東北旧石器文化研究所
鎌田俊明・梶原 洋
何よりも真っ先に,今回の旧石器ねつ造事件が,日本考古学界への重大な不審につながり,学界の名誉を著しく傷つけたこと,そして社会・教育界に広い混乱とご迷惑をおかけしたことについて,当事者としてその責任の重さを自覚し,心からお詫び申し上げる。
2000年11月4日夜,私たちには,仙台市内のあるホテルの一室で言葉にならないほどの衝撃を受けた上高森遺跡におけるねつ造の映像が末だに目に鮮やかに残っている。この間,嵐のようなマスコミ攻勢や,個人的な中傷を含めたいわれのない疑いやバッシングに我々は心身とも疲労困憊し,体調を崩しながらも多くの方々の励ましをいただきながら,事件の解明に協力し疑惑に応える努力を重ねる中で,何とか耐えてきた。
あれから1年数ヶ月,各方面のご尽力によりねつ造に関わるベールが一枚一枚剥がされている。とくに,2001年4月以降の日本考古学協会前・中期旧石器問題調査研究特別委員会戸沢充則委員長による藤村新一への事情聴取の結果,1981年座散乱木遺跡第3次調査,馬場壇A遺跡,高森遺跡など日本列島旧石器時代前・中期の根幹をなす遺跡のねつ造が告白された。また,他にも数多くの遺跡についてのねつ造行為が彼自身の告白・メモ等に記載され,彼のねつ造行為がいかに根深く,長期,広範囲に及んでいたか改めて驚愕するばかりである。
当初,我々はここ2,3年間の藤村の精神が不安定であり,我々を含めた多大なプレッシャーが彼を追いつめ,あのような蛮行をさせてしまったと考え,その責任を痛感していた。しかし,これらの一連の告白により少なくとも20年前の座散乱木遺跡第3次調査にまで遡る可能性が強くなり,より根本的で壊滅的な事態になってしまった。
彼と20年以上,共に調査研究をしてきた者として,その行為が見抜けなかったこと,その行為を結果的に長年許してしまった我々の責任はきわめて大きく,社会的,教育的な影響を考慮したとき,研究者として誠に恥ずべきミスを犯したことの反省を痛切に感じている。そのような中で,我々が果たさなければならないことは,「20年以上だまされました。ごめんなさい」では済むはずもなく,あらゆる検証作業に最大限の協力をする,未刊の報告書を刊行する,そして多くの関係者から記録や情報を収集して,「何故,20年以上も多くの人々がだまされてきたか」を解明することにあると考える。それが日本の旧石器研究の信用を回復し再建する上で,当面まず,我々に出来る責務であると信じる。
以下の各種記録,情報などの分析を通して,ねつ造の目的,タイミング,手口などについて解明したいと思う。ただし,このレポートは,あくまで情況証拠として提示できるものであり,当然のことながら,これまで実施されてきた,あるいは実施されるであろう,発掘や遺物の科学的検証に優先するものではないことを,とくにお断りしておく。
なお,長年我々と調査研究を共にしてきた当研究所の他の理事からも,今後の我々のさらなる検証の中で,事実の解明に役立つ彼の情報が得られるものと期待している。
これまで長期にわたる我々の調査・研究活動に多大のご指導,ご協力,ご支援を賜った方々には,このような厳しい結果となってしまい,深くお詫び申し上げます。とくに,若い青春の1ページを誇りを持って汗水を流しながら従事していただいた学生諸君に申し訳なく,断腸の思いです。
鎌田が藤村と知り合い,当時旧石器遺跡の希薄だった宮城県を中心に,旧石器発見を目指して踏査をはじめた1974年4月以降の経過を,鎌田自身の記録(メモ,日誌等=「鎌田メモ」),梶原の記録と記憶,藤村がまとめた記録(「藤村記録」),そして『石器文化談話会会報』等に基づいて整理した結果,以下のようなことが分かった。
