01.5.5…01.5.6

捏造問題の構図

正統と異端の構図

 捏造問題が発覚した時、一番驚かされたのは、「考古学会」が責められ、国会でも取り上げられたことだ(一部では立法措置の可能性まで取り沙汰された―立ち消えになったらしいけれど)。関係者なら誰しも「考古学会」は日本考古学会の固有名詞であり、どうやら日本の考古学研究者全体に関わる組織としては「日本考古学協会」が該当すると考えた。また「考古学会」は考古学研究者が事実上属している「研究者コミュニティ」を指していると考えても良かったのかもしれない。これは「考古学界」としての解釈である(当たっているのかもしれないが、うがちすぎな解釈だろう―実際に「学会」と名指しされたのだ)。要するに、考古学を仕切る権威の源泉としての統一組織(ないし「場」)が存在し、そこが一義的な責任を負うだろうという大衆的憶測が存在したのである。

 ちなみに国会や文化庁は、ただ職責通りに動いただけで、特に職分を越えるような動きはとっていない。この点、国会質問者よりも、答弁者の方が見識が高かった。

 身近な当事者が捏造を見抜けなかったことの「不明」はともかく、なぜここまで問題が放置されたのか、という責任論が持ちあがった。一種の管理責任が、何が正しいかを決める権限が、どこかにある、という素朴な考え方が存在したのである。だから具体的な組織名が取り沙汰されたし、強制力を求めて、警察力や司法の力まで取り沙汰された。実際、関係する都道県当局や日本考古学協会はアクションを起こしたが、決して大衆の期待に促されたのではなく、それぞれの立場として当然のアクションでしかない。

 問題なのは、考古学界における正統と異端の葛藤という構図である。仮に文化庁の関係や教科書掲載の流れをみて、「新たな前期旧石器推進派」をめぐる主流・非主流対立構図が存在したかというと、それは疑わしい。80年代に真っ向から批判を行った研究者が(いわば)黙殺され、相手の陣営から冷笑されたのは、学界史としても残る事件かもしれないが(ただし多摩ニュータウン471-B遺跡をめぐる事件は悪質であり、徹底批判は不可欠である)、あくまで狭い世界の話であり、そもそも旧石器は考古学の一部門にすぎないし、特に前期旧石器に関わる論争は旧石器の分野でも非常に限定されたものにすぎない。考古学界全体としては、唐突で異様な事態に、面食らった格好になっている。

 しかし大衆的理解としては、脚光を浴びていた前期旧石器推進派をめぐって、正統から異端への転落の構図が見えたに違いない。そうした雰囲気を、旧主流派(?)は敏感に感じたと思われる。だからこそ、学問上の文脈に徹して問題に取り組むべきだと、彼らは主張する(その主張は決して間違ってはいない)。捏造者や周辺の当事者を対象とした「異端審問」はまだ行われていないけれども、その匂いは漂ってきたかもしれない。少なくとも、一種、学問上の裁判や判決を期待する雰囲気が漂ってきたのである。

 倫理的問題については、捏造者一人の問題にしかならないので、特に広がる話ではない。今は公式には遺跡の真贋の判定が問題になっている段階であるが、一方で学問のあり方を自省する動きもある。

 学協会の役割は、自由かつ欺瞞のない学問研究が行われる環境の醸成である。正統と異端の構図は、異様なものである。無論、問題の解決を目指すなら、無用の構図でしかない。念のために付け加えると、本気で心配しているわけではなく、そうした構図を見てしまう大衆的理解の方を心配しているのである。時として、大衆的理解を先入観として持ってしまう「専門家」のことは、多少心配ではあるが。

ナショナリズムの構図

 捏造問題を経て気がついたのは、前期旧石器遺跡が「ナショナリズム」を背負っていた事実である。国外における報道や、国内でも教科書問題と併せて論じられた。理論的には、種のレベルで異なる前期旧石器文化が(事実存在しても)、日本の歴史と関係を持つはずもないのだが、そんなことは問題にはならないのだ。実は、埋蔵文化財は「国民の共有財産」であることによって、必然的に「ナショナリズム」を背負っていたのである。前期旧石器は、研究上の文脈や研究者の認識とは関係無く、まさしく貴重な埋蔵文化財であることによって、大衆的理解の中で「文化」を背負っていた。それは人類共有の文化遺産ではなく、日本列島の悠久の過去を語ることによって、古墳や銅鐸を越えた、別次元の歴史を語っていた。歴史を語るという一点で、前期旧石器も古墳も通じていたのだ。どのみち、日本列島で出土したものは、日本の「文化」と見なされるのだ。なぜなら、それを管理するのは「国民国家」たる日本の行政機構なのだから。

 念のために付け加えるのだが、ナショナリズム(近代国民国家のアイデンティティ)との関わりは、現代の日本社会では、それほど実態的なものとは思われない。行政当局は冷静に動いただけだし、それは至極当たり前の程度の事であって、激しい反応は一部の「政治家」や「論者」に限られていた。一般的には、捏造問題は学界の体質や遺跡発掘の劇場性の問題として受け取られていたと思われる。捏造問題の本質は、学問上の蹉跌であって、劇場に詐欺師が活躍していただけの話である。なお、あまりにも悪い評判を広めた故に「国辱的」だったという話は、まったく別の問題である。

 埋蔵文化財におけるナショナリズムの構図は深い。本稿は推敲中である。


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