diary(建築家のひとりごと) TOPに戻る

このページでは私が日々想うこと感じたことを、不定期に独断と偏見でまとまりなく綴っていきます。これを読んで何か感じた人、ひとこと言っておかなければと思った方は気軽にメールください。

■これ以降は、こちら!!→おかむらの日記「rat’s eyes」をご覧下さい。

2005年
No.32■1/31(月):マクロとミクロ、あるいは構想力と実行力new!!
2004年
No.31■9/6(月):住宅の設計はクライアントと建築家のクリエイティブな協働行為である
No.30■6/8(火):仕事をより有意義に進めるためのリングをつくる
No.29■3/24(水):ワークショップにおもうこと
No.28■2/26(木):ネットワーク再考
No.27■1/31(土):朝風呂
No.26■1/13(火):年頭に想うこと
2003年
No.25■11/28(金):「でもネエ」さんと「そもニイ」さん
No.24■11/18(火):「相性」と「住宅」の関係
No.23■10/6(月):ものをつくるということ
No.22■9/25(木):思考と議論の膠着状態から抜け出す方法
No.21■8/7(土):ミニミニスパイラル
No.20■8/2(土):まちの記憶を残すこと
No.19■7/17(木):プライバシー再考
No.18■7/1(火):オープンにすること
No.17■6/18(水):「なとり」と「ジョッキ」のこと
No.16■6/10(火):「しくみ」のこと、「境界」のこと
No.15■6/4(水):理念を共有すること
No.14■5/28(水):自由に生きること、それは選んで決めることの連続
No.13■5/20(火):「DO-HOUSE」(ド・ハウス)という方法
No.12■5/20(火):「SU-HOUSE」(ス・ハウス)のこと
No.11■5/13(火):世の中の何かを変えたいなら、小さなことでも実行すること、そしてそれを持続すること
No.10■5/6(火):今、「社会学」が来ている!!
No.9■5/2(金):「J2 プロジェクト」
No.8■5/1(木):よ〜く考えると土地探しって不思議
No.7■4/28(月):クライアント・工務店・建築家の包み隠しのない関係がいい住宅をつくる
No.6■4/24(木):ものの価格って何だろう(人件費が価格?)
No.5■4/21(月):酒ビン1本でも「空間」は変わる
No.4■4/18(金):空間デザインのアイデアは午前3時に生まれる
No.3■4/17(木):4/15の日記で書いたレイヤーとは「空間」のことである
No.2■4/15(火):建築家の役割、それはもう一つのレイヤー(視点)与えること
No.1■4/14(月):最近の仕事

 

2005年

No.32■1/31(月):マクロとミクロ、あるいは構想力と実行力
去年後半の忙しさにかまけて、5ヶ月も空けてしまった。

そんな忙しさの中で、いつも考えることがあった。
忙しすぎると目の前のことを処理するだけで精一杯の状態になる。
目の前のことをそのときどきの判断で積み重ねていくだけだとどういうことになるか。
やればやるほど、どんどん大きな構想を忘れていく。
となると、これまたどんどんものごとを決めていく指針も失っていく。
こうなってきたらいろんなことに齟齬が生じてくる。
そしてトラブル発生率も大きくなる。

ミクロにことこまかに実行することも重要であるが、
マクロな構想なきところではいいものはできない。
またマクロにものごとを考えているだけでもこれまたものはできない。
ミクロとマクロを行ったり来たりしながら、
大きな方向性を保ちながら精緻に実行していくこと、
それが重要だ。

ミクロとマクロを、構想力と実行力と言い換えることもできる。
何のために何をどのようにするのかという大きな構想力を持ち、
同時にそれらを具体化するために緻密に計算し尽くされた実行力をもって
ものごとを確実につくりあげていくこと、それもおおらかなこころをもって・・・。

BACK

2004年

No.31■9/6(月):住宅の設計はクライアントと建築家のクリエイティブな協働行為である
まだ、ここに何も存在しない住まいのことを考えること、
これが住まいづくりの本質である。

アパートやマンションを借りようと思うとき、
ふつう何も意識しないで間取(プラン)を見て何気なく生活をイメージし、
その物件を借りるかどうかを決める。
このこと自体、実は大変クリエイティブな作業なのである。
まだ見ぬ部屋を、平面図という2次元図面から
頭の中で立体化してそこでの生活をイメージするのである。

一戸建ての住宅だとどうだろう。
土地探しからのかたは、その土地に生活することを想像し、
面積や周辺環境やアクセスなど様々なことをシミュレートした上で土地購入を決める。

だが、土地が見つかってそれで終わりではない。
ここからが建築家の出番だ。
最初に、クライアントの要望、周辺環境、敷地形状、法的規制といった
全体像をなさない「諸断片」が建築家の前に提示される。
それぞれの「断片」を「科学的」に分析することが最初に課せられる仕事だ。
そして、コンセプトというベクトルを設定して「諸断片」を建築にまとめていくのだ。

それらのことを集中的に考えまとめていくのが
基本設計といわれるステージである。
基本設計における平面図の持つ意味は大きい。
住宅ができてすぐにどのように生活するかはもちろん、家族同志の関係はどうか、
時間がたつとそれらがどのように変化していくかといった家族の社会学的側面をも
想定しなければならない。
それと同時に、機能的なこともないがしろにすることもできないし、
さらに快適な空間をつくらなければならない。
何もないところから、クライアントと建築家でプランを生み出し、
まだ見ぬ住宅を、2次元図面からまっさらな土地に立つ姿と内部空間をイメージしながら、
設計を進めていくのである。

平面図からこれからできるであろう建築を考えること、
これは難しいことばでいうと、
「断片」(平面図)を「積分」(実際の建築をイメージすること)することである。
部分から全体を考えることが「積分」ならば、
全体のもつある特性に注目してそこから抽出されたもの(部分)は「微分」されたものである。
人間の想像力はものすごく大雑把にいうとこの「積分」と「微分」によって成り立っている。

人は、部分から全体を考える「積分」作業は比較的容易に行うことができる。
鍛えるべき必要があるとすると「微分」する能力であろう。
「微分」によって見えてくるものとは何か、
建築家が敷地を見に行って、分析する作業がそれにあたる。
敷地の全体像をつかむことはもちろん必要だが、
その土地のもっている「抽象的」な特性を読み解き、導き出すことが「微分」作業である。