1993年以降,東北旧石器文化研究所が発掘調査した遺跡における,藤村の参加と石器発見の記録を表に示した。
以上のように,1993年以降,東北旧石器文化研究所が今まで発掘してきた遺跡の調査経過の中で藤村が参加した日を中心に石器等の集中的な発見があったことが指摘される(他のほとんどの遺跡の発掘でも同様な指摘がある)。当人の告白でもその一部が直接語られてきたし,後述する関係者からの情報にも多数記憶されている。このように,改めて藤村の旧石器発見という行動不正常さに深い疑念を認識せざるを得ない。これは先に示した踏査記録における藤村参加の石器発見率と同じ傾向といえる。多くの者が直接参加・同行してそれらの“発見”を是認してきた。とくに最も長期間,数多く同行してきた我々の不明を深く反省せざるを得ない。
ここでは,『石器文化談話会報』(以下,会報),鎌田・梶原のメモと記憶,日誌などに残っている記録,関係者から寄せられた情報を元に,藤村の「今にして思うと」不思議な言動について時系列的に事例を報告する。
風倒木痕のマウンド状の埋土を掘り下げていったら遺物が同一レベルで出土した。これは,当時からきわめて不自然であったので調査団内部で議論になったが一度に瞬間的に落ちたものと解釈した。
同調査で,動物形土製品が藤村によって発見されたが,やや柔らかい窪地状の土層中から発見されたと記憶している。これは調査団の何人かで認識されていたと思うが,堆積土の部分的な違い,もしくは遺構と解釈された。
藤村が結婚を控えて,「藤村さんの神通力がなくなるのを心配しております。」と,初めて「神通力」という言葉が記されている。
鹿原A遺跡で,藤村さんは単独で6点の石器を見つけ,その超能力を見せつけました。…他の人たちはいくら削っても出ませんでした(会報12号,1979.6.1)。
旧石器時代終末の6c層から,有舌尖頭器などと共に羽状縄文土器が共伴した。また,旧石器時代後期の石刃,ナイフ形石器など共に,型式学的には縄文時代とみられるドリルが共伴した。
後期旧石器の層から,赤色の斑点が付着した二次加工ある剥片が発見されたが,出土状況から出土後の付着でないかと疑い,非破壊分析を依頼したことがあった。
調査開始から1週間も石器が発見されなかったが,10月3日に藤村が来て5分もしないうちに,13層上面から石器が発見された(調査日誌,藤村記録,藤村告白)。
同遺跡10月5日朝,宿舎で鎌田が朝早く起きると藤村も起きていた。その時,それまでも度々話題になっていた前年調査の山田上ノ台遺跡出土の粗粒の安山岩製石器について藤村と話した記憶があるが,その日に15層上面から同様の石器が発見された(調査日誌)。しかも,石器は前日15層を掘り上げ,柳沢火砕流を2m近く深掘りした場所に接して発見されたので,その作業中に石器も上げられたのではないかと皆が心配し,排土を調べたが,石器は見つからなかった。おそらく藤村は5日の朝早く現場に行って埋めて来たのであろう。
座散乱木遺跡の12層以下の地層について,早田勉氏らと我々の間で論争があった。即ち,早田氏は12層以下には柳沢火砕流から飛び抜けたパイプ構造が認められ,同一テフラであり,13層上面,15層上面に生活面があることがおかしいという指摘であった。それに対して,現実に座散乱木遺跡の13層上面と15層上面から石器が発見されていること,石器が発見された付近にはパイプ構造が認められないなどの理由で,12層から14層までは柳沢テフラが再堆積したものと解釈し,一応決着した。
東北歴史資料館で開催される「宮城県旧石器時代研究会」の下調べのために,柳田・鎌田・小川は薬莱山の地層観察に出かけた。事前に,藤村より「薬莱山F地点に行って見さいん。石器があっから」と言われていたので,現地に行ってみると,予言通りピック状石器が断面から顔を出していた。
