出でよ!印象派!出でよ!キュビズムマジシャン!




マジック界における、絵画でいうところのエポック的な印象派というのはでてきたのだろうか?あるいは出たのであろうか、というちょっと小難しい問題を。


19世紀にフランスのロベール・ウーダンはある意味画期的なマジシャンだったろう。
画期的というのは、それはいままで怪しげな黒魔術のようなマジックから、舞台でしかも正装で明るい中で不思議な現象を起こしたという点である。

ウーダンがマジシャンになったのは1845年。

この年代ではまだ絵画においての印象派は生まれておらずそういう意味では『過去のものからの脱却』を目指そうとしたのが、マジックの世界が先だったというのことになる。

印象派は肖像画や写実的なものではなく、まさに心に訴えるもの、柔らかい色合いとタッチで確立していったと私は考える。

さて私がいま言いたいのは、現代のマジック界においての印象派というのはあったのか、あるいはこれから何か画期的なことがありうるのかという問題を考察してみたい。
それをすることによっていまの閉塞感のある(これは私だけが思っているかもしれないが)現代マジックの世界に新しい風が吹く可能性があるかもしれないのだ。

わかりやすく、鳩だしを例にみてみると、ポロック以前では箱から鳩をだしたり網で空中からすくって出していたが、ポロックは道具を使わずに素手でハンカチから鳩を出現させたのである。

ここの時点においてスマートさからしてもある意味印象派のようなインパクトがあったのは間違いない。映画になったのは1960年のことだ。

ポロック以後は残念なことに、印象派の画家がそれぞれ個性を出していたのとは違い、誰もポロックを抜けなかったのだ。
マネが印象派を提唱したことによりたくさんの画家が世に出たが、それぞれの画家はそれぞれ活躍し作品を残した。

しかしマジック界においては誰一人マジック界のマネ(ポロック)からマネ(真似)はしたが越えるマジシャンはいなかった。
そうしてみると、むしろポロックは特異な存在だっただけで、いわゆるONE OF A KIND(唯一一種類)な存在であったといってもいいかもしれない。

であるならばマジックにおける印象派はでていなかったのか、というとそうでもない。

私が思うに1970年代のリチャード・ロスのチャイナ・リングの演技こそが現代マジック界の印象派の創始者といってもいいだろう。
絵画のマネといえる。(ここでプチ知識だがマネは提唱はしたが印象派のモネや、ドガ、ルノワール、セザンヌ達とは距離を置いていたという)。

さて絵画において、キャンバスと絵筆を使うことは変わりないが、技術と表現において新しいジャンル(印象派)ができたのだ。
それと同じで、リチャード・ロスはまったく昔からある素材のチャイナ・リングを使ったということが画期的だった。
音もなくとろけるように入るリングは見る者の心に素直に不思議が広がっていく。そして彼の振るまいと笑顔はまさに絵画を見て感動するのとまったくおなじ印象であったといっていいだろう。

話しは違うが彼の奥様のベロニカは実に美人で魅力的な女性だ。それゆえにいろいろあったとも聞いているが。
私とは何もない――当たり前である。

話しは急にMrマリックになる。彼の演技はむしろ太古の人間本質の感性をゆさぶる演技であって懐古的である。とはいえ人間はたかだか100年も生きられないのだからそこを目指して活躍している彼はそれはそれでいいのだ。ナポレオンズやマギー司郎のマジックも江戸時代からある寄席演芸の延長だ。決して印象派にならないし、なる必要もない。
マジックの上手い人はやまほどいる。あのダイ・バーノンも上手いし頭がいいとは認めるが、マジック界の印象派とは私には思えない。

むしろ若い頃のデビッド・カパーフィールドはリチャード・ロスに通じるものがあり、印象派といえるかもしれない。

あのテレビがもたらしたストーリーマジックは画期的だったといえるだろうし、それを真似し演技したマジシャンは数しれず。しかしそれらのマジシャンを印象派とは言わない。

なぜなら、絵画と比べると、みんなはコピーでしかないのだ。

絵画の場合は同じ土壌(印象派)でそれぞれの画家がそれぞれの個性をだしていたのだ。そこが情けない。

狭いエリア、たとえば鳩だしの世界で考えるならば、島田晴夫の「ベア出し」――つまりポロックのやったハンカチから鳩が優雅にでてくるというのではなく、いきなり空中に出現するテクニックのことだが、それはその世界では画期的な技術であっただけで印象派ではない。

こうしてみるとマジックの世界でインパクトのある演技をしてきた人たちは亜流は生むがまったく一人の唯一の存在であったということだろう。

マジックの世界では何々派ということは生じないのかもしれない。それが芸の世界であり、芸術の世界とは違うといっていいだろう。

絵画の印象派が、過去のものと同じキャンバス、同じ絵の具、筆を使いながらも出来上がったものがまったく違うというように、同じマジックの素材、あるいはマジックそのものを使いながらもまったく違うマジシャンの出現はいつでてくるのだろうか?
――と提唱してみたものの、絵画の印象派はそのテクニックというものがあって様々な芸術作品が生まれてきたが、果たしてマジック界での印象派テクニックというのがありうるのかと疑問を感じてはいる。

リチャード・ロスのリングの演技と同じテクニックやテーマがそう他のマジックに当てはまるとは考えにくいとは私は理解しているけどね。前にも書いたが雰囲気はデビッド・カパーフィールドもリチャード印象派?になりそうですが。

いやーやはりとりとめのないと自分でも書いていてわかるし、はがゆいなあ。

つまり共通のフレーズとしては『これがマジックか?でも不思議だ。これがあの昔からあるリングか?』というものが一杯あって様々なマジシャンがそういう演技をし続けていくなら、それらをマジック印象派と呼べるかもしれない。

さてこれから、いままで書いたことをひっくり返すようで悪いけど――
(ひっくり返すのかい!)

一番始めに書いた近代マジックの祖といわれるロベール・ウーダンが、もうすでにマジック界の印象派であったという考えも成り立つ。

そこから派生したマジシャンは数しれない。むしろその印象派が長すぎたという感じだろうか。

若いマジシャンの里一磨はある意味印象派っぽい気がする。「なんか里一磨っぽいね」というフレーズがあったとしたら、いや、待てよ、もしかしたらロベール・ウーダンがすでに印象派であったと考えるならば、里一磨はマジック界のキュビズムになる可能性がある。

新しいトリック、新しいテクニックを考えるというのはマジック界にとって必要であるというのは充分わかっているが、それらはある意味小さなことであると認識して、もっと大局的な概念が今生まれてほしいのだ。

いいかえれば何か新しい空気、それが今マジック界には必要だということを私は声を大にして言いたい。
かくゆう私も努力するつもりであるが、他の人の知恵や行動の方がもっと必要ではないか。

出でよ!印象派!出でよ!キュビズムマジシャン!