三心通信 2014年12月

 

11月30日にはじまり、12月8日まで続いた臘八接心は10人
ほどの人たちと静かに坐りました。最近、接心が近づくと、今回
もちゃんと坐れるだろうかという心配が頭をよぎります。やがて
は、心配してもしようがない、身体に任せるよりしょうがないとい
うところに落ち着いて、接心に突入するのですが、接心が始まっ
てしまうとそんな心配はどこかへ行ってしまって、一緒に黙って
坐っている人たちの坐禅に励まされて、なんとか最後まで坐れ
ました。

14日の日曜日には、成道会を行いました。いつもの日曜日と
同じく、9時から坐禅1炷、10時から成道会にちなんだ法話。
そのあと、般若心経を皆んなで読誦しました。今回は、香の煙
にアレルギーがある人が参加していたので、線香も抹香も使
えませんでした。日本では聞いたことがなかったのですが、
こちらでは香にアレルギーがある人が結構いて、香を焚くこと
を全く止めてしまった禅センターもあります。焼香の代わりに、
花をお供えしました。

2年前の成道会に、ジャータカにある、釈尊降魔のお話を紹介し、
道元禅師が「正法眼蔵発菩提心」の最後に紹介されているように、
龍樹によると、魔羅とは五取蘊、つまり私たち自身の五蘊に対す
る執着のことだという話をしました。それ以降、「五蘊」乃至
「五取蘊」についての釈尊の教えに興味をもち、パーリの
ニカーヤを英語訳でかなり読みました。
サミュッタ・ニカーヤの第3部には「五蘊」についての短い教説
が数多く収録されています。昨年の成道会には、その26-5経
について話しました。増谷文雄氏の現代語訳では「味わい」と訳
されています。それによると、釈尊は、自分がまだ求道者(菩薩)
で正覚をえていなかった頃に「色の味わいとはなにか、またその
禍いとはなにか、それから脱出するにはどうすれば良いか」と
考えたと言われます。そして、その答えとして、「かの色(肉体)
によって生ずる楽しみや喜び、それが色の味わいである。だが、
その色は、無常であり、苦であって、変易するものである。それ
が色の禍いである。そこで、その色において、欲のむさぼりを去
り、欲のむさぼりを断つ。これが色から脱出する道である。」
(増谷訳)と考えられます。他の四蘊(受、想、行、識)につい
ても同じことを繰り返されます。そのあとで、「私はまだ、五取蘊
について、このようにあるがままに知るにいたらなかった間は、
正等覚を実現したとは言わなかった。しかし、これらをあるがま
まに知るにいたったときに、最高の正等覚を実現したと称した
のである。」
この経によれば、五蘊によって生ずる楽しみや喜びが五蘊の
味わいであり、それに執着することによって、五蘊が「五取蘊」
になる。五蘊が無常、無我、苦であるゆえに、五蘊への執着
は人生を輪廻の苦しみにしてしまう。すでに「我」というものは
ないので、五蘊が五蘊自体に執着しているのである。「我」と
いうものがあって、主体である「我」が客体である「五蘊」に執着
するのではない。そのことを如実に知り、五取蘊から遠離した
時に、釈尊は正覚を成就したと宣言されたと言われるのです。
このパーリ・ニカーヤにある経を読んだ時、これは「般若心経」
の冒頭の分、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆、
空度一切苦厄。」と全く同じ意味ではないかと思いました。
とすれば、道元禅師が「正法眼蔵摩訶般若波羅蜜」の冒頭で、
「 観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆
空なり。五蘊は色・受・想・行・識なり、五枚の般若なり。照見、
これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空な
り、空即是色なり。色是色なり、空即空なり。百草なり、万象な
り。」と言われているのも、釈尊の正覚と直結しているのではな
いかと考え始めました。
今回、成道会の法話の準備のために再び、サミュッタ・ニカーヤ
の五蘊に関する部分をよんでいて、龍樹が「大智度論」で魔羅
とは五取蘊のことだと指摘したのは、龍樹の独自な解釈という
のではなく、釈尊がご自分でそう言われていたのだと分かりまし
た。「羅陀相応」の第1経は「魔羅」と題されています。羅陀とい
う比丘が釈尊に「魔羅とは何か」と質問したのにたいして、「色
(肉体)があれば、そこには魔羅がある。、、、だから、色を魔羅
であると観じ、殺す者、死する者であると観じ、あるいは、病なり、
癕(はれもの)なり、棘なり、痛みなり、痛みのもとであると感ずる
がよい。そのように観ずれば、それが正しい観察というものであ
る。」と答えられます。そしてあとの受、想、行、識についても同じ
ことを繰り返されます。
また「蘊相応」の22-95「泡沫」という経には、色について「たと
えば、このガンガーが大きな聚沫を生ずるようなものである。眼
ある人々は、それを見、それを観察し、その性質を見抜く。彼は、
それは、見掛けだけのもので、実体もなく、本質もないことをしる
であろう。どうして 聚沫に本質があろうか。」と言われたのち、受
は泡、想は陽炎、行は芭蕉の木、識は魔術師が作り出す幻影の
ようなもので、すべて、見掛けだけで、実体も、本質もないものだ
と繰り返されます。これは五蘊皆空と全く同じことでしょう。「金剛
般若経」の末尾にある、「一切有為法、如夢幻泡影、如露亦如伝、
応作如是観。」がすぐに思い浮かびます。
私の無知、無理解を露呈するだけかもしれませんが、これまで、
なんとなく初期仏教、部派仏教では、「我空」は説くけれども、
「法空」は説かない。大乗仏教が初めて我、法二空を説いたと
理解していました。しかし、この経によれば、釈尊がすでに我空
だけでなく、五蘊も空だと説いておられることになります。もしも
そうだとすれば、般若心経の第一文は、釈尊の説かれたことを
「空」という表現を使って再説しただけだということになります。