本遺跡で別な層位から採取された石器が接合して,議論になったことがある。注記の間違いということで一応決着した。
この日は終日踏査をしたが,旧石器は見つからず,成田山遺跡で解散することになったとき,「解散時にどこかへ消えていた藤村さんが同遺跡でたまたま石器を発見」(会報45号,1982.10.13)
石器文化談話会会員のご主人が,藤村が石器を差し込んでいるのを目撃し,会員の奥様に話したが,あり得ないと一笑に付されたという。
「(前略)やはり,藤村Dayでした。大原遺跡D地点は,つい最近藤村さんが2本の石刃を採集していたところですが,到着早々,断面から顔を出している石器を藤村さんが見つけ,(略)」(会報52号,1983.6.17)
調査中に藤村が排土から石器を発見した。その場所は非常に慎重に掘り進めたところだったので,慎重に同じ排土をふるいにかけたが,いくらやっても,その後は1点の石器も見つからなかった。これも藤村が持ち込んだ可能性があるだろう。
旧石器時代終末の遺物が,近世の溝埋土上部にほぼ同一レベルで出土した。当時は近世溝が埋まっていく過程で,溝の縁辺近くの遺物集中地点がずり落ちたものと解釈した。また,同遺跡最下層の石器は第三紀凝灰岩の風化層に食い込んで発見されたが,この層自体を再堆積と考えた。
32,33層の石器は,藤村が一輪車に積んだ排土の中から最初に見つけた。
1986年4月26日,12月12日と再三の踏査にも関わらず,前・中期旧石器遺跡は見つからなかったので,翌1987年の再踏査に期待した。しかし,5月2日の踏査に藤村は急遽参加できなくなり,鎌田がどこに行ったらよいか尋ねたところ,前年12月に最後に行き,日没のため中途断念した多摩ニュータウンNo471−B遺跡,東京パミス層まで指定された。鎌田らが現場に到着直後,予言通りの中期旧石器が発見された。
志引遺跡と同様に第三紀凝灰岩風化層に食い込んで石器が出たり,古い谷の縁辺ぎりぎりまで石器が出土した。第5石器集中地点で,当然石器が発見されることが予想されたが,ど真ん中の畦を外したときに何も発見されなかった。
2m ×2mのグリッドの中から,藤村が芹沢長介氏の目の前で初めて石器を発見した。
すでに知られていた薬莱山周辺の遺跡間接合の事例を元に,奥羽山脈を越えた頁岩の供給源との接合例の発見を目的にして,山形県庄内地方から尾花沢市周辺の踏査を行った。同行者:藤村・鎌田・梶原・横山。
午前11時30分頃,奥羽山脈を越えて初めて袖原遺跡群に到着。低位の袖原1遺跡で縄文時代の土器や石器を表採後,高位の丘陵北端の袖原2遺跡で地層の観察をした結果,薬莱山周辺の地層と照合することが出来た。同地点で大型の縦長剥片を表採。周辺を30分ほど探索したが,他に発見がないので,昼食後,尾花沢市北方向長根山周辺を踏査したが,成果がなかった。
午後4時頃に,まだ日が長く夕暮れまでにまだ時間があるので,我々は藤村に帰りにどこに寄ったらよいかを尋ねると,最初に行った袖原に行きたいというので再度袖原へ向かった。午後4時45分頃に,再び袖原3遺跡周辺に到着。藤村は早足で丘陵尾根を南側にのびる曲がりくねった農道を歩いて行ったので瞬く間に見えなくなった。我々も彼を迫いかけたが,おおよそ200mほど時間的には数分遅れてしまった。我々が袖原3遺跡に到着する20mほど手前で,直角に曲がった道先で彼が露頭を削っている姿が見えた瞬間,藤村は大声で我々に「石器が出たど」と叫んだ。我々が急いでその場に行くと,藤村は「石器が顔を出していた」とうれしそうに話した。その直後2点目を発見。我々は感激の余り万歳をした。いずれも比較的大型の頁岩でできた石核とクリーバー状石器である。宮城県内の旧石器に比べ大型なので,やはり原産地に近いと違うななどと感想を述べあった。しばらく周辺を削ったが他に発見されなかった。袖原3遺跡で初めて石器が発見された地点の20mほど手前は,農道が直角に曲がっており,同行者から完全に死角となっていた。
