2002年7月更新 ©mekas nihon nikki no kai


作品紹介

メカス日本日記の会

1964年
モノクロ
68分
35o

編集:アドルファス・メカス
協力:リヴィング・シアター

営倉(The Brig)

ニューヨーク、ケネス・ブラウンのリビング・シアターの同題舞台公演を記録した作品である。カメラを廻すメカス自身が舞台上にまで上がって撮り続けるなど、手持ちカメラによって撮影されたドキュメンタリー映画。ヴェネツィア映画祭ドキュメンタリー部門最優秀賞を受賞。
〈『営倉(ザ・ブリッグ)』はオフ・ブロードウェイの演劇の舞台を題材にして、ジョナス・メカスとアドルファス・メカスによって撮影されたニュー・アメリカン・シネマの、生の一片である。その撮影の、あまりにぶっきらぼうで険しい真正さゆえに、この映画は、ヴェネツィア映画祭のドキュメンタリー大賞を獲得した。半ば劇的であり、論争的でもあるこの映画は、衝撃波となった音と、コダックによるカフカ、といったことを連想させる悪夢のような雰囲気をもち、まさにそれがかきたてようと意図するものを、かきたてている。つまりこの映画は、観客の首根っこを引っ捕らえ、この海軍の連隊の牢獄での残酷な一日の間、一方の壁へと、他方の壁へと、観客を投げ出すのである。〉タイム・マガジン


1966年
カラー
12分
16o
サーカス・ノート(Note on the Circus)

初期の代表作のひとつ。後に『ウォルデン』(69〜88)の中に組み込まれ、再構成されている。
〈1966年に、サーカスの色、動き、思い出の3つの時間の流れの中で撮影された、リングリング兄弟。カメラによるモンタージュ、瞬間的にフォルムを作り出す訓練。ジム・クウィスキンのストリートのオーケストラの音。しかしそれは、沈黙の中で見ることができる。このフィルムはケネス・アンガーに捧げられる。彼は私が最も貧困を極めていた時期に、カラーフィルムのストックを提供してくれた。〉ジョナス・メカス

1972年
50-72年撮影
モノクロ/カラー
87分
16o

リトアニアへの旅の追憶(Reminiscence of a Journey to Lithuania)

1971年夏、弟で映像作家でもあるアドルファスとの27年ぶりの故郷リトアニアへの帰郷の旅を中心にした3部構成の日記映画。リトアニアの風景、母、友人たちとの再会が感動的に描かれている。実験映画としては、アメリカで記録的なヒットとなり、また日本でも73年の公開以来、大きな反響を呼び、多大な影響と刺激を与え続けている、メカスの作品の中で最も著名な代表作である。
〈この映画は3つの部分から構成されている。まず第一の部分は、私がアメリカにやって来てからの数年、1950〜53年の間に、私の最初のボレックスによって撮られたフィルム群から成っている。そこでは、私の弟アドルファスや、そのころ私達がどんな様子であったかを見ることができる。ブルックリンの様々な移民の混ざりあいや、ピクニック、ダンス、歌、ウィリアムズバーグのストリートなどを。
第二の部分は、1971年に、リトアニアで撮られた。ほとんどのフィルム群は、私が生まれた町であるセメニスキアイを映しだしている。そこでは、古い家や、1887年生まれの私の母や、私たちの訪問を祝う私の兄弟たちや、なじみの場所、畑仕事や、他のさして重要ではないこまごまとしたことや、思い出などを、見ることになる。ここでは、リトアニアの現状などというものは見ることはできない。つまり、35年の空白の後、自分の国に戻って来た「亡命した人間」の思い出が見られるだけなのである。
第三の部分はハンブルグの郊外、エルンストホルンへの訪問から始まる。私たちは、戦争の間1年間、そこの強制労働収容所で過ごしたのだった。その挿入部分の後、われわれは私たちの最良の友人たちの一部、ぺーター・クーベルカ、ヘルマン・ニッチ、アネット・マイケルソン、ケン・ジェイコブズと共に、ウィーンにいる。そこでは、クレミスミュンスターの修道院やスタンドルフのニッチの城や、ヴィトゲンシュタインの家などをも見ることができる。そしてこのフィルムは、1971年8月のウィーンの果物市場の火事で終わることになる。〉ジョナス・メカス


