三心通信2010年12月

 2010年も残すところ2日だけとなってしまいました。毎年の事ですが、あっという間
に1年が過ぎ去ってしまったという感じがいたします。さほど時間を無駄に過ごしている
という自覚はないのですが。
今年は、3月末で曹洞宗国際センターから退職したのが何と言っても一番大きな変化
でした。1997年から13年間勤めさせていただきました。能力的にも、人格的にも、私の
柄ではない役目だったのですが、スタッフの皆さん方に支えていただいてなんとか勤め
る事が出来た事を有り難く感謝しております。
6月には、国際センターの機関誌「法眼」に連載した「現成公案」の解説書がRealizing Genjokoan
というタイトルで、Wisdom Publicationsという出版社から刊行されました。元々国際センター
(当時は開教センター)の教化活動の一つとして1997年から始めた「正法眼蔵」の勉強会
での講義のテープ起こしに手を加えて、数年に渡って「法眼」誌に連載したものです。2003年
にブルーミングトンに移転してから、その原稿をもとにして私の弟子の一人の正龍さんが、
一冊の本になるように更に英語の手直しをしてくれたものです。幸いに、好評を得ております。
同じ出版社から2冊目の本が出ることになりました。これは、私が1993年から1996年まで、
ミネアポリスのミネソタ禅メディテーション・センターにいたときに、その禅センターで使って
いた経本(Sutrabook)に収録されている偈頌(懺悔文、搭袈裟偈、三帰依文、開経偈、四弘誓願文)、
行鉢念誦、「参銅契」、「般若心経」などについての講話のテープ起こしを材料として書き直し
したものです。現在、出版社に送付する最終原稿を作成しているところです。タイトルは、
「Living by Vow (誓願に生きる)」とするつもりで居ります。ミネソタ禅センターは1972年に
片桐大忍老師によって創立され、アメリカの禅センターでも早く成立したものですが、老師は
寺号を願生寺とされました。誓願によって生まれ、誓願によって生かされて生きている、菩薩道を
修行するお寺という意味で名付けられたのだと思います。
1993年に赴任した時、まずその事を禅センターの人たちとともに確認するために、四弘誓願文と、
釈尊の誓願、片桐老師の誓願、内山老師の誓願、等々我々の毎日の修行の導きとなる誓願
について、毎週土曜日朝の参禅会に数回の法話をしました。それが終わった後、経本に収録
されている偈頌やお経についての話を3年間続けました。それらは禅センターの人たちに一番
なじみが有る仏教聖典であり、多くの人たちが暗記しているにもかかわらず、その仏教的な意味
合いや私たちの修行、信仰生活の中での意味を説明される事は殆どないからです。私が話した
ものを何人かの人たちがテープ起こしをしてくれました。その後、デーブさんという人が、原稿の
整理を続けてくれました。その後私が開教センターの仕事をするようになり、忙しくなったもので
仕事は遅々として進まなかったのですが、ここ2、3年ブルーミングトンに移ってから、少し時間が
出来るようになったもので、作業を進めておりました。2011年中には出版されるのではないかと
存じます。
また、ミネアポリスにいた頃に内山老師の「現成公案を味わう」を一応英訳していたのですが、
これも開教センターでの多忙な日々のために出版するには至りませんでした。それでも、
サンフランシスコ禅センターにいたときに、そこのお坊さんたち何人かとその原稿を読んで
英語を手直しする勉強会を持つ事が出来ました。その人たちの発案で、西有禅師の「現成公案啓迪」、
同禅センターの創立者である鈴木俊隆老師の「現成公案」の提唱と私が訳した内山老師の
提唱を一冊の本にすると言うプロジェクトが出来ました。私はその後、ブルーミングトンに移転
しましたので、その仕事はサンフランシスコ禅センターの人が主に進めてくれました。「啓迪」は、
最近「正法眼蔵」の全訳を完成された棚橋一晃さんとバークレー禅センターの宗純・ウエイツマン
老師が訳されたものです。ともあれ、その本がもうすぐ発行される事になりました。私の
Realizing Genjokoanはこの本のための露払いであったと言えます。
アメリカでは、坐禅する人の数は増え、禅センターも全土に出来つつ有りますが、まだまだ
道元禅師の宗乗を理解して坐っている人の数は多く有りません。これからは、広める事と
同時に、深めて行く事も大切になって行くと存じます。そのために少しずつでも仕事を進めて
参る所存で居ります。