東北歴史資料館が,高森遺跡第3次調査を実施中,372m2と広範囲に調査対象が広げられているにもかかわらず,この日まで1点の石器も発見されなかった。ある人の話によると,「高森遺跡であきちやん(山田晃弘氏)かわいそうだから,2,3点石器を見つけてやるか」と藤村が言った予言通り,A地点の標柱を抜いて削ったところ,3点の石器が発見された。
成層テフラを取り除いたところ,それ以下の上層が斜めに堆積しているために数枚の層が面的に認められたが,それら数枚の層にまたがって石器がほぼ平面的に分布し,調査員の中で協議された。結果として,斜めに堆積した古い層をほぼ水平に浸食された後に石器が残されたものであろうと解釈した。
A区12層をK氏が藤村と掘っていたところ,「Kさん石器が出ている」と言われ,よくよく見たが見つけられず,大変恥ずかしい思いをした。また,K氏によって早朝現場にいたり,夕方現場に残ったという目撃情報もある。他に,早朝釣りに行くと言ったが,釣りの成果は全くなかったという学生の証言もある。
写真撮影のために,窪みを清掃中に未発見の石器が飛び出てしまった。
朝食堂に行ったら藤村がぼーっと立っていたので,何故こんなに朝から呆然としているのか疑問で,発掘調査に何か問題があるのかを質問したが,返事がなかった。
どうしたら直前に石器が出るのか分からないという話題になって,E氏が藤村に「直前になると上の土が軟らかくなるから分かるんだベ」と言ったら,藤村は返事しなかった。
上高森遺跡の調査当初から熱心にビデオを撮影している地元のK氏が撮った画像を再生してみると,石器埋納遺構No. 4から初めて石器を取り上げた時に石器の下に松葉が写っていた。後日,藤村が掘っているのを見た者によると,その埋納遺構は埋土もベタベタして不自然だったし,松葉があったのを記憶していたが,掘っている段階で紛れ込んだものと考えたという。
学生OBが前日日没まで図面取りのために残り,翌朝早く図面取りが残っていたので,現場に行ったとき夜に降った新雪にタイヤの跡が残っていたのを不思議に思った。
秩父の遺跡について尋ねたとき,「俺のおまんまの種は見せない。本当の大事な部分は隠しておく。あんたたちに見せているのは(指で○を書き,外を指して)外側だけだ」と言った。
「石核の土を急いで洗い流し,他の発掘隊員に気付かれないように,接合石器を合わせてみました。ピタリとくっついた時は,体中が熱くなって身震いしましたね」と藤村さんは振り返る(「大崎タイムズ」インタビュー)。
「石核にはスクレイパーと剥片のほかに,もう一つ石器をはぎ取った形跡が残っている。わたしは,その石器が中島山遺跡と袖原3遺跡とを結ぶ薬莱山の周辺から見つかる可能性が高いと思っています」(同前)。
※この状況から,彼が中島山遺跡で見つけた接合石器のねつ造を暗示している。また2001年8月に戸沢委員長の元に送られた藤村メモに,唐突に薬莱山No. 39,No. 40遺跡でのねつ造告白があり,自作自演なのにどうしてあえて言ったのか不明だったが,上記大崎タイムズのインタビューで,これらのいずれかにねつ造した接合資料が埋め込まれている可能性がある。ただし,場所については「新発見」の遺跡であり,彼しか知らない。