1976年
49-63年撮影
モノクロ/カラー
176分
16o

ロスト・ロスト・ロスト(LOST LOST LOST)

1949年にニューヨークヘ渡った直後、メカス兄弟は16oカメラのボレックスを購入した。この時期、第2次世界大戦で使用したアメリカ軍用の16oカメラやモノクロ・フィルムが放出され、安価で入手しやすくなっていた。メカスが最初に撮った映像は、彼を含めたリトアニア難民の姿や、その活動の記録だった。全部で6巻の「リール」からなるこの映画の「リール1」および「2」には、これら最初期の映像が収められている。この頃の彼のスタイルは、イギリスやアメリカのドキュメンンタリー派のようなロング・ショット主体の映像である。「リール3」から、メカス独自の映像スタイルが見られるようになり、画面は大きな質的変化を遂げる。手持ちカメラを多用し、望遠レンズを用い、対象と向き合うような正面のヴィジョンが強く意識されるようになる。映像作家ジョナス・メカスの誕生である。この作品は、映画作家として自らのスタイルを形成してゆくプロセスそのものの映画である。また、彼が主導した「ニュー・アメリカン・シネマ」の誕生をも見ることができる。
〈私がこの全6リールのフィルムを通じて描写しようとした時期は、絶望の時期、思い出を作り出すために、この新しい地に根を張ろうとする、絶望的な試みの時期だった。この苦痛に満ちた6リールのフィルムを通して、私は一人の亡命者の感情、この時期の私達の感情を描写しようと試みたのだった。この映画は、「ロスト・ロスト・ロスト」という名前をもっている。これは私と弟が、1949年に作ろうとしていた、もし完成していれば、そのころの私達の心のありようを暗示することになっただろう、1本の映画に付けようとしていたタイトルだった。この映画は、自らの生まれた国を忘れることができず、しかしながら、まだ新しい国を「獲得して」いない「亡命者」の心の状態を、描写したものなのだ。
「リール6」は移り変わりの時期である。私たちは息をつき、いくらかの幸福な瞬間というものを見つけ始めているかのようだ。新しい生活が始まったのだ〉ジョナス・メカス

1979年
1977年撮影
カラー
90分
16o

「いまだ失われざる楽園」、
あるいは「ウーナ3歳の年」

(Paradise Not Yet Lost, or Oona's Third Year)