6月の5日間を坐った後、もう半跏趺坐で5日間の接心を坐り抜く事は出来ないと感じました。
右膝の痛みは確実に進んでいます。左膝の痛みはニンニク灸でかなりましになったのですが。
右膝は少し体重をかけるだけでも痛むようになりました。若い頃の無理がたたっているのだと
思います。バレー禅堂にいた頃、開墾作業や井戸掘りやその他の仕事でシャベルを使う事が
多かったのですが、殆ど右足を使っていました。ともあれ40年間、私の坐禅を支えてくれたの
ですから文句は言えません。
7月以降、坐禅堂で椅子を使って坐るようになりました。椅子に坐るのは、足を組んで坐る坐禅
とは大分違います。まだ、これが坐禅だろうかと感じる部分も有ります。だんだんとなれて来て、
9月には5日間、12月の7日間の臘八接心を殆ど椅子で座りました。体重を腰と尻だけで支えま
すので、どうしても不安定です。内山老師は坐禅が出来ない時には「南無観世音菩薩」の称名を
なさっていたとの事ですが、私はどうも、称名をする事は出来そうに有りません。一緒に座って
くれる人たちの邪魔になっているなと感じるまでは、椅子の坐禅を続けるつもりで居ります。
老耄の弁道もやや本格的になってきました。

今年の冬は、例年よりも寒く、臘八接心が始まった日から雪が降りはじめ、一月近くなる今も、
雪が消える事が有りません。最高気温も氷点を上回る事はあまり有りません。日本でも、各地で
豪雪とのこと。どうぞ見なさま、よいお年をお迎えください。

12月29日

奥村正博 九拝


三心通信2010年9月、10月、11月

この前に三心通信を書いたのは8月31日でした。今日はもう11月30日です。
三ヶ月分まとめて書く事になってしまいました。誠に申し訳有りません。
8 月にサンフランシスコで眼蔵会があった事は書きましたが。9月にも
ミネアポリスで5日間の眼蔵会が有りました。このときは、「佛性」の巻の
最後の三分の一を読みました。「佛性」の巻は長いので、三回に分けた
のですが、今度はその最終回でした。11月にも三心寺で眼蔵会が有りました。
この時には、今年6月に発行された拙著「Realizing Genjokoan」を講本にして
「現成公案」を勉強し直しました。この眼蔵会は26人の参加者が有り、
三心寺の地下室の坐禅堂は満員になりました。正法眼蔵に知的な興味を
もつだけでなく、実際に坐禅修行もしている人ばかりでした。 アメリカに
そう言う人が、少しづつですが、増えている事に大変な励ましを受けました。

それにしても、8月から11月の4ヶ月間に3回の眼蔵会というのは、私の能力と
体力の限界を殆ど超えておりました。今月の眼蔵会が終わった時には
ほぼ1週間、頭が空白状態になり、それこそ何をする気力も出てきませんでした。
その間に9月には5日間の接心、10月には5日間のリトリートが三心寺であり、
10月にはオレゴン州とノースカロライナ州に行くという過密スケジュールでした。
例年通りの予定と、今年だけの行事とが重なり、それぞれの会場になる
センターの都合でこのようなスケジュールを組まなければならなかったのですが、
年齢的な限界も感じましたので、来年からはこのような事にならないようにいたします。

