鬼籍(奇跡)の人・1
2004/03/23


荒木 祥允(よしまさ)(?〜1984)

マジックマニアとはいえこの名前を聞くのは初めての方が多いことでしょう。
表舞台にはでてきませんが、私に多大な影響を与えてくれた方です。

私が通っていた大学は小田急線向ヶ丘遊園という駅でした。あるとき先輩の持っていた「奇術研究」という本の住所をみると同じ沿線の祖師ヶ谷大蔵という駅だったのです。そこで住所を頼りに行ってみると、駅から5分くらいのところにそれはありました。路地の奥ですが、立派な「力書房」という看板が見えました。

昭和46年から50年ごろ(1971〜75)、そのころマジックのお店で通っていた所は、やはり通学途中の新宿京王デパートの「JMA(日本奇術連盟)」のショップと小田急デパートの「天地奇術」と「トリックス」でした。当時のディーラーはJMAでは猪俣さんや高野さん、坂本和夫(現・一魔)さん。時々長谷川ミチさん(JMA会長のお嬢さん)が派手な格好でたっていました。。天地奇術では本人の天地創一さんや学生時代のジュニア・南(現・藤山新太郎)。トリックスは、うーんちょっと思いだせないがともみけんという名前だったと思ったけど。時々、片倉雄一さんがいたときもあったような気がします。

さて話しを力書房にもどします。
そのショップは、当時のデパートのような陳列をしているのかと思ったら大間違い。通信販売が主ですから、いちおうケースはありますが、マジック道具はただ無造作においてあるだけですし、発送を待ってる梱包物が山とつまれているだけです。奥の本棚には奇術研究やら訳本がおいてあるくらいです。
奥の事務所には、口ひげを生やした一見やくざ風の人がいました。その人が荒木祥允さんです。
本の発行はお父さんの茂郎さんがしていたので、道具作りは息子さんの祥允さんがしていたのです。

何遍も通ううち、靴を脱いで奥の本棚にもいけるようになり?しまいには道具の製作の手伝いまでするようになりました。

祥允さんは風貌通り、昔やはりぐれたことがあって、家を飛び出したり、やばい仲間ともつるんでいたようですが、私が行きだしたころは40歳代でもう家にもどり家業をついでいたというわけです。もちろんマジックはしませんが、専門のネタ屋さんでプロ仕様のイリュージョンを作っていました。王子光、ジャック武田、星和彦、初代引田天功、などに提供していました。
大ネタといえば、当時はやはり松旭斎天勝の流れをくむ広子師の東京魔術団がメインでしたし、わざわざインド魔術団を興行師は呼んでいたわけですから、日本のイリュージョンはある意味遅れていたといっていいでしょう。
なぜ祥允さんはそっち方面にいったかといえば、1970年代はキャバレーの時代で、景気もよく、マジシャンは結構仕事があったのです。そこではビッグバンドをバックに大ネタをやったほうがウケがよかったのです。
そこに目をつけた祥允さんは、いちはやくアメリカのイリュージョン会社オーエンのイリュージョンの設計図を大量に手に入れたのでした。
人形の家、人体交換箱など「奇術研究」を通して販売したのでした。
特に王子光のイリュージョンは祥允さんのオリジナルがほとんどでした。
棺桶に3本のボウガンが刺さる<エジプトの魔弓><液体コウモリ人間><水着での人体浮揚>など。よくできた作品でした。

のちに祥允さんは力書房主催の東京マジックスクールというのを開催しました。会員もそんなに多くはありませんでした。最大で20人くらいでした。
講師は王子光、星和彦、西尾洸一。よく来てくれたのが当時会社員だったアマチュアの根本毅さん。知識が豊富でジェントルマンでした。クロースアップは根本さんから教わったものが多かったです。
それから素人寄席という番組で優勝したことのあるやはりアマチュアの浜谷堅蔵さん。この方も会社員でしたが、うまかったですね。それから同様にジャン藤田さんにもよく教えてもらいました。

祥允さんは頭のいい人でプロ仕様の道具の作り方をいろいろ教えてもらいましたし知識も豊富で、アイデアもいろいろ出してくれました。

ちょっとしたラフスケッチから、板を裁断して組み立てていくんですが、私には何がなんだかわからない内にできあがっているというわけです。細かい設計図は祥允さんの頭の中にあったというわけです。
プロの道具――特にイリュージョンは現場での組み立てが簡単で、耐久性があって、塗装がしっかりしていました。
ナポレオンズの人体交換も「コンテナにして舞台上で組み立てたらいいよ」とアイデアをくれたのも祥允さんでした。
ただ同じイリュージョンを再び作るのは面倒くさがっていましたね。つねに新しいものをもとめていました。
またFISMのツアーを組んだのも祥允さんが最初かもしれませんね。

酒が好きで、仕事が一段落付くと毎日飲みにいってました。私も一緒に。。。。なんかその姿いまの私に似てるかも…。
古い奇術研究を見ると時々私達がネタのモデルで載っているのはそんな関係があったからです。

残念ながら、我々が1984年ラスベガスに行く直前に亡くなりました。まだ五十代でした。
たぶん祥允という名はどこのマジックの歴史にも登場はしないでしょうが、私にとって多大な影響を与えてくれた人だと感謝しています。

↓力書房がだした奇術研究以外の雑誌:トップマジックとパス


そのころ1976年にはJMAが主催した日本で初の世界大会・PCAM大会が開かれました。
写真はフレッド・カップス師からプログラムにいただいたサイン。


そのあと祥允さんは別のコンベンションを開くことになるのです。
そのときもフレッド・カップスを招聘しました。

その資料はまた別の機会におみせしましょう。

そうそう、我々がデビューしたのは1977年。祥允さんはよくステージを見に来てくれました。そしてよく写真を撮ってくれました。
できあがったステージ写真を見ながら、重要なことを言いました。

いいマジシャンはどんな場面を写真に撮られても、格好がいいんだよな。あんたら写真を見ると、ちゃんとしてるよ

うれしい言葉です。