〈この映画日記は1977年に撮影したフィルムによる「ノート」を、日付順にならべたものである。映画は6部構成。
第1部の舞台はニューヨーク。家庭生活と都市の情景がふんだんに登場する。3歳の年を迎えた娘のウーナもしばしば顔を見せる。そのほかペーター・クーベルカのコンサート、マリー・デレン訪問(マヤの母)、聖パトリックの祭日のパレード、セントラル・パークの春の情景などから構成されている。
第2部はごく短く、スウェーデンにアナ・レーナ・ウィボムを訪れた際に撮影したものである。
第3部の舞台はリトアニア。わたしと妻のホリス、そして2歳半のウーナは、わたしの母の90歳の誕生日を祝うためにリトアニアを訪ねた。ウーナは従兄弟たちと初めて対面し、わたしたちは自家製のビールを飲み、野生のキノコとイチゴを摘み、ふざけ合い、戯れ合う。
第4部はワルシャワが舞台。わたしたちはピアニストのアルドナ・ドヴァリオーナを訪問する。
第5部はオーストリア、ぺーター・クーベルカとヘルマン・ニッチをブリンツェンドルフに訪ねる。ヘルマンのワインを味わい、ぺー夕ーのロバとおしゃべりし、パーテル・ニコラウスをクレムスミュンスターに訪ね、さらにミケランジェロのワイン、カナイオーラを求めてぺー夕ーとともにイタリアを旅する。
第6部で舞台はニューヨークに戻り、州北部に住むウィラード・ヴァン・ダイク訪問、ウーナ3歳の誕生日、ブルーム・ストリートの火事、家庭生活のあれこれ、そして冬の嵐の気配などの場面が現れる。
音声――街頭の雑音、自然(雷、雨)、ウーナ、ぺ一夕ー、レオ・アダムズ、レイマンド・エイブラム、へルマン・ニッチ、アナ・レーナ・ウィボム、家庭と文化について語るホリス、レオ、ぺー夕ー、そしてわたしの歌(リトアニアとオーストラリアの民謡)、ヘンデル、ショパン、ワグナー
これは日記映画だが、同時に楽園を巡る思索でもある。ウーナに宛てた手紙といってもいい。ウーナ3歳の年――本人の記憶には、体験したことのうちのごくわずかな断片しか残らないだろう――、周囲の世界はどのようなものであったかを思い出す微かな手だてとして、また人生のうちでも本当に大切なものをロマン主義的に手ほどきするものとして――わざとらしさ、商業主義、そして肉体と精神の両方に危害を加えるものの氾濫するこの世の中で――いつの日かウーナの役に立てばと思い、制作した。〉ジョナス・メカス

1985年
69-85年撮影
カラー
150分
16o

時を数えて、砂漠に立つ
(He stands in a desert, counting the seconds of his life)

ジョン・レノン、オノ・ヨーコ、アンディ・ウォーホル、ジョージ・マチューナスら友人たちとの交流と、彼らが展開した芸術運動「フルクサス」の1969年から84年の活動を中心に構成した日記映画。同じリトアニア出身の芸術家であるマチューナスの死をとらえた映像は、深い悲しみに満ちている。
〈はじめ私はこの映画を、人類学的スケッチと呼ばうと思っていた。この映画は一方、私のほか他人の出来事、もしくは私がいくばくかの距離を置いて観察した私の生活の出来事、ハプニング、活動、光景からなっている。他方、ある部分は私のプライベートな生活にふれるものである。私は非個性的なマテリアルを暖め直したり、バランスを取ったりする為に、それを挿入したのだった。この映画は、30秒〜2分の長さの124の小さなスケッチからなっている。それらは私が時間を一緒に過ごした人間のポートレートであったり、雷雨であったり、吹雪であったりした。また、ハンス・リヒター、ロツセリーニ、マルセル・ハノウン、アドルフォ・アレッティア、アンリ・ラングロワ、カヴァルカンティ、クーべルカ、ケン・ジェイコブズ、ケネス・アンガー、クチャー、ブリア、ウィラード・ヴァン・ダイク、フランプトン、などの映画作家の友人たち、もしくは、ただ単に友達である、ジョン・レノンや、ジャッキー・オナシス、リー・ラドッツイウィル、ジョン・ケネディJr.とキャロライン、ティナとアンソニー・ラズィウィル、ピーター・べアード、アンディ・ウォーホル、リチャード・フォアマン、ポール・アダムス・シトニー、ヨーコ・オノ、ライムンド・アブラハム、ヘルマン・ニッチ、アレン・ギンズバーグ、ジョージ・マチューナスなどの人々が登場する。ニューヨークの公園やストリート、その他すべてのものを除けば――自然の中や町の外側への、短いエスケープ――何ら人目を引くようなものはない……。その瞬間、その時に消え去ってしまい、この短く、個人的なスケッチの中にしか留めておけないような人生の祝賀(セレブレーション)。メイ・ウエストがピーター・べアードにこう言っている。「あなたが親密なる日記を付けることになれば、その日記はあなたをつなぎとめ、放さなくなるでしょう。」〉ジョナス・メカス