今月の中旬には、ピッツバーグ市に行きました。もう15年ほど毎年週末の接心
の指導をしている、在家の人たちだけのグループです。3年前から「学道用心集」
を読んでいます。今回は第3則、「仏法は行によりて証入すべき事」と第4則、
「有所得をもって仏法を修すべからざる事」について3回話をしました。修証一如、
修行がそのまま証りで有るとか、何も期待しないで、無所得、無所期、ただ坐れ
という道元禅師の教えは少し前までは、あまりよく理解してもらえませんでした。
そんなのナンセンスだと言う人の方が多かったように思います。最近はそれが
本当だと言ってくれる人たちが出てきました。特に長年坐禅をしている人たちには、
その方が納得がいくという人たちが何人かいます。

サンクスギビングが過ぎますと、例年通りに寒くなり始め、木々の葉はすっかり
落ちました。この1週間ほどは霜がおり、野鳥の水飲み場の水も朝方には凍っています。

今夕から、12月7日の深夜12時まで、臘八接心です。今年最後の接心が始まります。
私は1970年の12月8日に京都の安泰寺で得度を受けました。12月の接心の最終日で、
暁天の坐禅で接心が終わり、その日の午前中に得度式が有りました。その朝の事は
未だに覚えております。午前6時に坐禅が終わり、外に出ると、明けの明星が東山の
稜線すれすれに輝いておりました。内山老師が、「悟りを開かなくても、明星は輝いて
いるのだという事を悟った。」と言われた言葉が、その時の老師の表情と一緒に未だに
新鮮に私の中に残っております。

その時から、40年が経ちます。今でもその時の安泰寺の接心と同じ差定の接心を、
アメリカで続ける事が出来ること、また一緒に座ってくれる人たちがいる事が、とても
有り難く、感謝せずにはおれません。

八月の三心通信に書きましたように、この6月の接心から、膝と腰の痛みで、半跏趺坐でも
坐れなくなり、今でも椅子に坐っています。椅子に坐って楽なのは膝だけで、それ以外では、
足を組んで坐る方が遥かに安定し、身体全体的には最も疲れない楽な姿勢だと思います。
未だに椅子で座る事が坐禅になるように、試行錯誤しているところです。

7日間の接心を椅子で座り抜けるかどうか、自信は有りませんが、始まる前から心配していても
仕方が有りませんので、楽しみにしております。老人の一年生としての修行はまだ始まったばかりです。

11月30日

奥村正博 九拝


三心通信2010年8月

8月5日から23日まで、カリフォルニアに滞在しました。6日から13日までは、
サンフランシスコ禅センターでの7日間の眼蔵会でした。今回は「海印三昧」の
巻きを講本にしました。難解な巻ですので今まで敬遠していたのですが、
今取り組まなければ、私のアタマは、下り坂の一方通行で、衰えるばかりですので
、今勉強しなければ一生できないと、やれるだけのことをしようと覚悟を決めました。
準備にもとても時間がかかりました。ほとんど一字一句を原典に戻って調べ
なければなりませんでした。道元禅師が書かれたものだけではなくて、「海」に
ついての教説をパーリのニカーヤから、大乗の「華厳経」、「涅槃経」、などでの
教説、華厳宗の「妄尽還源観」などで議論される海印三昧などに立ち返って、
調べました。
そうしている間に、ネパールに生まれ、インド中部で主に活動された釈尊は
ご自身で海を見られた経験があるだろうか?という疑問が出てきました。パーリの
ニカーヤにも海についての教説が数カ所にありますが、此れ等は釈尊によって
説かれたのだろうか?もちろん、否定するにも、肯定するにも私の手元には、
資料が殆どありませんので答えを探すすべのない疑問ですが。道元禅師の
「海印三昧」にも出て来る「大海不宿死屍」の元になる海の八つの功徳は、
阿修羅の王が釈尊の問いかけに答えた事になっています。私の英語での
講義がどれだけ理解してもらえたのか、分かりかねますが、熱心に聞いて
もらえました。ともあれ、私自身の理解が少しでもはっきりとしたものになった
事で、大変有益でした。
7日間、午前と午後の二回、1時間半の講義をする眼蔵会が終わった翌日の
14日には、サンフランシスコからベイ・ブリッジを渡ってすぐのバークレイに
ある禅センターで、良寛さんの漢詩の話をしました。是も午前と午後の2回でした。
道元禅師の正法眼蔵のあとで良寛さんの漢詩の話をするのは、頭を切り
替えるのに大変助けになりました。
その後3、4日サンフランシスコから自動車で5時間ほどのラッセン火山
国立公園の近くに住む知人と訊ねて休養を取りました。それから、モントレイ半島
にあるカーメルという町の禅センターで、最近発行された私の「現成公案」の
解説書Realizing Genjokoanをつかって、「現成公案」の話をしました。