平面図(2次元図面)から模型(立体)をつくるという「積分」作業をしたならば、
模型から再度平面図を考えてみるという「微分」作業をすることで
特定の敷地に計画される、その住宅に必要とされる「強度」が見えてくる。
実は、この「強度」を持った抽象的な「しくみ」こそが、一般にいわれる「空間」というものである。

このように、クライアントと建築家は力を合わせて、
「積分」・「微分」作業を共にこなしながら、理想の住まいをつくりあげていくのだ。

まだまだある。
建築家と住まいづくりをするとき、
予算についてもクリエイティブに処理していかなければならない。
経験的にある程度の想定は可能だが、
所在地や敷地特性によって予算が大きく左右されることもあり、
基本的には、すべての図面を仕上げてその図面をもとに工務店さんが正確な見積をしないと
正確な予算を把握することができないというのが実情である。
となると、予算内に収まらないものは優先順位を設定して選択していかなければならない。
ここでもクライアントと建築家は協力してたくましい想像力をフル稼働させなければならない。

このように住宅はクライアントと建築家の
イマジネーションによってつくられる。
だから建築は面白い。

BACK

No.30■6/8(火):仕事をより有意義に進めるためのリングつくる
20代、30代のころは、しょっちゅう仕事がスムースに進まず、
トラブルがトラブルを呼び続けるという苦しい時期があった。

それは、頼まれてもいない仕事を無理やり仕事にしてしまうことや、
自分のやりたいことを優先するがゆえにクライアントに対して
そんなつもりがなくても結果としてウソを付いてしまうことが原因だった。

最近の仕事は、基本的にクライアントの方が私の事務所を選択していただいた上で、
お願いされて仕事をするという恵まれた環境にある。
そのため、先のトラブルはほとんどなくなった。

それにも関わらず、建築をつくっていく上で、いっしょに考え共につくりあげていくという
共通認識がお互い構築できずいろいろなことですれ違ってしまうことが稀にある。

こういうことをもっと顕著に感じるのは、建築の設計以外で、
新しい活動を始め、グループでなにかをいっしょに構築していくときである。
原因は、参加者の共通認識が確立されていないことによる。

では、共通認識とは何か。
仮に、極端な例を上げてみよう。
国籍も年齢も経歴も全く違う人が5人集まって何かを始めようとする。
それぞれの参加者がお互いの生い立ちを理解しあうことももちろん必要だ。
だが、そこでのコミュニケーションでもっとも重要なのは、
「だれが、何のために、何を、どのように、いつまでにやるか」というきわめてシンプルなことではないか。
これこそ共有すべき
「理念」(リング)ではないだろうか。
重要なのは、メンバー相互の関係というより、何をやろうとしているかというベクトルなのだ。
そのことさえしっかり確認が出来れば、参加者各自が実現に向けてそれぞれ方法を考え、
それぞれが提案した詳細をお互い対話しながら理解し合えるのではないか。

何かを人といっしょにやるときに重要なのは、
その場でいかにリラックスしてクリエイティブな意見交換が出来るかである。
これは、先の「理念」の共有があって初めて成り立つ。
その場を構成する人々それぞれがこのことを理解していなければ発展的な展開はない。

建築の設計の場合でも、
クライアントと建築家はお互いの共有すべき「理念」を確認しながら、
それぞれが考える地平を共有することによって初めて、
クリエイティブな議論が楽しくリラックスしたかたちで展開できる。
また、これによって、こまごましたディテール、器具選び、仕上げ材の決定まで、
萎縮することなく、よりよい方向にもっていくことができるのではないか。

これは、ある種の能力を持った人にしか出来ないとか、
メンバーには誠実な人のみ集めなければならないとか、
また、偶然に頼るしかないということではなく、
それは、テクニックというか、ひとつの技術ではないか。
その技術の基本を見出し、どのように使っていけばよいか、
日々考えながら仕事をしている。

問題は、
「だれが、何のために、何を、どのように、いつまでにやるか」という「理念」(リング)
いかに共有できるかだ。

BACK

No.29■3/24(水):ワークショップにおもうこと
先日、とあるまちづくりワークショップにパネラーとして参加する機会があった。
毎度毎度ワークショップに参加しておもうことがある。
ある種の違和感である。
数時間で参加者の意見がまとまることを前提にしていることがどうも腑に落ちない。
まとまらなくってもいいじゃないという気持ちをいつもいだく。
おそらく、まとまらなければいけない理由があるからまとめているのだろう。

それはわからないでもない、でもそれでいいのか。
参加者ひとりひとりのスタンスが違うということや対立を通り抜けて、共通性のみを拾い出していくという作業。
たしかに意義がないことはないと思う。
だが、ほんとうにそのことが問題解決に向かっているかというところに疑問を感じる。

建築の設計、とくに住宅の設計をしているといつもおもうことがある。
クライアントと建築家の関係は、住民と行政(そして専門家)に置き換えて考えることができるのではないかと。
住宅では、未整理のクライアントのおもいを建築家が対話することによって、見つけ引き出しかたちにしていく。
住宅をつくるということの目標は、クライアントが末永く快適に豊かに安心して過ごせる住まいをつくることだ。
クライアントも建築家も同じ方向を向いている。
よりよいものをつくるためにクライアントと建築家、そして工務店が話し合い知恵を絞る。
議論ではなく、対話により住まいをつくっているのだ。
住民と行政(そして専門家)が向かっている方向もよりよいまちをつくりたいという方向は同じはずだ。
よりよいまちをつくるための対話の場、それが本来のワークショップの場ではないのだろうか。
具体的にどのようにワークショップを運営し、しくみをつくっていけばよいかはまだわからない。
試行錯誤中である。

この国には、馴れ合いと対立と議論の場はたしかにある。
だが、対話の場はない、対話の伝統がないのだ。
少なくとも対話ができる場を意識してつくっていくことをこころがけたいと思っている。

BACK

No.28■2/26(木):ネットワーク再考
最近ネットワーク的活動に関わることが多い。
上位のだれかが下位のだれかに指示を出すという
ヒエラルキーのある関係ではなく、対等なフラットな関係。

旧来のヒエラルキーのある関係の場合、それぞれの持ち場がはっきりしていて、
他人の受け持つ領域には無関心でもシステムは問題なく作動していた。
しかし、ネットワーク的活動ではそうはいかない。

自立した個人の集合が前提であるだけではなく、
個人的な立ち位置を明確にすると同時に全体を見る。
さらに、自分の領域のことをやるのは当然で、
他人の領域をも侵食する。
この集合の重なりの集積がネットワークを成り立たせるのだ。