このことを理解して 「正法眼蔵摩訶般若波羅蜜」の冒頭を読んで
みると、 道元禅師の意図がよくわかると同時に、般若経の空説を
通じて、道元禅師の説は釈尊の教えに直結しているのだと考えら
れるようになりました。釈尊が五取蘊が魔羅だと言われたのと、
道元禅師が五蘊は五枚の般若だと言われたのとは、真反対の
主張のようにみえますが、この間に「五蘊を空と照見する」とい
うことを挟むと、これは自己の転換ということなのだとわかります。
つまり、五蘊が実体だと見、それに執着するときそれは「五取蘊」
と呼ばれ「魔羅」と呼ばれるが、「五蘊を皆空とみれば、五蘊の一々
が、諸法の実相を示すものとして「般若」そのものであるということ
でしょう。さらに、道元禅師の「身心脱落」という表現の「身心」とは
「五蘊」のことですから、如淨禅師が言われるように「身心脱落」と
は「坐禅」だとすれば、道元禅師が「坐禅」が「安楽の法門」だと言
われる意味も明らかになるように思います。
先ほども言いましたように、自分の今までの無知を露呈するだけ
ですが、私としては目から鱗が落ちたように感じています。
このようなことを考えている間に、2014年も大晦日になってしまいました。

皆様、どうぞ良いお年を御迎え下さいませ。

12月31日
奥村正博 九拝




三心通信 2014年 11月

昨年の冬は低温が続きました。ことに木々や草花の芽が大きくなり始める
2月から3月にかけて最高気温が0度℃に達しない日が何日も続いたため
に、桜やその他の花がほとんど咲きませんでした。今年は秋口からまた
低温が続いています。10月30日、ハロウィーンの日に、ちらほらですが雪
が降りました。11月に入って、ますます寒くなり、まだ秋なのに真冬のよう
な寒さが続きました。この春のように最高気温が0度℃に達しない日が何
日も続きました。雪は当地ではそれほど多くは降っていませんが、北東部
のニューヨークなどでは、11月としては記録的な大雪だったそうです。

最近、カリフォルニア州に住んでおられる秋山洞禅さんから、NHK特集の
メガ・デザスター(巨大災害)についての4回シリーズのDVDをお送りいただ
きました。第1回は、地球規模の気候の変動によって引き起こされる異常
気象やそれに伴う災害、またその原因やメカニズムについてのものでした。
気象の地球的な規模の変化だけではなく、巨大な台風(ハリケーン)、地震
や火山噴火など、様々な要因で自然災害が予想されるとのこと。

ある本に、地球の大陸というのは、牛乳を鍋に入れて煮立たせたあと、
冷ますとできる薄い膜のようなものに過ぎないと書いてあったのを思い出
します。人間を含めた生命体というのは、その薄い膜の上に生えたカビの
ようなものなのでしょうか?自然の脅威だけではなく、人間の世界で起き
ていることを考え合わせると、宇宙の時間と空間の中での、地球上の生命
や人間の位置や状況を正しく知り、しかも楽観的あるいは悲観的な幻影に
引きずられずに、マッサラな眼で見、また考えて、日々を当たり前に生き
ていくことが、とてつもなく難しいことのように思えてきます。

本日夕方から、臘八接心が始まります。7日間、京都の頃の安泰時の接心
と同じ差定で、1日14炷の坐禅です。最終日、12月7日は、深夜12時ま
で坐ります。私は、1970年の12月8日、接心が終わった日の朝に得度
を受けましたので、今年で44年になります。さほど意思堅固でもない私で
すが、ここまで坐り続けてこられたことに感謝せずにはいられません。
安泰寺を出てからは、大勢の人たちと接心をしたことは殆どありません。
大概2−3人か、多くても10名ほどの人たちと一緒に座ってきました。
それでも、自分一人で接心を坐ったことは一度もありません。日本でも
アメリカでも、いつも何人かの少数の人たちに一緒に坐っていただいて、
自分も坐り続けることができたのだと思います。今回の接心は部分的な
参加者も含めて11名で坐ります。カリフォルニア州、フロリダ州、オクラ
ホマ州などから、この接心坐るために来てくれます。坐禅だけの接心は
年々体力的にしんどくなってきていますが、続けられるところまで坐り
続けたいと願っております。

11月30日

奥村正博 九拝




三心通信 2014年 9月、10月

 

一昨 日、かなり強い雨風が、ほぼ一日中続き、紅葉していた木の葉はほとんど
落葉してしまいました。その分空が大きく、明るくなりました。リス達が、胡桃を
口にくわえて、あちらこちら忙しそうに走り回っています。毎年同じ、静かな晩秋
の風景です。 
8月、ヨーロッパから帰ってからは、11月の眼蔵会の準備に専念しておりました。
今回は「正法眼蔵佛向上事」を参究します。この巻は、特に最初の洞山と一僧と
の佛向上事についての会話と道元禅師のコメントは、長年よく理解できませんで
した。一応の英語訳を作った後、手元にある註解、提唱本を全て読み、特に西有
禅師の「啓迪」のこの部分は、ほとんど丸写しにしてコンピュータに入れ、自分の
書き込みも加えながら、何度も繰り返し読みました。それでも隔靴掻痒で、つまり
何が問題になっているのかがピンときませんでした。それで、手元にある「洞山録」
やその註解、解説を読んで、洞山良价の全体的な教示の中で、「佛向上事」がど
のような意味を持っているのかを考えました。「語話」「不語話」、「聞」「不聞」が
問題になっているのは、洞山が若い頃から問題にしていた「無情説法」について
の洞山と潙山、雲巌との会話と関連しているのだということがわかりました。そし
て、「無情説法」は、洞山が潙山との会話の中で長々と引用しているように南陽
慧忠が最初に言い出した事でした。

