心不可得」の巻きの徳山と餅売りの老婆の話にでる「過去
心不可得、現在心不可得、未来心不可得」、「後心不可得」にでる「応無所住、而生其心」と、「見佛」の巻きの「若見諸相非相、即見如来」くらいで余り多い
とは言えませんが、「不可得」と「無所得」などの精神的、内面的なつながりはあるように見えます。あと3日で安居が始まりますので、準備時間が十分にある
とはいえませんが、どういうことになるか楽しみにしております。
3月30日 奥村正博 九拝
三心通信 2008年2月
毎年、2月と8月は早朝の坐禅以外は休みにしております。朝課もありま せん。日曜日にも早朝坐禅と、午前9時から2時間の坐禅だけで、朝課、行鉢、法話、その後の茶話会もありません。維那、典座、直歳をしている人たちにとっ ての休暇の月です。家族、知人を訪問したり、普段はできない勉強などをするようにしています。ですから、三心寺での5日間の摂心・リトリートはありません でした。
ただ、8日(金曜日)から10日(日曜日)の早朝まで、涅槃会摂心があ りました。これは普段の摂心とは違って、食事もなく、ただ坐禅、経行の始めと終わりの合図の鐘を打つ人は当番で必ずいる。誰が、何時、どれだけ坐りに来て もいいという出入り自由の摂心です。私は日曜日の涅槃会の法話と、ミルウォーキーでの摂心の講義の準備がありましたので、午前中4時から12時までと、夕 方7時から9時まで坐り、午後は勉強と運動のための散歩をしました。
日曜日13日は、4時から7時まで坐り、各自朝食をとって、9時から、 いつもの日曜と同じく1時間坐り、10時から涅槃会の法話をしました。今回は、「永平広録」から1252年2月に行われた道元禅師最後の涅槃会上堂 (486上堂)を紹介しながら、仏の寿命は生滅がありながら、生滅を超えている、(不生不滅の生滅)ということを話しました。1月にサンフランシスコの眼 蔵会で読んだ「行佛威儀」の巻きにも、「かるがゆゑに、我本行菩薩道、所成壽命、今猶未盡、復倍上数なり。しるべし、菩薩の壽命いまに連綿とあるにあら ず、仏壽命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ上数は、全所成なり。いひきたる今猶は、全壽命なり。我本行たとひ万里一條鐵なりとも、百年抛却任縦横な り。」とあり、「仏仏正伝する大道の断絶を超越し、無始無終を脱落せる宗旨、ひとり仏道のみに正伝せり。」とも書かれていましたが、「行佛」の寿命は無常 であり、刻々、今、ここぎりでありながら、久遠の寿命がその中に現成しているということを話しました。
その後、降誕会、成道会と同じように、ポット・ラック(持ち寄り)の昼 食会があり、15人ほどの参禅者の人たちと楽しい時間を過ごしました。
13日から(水曜日)から5日間の摂心がありましたので、ミルウォー キーに行きました。インデアナポリスから飛行機だと1時間位なのですが、飛行機がミルウォーキーの空港について座席から立ち上がろうとしたとたんに、腰に ぎくりとした痛みがありました。おなじみの腰痛で、それほどきつくはなく、歩ける程度だったのですが、その日の夕方から摂心が始まるので坐れるかどうか心 配になりました。禅センターに到着してすぐに、空港まで迎えに来てくれた人が通っている治療院に連れて行ってもらい、鍼の治療を受けさせてもらって、少し 楽になりました。それでも腰が曲がらないので、坐禅の時も、講義の時も椅子に坐りました。
椅子坐禅はアメリカの禅センターでは珍しいことではありません。どこの 禅センターにいっても何人かは椅子に坐る人がいます。若い頃の私にとっては、坐禅というのは「普勧坐禅儀」に道元禅師が書いておられる通りに結跏趺坐か半 跏趺坐で坐ることで、坐禅堂に椅子があること自体が奇妙に思っておりました。1993年に再びアメリカに来て、ミネアポリスの禪センターで教えていたとき には、椅子で坐る人がいましたが、しようがないから黙認するけれども椅子で坐るのが坐禅かどうか疑問だという立場でした。そのころミルウォーキー禅セン ターにおられた秋山洞禅師が膝の手術をされた直後、椅子に坐っておられるというので、「椅子に坐るのが坐禅だと思われますか」と、失礼な質問をしました。 そのとき長年坐禅師をしてこられた洞禅さんが「坐禅だと思う。」と答えられたので、それ以降私も意見を変えて、椅子坐禅も坐禅だと納得することにしまし た。しかし、私自身が坐禅堂で坐禅のときに椅子に坐ることになろうとは昨年11月まで思い及ばないことでした。10月末にかなり強度の腰痛が始まって、三 心寺での眼蔵会の時、まわりの人からかなり強硬にそうするように勧められて、坐禅と講義の時、初めて椅子に坐ることにしたのです。その月の半ば、ピッツ バーグでの週末の摂心の時も椅子に坐りました。
今は、もう椅子坐禅は坐禅ではないなどとは、口が滑ってもいえなくなり ました。むしろ、様々な身体的コンデションで、坐蒲の上に坐れないようなときも長年坐禅していると必ずあるのだから、そのとき坐禅を休んだり、止めてし まったりするよりは、椅子に坐る工夫もした方がいいのではないかと考え始めています。
ミルウォーキーの摂心では、私が20年程前に翻訳し、曹洞宗宗務庁から 教化資料として出ている“Heart of Zen ”(旧名“Dogen Zen”)のなかに収録されている面山瑞方和尚の「自受用三昧」を講本にして話し ました。アメリカ人の学者で面山の研究をしているDavid Riggs氏はその面山の生涯について書いた英文の論文のタイトルで面山を「Founder of Dogen Zen」(“道元禪”の創始者)と呼んでいます。私は面山師1人をさして道元禪の創始者と呼ぶのがふさ わしいかどうか疑問だと思いますが、私たちが駒澤大学の授業や、お師家さんたちの提唱を通じて学んだ道元禅師の教えというのは、かなりの部分、卍山、面山 をはじめとする多数の学僧たちの努力によって構築された江戸宗学のレンズを通してみたものだということは確かだと思います。そのレンズをはずして、道元禅 師に直参することが私に可能なのかどうか疑問ですが、少なくとも江戸宗学のレンズをはめて道元禅師の著作を読んでいるのだということは自覚しておいた方が いいと考えています。
一月はそれほど寒くはなかったのですが、2月になって寒くなり、雪が 降った後雨になり、それがまた夜の間に凍ったり、その上にまた、雪が降ったり。雪とも雨ともいえないような、あるいはどちらともいえるような、日本でいう みぞれや氷雨とも感じが違う、ものが降り、積もるとすぐに氷になったり、まだ春は遠いという風景じです。それでも天気がいい日の日差しはだんだんと強く なってきています。来週水曜日から始まる3月の5日間摂心が終わると、クロッカスの花が咲いているかもしれません。
奥村正博 九拝