● 00.12.10
アーキオグラフィ(Archaeography:文献)は、エスノグラフィ(民族誌)とエスノロジー(民族学)の補完的な関係をヒントにしている。実践的な考古誌的調査と記述は、考古学の必須の前提である。かつて人類学で揶揄された「アームチェアスクール(安楽椅子学派)」へのアンチテーゼとして、フィールドワークの科学性と重要性が唱えられてきた経緯を想起したい。考古学も当然、一次資料から出発する(無論、何ら二次資料研究の否定を意味しない)。一次資料の作成過程に科学性の導入が不可欠なのは、いうまでもない。アーキオグラフィは、いわゆる低位理論(安斎 1992)や記述考古学(渡辺 1996)の立場に近い。ただしアーキオグラフィは、デジタル情報技術をメディアとして活用したいという文脈とタイミングから発した概念であった。
緊急発掘調査(Rescue Excavation)の隆盛以来、現実のアーキオグラフィ(Archaeography)は、考古学におけるモード2を現出させつつあるようだ(モード論:マイケル・ギボンズ他 1997)。モード1は伝統的な大学中心のアカデミズム、モード2は社会的需要に応じて勃興し、社会的コンテキストに置かれ、実際的にも社会的プロジェクトと化した実践的な科学研究活動を指すと理解される。モード2の状況下では、権威ある学術雑誌や大学などの権威システムにおさまり切らず、多様な研究拠点や発表形態の中に拡散していく。これは、まさに埋蔵文化財の世界が考古学と共に辿ってきた道に他ならない。モード1とモード2は対立するものではなく、分離可能でもないが、学問の社会的有様として異なっており、学問のマーケットとして異なる構造を展開しつつある。モード論は、考古学と埋蔵文化財の世界の理解に有効である。膨大な同人誌や埋文センターは、モード2の結節点の一例である。「埋蔵文化財センターの考古学」(金子 1998)を、モード2の一環として再定義することは、意義あることかもしれない。
モード2は、知識生産層の拡大、知識への社会的需要の増大、情報化社会、デジタル情報技術等といった多様な連関を持っており、その有り様は、決して一様ではない。<00.12.12 一文追加→>政治や行政によって定められた制度(埋文行政、埋文センター等)が、モード2の動向を規定する要素も大きい。専門家の社会参加(コミットメント)の増大や、市民生活との密接化、マスコミの関心やモード1をバイパスするような普及形態は、危うい要素も持ち合わせている。その危惧は、上高森・総進不動坂事件で露呈している。
これまでの報告書の有り様を考えると、モード1の論理から発している限り、抜けきれないものを感ずる。少なくとも、遺跡情報量の爆発的増大や社会的需要(考古学は意外に大衆的な関心度が高い分野である)に対して、答え切れていない。そこを打破する文脈上、アーキオグラフィの概念に加え、モード2の認識は有効かもしれない(と同時に、危うさに陥らないようにする必要がある)。
モード2において、報告書の要件や構成は、モード1と全て同じである必要はない。例えば、カラー主体の概報がそうだし、情報技術を活用した出土資料のカタログ化と速やかなWeb公開などは、問題設定や論証を重視するモード1の論理からは生れてこない革新ではないだろうか。無論モード2は、学術性の、異なる社会学的基盤を意味しているにすぎない(論証自体の普遍性は変わらない)。ただし情報量に関しては、基本的にモード2が優位に立っている。情報学的アプローチが、真剣に検討される可能性も、モード2によって開けてくるかもしれない。
アーキオグラフィの認識は、調査員を、アーキオグラファ(Archaeographer)として定義しなおすことを意味する。職業的なアーキオグラファは、モード2の状況下で、モード1とはやや異なる「実践」と「学」を経験する。
アーキオグラファに倫理綱領を定めることは、充分に可能性のある話である。その可能性を以下で試してみたい。調査への動機は、職業的なものであって構わないが、知的体験と貢献を主たるモーチベーションとする点で、モード1と、さしたる違いはないはずである。貢献は、学界と市民の双方に向けられる。
考古資料(埋蔵文化財及び関連資料)の発見、取上、整理、抽出、記録、保管、収納、公開、利用の諸過程における、アーキオグラファ(Archaeographer:考古一次資料の発見者・記録者・及び保管者)の行動倫理を考える。これは本来、理念的な指針を与えるべきもので、具体的な取扱いに関して最終的なルール作りを意図すべきものではないと思われる(その意味で、綱領あるいは憲章が妥当かもしれない)。しかし実際に列挙してみると、細則的かつ具体的にならざるをえないようだ。あるいはここから、理念的な要素を抽出した方がいいかもしれない。 以下に示すものは、あくまで思考実験であり、いずれの機関とも関わりは無い。この種の考察は、いずれにせよ必要なものと考える。