それで、「祖堂集」「景徳伝灯録」にある南陽慧忠についての記事を読みました。
これまで迂闊にも知らなかったことですが、南陽慧忠の「無情説法」の発言は、
「景徳伝灯録」第28巻に収録されている諸方広語の最初にある、慧忠と南方から
来た僧との禅問答としてはかなり長い会話に出てくるものでした。その長い会話の
最初には、道元禅師が「辨道話」や「即心是佛」で紹介されている慧忠の南方禅
批判、つまり先尼外道と軌を一にした心常相滅説の批判についての問答があり
ます。慧忠の南方の禅についての批判に対して、この南方の僧が、慧忠の仏心
についての説を問いただし、慧忠は仏心とは、衆生の中にある常住のものでは
なく、「墻壁瓦礫」だと答えます。そこから無情説法についての問答が始まるの
です。つまり、慧忠は、南方の禅は心常相滅説だと批判した後で、自分の説は
それとは違うとして、無情説法を説き始めるのです。

南方の心常相滅説の禅とは、馬祖の洪州宗、あるいは馬祖その人の説ではな
くとも、その教説を誤解した人たちを指すのでしょう。馬祖は示衆の中で、「汝ら
諸人、各、自心是佛、此の心即佛なるを信ぜよ。達磨大師、南天竺国より中華
に来至し、上乗一心の法を伝えて汝等をして開悟せしむ。」と述べています。
の馬祖の言う上乗一心が衆生のなかにある常住な心なのか、が問題点なので
しょう。
洞山良价は、少年のころ、馬祖の弟子五洩霊黙につき、成人してからは南泉、
潙山など、馬祖系の人に従っています。潙山の会下にいる時に、潙山に対して
無情説法について質問し、潙山の勧めで雲巖曇晟を尋ね、「無情説法」につい
て問答をするのです。洞山にとっても「無情説法」「佛向上事」は最重要な課題
だったのです。なぜ、洞山が慧忠の「無情説法」に興味を持ったのかということ
について、椎名宏雄氏は「洞山:臨済と並ぶ唐末の禅匠」の中で、同郷の先輩
だったからではないかと推測されています。
このあたりの事情が分かってきて、ようやく「佛向上事」での道元禅師の議論の
意味が分かりかけてきました。
10月には、例年のようにピッツバーグの週末接心に行きました。数年前から
「学道用心集」を講義してきましたが、ようやく完了しました。ピッツバーグには
1995年から毎年のように行っています。20年の間最初から付き合ってくれて
いる人も何人かいます。この何年か、会場はカトリックの女子修道院に付属
したリトリート・センターです。以前は何十人もいたシスター達は、現在20名
ほどになり、最年少の人が60歳だとのこと。このリトリートセンターもあと何年
もつかわからないということでした。
10月16日に
The Zen Teaching of “Homeless” KodoWisdom Publications
から予定通り出版されました。「宿 なし興道法句参」の新しい英語訳です。
沢木老師50回忌までに出版できるようにと願っておりましたが、なんとか
間に合いました。謹んでお供えさせていただきます。この出版によって、
沢木老師、内山老師のお教えが英語圏の人々に親しいものになればと
願っております。

一つ一つの法句と参についての私の説明を付けましたので原本より
かなり大きな本に成りました。沢木老師、内山老師の鋭く、深く、簡潔な
表現に私の解説を付けるのは蛇足以外の何物でもありませんが、日本
の歴史や文化、これを書かれた1960年当時の日本の社会事情など、
そして、仏教や禅、得に道元禅師の教えに余りなじみのない外国の人
たちにはお役に立つのではないかと考えております。10ページ程の、
沢木老師の短い伝記も書かせていただきました。

当初は、私の解説は脚注程度にするつもりでしたが、編集者の意向で、
沢木老師の法句、内山老師の参と並んで、本文として印刷され、私の
肖像まで、両老師のものと並べられてしまいました。まことに恐れ多い
ことと恐縮しております。 

10月 30日

 

奥村正博 九拝






三心通信 2014年 8月

7月29日から8月19日までほぼ3週間、ヨーロッパに行きました。出発の日、午前11
時頃インデアナポリス発の飛行機に乗り、ワシントンD.C.で乗り換えて、デンマーク
のコペンハーゲンに飛び、もう一度乗り換えて、スエーデンのストックホルムに30日
の午前中に到着する予定でした。ところが、例によって、インデアナポリスからワシ
ントンD.C.への飛行機が予定時間に飛ばず、ワシントンD.C.での乗り換えは不可能
になりました。「例によって」というのは、最近特にインデアナポリスのようなあまり大
きくない空港からハブの大きい空港に行く飛行機、あるいは比較的近距離の都市間
を結ぶフライトは、デルタやユナイテッドなど大きな航空会社を通して切符を買っても、
子会社或は関連会社の小さな飛行機で運行されることが当たり前になっています。
それ等小さな飛行機には客室にキャリー・オンの荷物を置くスペースが無いので、
ゲートでチェックインし、到着後またゲートで受け取ることが殆どです。それ等の小さな
会社の小さな飛行機はしょっちゅう、予定時間より遅れたり、或はキャンセルされた
りします。いつか、アイオワ州の龍門寺からブルーミングトンまで、自動車でも10時
間程走れば行ける距離なのですが、飛行機が遅れたりキャンセルされたりで、シカ
ゴで一泊しなければならず、24時間以上もかかったこともあります。