1988年
64-68年撮影
175分
カラー
16o

ウォルデン
(Diaries, Notes & Sketches also known as Walden)

1965年から68年に撮影された日記的な記録映像を集成し、メカス独自の「日記映画」が実現された記念すべき最初の作品である。タイトルは19世紀のアメリカの思想家H.D.ソーローの著作『ウォルデン、または森の生活』によるもので、映画の構成も彼の思想に影響を受け、秩序づけられている。なお、この作品は68年に編集され、88年に再編集されている。
〈1950年以来、私は映画日記をつけるのを止めたことがない。私はボレックスを片手に歩き回り、直接の現実に反応したのだった。例えば状況、友人たち、ニューヨーク、季節などに。私は、ある日には10ショット撮り、ある日には10秒、またある日には10分、そしてまた、全くフィルムをまわさない日もあった。『ウォルデン』は1964年から68年にかけて撮られたものを、年代順に編集したものから成っている。サウンドトラックは、同じ時期に録音された音を使ってある。声や、地下鉄の書、通りの雑音、そして少々のショパン(私はロマン主義なのだ)、そして、意味があったりなかったりする他の音などで。ニューヨークの秋、卜ニー・コンラッド、セントラルパークのビビー・ハンセン、結婚、マルセイユでの朝食、カシス、ニューヘイブンを去るシトニー、87ndストリートの火事、セントラルパークを横切るスタン・プラッケイジ、カール・テホ・ドライヤー、ミールブルックヘの訪問、マリー・メンケンへの花、『銀河』を撮るグレゴリー・マーコポウロス、サーカス・ノート、クリーピング・クレップラックスでの出会い、(ギンズバーグ、エド・サンダーズ、トゥーリ・クッパーバーグ、ウォーホル、バーバラ・ルービンなど)、ハレ・クリシュナのマーチ、秋の情景、シトニーの結婚、タイムズスクエアの大みそか、「アップタウン」のお祭り、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、真冬、ケンとフロ・ジェイコブズを訪れるナオミ・レヴィーン、アミー・トービンのコーヒーブレイク、コープの監督たちとの出会い、コクトーの夢、セントラルパーク、アルフレッド・レスリーが、コープめ窓から見たもの、オルムスクド・ハイク、映画を撮るバーバラ・ルービン、クリスマスの夜、コロラドのブラッケイジへの訪問、ハンス・リヒターへの訪問、セントラルパーク、ピークー・べアードの結婚。
秋の情景、メル・ライマンの子供たち、ニュージャージーへの旅、ウェンディ・クラークの結婚、セントラルパーク、スケートで氷の上を一周、冬の情景、8thストリートの日曜の朝の吹雪、マルタ、アンソロジー・シネマでの出会い、ヨーコとジョン・レノン、セントラルパーク。〉ジョナス・メカス


1990年
65-82年撮影
カラー
35分
16o


音楽:
オープニングはヴェルヴェット・アンダーグラウンドとニコ、1966年、ザ・ドムにて
エンディングは1987年4月1日、ニューヨーク、セント・カテドラルで行われた、アンディー・ウォーホルの追悼ミサでの録音
ライフ・オブ・ウォーホル
(Scenes from the Life of Andy Warhol)