2/21(土)のU-23のサッカー日韓戦、
橋本の住宅の見学会と重なったため、ライブでは見ることはできなかったが、
スタッフから録画ビデオを借りて昨夜観てみた。
その前のオマーン戦のこともあって久々にすっきりする試合だった。

なぜ、すっきりしたのか、おもしろかったか、よ〜くかんがえてみた。
日本チームにネットワーク的関係が確実に存在していたからだ。
闘莉王の積極的な攻撃参加、田中のドリブルでのかき回し、
松井のオーバーラップ、石川のピンポイントパス、
そして平山の全体を見回してのクレバーなポジショニング。

どの時点でも、点が入りそうなワクワクした感じ。
サッカー観戦の醍醐味はこれに尽きる。

個人の能力と全体をリンクさせること。
自分の領域に閉じこもることなく、全体を見回し積極的に他人の領域に切れ込む、
この集積がネットワーク的関係を生み、より楽しく豊かな関係を築いていくことにつながる。

BACK

No.27■1/31(土):朝風呂
ここ1・2年風呂は朝に入る習慣が定着してきた。
夜は、ビール(正確には発泡酒)と仕上げに焼酎や泡盛を飲むと
早い時間にすぐにゴートゥベッド。
だから風呂は朝入るしかなくなったというのがほんとの理由。

朝まだ暗い5時から6時の間にひとり静かに布団から出て、
お湯をため、ゆっくり風呂につかる。
入っているうちに空が白み始める。
そのうち風呂が東側を向いているため朝日が射してくる。
この瞬間が何とも言えずいい。

夢を祓い、夜を禊ぐ。
その瞬間、様々なことが頭を巡る。

いま朝風呂がわたくしのクリエイティブを生む貴重な時間となっている。
その反面、夜子供を風呂に入れてくれない
という妻の不平不満も同時に受けている。

BACK

No.26■1/13(火):年頭に想うこと
いつもは年頭だからといって改まることはあまりなかった。
でも今年はちょいと違う。
いろいろなチャンスが訪れようとしている。

ミクロからマクロを変える。

小さなことでも構想を持ちながらひとつひとつ実現していく。
そのひとつひとつが構想のかたちを明確にしていく。
こんな一年にしたい。

ひとつひとつの住宅。
ひとつひとつの建築。
そして「快住計画」。

ピンチはチャンスだとよく言われる。
その逆もありだから気をつけなければならない。
慎重にかつ大胆な行動を!!

BACK

2003年

No.25■11/28(金):「でもネエ」さんと「そもニイ」さん
ワークショップなどの集まりに参加すると、話を進めていく上で、
毎度行く手に立ちはだかる人々がいる。
それが、
「でもネエ」さんと「そもニイ」さんである。
勢いを堰き止める人々を分類していくとここに行き着いた。

「でもネエ」さんは、文字通り「でもネエ〜」の枕詞で話し始める人のこと。
いろいろな経験があることを前提に、「私はこれだけのことをやってきて、
その経験によると、こういうことについて議論して始めなきゃダメなんだよ。」とのたまう。
しかし、その先がない。リスクを絶対負わない。情熱がない。意思がない。実行力がない。
結局、場の方向性を乱し、皆のやる気を消滅させる。

「そもニイ」さんは、「そもそもネ。」ということばで発言をするタイプの人のこと。
「そもそも」から始まって、「このプロジェクトには皆が共有する理念がないんだよ。」とのたまう。
確かにもっともだと思うが、「共有する理念を確認しよう。」と毎度おっしゃるだけ。
本人は共有すべき理念を構築しようとする意思はないようだ。
結局、議論の前進を停滞させる。また、皆のやる気を根こそぎ削ぐ。

私がここで言いたいのは、
「でもネエ」さんと「そもニイ」さんを非難することではない。
それぞれの人の内なる
「でもネエ」さんと「そもニイ」さんについて考えて欲しいということだ。
今まで、うまくいかなかった集まりのことを思い出して欲しい。
そこには、目に見えるまたは目には見えないが人々の心の中に、
「でもネエ」さんと「そもニイ」さんがいたはずだ。

どうせ時間と労力を注ぎ込んで何かやるのなら、
よりよい方向に具体的に向かい、
目に見える成果を、
できれば楽しく、
つくりあげていきたいものだ。

BACK

No.24■11/18(火):「相性」と「住宅」の関係
住宅の設計を数多く手掛けていると、
「相性」がものづくりの質を大きく左右していることに気づく。

一般に、ものごと、特に仕事を進めていく上では「相性」は潤滑油程度にしか認識されていない。
数値や実績などの客観的な観点が、仕事を進めていくことの決定要因になる場合は、
「相性」は、重要視されることはない。
建築の仕事で言えば、事業としての建築計画、客観的な判断で決定される公共建築はそれに当たる。

住宅となるとそう簡単にはいかない。
客観的な判断で決められることも数多くあるが、
住まい手自身がどう考えるかが重要な決定要因になる。
一見、「相性」と言うと、曖昧模糊なもののように受け取られる。
しかし、今までの経験を振り返ってみると、決してそうとも限らないようだ。

「相性」とよばれているものは、一般に人と人の性格が合うということだ。
しかし、住まいづくりにおいてはそれだけではない。
クライアントにどう住まいたいかという大きな構想があるかどうか、
それに向けて腹を括られているかどうか、が大きく左右してくる。
さらには、それを建築家が理解し共有できるか、
工務店も同時にそれらの構想をともにし、実行していくことが重要になってくる。

単に人と人の性格が合うことも重要なことだが、
クライアント・建築家・工務店が、理念と構想を共有し実現できる関係を持てるかが、
「住宅」における本当の意味での「相性」というものだと思う。

BACK

No.23■10/6(月):ものをつくるということ
古来より、ものをつくる人は尊敬の対象だった。
なにもないところから出来上がるものを想像してそれを現実のものにする。
これは非常に特殊な才能で、その様を見たふつうの人々は畏敬の念を抱いたことだろう。
土器をひねり出す人、衣服を織り縫いだす人、建物を構想しつくりあげる人、
これらの人は、特別な人として処遇されていた。
中でも、建物を構想しつくりあげる人、棟梁と呼ばれる人は、
大きな建物を構想し、多くの人々をまとめて完成させていく。
もっとも尊敬を集めた人だと想像される。

現在は、建築も分業化されて仕事の内容が見えなくなっているが、
近くで見ているとやはり大工さんはすごい。
木造の場合、ある意味、現場監督さんより、関係者をまとめ様々な調整をしている。
そして建築家が意図するものを想像してものに落としていく。