この日も案の定に遅れて、インデアナポリスで午後3時半頃までまち、シカゴに移動
、シカゴで午後10時過ぎまで6時間ほどまって、ようやく、スカンジナビア航空のコペン
ハーゲン行きに乗ることが出来ました。もう一度飛行機を乗り換えて最終目的地のス
トックホルムについたのは、予定より数時間遅れて、夕方近くになりました。そのあい
だ、ストックホルム空港に迎えに来てくれるジョナスさんとの電子メールを通じてのや
り取りなど、大変でした。携帯電話があればそれほどでもなかったのでしょうが、私は
携帯は使わないと決めているもので、こういう場合の連絡は電子メールしかありません。

到着の翌日、30日は一日、休息させていただきました。ストックホルム近郊にあるジョ
ナスさんのお宅で午前中、接心中の講義の準備、昼前に、スエーデン皇室のパレスが
ある近くの公園に連れて行っていただいて散歩と昼食。そのあと、ジョナスさん宅の近く
にある湖の周りを散歩。 

8月1日金曜日から3日日曜日まで、ストックホルムから自動車で1時間半ほどの距離
にあるリトリートセンターで接心。この接心はジョナスさんがオーガナイズしたもので、
禅と太極拳に興味がある人々の団体が主な参加者とのこと。40分の坐禅を7炷。午
前中は般若心経についての講義、午後には1時間質疑応答がありました。

このリトリートセンターは、もとスエーデンの貴族の荘園だったところで、現在は、農園
の部分は契約した農業家に貸し、元来、貴族の人たちが住んでいた建物をリトリート
センターとして使用しているとのこと。建物は昔のままなのだけれど、内部は、広々と
した多くの部屋があるだけで、家具やその他貴族の人たちが住んでいた跡形は何も
ありませんでした。静かで、景色が良く、坐禅するには最適な場所だった。

8月4日はジョナスさんが借りているサマー・ハウスに連れて行っていただきました。海
のそばで、ヨットで休暇を楽しむ人が多いようでした。5日夕方、7時からストックホル
ム市内、皇室のパレスや、旧市街を見渡せる場所にある会場で公開講演会。50名程
の参加者が会った。理論的なことではなく、私が歩んで来た道について話すようにとの
依頼だったので、「只管打坐の道」と題して、祗管打坐についての私の理解と、17歳
の時、内山老師の著書を読んだこと、それ以来の私の歩みについて1時間15分ほど
話し、10分ほど休憩のあと、会場からの質問に答えました。 

6日にストックホルムからコペンハーゲンに飛行機で移動し、列車で海の上の鉄橋を
渡って、スエーデンに戻り、30分ほどのルンドと云う町に到着。ルンド・禅道場を主宰
されている妙鏡・ローレルさんのアパートに宿泊させていただく。妙鏡さんは、福井県
天龍寺、笹川浩仙老師に嗣法された方である。

翌日7日にルンドから自動車で1時間程のキリスト教のリトリートセンターに移動。20人
ほどの参加者と3泊4日の接心。こちらはストックホルムでの接心とは違って、応量器
での行鉢もありました。「正法眼蔵行持」の巻の最初の部分について、3回話しました。
ヨーロッパ総監部も釜田尚紀師も参加されました。

接心後はルンドに戻り旧友のステンさんのアパートに宿泊。ステンさんは、数年前に
私が最初にスエーデンに来た時の、詳細な記録を1000頁を超える本に書いている。
その労作の原稿が出来て、現在校正作業が概ね完了したところで、校正を担当して
いる人、製本をする人たちと、12日寿司レストランで会食。

8月13日、コペンハーゲン空港からイタリアにミラノに移動。ルンドでの接心にも参加した
私の弟子の道龍、行悦の知人宅に宿泊。14日には、市内を案内していただき、15世紀
に建てられたスフォルツア城や、ミラノ大聖堂など、歴史の教科書でしか見たことの無い
場所をこの眼で見ることが出来ました。15日にミラノから自動車で1時間半ほどの距離
にある普伝寺というお寺での首座法戦式に助化師として随喜。首座を勤めたのは私の
孫弟子で南米コロンビアの大蓮と云う人でした。 

そのあと、パルモという町の近くに住む、人のお宅に宿泊させていただき、18日にミラノ
からコペンハーゲンに戻り、19日に無事にブルーミングトンに戻り着きました。

ヨーロッパから帰って数日間、時差ボケの為に仕事も余り出来ずにいました。英語で
35頁程のエッセイを書かなければならないのですが、はかばかしく進みませんでした。
気がつけば既に、8月も今日で終わり、明日から、通常の日課が始まります。4日から
週末の接心です。

 8月31日

 奥村正博 九拝



三心通信 2014年 6月、7月

6月末には、アイオワ州の龍門寺に参りました。首座法戦式に助化師として参加
する為です。帰って来て翌々日に禅戒会が始まったもので、通信を書けませんで
した。今月も、29日からスエーデンに行き二週間程滞在、その後イタリアに行きミ
ラノの近くのお寺での首座法戦式に随喜して、8月19日に帰って参ります。それで
、6月、7月分の通信をあわせて書かなくてはなりません。

