1996年8月14日読売新聞(夕刊)に「南太平洋に縄文土器...」という記事が載った。内容は、バヌアツ・ポートビラ(Port Vila, Vanuatu)で開催された西太平洋考古学会で8月5日、ハワイ・ビショップ・ミュージアムの篠遠喜彦氏ら(日米仏の研究者六人連名)が、バヌアツの縄文土器(表採資料14点)について研究発表したというもの。文様や胎土分析の結果、東北北部の縄文前期円筒下層c、d式そのものであると断定されたのだ。日本の縄文土器そのものが、何らかの原因で直接バヌアツに運ばれたものと結論づけられ、具体的には漂着が可能性として指摘された。なお1997・1998年には現地で発掘調査が行われたが、在地の後期マンガッシ式土器が1000点以上発見されたものの、縄文土器資料は得られなかった(文献)。
2000年11月5日に旧石器捏造が発覚した後の、2001年2月14日読売新聞(大阪版・夕刊)に「日本からの寄贈物...」という記事が載った。真相は以下のようなものだった。
1964年2月、慶応大学考古学教室を訪問したパリ人類博物館(Musée de l'Homme)の洞窟壁画専門家アンリ・ロート氏に、円筒下層式土器片10数点がプレゼントされた(氏は縄文土器に興味を持っていた…そんな氏に円筒下層式がプレゼントされたのは、いかにも縄文的な縄文土器だったからではなかろうか)。ロート氏はそれらを人類博物館に持ち帰ったと考えられる。同館では日本とバヌアツの考古資料は、同じ太平洋地域に区分されていた。1972年になって、同館に所属していたジョゼ・ガランジェ氏が、バヌアツでの現地調査を元に博士論文を書いた。そこでバヌアツ・エファテ島(Efate)メレ平野のヤムイモ畑表採資料が報告された中に、縄文土器片が含まれていた。状況的にみて、人類博物館を媒介として資料の混在が起こってしまったと考えられる。ガランジェ氏の論文を送られた篠遠氏が、図版の中に縄文土器に酷似しているものがある事に気づき、その実物をハワイに送ってもらい、ちょうどハワイを訪れた芹沢長介氏らの鑑定で円筒下層式と確認された。さらに胎土分析や熱ルミネッセンス法による年代測定が行われ、まさに縄文人によって日本列島で作られた真正の縄文土器そのものである事が裏付けられた。
元々一箇所だけの表採資料という事だったし、周辺地域に同種資料もなく、1997・1998年に行われた発掘調査でも追加資料が得られていない。日本から遠く離れたバヌアツに縄文土器が孤立して存在しているとしたら極めて異例だし、何か特異な事情があったと考えるしかなかった(その可能性が、point to pointでの漂着だ)。報告書がある以上、その土器資料の追求は必要な事だし、追跡研究にかけられた努力は多とすべきだ。結局、土器の寄贈から37年を経て、慶応大学関係者(寄贈者)の証言が公になり、真相が明かされた(話自体は1999年の某懇親会で出たものらしい)。アンリ・ロート氏の証言も聞いてみたい気がするが、すでに故人であり、そのすべはない。ちなみに土器表面に付着した土粒子は、バヌアツのものではなく、日本の土だったようだ。
やや後味の悪い結末となったが、事はまだ終わらなかった。2003年のコンテンツにその一例がある[沖縄デジタルアーカイブ Wonder沖縄>海底遺跡>人類学は何を語っているか>]。また2003年刊行の『南海文明クルーズ−南太平洋は古代史の謎を秘める−』(平凡社 ISBN4-582-51229-1)に篠遠氏の詳細な反論が載っている(pp.266-285)。だが、ここで興味深い事実が記されている。即ち14点の縄文土器には、中・後期の土器片が1〜2点含まれていたというのだ。このような資料構成は、まさに人為的なコレクション由来である事を裏付けている(日本の複合遺跡での表採なら、時期が混じる事は不自然ではないが)。仮にだが、漂着事件が、前期・中期・後期にそれぞれ別個に起こり、それらが一箇所にまとまって表採されたという結論は受け入れがたいし、後期の漂着物(舟の搭載物)に前期と中期の土器が混じっていたとも考えられない(それに、大部分は前期なのだ)。土器が日本の土で作られた事は確認されており(誰にも異論はない)、ニューギニアのような文化の中継地を考える事も(この資料に関する限り)意味がない。土器表面に付着した土粒子も決定的な証拠となるだろう。それがバヌアツの土に数千年埋まっていたなら、まさにバヌアツの土の粒子がこびり付いていなければならない。(2005.3.17)