サンフランシスコは1071年以来最も涼しい夏で、肌寒く、外を歩くのに
ジャケットが必要なくらいでしたが、ブルーミングトンでは雨がなく、乾燥した
暑い日が続いています。町中にある芝生が茶色くなってしまっています。
23日にブルーミングトンに帰ってからは、「現成公案」に続く本の原稿作りを
している間に、既に月末で明日からは9月の5日間の接心が始まります。
昨年の「三心通信」に椅子坐禅の事を書きましたが、この6月の5日間の
接心が終わったあと、腰と右足の付け根が痛みだし、右膝の痛みもだんだんと
悪化しています。それで、結跏趺坐も半跏趺坐でも坐れなくなり、現在は
椅子坐禅です。しかし、5日間の接心を椅子で坐りきれるかどうか自信が
ありません。どうなる事か心配をしても使用がありませんので楽しみにして
います。老耄の弁道をどのようにして行けばいいか、試行錯誤が続いてい
ます。私には、内山老師のように坐禅が出来ない時には称名でいく、という
事は出来そうにありませんので、坐蒲のうえに坐われなくなれば、なんとか
椅子に坐われるだけ坐り続けるしかありません。

日中はまだ暑いですが、朝夕は秋の気配を感じるようになりました。
暁天の坐禅の時には、虫時雨が聞こえます。

8月31日

奥村正博 九拝



   三心通信2010年6月、7月


暑中お見舞い申し上げます。
日本では猛暑が続いているとのことですが、お変わりなく御過ごしのことと存じます。

今年3月末をもって、13年間お世話になった曹洞宗国際センターを退職いたしました。7年前に創
立した三心寺に落ち着いて、中西部の静かな田舎町で有縁の方々と坐禅修行、道元禅師の宗乗
の参究、翻訳、著作の活動を続けて参ります。

6月に「正法眼蔵現成公案」の解説書Realizing GenjokoanがWisdom Publications社から出版されました。
これまで、翻訳書は十冊ほど出版されていますが、自分の言葉で書いた本は今回が初めてです。
国際センター(旧称北アメリカ開教センター)の教化活動の一つであった宗典講読における講義を
テープ起こししたものを書き改めて、国際センター報「法眼」に数年間に亘って連載しました。
その原稿をもとに、弟子の一人が、一冊の本として編集してくれたものです。私自身の英語は、
とても出版してアメリカの人たちに読んでもらえるようなものではありませんので、一冊の本になるまで
には何人もの人々の協力をいただきました。これは翻訳書の場合も同じです。国際センターでの仕事の
総括として、また本師内山興正老師十三回忌の年に、この本を出版することが出来たことを喜んでおります。

坐禅は世界の各地で多くの人々に修行されるようになりましたが、道元禅師が説かれる仏法としての
坐禅と云う宗旨、宗乗は、まだまだ深く理解されているとは言い切れません。「正法眼蔵」その他の
道元禅師の著作のほとんどは英語その他の言語に翻訳されていますが、英語訳だけを読んで、一生の
生き方の根底となるほど正確に、かつ深く理解することは不可能に近いと存じます。これからは、広める
のと同じく深めて行く努力が必要だと考えております。私のつたない仕事がその為に少しでも御役に
立てればと願っております。