例年のように、4月初めから3ヶ月の夏期安居がありました。おかげさまで、7月7日
に円成致しました。今年の安居の首座は、イタリア人でローマ在住の道龍・Cappeli
がつとめました。3ヶ月間ずっと三心寺にいて、一緒に坐禅や勉強をし、毎週の日曜
日には、法話をしてもらいました。カソリックの本拠地のローマで、カソリックから改
宗して仏教徒になった人です。7回の法話では、神、祈り、信仰などについて、仏教
とキリスト教の両面から、同じ点や相違点について、理論的にでは無く、信仰者、
践者として具体的な体験を含めての話でした。同じように、キリスト教の文化圏の中
で、坐禅をしているアメリカ人の人たちにも、とても興味がある話でした。

6月22日には、首座法戦式がありました。カリフォルニア州から、秋葉玄吾老師に
助化師として御来山いただきました。サンフランシスコにある曹洞宗国際センター
の南原一貴主事、ロスアンゼルスにある北アメリカ国際布教総監部の櫛田俊道書
記にも、遠路御随喜いただきました。毎年、宗制で定められている10名の会衆を
確保するのに苦労するのですが、今年は私を含めて15名の宗侶が参会致しました。
本則は従容録第9則「南泉斬猫」でした。本則行茶の時には、例年取り上げる公案
について私が1時間程話しています。「碧巌録」、「従容録」での扱い方と、道元禅師
が『随聞記』の中で話されている、「一刀一段」や南泉の行為は破戒であり、しない
方がよいと話されたことなどを比較して話しました。

次の週末の6月29日、30日には、今年もまた、アイオワ州の龍門寺の首座法戦式
に助化師として随喜させていただきました。こちらは「碧巌録」第9則の「趙州四門」
が本則でした。「碧巌録」の評唱では、無事禅批判に大部分が締められていますが、
宋代臨済宗の人が無事禅というのは、曹洞宗の黙照禅を指しますので、どのように
アプローチすればいいのか、少し困りました。

7月1日に三心寺に帰山して休む間もなく、3日の夕方から5日間の禅戒会が始
まりました。毎年、「教授戒文」を講本にして、十六条戒の様々な面に焦点をあて
て参究しています。一昨年は、意業についての、第8不慳法財戒、第9不嗔恚戒、
第10不痴謗三宝戒、昨年は、 口業についての、第4不妄語戒、第6不説過戒、
第7不自賛毀他戒、今年は身業についての、第1不殺生戒、第2不偸盗戒、第3
不邪淫戒の話をしました。十重禁戒の話をするのに、いつも困るのは第5不酤
酒戒ですが、これは来年にまわすことにしました。

14名の参加者がありました。うち4人が受戒致しました。そのうち2人は、ブルーミ
ントンから北に2時間程離れているWest Lafayetteという大学町に、50年近く続い
ている曹洞禅の小さなグループのメンバーの人たちです。片桐老師がミネアポリス
に禅センターを開創された1972年より以前からあり、老師が居られる頃にはミネソタ
禅センターと繋がりがありました。そのあと、ミルウォーキィ禅センターの秋山洞禅老師
のお弟子さんが定期的に訪問しておられました。その方が、東部の方へ移られてから、
この10年程は、在家の方達だけで、週2回、ユニタリアンの教会の部屋を借りて
坐禅会を続けています。私の知る限りでは、三心寺とこのグループだけがインデアナ州
でただ2つの曹洞禅のサンガです。その意味で、繋がりが出来て来たことを有り難く
思っています。後の二人は、76歳になる、もと大学の教授だった女性とカリフォルニア
にあるグリーン・ガルチ禅センターからガールフレンドと一緒にブルーミングトン
引っ越して来た20歳代の男性です。

例年の通り安居中は、5月は眼蔵会、6月は坐禅に専注する接心、7月は禅戒会と
、戒、定、慧の三学を主とした5日間の行持を行いました。5月の眼蔵会は
正法眼蔵画餅」を講本としました。坐禅堂や、宿泊の場所、台所の大きさなどから、
定員を20名としているのですが、眼蔵会にはそれを上回る申し込みがあり、申し訳
ないのですが、何名かには来てもらうことが出来ませんでした。6月の5日間摂心は、
いつものように、部分的に参加した人も含めて10名ほどの人たちが坐りました。

「宿無し興道法句参」の新訳は最後の校正作業も終わり、10月中旬に予定されて
いる出版を待つばかりになりました。 来年が沢木老師没後50年ですので、それま
でに出版できるようにと翻訳作業を進めてきましたが、今年12月、日本での
沢木老師の50回忌にも間に合うことが出来そうで喜んでおります。
 
この6月22日で66歳になり、60代も後半に入りました。60歳になったばかりの頃は、
50代とはあまりに違う、急な体力の低下に驚きました。殊に膝が痛くなって、坐禅が
続けられるかどうか、かなり深刻に悩みました。今ではこれが当たり前なのだと、
思えるようになりました。3年前から、禅堂で椅子に坐っております。最初の1年間
ほどは違和感があって、これが坐禅と云えるのかと真剣に考えましたが、慣れて
来ると、これも坐禅なのだと思えるようになりました。京都の安泰寺と同じ差定で、
1日14炷坐る接心は椅子坐禅ではつらく、昼食後YMCAに行って1時間程歩き、
ストレッチをし、シャワーで汗を流し、お寺に帰って、3時まで休ませてもらうように
しています。それで、14炷ではなく12炷坐ることになります。1日が二分されますの
で、以前のように5日間の接心が1炷の坐禅のような感じはありませんが、それでも、
20歳の時に安泰寺で最初の接心に参加させていただいてから、およそ45年間、
坐り続けることが出来ることをなによりも有り難く存じます。おかげさまで、椅子に
坐るようになってから、膝の痛みは無くなりました。