1965年から82年までのアンディ・ウォーホルと彼のファクトリーのメンバーたちの素顔をとらえた作品。90年6月に開催されたパリ・ボンピドゥ・センターのウォーホル回顧展がきっかけとなり編集された。同年10月のニューヨーク映画祭にも出品され、日本では『ソングス・フォー・ドゥレラ』(Songs for Drella, 1990)とともに劇場公開されている。
〈この映画は、1965〜82年の間に私が撮った、アンディ・ウォーホルに関係する映画日記から構成されている。フィルムがまわされた場所は、ニューヨーク、モントーク、ザ・ファクトリー、ジョージ・マチューナスの家、ヴィレッジゲイト、精神医学会議、ステファン・ショーの家、ウォーホル財団などである。中心人物たちは、ルー・リード、ニコ、エディ・セジウィック、ジェラルド・マランガ、アンディ・ウォーホル、アレン・ギンズバーグ、エド・サンダーズ、バーバラ・ルービン、トゥーリ・クッパーバーグ、ピークー・オルロフスキー、ジョン・レノン、ヨーコ・オノ(小野洋子)、ジョージ・マチューナス、ヴィンセント・フレモント、ヘンリー・ゲルツァラー、ポール・モリセイ、カーリン・レーナー、ジェイ・レーナー、ピーター・べアード、ジョン・ケネディJr.、リー・ラズィウィル、ティナ・ラズィウィル、アンソニー・ラズィウィル、アレッサンドロ、キャロライン・ケネディ、ミック・ジャガー、ジェード・ジャガー、そして多数の人たち〉ジョナス・メカス

1991年
1950年撮影
カラー
29分
16o


撮影:ジェローム・ヒル、1950年夏、ボーリンゲン(スイス)にて
編集:ジョナス・メカス、1991年、ニューヨークにて
音楽:ジェローム・ヒル
語り:パフィー・ジョンソン
ジェローム・ヒルによるカール・ユング博士の記録映像あるいは「賢者の石」
(Dr. Carl G. Jung by Jerome Hill, or Lapis Philosophorum)

1950年夏、映像作家で、画家、詩人でもあるジェローム・ヒルはカール・ユング博士の映画を作ろうとチューリッヒを訪れた。2、3週間にわたり博士を撮影した結果、博士は映画の主人公には向かないとヒルは判断し、映画制作を断念した。そこでヒルはアフリカにアルバート・シュヴァイツァー博士を訪ね、ユング博士よりは「映画向き」と思われるシュヴァイツァーを主人公にした映画を制作し、これによりアカデミー賞を受賞した。
1972年にジェローム・ヒルが世を去った後、ユング博士を撮影した未完成のフィルムはアンソロジー・フィルム・アーカイヴズに寄託された。ヒルの友人でもあり、自らも映画作家であるジョナス・メカスがそれをもとに編集したのが本作品である。
この映画には、お馴染みのユング理論はほとんど登場しない。逆にヒルはひとりの人間としてのユング博士に焦点を絞るとともに、チューリッヒ近郊ボーリンゲンに集められた石の彫刻の撮影にも多くの時間を割いている。とくに意図することなく、ヒルは20世紀の精神的、知的営為における最重要人物の一人であるユング博士の日々の暮らしの断片を記録し、それを後世に残したことになる。
〈編集に際してはジェローム・ヒルとユング博士を最大限尊重し、さしでがましいことはいっさいしないよう気を配った。またユング博士とジェローム・ヒルの双方と親交をもつとともに、『野獣の女神――古代の女神と聖獣像』(Harper and Row, 1988)の著作もある研究者バフィー・ジョンソン氏から貴重な助言を受けた。映画にはほかにエマ・ユング夫人、そしてチューリッヒ近郊のユングの好んだ避暑地アスコナで行われた名高いエラノス・セミナーを主宰したオルガ・フレーベ=カプティン夫人も登場する。〉ジョナス・メカス


1991年
カラー
28分
8oビデオ

ザ・テーブル(The Table)

メカスは、この作品を「断片を集めて制作中の過程を示すようなもの」と説明している。大きな木のテーブルを囲み、友人たちと食べ、飲み、そして歌う。リトアニアの歌を……メカスの家を訪れた詩人たち、アレン・ギンズバーグや、吉増剛造らとのパーティの情景を中心に構成されている。