4月から7月まで3ヶ月間、三心寺に落ち着いて、夏期安居を過ごしました。5月の眼蔵会では
「正法眼蔵身心学道」を講読しました。6月は5日間の接心、7月には禅戒会がありました。
例年は道元禅師の「教授戒文」を読むのですが、今年は「十善業道経」の英語訳をテキストに、
もう少し広い範囲から大乗戒の精神を学びました。最後の日には5人の人が受戒して新しく佛弟子になりました。

また、アメリカ中西部にある曹洞宗の禅センターを御訪ねする機会が増えました。5月には吉田魯参老師の
お招きで、セントルイス地域の仏教団体合同のウェサクの集会で講演をさせていただき、ミズーリ禅センター
でも「四摂法」についてお話をさせていただきました。6月には三心寺の首座法戦式に、ペンシルベニア州の
Mt. Equity (平等山)Zendoの大円ベナージュ師に助化師としてお越しいただきました。次の週には私が、
彰顕ワインコフ師が本格的な日本風、本堂、庫裏、僧堂を建立されているアイオワ州竜門寺に首座法戦式の
助化師として随喜させていただきました。また先日ミルウォーキー禅センターの首座法戦式にも助化師として
御訪ねしました。ロスアンゼルスの総監部から大岳ルメ総監、松本宣雄書記のほか、中西部のミネソタ州、
アイオワ州、ミズーリ州、ウイスコンシン州、インデアナ州の各地から随喜の宗侶が集まりました。これだけの
州とネブラスカ州、イリノイ州をまとめると、面積としては、あるいは日本全体よりも大きいかもしれません。
その中に数カ寺しかないのですから、究極の過疎地域です。アメリカでも西海岸や東海岸と比べると、曹洞宗の
寺院、禅センターの数は圧倒的に少ないのですが、日本で云えば教区寺院のような親密な関係と共同体としての
感覚がこれから徐々に育って行くだろうと存じます。

今までのように毎年一回か二回は仕事で日本に行くということはなくなりました。そのかわり、この次に日本に
行く時には、余裕のある日程でゆっくりとお世話になた人々を御訪ねすることが出来ると存じます。それがいつに
なるかはまだわかりませんが、お会いできる日を楽しみにしております。

