前期旧石器論争

2003.7.1公開予定稿(執筆中)

序論

時代区分の多様性

 日本列島で旧石器が確認される以前から、上部・中部・下部(Upper, Middle, Lower)というヨーロッパの旧石器編年はよく知られていた。最初に発見された岩宿(1946〜1950)は、どうやら上部旧石器に該当したから、中部・下部旧石器は課題のまま残った。

 日本では、上部→後期、中部→中期、下部→前期と読み替えられた。これは縄文時代や弥生時代の下位区分に倣ったものかもしれない(ヨーロッパ編年を紹介する文脈でも後期・中期・前期を用いる例が跡を絶たないのは、不思議なことである)。また「旧石器時代」ではなく、「岩宿時代」(角田文衛、佐原眞)、「先土器時代」(杉原荘介)といった用語も登場したが、いずれも学史的には過渡的な性格のものだった。また後期旧石器文化は大いに確認されたものの、それ以前の資料は確認されなかったので、中期・前期の区分は意味をなさなかった。そこで後期以前は、仮説的にまとめて「前期」とされた(芹沢長介)。なお「先土器時代」は、日本の旧石器文化が充分に体系的に把握されていない故に、先入観を排する仮説的な名称として提起されたものである(だから暫定的な名称といえる)。今日でも旧石器を「プレ」と言うが、Pre-Ceramic(=先土器)の謂[いい]なのか、プレ縄文の謂なのかは、よく分らない。

捏造資料と時代区分論

 「前期」を前期・中期に区分するプランは、宮城県系「新たな前期旧石器」の進展によって徐々に定着していった(特に1990年代)。また1980年代には「先土器時代」から「旧石器時代」への大勢的な流れがほぼ定まったが、これも宮城県系「新たな前期旧石器」進展の影響があったものと言われている。前期・中期・後期といった時代の全体像が見えてきたという認識が、仮説や暫定呼称としての「先土器時代」の役割終焉を意味したからと思われる。

 捏造発覚後、「先土器時代」復活の声が一部に聞こえてきたのは、学史的にはそれなりに必然性のある事だった。同様に、前期・中期の区分も自動消滅しそうなものだが、これは未だに曖昧なままである(新たに中期ないし前期資料として報告される例は稀であるが、皆無でもない)。中期・前期の区分は、(賛否はともかく)理論的に推定され、裏付けされているのだ(特に安斎正人)。そして「理論」に合致する資料は、捏造と無関係なところに残っているという認識だった。「だった」と過去形で述べるのは、協会の「検証」進展によって、座散乱木(1976〜81)と馬場壇A(1984〜88)が100%捏造と判定されてしまったからだ。もっとも、岡村によって前期の枠組が提出されたのは1976年であり(岡村道雄)、座散乱木発掘より前に知られていた資料に基づいている。ともあれ、藤村に関係しない、古いかもしれない資料はいくつか存在するのだが、それらは層位的に安定した資料ではなく(後期初頭の資料も多いように思われる)、あるいは偽石器の可能性が充分に否定されていなかったりする。

 現時点では、「中期」と言明することが憚られる状態であり、金取遺跡(岩手県)や竹佐中原遺跡(長野県)など、一部の資料について「中期の可能性がある」と控えめに表明される程度になっている。可能性があるというのは、層位的確認が不十分と見なされているからである。金取は再発掘が計画されている。

金木の礫層

 最初に前期旧石器と疑われたのは、青森県北津軽郡金木村の藤枝溜池の岸辺の礫層出土資料(1952〜53)である。1952年11月6日に現地を訪れた芹沢自身は、バーキットの基準に従い、金木の「エオリス」を自然に生成された破砕礫とみなしていた。一方、11月7日に現地を訪れた杉原荘介は円礫に混じる破砕礫を確認して、本調査を決意した。そして、翌年6月の本調査の最中に、いやこれは偽石器であると確信したらしい。正式な報告書は作成されなかった。ただ、発表要旨などで、金木の資料は偽石器であったと報告されているのみであるという(芹沢 2003)。偽石器の研究は深化されることなく、放棄された。

 金木は、礫層&偽石器の悪しき前例となった。杉原は、一旦は金木を本物と考えた誤りに、懲りてしまったのである。

丹生の対立

 1959年頃「大分県社会民俗学会」のメンバーによって大分県丹生[にう]台地崖面のローム層下の礫層中からハンドアックス様の礫器が採集された。その報告に接した山内清男らのグループと、角田文衛らのグループが1962年3月に相次いで現地を訪れた。両グループは1962年4月の日本考古学協会第28回総会で別々に丹生の研究発表を行ない、「異様な事態」が起きたと語り継がれている。山内は研究発表後に、「丹生遺跡調査特別委員会」の設置を動議として提案した。しかし「二派の研究集団の争いを眼にした協会員の反応は鈍く、結局その動議は不成立に終わった」(芹沢 2003) 当時、壇上に山内は居り、芹沢は会場の席に居たようである。芹沢は丹生資料を「旧石器時時代前期のチョパー,チョピングトゥールとは全く異質のものだと考えていたので,特別委員会の設置には反対であるという意見を申し述べた」という(芹沢 2003)。この経緯に山内は激怒したという。

 協会の立場というか、協会員達の立場としては、「派閥」が激突している事態に困惑したのが実態であろう。しかし顧みれば、まさにこの瞬間こそ、前期旧石器問題が協会大の取組みとして論じられる最初で最後の機会だった。残念ながら、協会は機会を逸し、前期関連の調査は個々の研究グループの自由な草刈場となった。調査と論争は私的なものに留まり、協会全体としては興味を集中させる事は決して無かった。前期関連の資料が称揚される時も、著名な研究者が個人的に行なうのであって、組織的な称揚は派閥的なものに留まった。唯一の例外は文化庁による「速報展」かもしれない(岡村が在籍していたから、という理解もあるが、関連は定かで無い)。

 結局、丹生は角田の古代学協会によって正式に本調査された。しかし6次にわたる本調査によって、礫器を原位置資料として確認することは出来なかった。言い換えると、文化層は存在しなかったのである(正確に言うと、確認されなかったのだが)。

 しかし、芹沢も認めているが、縄文早期押型文にチョッパー様の礫器が伴うことがある。芹沢は、丹生の資料は、その類であるという。しかし丹生が早期押型文の遺跡であるということはないから、芹沢の説明はどこか不思議である。早期押型文の遺跡であるのは、次にふれる早水台[そうずだい]である。

 竹岡は丹生の

早水台


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