1992年
カラー
351分

8oビデオ
セバスチャンの教育、あるいは
エジプトへの回帰

(The Education of Sebastian or Egypt Regained)★

1992年1月4日から19日まで、ジーン・ヒューストンを引率者とする、参加者およそ100名におよぶエジプト旅行に参加したメカスー家の「ビデオ日記」である。
宗教的ニュアンスを濃厚こ持ったこの旅行は、古代文明発祥の地の一つであるエジプトと現代のアメリカ文化圏に生きる人々との、ある一つの興味深い邂逅であり、また、メカスの目を通した、時・空間を隔てた異なる二つの文明についての対比的な考察ともなっているといえよう。

1996年
カラー
24分
16o

富士山への道すがら、わたしが見たものは…(On my way to Fujiyama, I saw...)

1983年、1991年の来日の際に、愛用のボレックスで撮った東京、京都、奈良、大阪、福岡、帯広、山形。メカスの見た日本の風景、日本の友人たちとの語らい……メカスの日本映像日記。

1996年
撮影66年
モノクロ
90分
16o
フランケンシュタインの思い出
(Memories of Frankenstein)

〈1966年8月、フランスのカシスでリヴィング・シアターの『フランケンシュタイン』公演を撮影した。この芝居はわたしの記憶のなかに、生涯最高の演劇体験として今も残っている。ところが撮影したフィルムには、ひどく落胆させられた。舞台――野外で上演された――の照明が暗かったので、撮影中にきわめて重要な部分をいくつも撮り損ねてしまったのである。写りの悪さのあまりがっかりしたもので、フィルムは棚にしまい、以来33年間見向きもしなかった。ところが今年になって、時間の塵が記憶とフィルムの両方をすっぽりとおおった後に見直してみると、数々の失敗にもかかわらず、わたしが撮慈したフィルムに演劇史のきわめて重要な一ページが含まれていることに気づかされた。そこでこの作品をありのままの姿で、演劇を愛するひとびとに見てもらうことにした〉ジョナス・メカス

1996年
撮影70-80年
カラー
10分
16o
とかげのうた(Songs of the Salamander)

〈脈絡のない映像のコラージュ。私的なもの、私的でないもの、いろいろあっても、すべてマンハッタンでのわたしの暮らしの一部である〉ジョナス・メカス

2000年
カラー/モノクロ
288分
16o
歩みつつ垣間見た美しい時の数々
(As I Was Walking Ahead Occasionally I Saw Brief Glimpses of Beauty...

1949年10月、27歳でニューヨークにたどり着いたメカス。その後のさまざまな友人たちとの出会い。50歳を過ぎてからのホリスとの結婚。長女ウーナ、長男セバスチャンの成長。半世紀を越えるニューヨークでの暮らしを記録したフィルムをつなぎ合わせた、メカス映像日記の集大成。
〈わたしには人生がどこから始まり、どこで終わるのか、いろいろ考えてみたけれども、どうしてもわからない。人生とは何なのか、どういう意味があるのか、まるで見当もつかない。そこで今回たくさんのフィルムをまとめる段になって、まず考えたのは、年代順に並べることだった。でもそれはすぐに諦めて、ゆきあたりばったりに、棚からとりだした順に繋いでゆくことにした。人生の断片の数々がどこにあてはまるのか、わたしは本当に知らないからだ。だからあるがまま、すべて運に任せ、無秩序のままにしておいた。それでも、そこにはなにかしらの秩序がありそうだ。わたしの理解はおよばないけれども、それなりの秩序が生まれる。わたしにはわからない、それは身近な暮らし、みなの言う本当の人生、本当の人間というものが理解できないのと同じこと。いまでもまだ理解できないし、理解したいとも思わない……〉ジョナス・メカス



★印は当会で貸出可能な作品。
*参考文献:「メカス1991年夏」パンフレット(メカス日本日記の会」1991年)、『特集上映会「ジョナス・メカス――魂がとらえる映像の詩」』パンフレット(愛知文化情報センター、1995年)他
ジョナス・メカスメカス日本日記の会