以下は、2002年5月26日付の『日本考古学協会 前・中期旧石器問題調査研究特別委員会報告(II)』(A4判205頁)の第VI部「旧石器捏造をなぜ見逃したか」の第3章(200〜202頁)である。内容の公益性と意図に鑑み、掲載する次第である。


3.旧石器発掘捏造問題について

岡村道雄

はじめに

 昨年末,日本考古学協会の前・中期旧石器間題調査研究特別委員会の求めに応じて,藤村氏との係わりの経緯,この問題に関する現状認識・心境・感想,捏造方法が明らかになった現在から振り返って見て改めて気付いた点・事例,なぜ捏造に気付かなかったのか,などについて説明することとなった。私は,現在行われている検証作業と今後の研究の進展などに少しでも参考になればと思い,特別委員会委員長・副委員長の前で上記の諸点について説明した。

 ここでは,その際の説明をもとに現時点における検証結果などを踏まえ,かつ,この問題とこの問題を契機として感じている事項を加えて記述した。

一,私と藤村氏との係わり

○第1期:昭和49〜55年

 今から27年前,私が東北大学文学部考古学研究室の助手になった25才の時(昭和49),当時宮城県内で旧石器を捜し始めていた若手研究者や藤村新一氏らのグループが,同じ旧石器を学び始めていた私にそのグループに参加することを誘ってきた。

 考古学の成果を地域の人々をはじめ広く社会に伝えることに少しでも貢献するため,大学の研究室にばかり閉じこもっていないで休日くらいは外に出ようと,学生達にも趣旨を説明・勧誘して同グループに参加することとした。

 翌昭和50年4月には,同グループの活動をベースに宮城県教育委員会・多賀城跡調査研究所,仙台市教育委員会など行政内の専門職員,在野の考古学研究者,同好の士などが集まって民間研究グループ「石器文化談話会」(以下,談話会と略記)が結成された。

 昭和51年には,座散乱木遺跡が選ばれて宮城県初の旧石器時代遺跡の発掘調査が談話会によって実施されその発掘成果は報告書に取りまとめられた。同報告書では問題点が整理されるとともに新たな課題が設定され,3年後の昭和54年には第2次の座散乱木遺跡の発掘調査が実施された。

 発掘調査は,民間で行う学術調査として多様な人々が自由に参加していた(問題1)。一方で高名な旧石器研究者や自然科学者による現地指導・発掘資金カンパはもとより,多くの人々に絶大な支援をいただいた。実に多くの人々から支援を受けるとともに,多くの方々に調査の進捗状況をオープンにし,率直な意見を種々いただいていた。

 なお,談話会の例会としては,遺跡踏査と冬場や雨天には勉強会が,隔週日曜に開催されていた。

 昭和53年春に,私は東北歴史資料館に奉職した。資料館における私の任務は,教育普及活動と地域に密着した考古学研究であり,当初からの重要な研究課題は貝塚であった。そうした職務に追われつつも,しばしば談話会の例会に参加して勉強会の講師などを務めた。

○第2期:昭和56〜62年春

 昭和56年に談話会によって実施された座散乱木遺跡第3次発掘調査に並行し,東北歴史資料館では展示『旧石器時代の東北』と研究発表会を開催して,前・中期旧石器を含めて広く県民に旧石器研究の成果を紹介した。こうした中で,学界における「前期旧石器存否論争」も収束に向かい,宮城県は昭和59年度から「宮城県旧石器時代遺跡群の調査研究」を東北歴史資料館の研究事業と位置付け,旧石器時代の研究を開始した。

 その調査研究の中で,まず,座散乱木遺跡より層位的に古い馬場壇A遺跡の発掘調査が開始された。私は馬場壇A遺跡の第II〜IV次調査の発掘担当者(発掘届に記載された調査担当者の一人)として,土曜日・日曜日も継続して現地や宿舎に詰め,発掘現場と宿舎の管理・運営などを担当した。発掘は,談話会はもとより,全国から多くの研究者や学生なども受け入れるスタイルで行われた。すでに述べたように,私は総括・事務的な任務を負っていたため,自ら発掘を直接手がける時間的な余裕は少なかった。発掘終了後は,資料整理・報告書の作成(1986『馬場壇A遺跡I』)に携わった。当時,発掘調査に当たっての私たちの姿勢として,考古学的な所見だけでなく,多くの自然科学者との連携に努め,座散乱木遺跡第3次調査から馬場壇A遺跡の発掘までは,自然環境や生活復元(火処の推定,石器及び周辺からの脂肪酸の抽出),材質分析,地質・土壌分析,年代測定などを試みた(問題2)。

