学問の病理現象

世の中には、pseudo-science(疑似科学ないし似非科学)、及び pathological science(病的科学)というものがあるそうです。これらと、正当(正統)な科学(学問)との峻別は、難しい場合もあるようです。一般には、「疑似科学」とは科学の装いをまとっているが、明らかに科学的ではないもの、「病的科学」は学界内に発生し、多くの点で学問の文脈に則しているが、やはり事実ではない説に固執しているものと捉えてよいでしょう。いずれも心理学用語でいうところの「仮説確証バイアス」の作用が現れたものと考えられます。

また学問の世界では、研究者間の利害関係調整のための不正な手段、各種の欺瞞、画策、裏取引、不道徳なまでの怠慢、(事実上の)政治的影響力の行使、といった問題が発生することがあります。これは倫理的な問題といえるかもしれませんが、構造化されていることが多く、いずれにしても病理的です。

疑似科学とは、呪術や錬金術、占いや新興宗教などに典型的に見るもので、時として科学的であるとか、あるいは科学的に証明可能と主張されているが、実際のところ、データも理論構成も科学性(学問性)を欠いているもの、あるいは科学性を欠いていることが容易に検証可能なもの、と定義できるでしょう。また正統派の学問の世界ではなく、やや離れた場所に生きています。

病的科学(あるいは科学の辺縁領域)の定義は難しいようですが、

  1. どこか魅力的で大胆な学説
  2. 本流派の説に真っ向から挑戦し、別の体系化を目指す
  3. データの恣意的解釈(多少の矛盾に目をつむり、辻褄合わせが多く、見かけ上の一貫性が印象深い)
  4. 痛烈な否定論も存在するが、その批判に対して真っ当な対応を欠く
  5. 検証が難しいか、検証不能な理論(議論が撞着的で、発展的議論が期待できない)
  6. 支持者が、強固な社会的基盤を築く傾向(時として市民的支持、政治的支持も大きい)
  7. 主なプレイヤーが本来の学界内にいる

以上のような特徴が挙げられるでしょう。病的科学は、疑似科学よりは真正科学に近い位置にいます。かつて有力であった学説にしがみつくことも、病的科学に含まれるでしょう。病的科学は、正統派や批判派への反動として、学派としてのエネルギーが高まる傾向があるようです(自己防衛が強烈です)。その渦中に巻き込まれた人々にとっては、その学説/学派が病理的であるかどうか自覚することは非常に難しいようです。ある学説や見解が境界的であるかどうかは、特に現在進行中の場合は、非常に判定が難しいところです。

病理的状態に到らない、正当な学説の変動と、区別する基準はなんでしょうか。先程あげた病的科学(あるいは科学の辺縁領域)の定義は、いずれも状況証拠です。でもこの場合、状況証拠こそ全てのようです。事実の証明自体は、通常の学問的プロセスによってしか行ない得ないし、結果に広い合意が得られるまでには時間がかかるものです。魅力的な仮説が登場した時、一見して正しそうに見えれば、それに肩入れすること自体は、多くの研究者にとって自然なことです。ただ、これはやばいと分かってくれば、その学説から離れていくものです。病理性が発生するのは、確証バイアスに囚われ、なおかつ社会的広がり(社会ファクター)や権威構造(事実上の政治ファクター)を利用(悪用)するようになっていった時です。

これらは、確証バイアスの心理からくる、必然的な現象のようです。でも、そこに陥らない対策(心掛け)はあるはずです。

  1. 取得データの信頼性について客観的に捉える
  2. データの提示・解釈において、矛盾するデータを無視しない
  3. 過去の研究蓄積の知見や理論を尊重する
  4. 論証の学問的手順を怠らず、通常の正当なプロセスを遵守する
  5. 発表の学問的手順を怠らず、通常の正当なプロセスを遵守する
  6. 学問的プロセスに於て決着していない学説を、一般向けに定説として宣伝しない

事実を多少ねじ曲げて記録したり、意図せずにいい加減なデータを記録してしまう、といったレベルのことは、学問の世界では実はありがちなことのようです。しかも考古学で扱う現場のデータは、非常に多岐かつ多量にわたり、精度もまちまちで、整理がつけにくいものです。無論、意図的なデータの捏造、あるいは恣意的な解釈とは、レベルの違う話です。

重要なのは、ある学説の主張と同時に、適合しない証拠や反証の可能性を追い求め、誤謬や理論の限界を探ること、すなわち確証バイアスと正反対の行為を、自らに課したり、あるいは同僚、及び学界レベルで奨励することです。反論は、科学に対する最大の支援です。これこそ宗教と科学を隔てる研究者倫理の最たるものですが、実際には、これが難しい。確証バイアスや、学派へのシンパシー、あるいは単なる知的怠慢は、えてして正当な批判を正当に受け止めることを、忘れさせてしまいます。(段落追加 00.12.11)

明白な捏造(というより贋造…定義するとすれば、捏造は学問的文脈の上で遂行された意図的操作によるでっち上げ、贋造は学問的文脈から多少ずれた物理的なでっち上げでしょう…贋造は科学史上では少数派です)としては、ピルトダウン事件が広く知られています。上高森・総進不動坂事件も、これに匹敵するものとして記憶されるかもしれません。高度に科学的でありながら、誤謬に帰した例としては、常温核融合が筆頭でしょう。

科学史を紐解いてみれば、学説が権威システムや利益配分システムと結びつき、社会的に根深い広がりをもつことが、往々にしてあるようです(ピルトダウン事件も似たような背景を持っていました)。構造は温存されがちなので、そうした場合の批判者は、かえって異端者として扱われ、批判の正当さが認められた後でも、結果的に最大の被害者になっていたりするものです。

参考になるリソース

00.12.6…00.12.8…00.12.11


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