本遺跡発見について,梶原は藤村から従来の遺跡よりももっと古い遺跡を探そうと誘われた。通常は鎌田を誘うのだが,その時に限って梶原だけに声をかけたようだ。その時は何も疑問に感じなかったが,今にして思うと発見の目撃者として連れて行かれたように思う。いろいろ回って,以前に柳田俊雄氏などと来たという露頭に案内され,土層の古さを説明され,その後藤村が露頭面下部を削るとすぐに石器が出た。今考えれば,あらかじめ石器を埋めておいたのであろう。
1998年に19層をほぼ掘り抜いたはずなのに,藤村が翌日もう一度精査するように指示したところ,まもなく石器が出土した。
横山が草削りでひとかきすると,へラ状石器が転がるように飛び出たので,原位置を捜したが,インプリントが不鮮明だった。
藤村・鎌田・梶原・横山は,ひょうたん穴遺跡の下見に行く途中,大道町風穴遺跡を訪れた。我々は比高差約12mの風穴のテラス部分を観察したが,藤村は一人そこから数十m下方の現河床面から高さ2m前後の範囲を削っていた。まもなく「石器が出たぞ」と叫んだので見に行くと,中期旧石器らしいものが2点発見されたが,地形や地層から石器が古すぎると不思議に思った(沢崎遺跡)。この遺跡については藤村がねつ造を告白している。
一日の作業を終え,いつもの通り発掘区保護のためにビニールシートをかけようとしたとき,藤村が怒ってやめさせた。翌日毎日新聞のビデオにねつ造現場を撮られた。同様のことが袖原3遺跡でもあった。
同年の同遺跡の石器埋納遺構No. 7の石器の先端が折れていた状態で出土したのを藤村は「ブルが上を通ったのではないか」と言った。同様のことを,1999年の中島山遺跡の石器埋納遺構No. 3で23点中数点が破損していたことについても発言していた。
※藤村が「ここ掘ったら出るぞ」と言うと必ず石器が出た。また,最近では藤村お気に入りの者に石器を当てさせたり,逆に気に入らない者には石器空白地帯を掘らせたりという態度も見せるようになった。
※神原3,原セ笠張,中島山遺跡などで休憩時間で発掘区に誰もいない時でも時々いたのが目撃されている。他の遺跡でも記憶されているが,周囲の者は藤村の熱心な発掘行為ととらえていた。
※先生方や学生が朝の準備に忙しく,藤村の行動に注意を払わない8:30〜9:30頃の発見が多かった。
※馬場壇A遺跡の調査あたりからであろうか,マスコミ等で藤村や石器文化談話会・東北旧石器文化研究所の扱いが小さいと感情的に激怒することもしばしばあった。我々はこれらの民間団体が,行政や大学に比べて軽視されたことへの怒りと思っていた。
上記の20年以上にわたる関係者の情報を元に,まとめてみたい。
ただし,踏査と発掘のデータのように,踏査参加者の延べ人数が950名以上,発掘参加者は2,000名を越えるが,踏査と発掘調査では今にして思えばねつ造だったと言われる直接目撃情報は,それぞれわずか1件ずつである。一方,他の多数の情報は,あくまでも状況証拠であり,情報の確認をしたわけでもないので,直接のねつ造証拠とならないことをあらかじめお断りしておかなければならないし,そのような意味での限界を強く感じる。
a.第三者が無意識に出土状況などからいくつかの矛盾について,結果としてねつ造につながる質問について無言であったり,重機の影響にしたりした。
b.今にして思えば,ねつ造を示している土の軟らかさについて問われたとき,答えなかった。
c.神原3遺跡と中島山遺跡の接合資料について,先に紹介した「大崎タイムズ」のインタビュー記事。
d.肝心のものはまだまだ見せないという発言。
結論から言えば,これだけ問題事項が多いのに,何故多くの研究者が,とくに20年以上行動を共にしてきた我々がだまされ続けてきたのかが,厳しく問われるはずである。ここでは,これらの原因について考えてみたい。
