01.1.22…推敲01.1.24

学問の動機

 考古学のみならず、学問に目的や意義があるのか、という問いは普遍的なものです。基本的な動機(モーチベイション)はいくつかあるのですが、

  1. 新発見の純粋な感動
  2. 現実に差し迫った問題の具体的解決
  3. 体系づけられることで、際限なく増幅される好奇心
  4. 不充分ないし誤謬と思われる見解に接した時の義憤、あるいはもっと発展させる余地があると認識した時の提言

 こうしたところが基本的なものだと思います。ここでは、技術も科学も学問も分野も区別しておりません。

 1. は動機としては一番原始的です。一番参入しやすい要素であり、天文学や生物学の世界にアマチュアが多大な貢献をなしているのも、発見の要素です。ただし、新発見の根拠は従来の知見との比較ですから、過去の知見に詳しくないと充分な感動もありえません。遺跡の現場から出土する遺物は、掘り手がその瞬間に初めて蘇らせた遠い過去の資料です。一般に、そのアウラ性(一種の神秘性)が、発掘の最大の魅力です。しかし学問的な動機としては、本来一番弱いものです。

 発見は名誉に結びついています。それ故に、非学問的としか言いようの無い、政治的構造や権威構造に結びつきやすいようです。発見は、一番分かりやすく、一番危険な動機でもあります。

 2. はモード論(モード2)で言われるところですが、考古学でいえば、開発で出土してしまう遺物や遺構があります。それらは破壊や廃棄に任せてよいものとは、とても思えない。結局、体系づけられた調査や整理の対象とせざるをえない。いわゆる埋蔵文化財の価値を認定できるのは、蓄積された考古学的知識があるからです。非専門家が正しく認定するのは、無理な話です。

 ありていに申せば、その係りの人(分野に応じた専門家)になるということです。

 学問(科学でも技術でも同じことです)の多くは、何時の時代でも、具体的な問題の解決をせまられ、そこで発言や提言をせまられることがあります。しかも理論的に正解がないものすら多い。そこでは判断をせまられます。実際には、十分に調査していくと、(一般には気づかれにくいが)どこかに提言の根拠となるものが存在しているようですが、それを出来るのは、やはり優秀な研究者や学者ということになります。もっとも、その次には、それを理解してもらい、あるいは理解してもらえなくても、上手く誘導していくという努力やテクニックが必要になります。場所や状況が悪いと、時として自らの命すら危険にさらすことになります。

 3. は知識の体系性を指しています。そこで問題になるのは、素人判断(大衆の持つ見解=民俗的知識)、擬似科学、病理的科学などです。それらは、多分人間の本性に由来するもので、妙に魅力的で、分かりやすい体系性をもっていたります。でも結局、希望的観測や確証バイアスに基づいたものであり、事実に基づくものではないので、実際に役立たないばかりでなく、常に矛盾が噴出し、議論は撞着的で、徒労に終わることになります。

 しかし正当な体系性を持つようになると、議論が整合性を持ったものになり、理解可能になり、議論の発展性が望めることになります。それ故に、面白いということになります。正しい方向性と秩序を与えられた好奇心は、それ自体が愉悦になり、最も有力な動機となります。

 4. は前項の続きですが、提出された議論に対するレスポンスやリプライは、最大の動機になりうるものです。反論や、少し違った角度からの提言は、研究活動における最大の動機です。眠っていた探求心に、再び火がつくこともあります。掲示板(BBS)でも、これは最大の動機になっています。ただし、正当な体系的知識に裏付けられていないと、議論が撞着的になり、むしろそうした議論から遠ざかる動機になったりします。正当なレスポンスが得られないと(時として権威的ないし政治的圧力がかかったり)、まさに嫌気がさしてしまいます。

考古学固有の立場

 もっとも、多くの研究者にとって、研究の前提は必ずしも共有されておりません。議論が噛み合わないことは多々あります。特に考古学は学問として未成熟な側面があり、すっきりした共通の議論は難しいところがあります。日本の考古学における全ての議論は、極端にいうと個人に属しています。その限りではやむを得ない必然的なものに思われるかもしれませんが、実際には考古学だけではない広範な知識の、絶対的不足に起因していることがあります。

 殆どの考古学は、地域限定で資料の蓄積に重点を置いています。資料は常に不足しており、常に補充されているので、それ故に興味が持続し、「地域考古学」が隆盛していきます。資料の蓄積と比較は、新たな資料の認定に極めて有効です。ただ、その実態は「資料学」であって、より高次への発展は別の範疇とされ、時間的にもそこまで余裕がありません。地域史や資料学という立場は、意義や動機として十分なものがあります。現実に面白いのですから(無論、そこまでのめり込んだ場合の話ですが)。

 考古学は、人文科学・社会科学・自然科学という学問の大別のどこに属するでしょうか。日本のアカデミズムでは、歴史学の一部になっているようです。しかし現実的に考えると、それらの全てにまたがっているとしか思えません。

 殆どの考古学者は、自らを歴史を学ぶ者と位置付けています。しかし考古学は物質文化の科学です。いわゆる歴史時代以降なら、言葉(文書)が残っていますから、照合が可能です。照合は歴史学的な仕事です。しかしそれが考古学プロパーの仕事かどうかは、疑問が残ります。

 人文科学、社会科学、自然科学それぞれに、学問のパラダイムが異なります。どこかに属していないと、議論も研究も始まらない可能性があります。よく中位理論が話題になりますが、低位理論は自然科学に、中位理論は社会科学に、一般理論は人文科学に帰属せしめるのが、最もすっきりした理解です。ある意味で考古学の分割です。(これが現実ならば)筆者としては、社会科学に属するのが魅力的ですが、趨勢としては、自然科学の方が科学性が確保できるだろうという理解にあるかもしれません。

 具体的に考古学の分割がありうるのかどうか、(研究者の行動に依存する問題なので)明言は出来ませんし、そもそも多くの研究者にとって現実の問題ともならないでしょう。また一般的な理解では、「個々の資料にあたって、その分析や解釈に多様な手段を適用するのは当然のことで、その意味で自然科学や社会科学の助けを借りることになる」とされているようです。学際的ともいわれたりします。しかし、ホストになるべき考古学の立場自体は、果たして成立しているのでしょうか。考古学は、なぜホストのような顔をしていられるのでしょう。

資料の独占

 地質学との関係でもそうですが、考古学は資料を握っていることによって、特権的立場にいます。実は考古学独自のスタンスは、資料の(事実上の)独占に依拠しています。資料の独占は、建前上は存在しないかもしれませんが、事実上、現場に立会い、その保管や整理に立ち会っている人間が強いのは、人間社会の政治的必然です。資料数も膨大であり、他の立場の人が研究に参入するのは、経費の面でも殆どありえません。それでも本来必要なことは、資料の共有であることを、確認しないわけにはいきません(それをどのように保証するのか、その仕組みまで、ここで論及することはかないませんが)。

 考古学特有のメリットは、多分、通常の歴史学で把握し得ない、埋もれた過去の復元可能性にあるとされています。考古学の本分は、発掘されたモノとモノの関係性を整理し、モノ達の直接的な背景を推理することにあると思われます。そして発見資料とその直接的解釈を公表するまでが、考古学の本来の役割なのでしょう。そこまで到達するだけで、普通は力を使い果たしてしまいます。


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