建築関係でものをつくる人には、大工さんの他には、現場監督、建築家がいる。
いわば住まいづくりは、ものづくりの現場である。
関係者がクリエイティブな人たちの集まりであればあるほど、
現場は楽しく、エキサイティングな場となっていく。

忘れてはならないのは、クライアントの方も、ものづくりの参加者であるということ。
クライアント、現場監督さん、大工さん、建築家がものづくりの楽しみを
共有し協働することができたら、ビジネスライクにつくりあげるられる住宅より
きっとすてきな住まいを実現できるだろう。
そんな仕事を続けていきたい。

BACK

No.22■9/25(木):思考と議論の膠着状態から抜け出す方法
思考と議論は、ふとしたきっかけで膠着状態に陥る。
大体が、様々なレベルの「ミニミニスパイラル」(
No.21■8/7:ミニミニスパイラル参照)の
集積の結果であるが、
膠着状態Aは、新たな次元の異なる膠着状態Bを生み出し、
永久膠着状態に移行する。
ミニミニスパイラルAも、新たな次元の異なるミニミニスパイラルBを生み出し、
ミニミニスパイラル同士のミニミニスパイラルを生じ、
永久ミニミニスパイラル化していく。

永久膠着状態も、永久ミニミニスパイラルも
思考・議論の新たな展開は望めない。
こうなってしまったら、思考も議論も停止した方がよい。

もし、それらを停止しないで次の段階に移行させるためには何をすればよいのか。
それはパラダイムの転換しかない、それもドラスティックなパラダイム転換。

ある種の才能をもった人材が必要になる。
歴史的にそれを担ってきたのは、「トリックスター」と呼ばれる人たちだった。
突然、脈絡からずれた言動をしても許される人が、
戦略的にパラダイムを転移させる発言をすること。
個人的な思考の場合、自分の中に「トリックスター」的な人格をつくりあげるればいい。
思考・会議が膠着状態に陥ったら、戦略的に笑えるバカな話をして
パラダイムのドラスティックな転換をして、膠着状態から抜け出そう!、ということか。

BACK

No.21■8/7(土):ミニミニスパイラル
打ち合わせ、会議、ワークショップなどの集まりに参加すると
いつも感じることがある。
「さてここでの議論はどこに向かおうとしているのか?」
「なんのための集まりだったっけ?」
といったようなことだ。

全く関係ないわけではないが、
マクロな視点を忘れて、ミクロな迷宮に入り込んでしまう議論。
ミクロな視点は重要だが、構想なきところには結実はない。
そのような議論の展開を、自戒も込めて、私は「ミニミニスパイラル」と呼んでいる。

常に、大きな構想に立ち返りながら、いま何が実行可能かを考えることが必要だ。
一方、マクロな議論だけでも不毛だ。発言者に責任が生じないからだ。
マクロな構想に基づくミクロな責任ある思考・行動こそが重要なのだ。

「ミニミニスパイラル」に陥ることなく、
構想に向けて、いまどうすればその構想に近づけるかを考えること、
いま具体的にできることをこつこつ実行しつづけること。
そういった思考・行動が、いまの世の中で最も必要なことのように
思えてならない。

BACK

No.20■8/2(土):まちの記憶を残すこと
ヨーロッパでは、都市のことをしばしば「織物」と表現される。
様々な時代の面影を残すものが散りばめられながら、
歴史の織物のように織り込まれているという考え方だ。

一般に、宅地が販売される場合、敷地に存在していたすべてのものを
消し去って、更地渡しというのが通常の不動産売買のありかただ。

日本のまちにも、人々がなじみ親しんだものがある。
何十年もまちを見守ってきた大木、歴史を刻み込んだ大谷石の塀、
ゴロタ石でつくられた擁壁、などなど・・・・・。

こういった歴史を刻んできたものを込みで土地を売るという方法は
ないのだろうか。

高度経済成長の再来を望めない今日、
歴史・時間・記憶といった一見マイナス思考のように見えることを再度見直し、
ここしかないなものを生み出すような内的な豊かさについて考え始めても
いいのではないだろうか。

BACK

No.19■7/17(木):プライバシー再考
近頃、ご近所を見回すと、中が全くみえない万年塀から
スケスケのネットフェンスに取り替えるお宅がちらほら見られる。

中が見えない万年塀だと泥棒がいったん中に入ってしまうと、
外から窺い知ることはできず、そのようなお宅をねらって空き巣に入る。
それが大きな理由らしい。
プライバシーより安全を優先する方が増えてきたのだろうか。

これまでご近所の問題から個人情報まで、プライバシー!プライバシー!と
声高に叫ばれてきたが、勝手が少しずつ変わってきたようだ。

そこで、もう一度プライバシーとはなにかについて
考え直してみる必要があるのではないかと考えるようになった。

一般に、プライバシーとは個人的なこととして外部にさらされたくないもの、
隠したいものといっても差し支えないだろう。
それでは、私自身の隠したいものとはなにかについて考えてみる。
隠したいもののリストはつぎのものに大きく分類される。

●1)思考:頭の中にあるもの。
●2)行為:いろいろなところで繰り広げられる人の振る舞い。
●3)社会的位置付け:職業や社会的な権力
●4)もの:高価なものや土地、そしてお金。

まず、1)について。
基本的に頭の中で思考していることは、人にさらされたくない。
強いていえば、ちょっと恥ずかしいHな夢想などはできれば知られたくない。
まあ、やましい考えはだれもが隠したいと思うだろう。
それにもましてもっともさらされるのが嫌なのは、自分という個人の尊厳に関わる部分だろう。

つぎに、2)について。
人には様々な趣味・嗜好があるが、自分のイメージにそぐわない行為はやはり隠したい。
また、変な趣味がない限り、セクシュアルな行為も内密にしておきたい。

つぎに、3)について
自分の職業にについては、人に知られたくないという人は少ないのではないだろうか。
社会的権力をもつ職業、他に比べて高額なお給料をもらっている人の中で、
なんらかのやましさを感じている人は隠したがる傾向があるような気がする。

最後に、4)について。
お金持ちは、大抵持っている資産については隠したがる。
これはただ妬まれるのが嫌だからだろうか。
やましいもの・やましいお金・やましい土地だったら、
余計にプライバシーを声高に訴え隠したくなるようだ。

●総じて、隠したいものの中核は、なんといっても個人の尊厳に関わるものだろう。
セクシュアルな夢想・行為も、どちらかといえばその中に入るものかもしれない。
よっぽどやましいことがない限り、隠さなければならないものはほんの少ししかないことがわかる。