7月24日
奥村正博 九拝



三心通信 2010年3月・4月

  三月初旬にクロッカス、水仙などが咲き始めたのを皮切りに、4月半ばまで、
チューリップ、連翹、桜、dogwood (ハナミズキ)、redbuds(ハナズオウ)等々の
花々がブルーミングトンの町中を飾りました。4月も下旬になって、木々の
新緑がみわたす限りの空間を席巻するようになりました。温度は少し低い
ですが、すでに初夏の風景です。またまた2ヶ月まとめて三心通信を書く
ことになりました。
  3月の摂心が終わって、1週間フランスに行きました。昨年私から嗣法した
正珠・Mahlerさんがフランス南部にある自宅をお寺にしたいと云うことで、
その坐禅堂の開單式に来るように頼まれたからです。10人ほどが坐れる
小さな坐禅堂でしたが、式の時には15人ほどの人が集まりました。その後、
テック・ナット・ハン師のプラム・ビレッジを訪問させていただきました。
ブドウ畑その他の田園の真っ只中の地域に、男僧、尼僧のための、
それぞれ2つずつ4つのお寺があり、各寺に40−50人ほどの出家者が
安居しておられました。
  フランスから帰って、まもなく3月末にサンフランシスコに行きました。
13年間勤めさせていただいた曹洞宗国際センターを退職させていただく
ので、新任の所長の藤田一照師、宗務庁国際課の課長と、引き継ぎを
する為でした。2003年に三心寺を創立してブルーミングトンに移転して
からは、ハーフ・タイムでしたので、二足のわらじで国際センターの方も、
三心寺の方も中途半端になって申し訳なく思いながらも、忙しさに流されて
いる面がありました。是からは、三心寺に専念できますので、旅行は
最小限にしてブルーミングトンに落ち着いて、坐禅と翻訳や、本作りに
力を致したいと願っております。
  サンフランシスコから帰ってすぐ、3月30日から5日間のコミュニティ・
リトリート(摂心と違って、坐禅の外に、講義と作務があります。)が
始まりました。例年と同じく、これが夏期安居の始まりです。禪戒会が
終わる7月5日まで3ヶ月間続きます。
  今回の安居の首座は、海鏡・Robyさんです。長らく南アメリカの
ベネズエラに住んでいた人です。今はフロリダ州に住み、ホスピスの
chaplainの仕事をしながら坐禅を続けています。チャプレンというのは
いい日本語が思いつきませんが、英和辞典によると、軍隊、病院、
学校、刑務所などの公的な機関に結びついている聖職者だそうです。
アメリカでは、大学にも学生の精神的なケアのために、セラピストや
カウンセラーと同じように聖職者がいます。刑務所などの教誨師は
その一つで日本にもありますが、病院で仏教のお坊さんが患者さん
たちの精神的なケアの仕事をしているのは、最近始まったようですが、
余りまだ一般化していないと思います。こちらでは、人種や宗教の
多様性に基づいて、最近のことですが、キリスト教の神父さんや
牧師さん以外にも、仏教僧が病院や刑務所で聖職者として働くことも
珍しくはなくなりつつあります。又仏教僧のチャプレンを養成する機関も
出来てきました。
  夏期安居の間の日曜日は、首座が日曜日の坐禅会の法話をすること
になっています。昨年11月の三心寺での眼蔵会で、「正法眼蔵全機」と
「生死」を講本に参究しましたが、海鏡さんは、自分自身の生死の
体験や、ホスピスの仕事での体験をもとに「全機」と「生死」について
話したいと云うことで、是まで2回法話をしました。私の「正法眼蔵」の
講義は、仏教の理解と坐禅修行と人生経験からだけのものですが、
実際に毎日生と死に向き合っている人たちのケアをしている経験から、
道元禅師の教えに光をあてることは日本ではほとんど無いことだと
思います。
  夏期安居の間、私は水曜日の夕方7時から8時半までの勉強会を
受け持っています。これまでは、「知事清規」、「典座教訓」、「道元禅師伝」、
「金剛經」、「梵網経」などをテキストにして勉強してきました。今年は、
「大乗起信論」を勉強しています。「起信論」は大学時代から何回も
読んでいますが、もう一度坐禅修行の視点から読み直してみたいと
考えています。15人ほどの人が参加しています。10年、20年と坐禅をし、
仏教の勉強もしてきている人と、仏教の話を聞くのさえ初めての人が
ごごちゃ混ぜですので、対象をどの程度に絞ればいいのかが一番の
苦労です。しかも私の下手な英語で話すのですから大変です。ともあれ、
興味を持って聞きに来てくれる人々が在るので私も勉強を続けていく
ことが出来て大変有り難く思っています。