昨年、10周年記念品として内山老師の「生死法句詩抄」を制作しました。おかげさま
でとても好評で、200部印刷したものが、すぐに無くなってしまいました。昨年から
道元禅師の和歌の英訳と短い解説を月に一首ずつ、三心・禅コミュニティのEnews
に連載しております。昨年は、四季の景色を詠まれた禅師の和歌を選んで訳しました。
今年は、それら14首をまとめて、小冊子にする作業を進めております。昨年好評だっ
たので、今回は500部印刷する予定です。翻訳家、書家として有名な棚橋一晃氏には、
「春は花、、」と「またみんと、おもいしときの、、、」の二首の揮毫をしていただきました。
また写真家の高橋あいさんには、四季の風景の写真を寄せていただきました。お二人
とも、無料で作品を使わせていただけるとのことで、御法愛に心より感謝しております。
製本も昨年と同じ Jim Canarry氏にしていただきます。


7月11日

奥村正博 九拝





三心通信 2014年 4月、5月

 

   4月の30日から5月の5日まで、5日間の眼蔵会があり、月末にはその準備に
追われていて、三心通信が書けませんでした。それで、4月分と5月分を一緒
に書いております。
   3月の通信にお彼岸が過ぎても桜の蕾みは固いままだと書きましたが、その
ころでも、何度も氷点以下に温度がさがったもので、花の蕾みが被害を受け、
今年は桜や桃の花が殆ど咲きませんでした。寂しい春となりました。4月中も
寒さが続き、冬の衣装のままでした。五月に入ってようやく暖かくなり始め、
中旬には例年と変わりない新緑となりました。
   4月の9日に今年の夏期安居の首座である、道龍さんがイタリアのローマか
ら到着し、翌日10日から安居が始まりました。道龍さんは、奥さんの行悦さん
と共にフランス人の雄能・レッシ師から、10年程前に得度を受けたのですが、
事情があって、2011年に師僧替えして私の弟子になりました。それ以降2人で、
毎年2回乃至3回、三心寺の接心や眼蔵会に参加しています。職業としては、
坐禅を始める前からともにダンサーです。ローマでダンスを教えているスタジ
オが、週末や坐禅がある時には坐禅堂になります。
   2人が出版社に働きかけて、私の「現成公案」の解説書Realizing Genjokoan
がイタリア語に訳され出版されました。その出版の機会にローマに行き、ロー
マ大学やイタリアの仏教協会で話をしました。2冊目のLiving By Vow (誓願
に生きる)も現在翻訳作業が進行中です。
   例年、夏期安居中は、首座が日曜日の坐禅会の法話をする事になっていま
す。道龍さんはこれまで4回法話をしました。カトリックの国のイタリアで仏教
の僧侶になった者として、キリスト教と仏教、特に曹洞禅との違いや似ている
ところをどのように理解しているかと云うことを主にテーマとしています。アメリ
カ人の参禅者にとっても関心のもてる話です。聞きにくる人は15人程と少数
ですが、異文化、異宗教の出会いの場となっています。
   5月の眼蔵会では、「正法眼蔵画餅」を講本にしました。「画餅」と云うのは、
日本人にとっては、「絵に描いた餅(もち)」で、糯米を蒸して、杵でついた白く
て丸い、主にお正月のお飾りにしたり、雑煮にいれたり、焼きもちにして食べ
るものというのが、殆どの人が持っているイメージだと思います。「画餅」の提
唱本などでもそうなっています。私の手元に5つの「画餅」の巻の英訳があり
ますが、どれもみな、「餅」はRice Cakeと訳されています。私もそのように訳
して、この眼蔵会の直前まで何等疑問を持っていませんでした。
   「画餅」の巻の中に「雲門胡餅」の公案が引用されています。その英語訳を見
ようと、Urs Appさんの著書、Master Yunmenを見ると、脚注に「胡餅」の説明
がありました。Appさんの中国人の友人の説明によると、「胡餅」は、小麦粉を
水で溶いた生地をオーブンで焼いて、胡麻をまぶした、直径4?6インチほどの
丸い平面型の食品だとの説明がありました。この説明を読んだ時には、「胡餅」
はそうなんだろうとしか考えなかったのですが、眼蔵会の直前になって、気にな
り出し、Wikipediaで調べたところ、中国には米で作った餅は稀にはあるが、地
域的にごく限られていると云うことでした。中国語の「餅(bing))は米を蒸して、
杵で搗いたものではなく、小麦粉の生地を焼いたものだったのでした。月餅と
いう中秋の明月の時に食べる有名なお菓子がありますが、あのようなものを
想像すればいいのでしょう。
   それで、中国語の「画餅」をRice Cakeと訳すのは明らかに誤訳だと云うことが
分かりました。それで、中国出身で、昨年までブルーミングトンに在住して、三
心寺で坐禅をしていた、大学院の博士課程にいる人に「画餅」の「餅」を英語に
訳すとしたら何と訳すかと尋ねました。材料としてはパン・ケーキのようだけれ
ども、アメリカのパン・ケーキよりはずっと分厚い。ケーキと訳すと、アメリカ人
はバースデイ・ケーキのようなふわふわのものを思い浮かべるだろうし、
biscuit(ビスケット)が近いかなと云うことでした。アメリカで云うビスケットは、
日本のものとはちがって、小麦粉の生地を、ベーキングパウダーで膨らませ
てあり、円形で平面です。
   「画餅」と云う言葉が、日本語だとすれば、rice cakeと英語に訳しても間違い
ではないのですが、道元禅師が「画餅」の巻で書かれているのは全てが、
中国の禅の文献からの引用です。道元禅師ご自身がこの巻を書かれた時
に頭に浮かべておられたのは、どうしても中国の「餅(bing)」でしょう。ご自身、
中国で見たり食べたりされた具体的な食品だったでしょう。英語に訳すのにど
うすればいいのか、困りました。結局、英語のpancake, cake, biscuit,どれも
ピンと来ないので、翻訳は rice cakeのままとし、講義の中で、その事情を
説明しました。どのように訳しても、道元禅師が「画餅」の巻で説示されている
仏法としての内容とは、余り深い関係はないのですが、我々が頭に画く
イメージにはかなりの違いが出てきます。抽象的、哲学的な用語も訳すの
が難しいですが、このように日常的、具体的なもので、地域や文化によって
違うもの訳語を探すのも難しいものです。