プライバシーも、実は、いつも言っている「境界」の問題である。
個人と他人、家族と社会、の間の「境界」である。
その「境界」が少しずつブレはじめているのだ。
もう少しこの関係をラフにするといろいろな可能性が見えてくるような気がする。

BACK

No.18■7/1(火):オープンにすること
身の回りを振り返っても、世の中には不透明なことが多い。

かくしごとがあると、それをかくすためにまたかくしごとをしなければならない。
さらにかくしごとを・・・とへたをすると何重にもひとをあざむかねばならなくなる。
虚しいことだといつもおもっていた。
だれかが、かくしごとなく、オープンにしてそのかくしごとをあばくとすべてががたがたと崩れてしまう。
だからなかなか見通しのよい世の中にならない。
なかでもいわゆる「人件費」は、かくしごとの迷宮におしやられることが多い。

でも勇気をもってだれかがやらないと、なにも変化は起きない。

前にも書いたことがあるが、建築設計事務所の報酬はほとんど人件費である。
建設業界の中では唯一といっていいほどインディペンデントな存在だ。
こうなったら、設計事務所がやるしかないだろうと数年前から腹を括っている。
まず最初にできることは、工務店さんの見積もりにおいて、
下職さんに諸経費を含ませないで出してもらうことだった。
しかし、下職さんまではなかなか材工分離をしてもらうのはかなりの困難を伴う。
それでも、あせらずこの精神を浸透させていこうと考えている。

こうしたことを地道にやっていると見えてくること、
それは現場監督さんがほとんど人件費の人であるということ、
さらに職人さんたちも、ものを加工する職能をもった人件費の人であることがわかってくる。

今、仕事がたくさんある建築関係者の特徴は、
不透明なものをなるべくなくし、オープンにしているということだ。
一つずつクリアにしていくことで、
各担当者がどういう責任を負って仕事をしているかがだんだん見えてくる。
個のやるべきことと責任が明確になるということは、
関係者がクリアな関係で仕事をスムースにできることを意味する。
だから、こうした会社は伸びているのだ。

最近はこんなことを考えている。
たとえば、土地の取引で買主を紹介すると、紹介料という不透明なお金が動く。
もちろん紹介するにあたっての労力も必要だ。
それはそれでコーディネート料として明記した上でいただき、あまったお金を買主に返す。
こうしたかたちで、不透明なお金を人件費として明示することでクリアにしていく。
つまり、現行のしくみの中に入り込み、内側から不透明なものの矛盾を暴いていく。
こうした戦いを根気強く続けていくこと、
これがものごとをオープンにしていくための、もっとも近い道に思える。

BACK

No.17■6/18(水):「なとり」と「ジョッキ」のこと
久しぶりにやわらかい話題で・・・。

表題で、ピンときた人は、コンビニのなかでもかなりのおつまみフリークである。
コンビニでビールのおつまみに乾き物を買うと大抵どちらかのメーカーの品物であることに、あるとき気づいた。
そう、おつまみ業界の2大メーカーである。(私が勝手に決め付けているだけなのかもしれない。)

もう、10年前くらいのことになるだろうか、
そのころは、「なとり」が超メジャーで、「ジョッキ」はかなり引き離された2番手だった。
そうこうしている間に、「ジョッキ」は新展開に出た。
たとえば、するめをからしで辛くした「辛口するめ」のようアレンジした商品、
サラミソーセージの大きさを少し小さくしたようなサイズを変化させた商品で
客の目をひきつけ、それにおいしいこともあって一時期「なとり」を追い越した。
コンビニの商品配列で勝ち負けの状況ははっきりわかるのだ。

ここ3年くらいであろうか、「なとり」も「ジョッキ」の商品アレンジ手法を取り入れ
両社、今では拮抗し一進一退の状況である。
無名のメーカーもさまざまな工夫を凝らして新規参入を狙っている。
その効用で乾き物おつまみの質もかなり向上した。
いいことだ。

このような視点で、コンビニの棚を見ると興味深いことがわかる。
どの商品でも2大メーカーがあって各社しのぎを削っており、
同じように無名のメーカーが後に続いている。
小さなスペースでいつでも気軽に便利に買い物ができるというコンビニという
「しくみ」のなかで
各社メーカーがそこでの領土拡大を目指して
「境界」を日々更新しつづけているのだ。

BACK

No.16■6/10(火):「しくみ」のこと、「境界」のこと
世の中のことをいろいろ考えていると、「しくみ」と「境界」というキーワードに行き着く。

「しくみ」についてはことあるごとに言及してきたが、
いよいよ「しくみ」を前面に出して思考し対話することの必要性を感じている。
情報革命以降、それ以前の産業革命に対応した古い「しくみ」が機能しなくなっている。
かなり深刻な状況になっており、末期的である。
鋭い人たちは、1995年くらいからすでに警告を発していた。
現実に対応しなくなった無配慮に信仰されている古い「しくみ」をあぶりだして、
今に対応した新しい「しくみ」を構築すること、これが今の社会の閉塞感を打開する唯一の方法である。

もうひとつのキーワード「境界」も、「しくみ」と緊密にリンクしていることばである。
ものや場所の、所有形態と使用形態は、私有・共有/私用・共用に分類される。
一般的には、私有しているもの(個人で所有しているもの)は、私用される(個人で使われる)。
また、共有しているもの(みんなで所有する公共物)は、共用される(みんなで使われる)。
これらのFIXされた関係をすこしずらすことで新しい関係が生まれる。
たとえば、お隣同士で塀を無くして視覚的に空間を共用しあってみる。
道路側にある塀を無くしてまちにひろがりをつくり、まちの人に視覚的に空間を開放する。
これらの行為は、私有しているものを共用することである。
大きなお金を使うことなく、みんなのため自分のための空間を生み出すことができる。
莫大なお金を投資しないでよりよい空間をつくることができる方法、
それは、私有・共有/私用・共用の関係をずらし、「境界」にブレを生じさせることにある。
これは新しい「しくみ」をつくることと同義でもある。

世界情勢も、「しくみ」と「境界」で読み解くといろんなことが見えてくる、試してみられるとよい。
とりあえず、私は、この手法で「快住計画」に取り組んでいこう。

BACK

No.15■6/4(水):理念を共有すること
また、難しい題目をつけてしまった。
複数の人たちとなにか新しいことを始めようとするときのこと。
みんなでこれから何をしようとしているのか、それはどのような根本思想に基づいているのか、
その集まりの理念を相互に理解し共有することができないと、
大抵途中で空中分解するか、消滅してしまう。
私の少ない経験にもこのことはほとんどの事例に当てはまる。