4月30日

奥村正博 九拝




三心通信 2010年1月・2月

2010年が始まって、あっという間に2月も中旬になろうとしています。
1月は6日から11日まで、摂心がありました。摂心が終わって2日休んで
14日に日本に出発しました。19日に東京の宗務庁である会議に出発する
ためでした。15日の夕方に成田に到着。川口の鈴木龍太郎氏のお宅に
宿泊させていただき、翌日京都に行きました。
京都駅で鷹峰道雄さん、トム・ライトさんとお会いして、宇治木幡の
能化院に内山老師の奥様をお訪ねしました。道雄さん、トムさんと
ご一緒に、老師のお墓と御仏壇のお位牌の前で、お経を上げさせて
いただきました。今年は老師の13回忌ですが、そのために日本に来る
ことは到底できない私にとっては、何よりも有り難いことでした。
しかし、老師が亡くなられてもはや12年が経つてしまったと云うこと
に驚かされます。1998年には私はロスアンゼルスに住んでおりました。
一月遅れの涅槃会摂心があり、オレゴン州の禅センターに行っており
ました。私は「正法眼蔵八大人覚」の講義をし、その中で、内山老師
の「生死法句詩抄」のなかの、<結びの詩> 「光明藏三昧」を引用
したことを覚えています。

貧しくても貧しからず
病んでも病まず
老いても老いず
死んでも死なず
すべて二つに分かれる以前の実物――
ここには 無限の奥がある

その摂心が終わって、ロスアンゼルスの当時住んでいた禅堂に帰ると、
鷹峰道雄さんから老師が亡くなられたと云うメッセージが留守番電話
に残されていました。あわてて道雄さんに電話をすると、その日に
お葬式が行われたとのことでした。自分の母親もマサチューセッツ州
のバレー禅堂にいたときに、脳血栓で倒れて一週間ほどで急に亡くな
ってしまって、死に目に会うことも葬儀に出ることも出来ませんでし
たので、こういう事が起こることは心のどこかで覚悟しておりました。
「病んでも病まず、死んでも死なない」老師の「おんいのち」を私なり
に受け継いで行かなくてはと思いを新たにしました。
その後まもなく、トム・ライトさん、アーサー・ブレイバーマンさんも
一緒に老師の追悼の摂心をその禅堂で出来たことだけが唯一の慰めでした。
現在、老師の「現成公案を味わう」の本の英語訳を、西有禅師の
「現成公案啓迪」、鈴木俊隆老師の「現成公案」の提唱の英語訳と一緒に
一冊の本にする計画が進んでいます。3月の13回忌までには間に合いま
せんが、出来れば今年中に出版されればと願っております。
お墓参りをさせていただいた夜、道雄さん、トムさんと夕食をご一緒に
しました。久しぶりに京都玄啄の安泰寺の頃の懐かしい思い出に浸る
ことが出来ました。

19日の宗務庁での会議が終わって、20日には成田からロスアンゼルスに
飛び、21日から、宗立専門僧堂が行われている陽光寺に30日まで滞在し
ました。先月には、3日目にぎっくり腰になり、殆どベッドの中で過ごす
という情けないことになりました。今回も腰と膝が回復していないので、
坐禅も正座をしなければ行けない朝課、その他の行持も免除していただき、
8回の「知事清規」の講義に専念させていただきました。坐禅、その他の
修行を参禅者と一緒にし、その上で講義を聴いてもらうというのが私の
スタイルでしたので、今回のようなのは大変居心地の悪い気がしました。
しかし、身体が云うことを聞いてくれないので仕方がありません。ここで
無理をすると、坐禅が出来ない身体になってしまうかも知れないと、自分
に言い聞かせております。
1月31日に三心寺に帰ってきて、最初の何日かは留守中に山のようにたまっ
ていたEメールを読んで、必要なものに返事を書く事に追われました。
その後、国際センターのニュースレター「法眼」に連載中の「正法眼蔵
摩訶般若波羅蜜」の記事を執筆し、本日ようやくこの三心通信が書ける
ようになりました。またまた1月・2月合併と云うことになって申し訳ありません。
先日、雪嵐があり、首都のワシントンでは降雪の新記録だったそうですが、
ブルーミングトンではそれ程ではなく、10−20cmほど積もりました。
まだまだ一面の雪景色です。しかし、日照時間は日に日に長くなり、
太陽の光も明るくなっています。朝には鳥の声も聞こえるようになりました。
春がすぐそこまで来ている感じがします。

2月8日
奥村正博 九拝