5月26日

奥村正博 九拝

 


三心通信 2014年 3月

 

今年は、例年になく寒く、長い冬でした。いつもでしたら、2月の末か3月初め
には、たとえ雪がまだ地面に残っていても、雪を突き抜けてクロッカスや水仙
の花が咲き始めるのですが、今年は、お彼岸が来ても、殆ど毎日、最低気温
は氷点下に下がりました。月末に近づいてようやく、クロッカスが咲き、水仙が
一つ二つ花をつけ始めました。例年ならば、既にいつ咲いてもおかしくない桜
ですが、今年はまだ、蕾みも小さく固いままです。

一年間、道元禅師和歌集の中から、四季の和歌の英語訳と解説を三心禅 コ
ミュニティのeNewsに連載してきましたが、其れを一冊の本にする作業が進
行しています。連載したものを見直し、書き直して、昨年、三心寺の10周年
記念に作成した、内山老師の「生死法句詩抄」のような小冊子を作ろうと云
う企画です。

 

春は花、夏ほととぎす 秋は月

       冬雪消えで すずしかりけり

 

1968 年、私が駒沢大学に入った年に川端康成がノーベル文学賞を受賞した
のスエーデンでの講演の冒頭に、「本来の面目」と題したこの歌が紹介さ
れて以来、道元禅師の和歌としては、もっとも良く知られたものになりました。

川端康成は、大阪府立茨木高校の先輩です。私が在学中の1966年に同校
の創立80周年がありました。その年の文化祭の折、卒業生の大宅壮一と
川端康成が講演に来られました。大宅壮一の話は楽しく聞いたのですが、
川端康成の話の途中で退席しました。壇上に上がって、先ず最初の言葉
が、テーブルの上にあった、コップの水を呑んで、「古里の水を一ぱい」と
いうものでした。その前から川端康成は「読まずぎらい」でした。日本文学
全集や世界文学全集を手当り次第に乱読していたころにも、川端康成の
著作を一つも読んだことはありませんでした。その言葉を聞いた時なぜか、
この人の話は聞くに耐えないと感じてしまったのです。

その頃私はアルバイトで貯めたお金で太宰治の全集を買い、それをを耽 読
していて、太宰治が芥川賞の候補になった時に、川端康成が、「才あれど、
徳なし」と評したので、受賞できなかったなどと云うことを読んでいたのが影
響していたのかも知れません。それで、現在に至る迄、川端康成の小説は、
一つも読んでいません。「伊豆の踊り子」でさえも読んだことがありません。
ちなみに、それと関係があるのかも知れませんが、三島由起夫のものも一
つも読んでいません。

ですので、川端康成によって、道元禅師の「春は花、、、」の和歌が世 間に
知られるようになったときも、「それがどうした」というのが私の反応でした。
むしろそれ以来長い間、私は道元禅師の和歌を本気で読まなくなっていま
した。沢木老師の全集にある「傘松道詠」の提唱や、大場南北師の「傘松
道詠の研究」「道元禅師和歌集新釈」などは、大学時代に一応眼を通しま
したが、「正法眼蔵」や「永平広録」、「随聞記」などに比較すれば、重要な
ものとは思えませんでした。

道元禅師の和歌を英語に訳し、短い解説を書くことに決めたのは、月に
一度の仕事として、余り負担にならないだろうという甘い考えからでした。
しかし、これを始めてからの一年間は、かなり厳しい苦戦になりました。

春の花、夏の草木の緑、蛍の光、蝉の鳴き声、秋の月や紅葉、冬の雪、
など山水や花鳥風月と云った昔ながらの、芝居の書き割り、風呂屋のペン
キ絵、観光名所の絵はがき、団扇に印刷された朝顔の花のような、陳腐、
マンネリ、紋切り型、の典型になりかねない題材ばかりだったからです。
大学時代にふと聞いた邦楽の歌詞に、「我も虫なる虫時雨」と云う言葉が
有りました。
その音楽に関しては、この一句以には何も覚えて いませんが、
何故か心に残って、それ以来、自然とその中で活かされている自分として
生きることが私の人生の一つのテーマとなりました。
私が呼吸したり、考えたり、泣いたり笑ったりしている力と、花が咲いたり
散ったり、風が吹いたり、雨や雪が降ったりする力とが、同じ生命力なの
だと内山老師から教わりました。 道元禅師の和歌が表現しているのも、
利用したり、搾取したり、観察したり、鑑賞したりする、「対象」としての
自然ではなく、 自他未分の自己を含んだ自然だと思います。マンネリや
陳腐なのは、人間の感性や表現の仕方であって、この生命の力はつね
に新鮮で、「今ここ」だけのものでしょう。
しかし、日本人の自然や四季の移り変わりについての和歌やその説明
が、気候風土が全く違うアメリカの人達に分かってもらえるのかどうかも、
自信がありませんでした。案に相違して、アメリカ人の人達から、季節の
和歌を集めて本を作りたいと云う申し出があって、少し驚きました。
4月の10日から、夏期安居が始まります。今年は、冬から春の連続的は
変化がなく、急に夏になってしまうような感じが致します。 