なにか新しいことをする、新しいネットワークをつくろうというとき、
理念の共有なきところにネットワークは生まれない。
ネットワーク的に活動するときにもとめられるものは、
参加者すべてが共通理念に基づき、自分の責任のもとで決定し実行する意思を持ちつづけることだ。
それらの行為が集積することでネットワーク的な活動が可能になる。
そのときに共通の理念、OSをすべての参加者が理解していないと
それぞれの参加者(ソフトウェア)は機能しない。
ネットワーク的活動に求められるものは、理念を共有し、
自分の責任のもとに具体的に小さなことをこつこつ実行し続けること、これに尽きる。

実は、住まいづくりにも同じことがいえる。
まず、クライアントのご家族がどのような住まいを望まれるのかという共通の理念をもつこと。
また、具体的にかたちにしていく中で、クライアント・工務店・建築家が同じように理念を共有すること。
これがぶれることなく、実行に移せたら確実にいい家になる。
複数の人がなにかを協働するには、理念を共有することが不可欠だ。

BACK

No.14■5/28(水):自由に生きること、それは選んで決めることの連続
常々、建築の中でも特に住宅はクライアントがつくるものと考えている。
建築家はその想いを現実化するのがその仕事だ。
もちろん、建築家側からの提案もある、それもクライアントの想いに一致するものでなければならない。
オリジナリティーとはなにかと問われれば、
クライアントの想いを現実化して、かたちに変換していく「妙」だと答える。

われわれのような設計事務所に設計を依頼される方は従来の工務店・住宅メーカーにはない、
なにかそれらと違うものを求めていらっしゃることが多い。
その時点で、数ある依頼先の中から設計事務所を選ばれているのだから、
すでに選択作業は行われている。
設計が進み建築が進むにつれ、選択し決定することは、より多くよりシビアになる。
クライアントが住まいをつくるということは、多くを自身が選び決める必要がある。
でも、彼の行為は自由を行使しているということと等しい。
選ぶこと決めることは、自由を行使するための基本的な手段である。

一般に、世の中の人は住まいをつくるのに設計事務所に依頼するという方法があることすら知らない。
まずは、選択肢が数多くあることを知ることが、自由を選択することの初めの一歩である。

思い起こせば、自分の人生でも同じことが言える。
自分のやりたい仕事をしたいと思った。
どういう仕事があるかを調べた。
どこで学べばいいか、何をすればいいか考えた。
そして、建築の設計の仕事をしている。
それで終わりでなく、どんな仕事をすればいいか、
どんな空間を生み出していけばいいかを考えつづけている。
悩みは絶えない、ずっとこれからも悩みつづけるだろう。
自由に生きること、それは選んで決めることの連続なのだ。
もちろん、自由に生きることの裏には選び決めた責任は自分にあることを忘れてはいけない。

BACK

No.13■5/20(火):DO-HOUSE」(ド・ハウス)という方法
今、「SU-HOUSE」シリーズの
「ド」を超えた数戸の住宅の設計に取り組んでいる。
「SU-HOUSE」シリーズの感覚で設計していてもご要望に沿えない住宅だ。
それらの住宅を
DO-HOUSE」(ド・ハウス)と名付けることにした。
もちろん、「SU-HOUSE」同様、構造・基本性能はしっかり確保した住宅ではあるが、
仕上げ材料はもうこれしかない、
「ドヤッ!!」といった住宅である。

「SU-HOUSE」シリーズでは、材料も2〜3種類の中から選択できる余地はあった。
DO-HOUSE」では、それができない、よって一般的な住宅用の建材以外から材料を探してくる。
例えば、工場の外壁に使われるスレート小波板、内装用の桐パネル・・・等々。
住宅用建材ではないからよくないということはない。
基本性能は決して悪くない。
問題は、空間・材料の組み合わせである、それ次第でクオリティーの高いものはつくれる。
しっかりした「構造」といったときに、「強度としての構造」と「空間としての構造」という二つの考え方がある。
「SU-HOUSE」、
DO-HOUSE」ともにその二つの構造は十分満足しているのだ。

トイレ、バスタブ、キッチン等設備機器は、クライアントに建材アウトレットショップで購入していただく。
クライアントにご足労いただくばかりか、納品のタイミング・施工の困難さといった工務店にかける苦労も多い。
もちろんわれわれ設計者もその製品を購入していただいたほうがいいかという判断やコーディネートに
多大の時間と労力を使う。
クライアント・工務店・設計事務所の信頼関係がないととてもできない仕事だ。

DO-HOUSE」(ド・ハウス)は、クライアント・工務店・設計事務所の三者が
積極的にものづくりに参加
DOドウ)する、すまいづくりの方法である。

DO-HOUSE 1」は、5/2に着工した。
7/20完成を目指して工事が進んでいる。

BACK

No.12■5/20(火):SU-HOUSE」(ス・ハウス)のこと
「SU-HOUSE」のことをおさらいしておきます。
「素ハウス」と書きます。
「素うどん」、そう!!讃岐うどんをイメージしてみてください。
麺とつゆだけのシンプルな食べ物なのにおいしいものはなぜかとてもおいしい。

「SU-HOUSE」は、空間的な豊かさ・頑強な構造・高い断熱性能といった
住宅の基本的な性能は十分満足させ、
間仕切り壁・建具や設備など省けるものはなるべく最小限に抑えた、
なにも余分なものがない「素」のままの箱型住宅です。

住み手が生活していく中で、自ら手を入れることで進化していく住まいです。
「具」は自分で時間をかけて足していけばいいのです。

今後、この「SU-HOUSE」シリーズは、私の作品の中でサブテーマをつけながら
様々に展開していく予定です。

BACK

No.11■5/13(火):世の中の何かを変えたいなら、小さなことでも実行すること、そしてそれを持続すること
今、私が建築の設計を生業としているのには、いくら儲からなくても、
どんなに条件が厳しい建築でも、自分の表現とリンクする仕事を一つ一つこなしてきたこと、
それも10数年に渡って持続してきたことにあるような気がする。
学生時代、私がライバル視していた優秀な人は私の学校にも何人もいた。
その中の数人は確かに建築家として活躍している。
その他の人たちはといえば、しっかり仕事をしていらっしゃるからなにも申し上げることはないが、
建築の設計デザインに真正面から無骨に取り組んでいる人は少ない。
それが良い悪いの話ではない。
自分のやりたいことを続けていくことは思ったより大変だということだ。
大変というより、不器用な人しかできない事というべきことかも知れない。
実際、大学の建築学科を卒業する100人程度の卒業生のなかで、
いわゆる建築家になるのは、どこの大学でも、1〜3人というのが平均的な人数だろう。