問題1 民間の石器文化談話会による学術調査については,次のような運営上の不安の声があった。

  1. 専門性に応じた構造化・組織化による役割分担が図りにくい。
  2. 多様な人々が参加しており,各参加者の専門性の程度や参加の動機,生活などの背景が把握しにくい。
  3. 明確な責任体制がなく調査の指揮・管理,安全確保,経理などが不十分になりやすい。

問題2 旧石器分野の考古学研究については,次のような批判がある。

  1. 自然科学的分析にもたれかかり安易に分析結果を採用した。
  2. 通常の考古学とは異なり調査者には自然科学的素養が不可欠であるにもかかわらず,そちらについて無知な調査担当者が多い。
     しかし,自然科学的な方法はそれぞれ方法的に独立している場合が多く,考古学とも独立的である。そこで座散乱木遣跡などの調査においては,発掘現場という「場」を用意してそれぞれの方法をそれぞれの自然科学分野の専門家に実験してもらい,その一方で私たちは方法の基本を理解して異分野の分析技術などに関する吟味能力をもち,相互の議論を踏まえて客観的に結果を総合し判断する,という姿勢で臨んでいた。

二,当時,発掘現場で話題になっていたこと

 当時,各遺跡の発掘調査などに携わる中で,発掘現場などで皆の話題になっていたこととしては,次のような事柄がある。そのうち多くのものについては,発掘現場の担当者や自然科学者などと討議し,報告書において一定の解釈を示すとともに,問題の所在を明記することとしていた。

 仙台市山田上ノ台遺跡では,細かく薄く堆積した水成堆積の数層にわたって石器が出土した。通常は安定して堆積した陸成の火山灰土から石器が発見されるので,水成堆積層の数層にわたって石器が出るという通常と異なる現象の意味について議論した。しかし,結論的には,付近から石器が流れ込んだ結果と解釈した。また,粗粒の安山岩製石器については,石器かどうかも検討された(仙台市教育委員会1981『山田上ノ台遺跡発掘調査概報』)。

 座散乱木遺跡第1・2次発掘調査では,動物形土製品が出土した層位と位置が不明瞭であったこと,風倒木痕内のロームブロック(ロームの塊が横転した地層)の上面のやや下位から水平に並んで石器が発見されたことなどが検討課題になり,風倒木痕も含めて遺構か自然の落ち込みかどうかについてや,遺構形成のメカニズムと石器の出土状況などについても検討した(石器文化談話会1978・1981『座散乱木遺跡発掘調査報告書I』・『座散乱木遺跡発掘調査報告書II』)。

 宮城県の中峯C遺跡では,二重パテナが検討され(宮城県教育委員会 1985『中峯遺跡発掘調査報告書』),座散乱木遺跡第3次発掘調査では厚い褐色鉄の付着(石器文化談話会 1983『座散乱木遺跡−考古学と自然科学の提携−』)が,自然科学者の意見も踏まえて検討された。

 一般的な話題となり皆で議論もした点としては,しばしば等間隔で石器が出土すること,発掘区を拡張して石器集中地点の拡大を期待しても追加資料を得られないこと,開発事前の緊急発掘が全国で毎年1万件も実施されているにもかかわらず類例が追加して発見されないこと,などが挙げられる。

三,再発掘などによる検証の成果

 今回の事件に係る再検証の過程では,関係遺跡の再発掘調査及びそこから出土した石器の観察により,次のような事柄が明らかになったものと認識している。

 まず,再発掘調査によっては,福島県の一斗内松葉山,山形県の袖原3,宮城県の上高森では,何者かが地層の上部に隙間を掘って石器を挿入したと思われる痕跡が確認された。

 一斗内松葉山,袖原3,埼玉県の秩父,北海道の総進不動坂では,かつての発掘区の壁ぎわで検出された石器群あるいは地層断面で並んで発見された石器群について,つながりを確認するために新たに発掘区を拡張しても石器は発見されなかった。

 上高森では本来同一地層から発見される石器の集中部が,隣り合わせた発掘区で形成時期の異なった地層にわたってかつて発見されていた事実が新たに確認された。

 また,一斗内松葉山では厚く堆積した軽石層から,袖原6では火砕流堆積層から,それぞれ石器が採取されていたことが判明した。

 次に,かつて出土していた石器の観察によっては,直線状の鉄分付着,引っ掻きキズ,黒色土の付着,及びそれらが複合した特徴が認められる石器が抽出された。これらは,いずれも縄文時代遺跡などで表面採集された遺物の特徴といわれるものに類似する。