日本でも、 様々な天変地異が起っているとのこと、皆様どうぞお元気で
お過ごし下さいませ。
 
3月31日

 

奥村正博  九拝



三心通信 2014年 1月、2月

 

2014年 も既に2月が終わろうとしています。時の流れの 速さにドキッとします。

正月は穏やかだったのですが、その 後すぐ、およそ20年ぶりという記録的な
寒波が中西部から東部を襲いました。ブルーミングトンでも−20℃くらいにな
りました。以前住んでいたミネアポリスなどは−40℃近くになったとのことでした。
それ以後も、時折暖かくなるものの、例年にない寒さが続いております。
2月の最後の日である今日も、午前11時現在、良く晴れているにもかか
わらず、−7℃です。

1月23日 から2月3日までおよそ2週間、カリフォルニア に滞在しました。サン
タクルーズ・禅センター、モントレィ・ベイ・禅センター、バークレイ・禅センター、
マウンティン・ビュー・禅センター、サンフランシスコ・禅センター、曹洞宗国際
センター、ソノマ・マウンティン・禅センター、グリーン・ガルチ・禅センター、
などを訪問し、7つの講義や法話をしました。講義の内容を指定された所も
ありましたが、そうでない所では、この秋に出版される

The Zen Teaching of “Homeless” Kodo
(「宿無し興道法句参」の英訳)
中から何カ所かを紹介しました。

サンフランシスコの近くでは、中 西部の寒波が信じられない程に暖かく、様々な
花が咲いていました。ただ、昨年の11月から一度も雨が降っていないとのことで、
人々は日照りと毎年のように起る大規模な山火事の心配をしていました。今年は
日本でも異常な大雪が降ったとのこと、毎年異常気象が当たり前になったような気がします。

 
2月3日にブルーミングトンに帰って、8日からテキサス州のオースティン禅センター
に行きました。7日間の眼蔵会でした。8日の午後に到着して、その夕方に
オリエンテーション。次の日から、午前と午後、2時間の講義が2回という日程で、
14日の午前まで、合計11回の講義がありました。いつもの三心寺での
眼蔵会よりも、2回の講義が増えただけですが、英語で話す本人にとっては、
かなり厳しくなったように感じました。今回は「正法眼蔵佛性」の巻を参究しました。
「佛性」は、私の翻訳ではなく、ノーマン・ワデル氏と阿部正雄氏の英訳を使って
います。もと、日本で発行されているイースタン・ブッディストという雑誌に掲載
されたものが、他の8巻と「普勧坐禅儀」の翻訳とともに2002年にニューヨーク
大学の出版局から
The Heart of Dogen’s Shobogenzoという書名で、単行本
として出版されたものです。私にはこの翻訳よりも良い訳を作る自信がありま
せんので、この訳を使わせていただいております。


今回は、「佛性」の巻を最初から読むのではなく、最初の回は、仏教の 思想的な
歴史の中で、佛性、(如来蔵)がインドでいつ頃出現し、それがどのように中国の
仏教全体に受容され、禅の思想に影響を及ぼしたかを話しました。次の2、3回は、
道元禅師が趙州の「狗子佛性」の公案について論評されている部分を最初に
話しました。「狗子佛性」の公案は、「無門関」と「従容録」にも含まれていますので、
中国の臨済禅、曹洞禅、と道元禅師のこの公案についてのアプローチを比較して、
道元禅師の佛性についての理解の仕方が、「無門関」、「従容録」とは全くと言って
いい程違うことを最初に聴講する人々に銘記しておいてほしいと考えたからです。

その後、「佛性」の本文に入り、最 初から順を追って話しました。それで、悉有が
佛性だと云うこと、時節因縁そのものが佛性だということ、馬鳴の佛性海について、
山河大地や様々な現象的なものがそのまま佛性であって、佛性はそこから現象的
なものが出てくる基盤のようなものではないという所までしか話せず、四祖、五祖の
「無佛性」の部分には入ることが出来ませんでした。「佛性」についてはこれくらいの
時間をかけて丁寧に参究する必要があると考えています。

最初、2、3日は少し寒かったですが、途中から暖 かくなり、最後には春を飛び
越えて初夏のような天気になりました。シャツ一枚であるいていても汗をかくくらいでした。
 

15日にブ ルーミングトンに帰り、21日にはアイオワ州の 龍門寺に行きました。
アイオワ州の東北部で、殆どミネソタ州、ウィスコンシン州との州境です。最寄り
の空港はウィスコンシン州のラ・クロスというミシシッピー川添いの小さな町です。
私が行く前日には、かなり強い雪嵐があり、飛行機が飛ぶかどうか心配でしたが、
当日は快晴になりました。ただし、温度は低く−20℃くらいで、広々と地平線まで
広がっているトウモロコシ畑は一面真っ白で、砂のようにサラサラの粉雪が風
に吹き飛ばされて、砂漠の砂煙のように見える所もありました。

龍門寺では、年に2回安居があり、その 度に首座法戦式があります。私は、
助化師といて、その都度随喜しております。

アメリカは何と言っても広大なの で、行く場所によって気候が全く違います。
少し前までは、気候や風景が違う所に旅行することが興味深く、楽しくもあった
のですが、最近は気温の差や時差に適応することが難しくなり、やはり体力の
限界を感じるようになりました。これからは、6月再び竜門寺の法戦式に行くまで、
旅行はありません。また落ち着いた静かな生活に戻ります。