今、うちの事務所を中心に進めている「快住計画」も同じような状況にある。
アイデア、コンセプトは多くの方に賛同を得ている。
でも、実行されなければなんの発展もない。
意思を持続し、小さなことでも実行することが求められている。
「快住計画」は、建築設計に携わるものが世の中のためになることを
なにかできないかというところからスタートしている。
コーポラティブ的な戸建て集合住宅を企画設計するのが「快住計画」だが、
ミニ開発で日々増産される俗悪な建売住宅を改変すべく、まちとの関係をもたせ、
小さいけれど快適な住空間をつくっていくことを目的としている。
その先は、まちづくりへ、世の中のしくみへと言及していくことを目論んでいる。
やはり、
世の中の何かを変えたいなら、小さなことでも実行すること、そしてそれを持続することに落ち着く。

BACK

No.10■5/6(火):今、「社会学」が来ている!!
私の記憶が正しければ、私の大学の1・2年の教養科目には、経営学、哲学、法学、社会学の4科目があった。
私は、哲学と法学を選択した。
経営学は、経営することなんて学んでもおもしろくないと思ったし、
社会学は、何を対象としているかさっぱりわからなかったし、
データを解析して社会を読み解くというのもつまらないなと思ってとらなかった。

ところが、ここのところ俄然、社会学がおもしろい。
社会全体を対象としているだけあって、なんでもありという学問らしい。
何をやっているか分からなかったはずだ。
領域を越境してくる社会学者が増えてきたことが、社会学をおもしろくしている原因の一つだ。
とくに、上野千鶴子さん、宮台真司さんの言説は特に興味深い。
上野さんは、建築家の山本理顕さんと対談したり、彼の建築の社会学的調査も手掛けている。
宮台さんは、ご存知「ブルセラ」で有名だが、彼の政治論・憲法論はすこぶる興味深い。

なぜ、今、社会学か・・・。
社会学は、現実の今の社会に潜む構造を読み取り分析する学問である。
ここ、4〜5年、情報革命を基点に、さまざまな古いしくみが崩壊
またはその古い体質を露呈しはじめている。
しかし、「現実」は古いしくみを「規範」にしてしか機能しないもの。
(たとえば、nLDKという間取のシステム、
これは高度経済成長時代の家族の「規範」にもとづいてつくられたもの。
今の世の中に合うはずがない。)
これらの諸問題に最も敏感に反応しているのが社会学である。
そこには、現代社会の病理と現実が見える。
何かを変えようとするとき必要なのは、今の社会がどのようなしくみの上で動いており
どこにしくみと現実のズレがあるかを正確に認識することだ。
だからこそ、今、社会学が有効なのだ。

住宅から店舗、事務所、公共建築に至るまで、建築は常に社会学的存在だ。
変化しつつある社会を敏感に捉え建築に反映していくことが今必要とされている。
現に、何か新しいことを建築で展開しようとするとき常に社会学的な問題にぶち当たる。
もっともっと、社会学者と建築家のコラボレーションがあってもいいと思う。
今こそ、様々な領域のものが他領域を侵犯しあって新しいしくみを見つけることが必要なのだ。

BACK

No.9■5/2(金):J2 プロジェクト」
スタッフYが、去年ぐらいから騒いでいる幻のプロジェクト
「J2 プロジェクト」
正式名称は、「実家(
ikka)の二階(2)へ帰ろうプロジェクト」という。
サッカーのJ1・J2にかけているのだ。
どういうことかといえば、みなさんも実家2階の勉強部屋の末路を
思い浮かべていただきたい。
たいていが納戸状態というのが、かなりのパーセンテージを占めるのではないかと想像される。
その実家の2階でSOHOを始めたらどうかというプロジェクトだ。
どうせ空いているスペースだし、初期投資は押えられるし、
余分なエネルギーを使わないで、知的生産を増やしていくというこれからの日本の姿にも重なるものがある。
アイデア次第ではおもしろい展開ができるような気がする。

話は変わるが、最近設計する住宅では、なるべく「子供室」という部屋をつくらないように薦めている。
どうせいなくなる子供なら、子供のいるスペースはリビングに隣接して配置し、
子供たちが巣立ったら、親たちがリビングを大きくつかい、自分たちの趣味のスペースとして使う。
みんながそうしているからという「規範」に従って「すまい」がつくられ過ぎているような気がしてならない。
そういえば、昔、どの家にも「応接間」という部屋があったことを思い出した。

BACK

No.8■5/1(木):よ〜く考えると土地探しって不思議
土地探しからクライアントの方とお付き合いする機会が結構ある。
恋愛みたいなもので、タイミングと運が大きく関係しているようだ。
いい不動産屋さんに出会えるかどうかも重要な要因だ。
土地は生き物のように流通していく。
土地を買う決断はほとんど博打に近い。
なのに、この先の家族の行方を、この土地にかけられるかを短期間に決めるという苦渋の決断を迫られる。
見ていてとても大変なことだと思う。
お手伝いしたくても、われわれ建築家は、建築可能なボリュームと、
空間的な可能性くらいしかアドバイスできない。
最後は、クライアントがまさに清水の舞台から飛び降りる決意で決断するしかない。

ふと、土地ってなんだろうと、引いた目で見てみると、その不思議さに気づく。
大昔、ヨーロッパ・中東あたりでは、王様がある地域を征服して領土を決めるときに、
地平線までの円形の見える範囲としたとの話がある。
測量技術が未熟だった時代にあっては、目に見える範囲を領土と定め
そこに入ってくる侵入者を排除する、とてもわかりやすい。
その王様がおさめる国の民たちは、その権力のもとに土地を分け与えられる。
その領土もまた違う王様に占領されたら、簡単にその土地は前の所有者のものでなくなる。
これは何を意味しているか。
軍事力・法制度・国家といった「お墨付き」によって保証されないかぎり、
土地を所有するという行為自体、成り立たないということではないか。
土地というものは不動産と称されたりするが、本当はこのように、安定しているようで危ういものなのだ。