四,捏造を見抜けなかった原因

 以上の通り,この当時の調査において私を含め調査従事者は,決して手を抜いたり馴れ合いで発掘調査・研究を進めていたのではない。多くの自然科学者との共同研究や旧石器研究の権威の指導を仰ぎながら,考え得る限り最新の方法で調査を行っていた。

 しかし,今顧みれば,15年以上前に今回の問題の対象となっているいくつかの発掘に直接係わっていた者として,結果的に今回のような事態に至ってしまった理由を考えると,何よりもごく当たり前のこととして発掘現場に悪意が存在する可能性など夢想だにしなかったことが,まず挙げられよう。考古学を愛する同士の善意を信じていたし,疑うことは人の道に反することでもあった。さらに冷静に考えると,調査研究の態度として,現場において石器が見つかったという事実を動かない基盤に据えてその研究や考察を進めたことが挙げられる。

 また,私など共に発掘していた多くの研究者が捏造を見抜けなかったのは,石器が表裏のどちらを向けて出土したか,どの方向を向いていたか(つまり出土状況)を,石器の形を図に表して記録していたにもかかわらず十分にチェックできなかったこと,出土石器を仔細に観察して実測図を作成していながら付着物などを十分に観察しなかったことは,一般的な当時の旧石器時代遺跡の発掘現場でのやり方がいかなるものであったとしても,結果的には自らの当時の力不足と未熟さからくるものであった。

 今後は,この経験と気持ちを前向きに生かし,捏造を見抜けなかった原因や背景,研究方法上の問題点などを多くの関係者と共にさらに分析・検討し,今後の研究を進めていくための教訓としたい。

○第3期:昭和62〜平成12年11月まで

 昭和62年に私は,文化庁記念物課の文化財調査官に転じた。職務は,埋蔵文化財の保護のため,全国に年間100日ほども地方自治体に出向き,重要遺跡の保存,開発の事前に行われる緊急発掘調査(地方自治体などが行う行政的な発掘調査であり研究者が行う学術発掘調査とは異なる)についての協議,行政的取扱いなどについて助言を行い,行政調査・緊急調査の方法,費用,出土品の取扱などについてのルールを作り,費用の負担が困難な場合や遺跡の範囲・内容確認目的のための発掘調査に対する国庫補助金の支出,巡回・速報展『発掘された日本列島』の実施などであった。

 研究活動は上記のような文化財調査官としての職務とは別に,休日や深夜に自宅で縄文文化を中心に学んできた他,主に縄文時代の文化・社会のあり方の紹介などのため,執筆活動を行ったり時には講演・シンポジウムや対談の要請も受けてきた。個人的には,少しでも発掘の成果を社会に広く伝え,埋蔵文化財の保護に対する一般の理解を深めるとともに,協力を得ることを心掛けてきた。

 旧石器研究について私はすでに平成2年に一応の区切りをつけ(岡村1990『日本旧石器時代史』雄山閣出版),先にも述べたように最近の研究テーマは「縄文文化」にシフトしてきた。しかし,近年も東北旧石器文化研究所の発掘成果は,メディアも大きく取り上げる考古学上の重要な成果と認識していたところであり,同研究所による学会発表などを素材に,他の考古学上の成果と同様に評価し,広く分かり易く紹介した。

 なお,上京してから6年間は,東北歴史資料館の馬場壇A遺跡・高森遺跡の指導を要請され,数度発掘を視察した。しかし,平成5年以降はこの年に独自の調査を開始した東北旧石器文化研究所はもちろん東北歴史資料館の発掘調査も参加はもとより見学することもなかったし,発掘された石器を実際に見学できるような機会もほとんどなかった。ただ,私的に上高森遺跡2次と福島県の張セ笠張の発掘現場を見学したに留まる。

 前述のような研究成果の私的な紹介は,決していい加減に,安易に紹介していたのではなく,少しでも早く分かり易く最新の調査成果を伝えたいとの思いで私なりに一生懸命取り組んだ結果であった。しかしながら,結果として多くの人々に誤った情報を流してしまったことについては,申し訳ない思いである。

おわりに

 現時点での私の率直な認識とこれまでの経緯を述ベ結果として捏造に気付かず,それを無批判に受け入れて研究に取り入れ,発表してしまった当時の力不足と未熟さを反省したい。今後ともこれまでの教訓を生かしながら,現在も鋭意努力を重ねている私と同様な立場の旧石器研究者と共に,一時も早く正しい日本列島の黎明が明らかになるよう,そして考古学全体の信頼回復も目指して努力していきたい。


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