そんなことをいっても、この国では土地を所有あるいは借りなければ建物は建てられない。
そして、土地探しはつづくのだ。

BACK

No.7■4/28(月):クライアント・工務店・建築家の包み隠しのない関係がいい住宅をつくる
去年あたりから、住宅が完成して見学会を開催させていただいたあと
クライアントと工務店の方と私の事務所のスタッフで小さなパーティーを開くことにしている。
そこでその3者がお互いに喜び合えたら、そのすまいづくりは成功だといえる。
いまのところ、その目標はほぼ達成されている。
(じつはパーティーを開くもうひとつの理由として、夜の照明の状態を再確認したいからということがある。)
極意などないが、すまいづくりに参加するひとたちがいかに包み隠しのない関係を
築き上げられるかが成功か否かを左右する。
ものづくりに参加するひとは文字通り生身の人間だ。
だれのためにどういうものをつくるか、その人のためにいいものをつくりたいと考えられるかが
残念ながらその出来に大きく左右してしまう。
みんなでよりいいものをつくろうと考えられる現場はどうころんでもうまくいってしまうものだ。
「ビフォーアフター」までいってしまうとちょっとウソくさいけど・・・。

BACK

No.6■4/24(木):ものの価格って何だろう(人件費が価格?)
昔、友人とものの価格って何だろうという話をしたことがある。
友人いわく、「鉄なんかの原材料は所有者もなくそのままある限りタダだよね。」
そういわれれば、確かに土地の所有が明確でなかった頃までさかのぼるとタダ?
もし原材料がタダならば何が価格をきめているのか。
鉄を何かに使いたいなら、まず「人の手で」掘り出さなければならない。
そしてさらに加工を加えたいならどこかに「人の手で」運ばなければならない。
鉄を使えるようにするには「人の手で」精錬して使いたいものに加工しなければいけない。
加工したものを売るには「人の手で」買い手を探さなければいけない。
これって、ものの価格って人件費だけで決まっているってこと?
そう、一見ものの価格はものの価値に拠っていると思われがちだが
じつは、人件費がものの価格を決めているのだ、建物だってそう。

BACK

No.5■4/21(月):酒ビン1本でも「空間」は変わる
土曜日は、先月竣工した千葉県白井市の「SU-HOUSE 5」me-no-jiのクライアントF氏の招待で
お宅でのパーティーに伺ってきた。
お招きいただいたのは、工務店の社長Sb氏、大工さんI氏、
実施設計と現場監理をお願いしたSd氏夫妻と友人のSs氏、そして私の6人である。
設計から完成までの思い出をそれぞれの方々の視点でうかがうことができた。
みなさん、楽しいひとときをありがとうございました。
それとFさん、さらりと使いこなしていただいているようでうれしいです。

酒の席でいつも思うことだが、酒ビンがテーブルの上に1本置かれることで、
それまでの空気が一気に和む。
酒ビン1本が、「空間」を変えるのだ。
ただ、私が酒飲みだからだろうか、おもしろいものだ。
最近、泡盛に凝っている、なかでも与那国産の「どなん」という酒は
ものすごくうまい。43度と度数は高いのに生でいける。
その日はパーティーのあと、工務店の社長Sb氏のお宅にまで伺い
そこでも一杯ご馳走になってしまった。
次の日は飲みすぎで、酒は私の「体調」も変えてしまった。

BACK

No.4■4/18(金):空間デザインのアイデアは午前3時に生まれる
既存のシステムにもう一つのシステムを組み込むといってもそう簡単にできることではない。
それぞれのシステムは相互に様々に矛盾する。
その中からわずかな一致点を見つけるのがデザイン作業だ。
デスクに向かっていても何もアイデアが生まれないこともある。
しかし、辛抱強く思考を持続していると、睡眠中うつろな頭の中で、
ふとまとまりを持って空間が立ち上がってくる。
それがなぜか決まって午前3時なのだ。
建築デザインの仕事って変な仕事だなといつも思う。

BACK

No.3■4/17(木):4/15の日記で書いたレイヤーとは「空間」のことである
建築家のつかうことばで、よくわからないといわれるのが「空間」ということばである。
何をして「空間」というのか、いっている本人も明確に説明できないことが多い。
それもそのはず、「空間」とは実態ではなく、「しくみ」のことなのだ。
あえて説明しようとすると、4/15の日記で書いた「もう一つのレイヤー」ということばで語ると見えてくる。
そう、機能システム(住宅では間取)や経済システム(いくらでできるか)という「規範」としてのシステムに
もう一つのシステム(レイヤー)を組み込むこと、それが「空間をデザインすること」である。
既存のシステムをより豊かにより快適にする「もう一つのシステム」、それが「空間」なのだ。

BACK

No.2■4/15(火):建築家の役割、それはもう一つのレイヤー(視点)与えること
通常、建築は、機能システム(住宅では間取)や経済システム(いくらでできるか)など、
の人々によって当たり前(規範)と思われているものをよりどころにつくられています。
建築家は、それらの当たり前の「規範」にプラスアルファーのレイヤー(視点)を組み込むことで、
より豊かなもの快適なものをつくりだします。
それは、街並みであったり、自然環境であったり、そこに住まう人々の関係であったりします。
それゆえに、建築家のデザイン作業は当たり前のことを疑うことからはじまります。
たとえば、境界塀ってなんのためにあるんだろう?とか、子供部屋って本当に必要なものなの?とか、
リビングって本当は何するところ?とか・・・などなど。
建築家は、いわば社会の「ぼのぼの」です。
(注)「ぼのぼの」はマンガの主人公のラッコのことです。
カイジュウスタッフ談義からの転用でした。

BACK

No.1■4/14(月):最近の仕事
最近、ローコスト住宅の設計がやたらと多い。
でも、何年か前のとにかく安い住宅を、というのとはちょいと様相が変わってきている。
建築業界の不明瞭なブラックボックスを忌み嫌い、
できる限りのことを白日の下にさらし納得したいというクライアントが増えてきた。
本当のものの価格もインターネットで調べればある程度のことが分かるようになったこともあって、
見積書もシビアにチェックされる。
その反対に、これまでの見積ではないがしろにされてきた人件費が、
人が頭を使いからだを動かすのだからかかるものはかかる、
この人が来ないと図面どおりのものができないということを理解していただけるようになったため、
明確に記載できるようになってきている。
今までと最も違うことは、予算が少なくとも快適に生活するためにこんな空間だけはほしいと、
生活と空間に対するイメージをはっきりお持ちの方が確実に多くなってきている。
あいまいだったことを明らかにすることで、
本当に大切なもの、本当にほしいものが見えてきたということか。

BACK