第1に,藤村のねつ造は単純だが,巧妙な手口であることがあげられる。2001年4月の一斗内松葉山遺跡,6月の袖原3遺跡,10月の上高森遺跡の検証調査で,それぞれに掘り残された2,3点の石器の下面の土層にねつ造の痕跡が認められた。その詳細については,渋谷孝雄氏ら(註1)によって発表されているのでここでは省くが,このような手口に加え,「ねつ造」という言葉すらも思いつかず,藤村を信じ切っていた我々の盲点をつき,それに乗じて大胆且つ冷静に,瞬時に埋め込んだと考えられる。そして,いったん石器が発見されると,何食わぬ顔で嬉々として我々と喜び合い,祝杯をあげた。
註1:渋谷孝雄・大場正義・鈴木 雅・須田富士子 2001年12月「提造の手口と再発防止策」『第15回 東北日本の旧石器文化を語る会予稿集』81〜89貢。
第2に,藤村の旧石器ねつ造は,本質的に計画的でなければ実現不可能であると言える。逆に言えば,計画性のないねつ造は考えられない。つまり,それぞれの発掘における地層の年代に相応した石器を埋め込まなければならないからである。その場でとっさに出来心を起こしても,埋め込む石器が周辺にはないので,あらかじめ,彼のコレクションから選んで持ち込まなければならない。上記のように,もし我々の推測通り1974年の共同研究開始時期まで藤村のねつ造が遡るとすれば,藤村が無名で何のプレッシャーも感じていない初期の段階から用意周到に計画されていたと考えられる。強いて言えば,ねつ造の目的は単純に彼の口癖である「スコアをあげる」ことだったのかもしれない。そして,我々は,藤村が次々に高い確率で石器を発見するのを目の当たりにして驚喜し,愚かにも彼の努力と才能の結果であると信じ切ってしまい,取り返しのつかない状態にのめり込んでいった。
第3に,藤村一流のどん欲な吸収力があげられ,その結果,我々は彼の「成果」を徐々に認めていくようになった。つまり,その時々の問題点を専門家の論文や勉強会,そして雑談からも敏感に汲み取り,それに呼応するかのように次々と新資料を「発見」するのである。例えば,1974年に我々と踏査を始めたときには宮城県内で後期旧石器すらきわめて希薄だったので,後期旧石器遺跡を探すことが目的であり,それなりの「成果」があった。そして,1976年に岡村道雄氏の「前期旧石器」に関する3部作が発表されると,時を同じくして座散乱木遺跡や安沢遺跡で当該期に属するとされる石器群が発見された。さらに,座散乱木遺跡第3次調査で基盤の柳沢テフラに到達した1981年より1年前の1980年(この年は,藤村個人踏査を含めて爆発的に古い石器群をいくつかの遺跡で発見するのが記録されている)に,藤村は馬場壇A遺跡の柳沢テフラの下層から石器を発見し,1984年から馬場壇A遺跡の調査が始まった。馬場壇A遺跡の調査が基盤の水成堆積層に到達し,平面的にも発掘することが難しくなった1988年に高森遺跡が発見され,同年に発掘調査が実施された(ただし,高森遺跡そのものの発見は藤村ではないが,その後の地層からの抜き取りのすべてが藤村がらみである)。そして,高森遺跡の第2次調査以降,東北歴史資料館による広範囲な発掘調査にも関わらず,少数の石器しか見つからず,同遺跡の調査が終了しようとした1992年に上高森遺跡が発見され,1993年に高森遺跡最下層より下層から石器が発見されたのである。これらの動向について,鎌田は愚かにも学史的にも有意なものと位置づけさえもしたほどである。
また,藤村の地層の読み取りも,まったく専門知識がないにも関わらず,天性のものがあり,このことも我々を信じさせる要因の一つともなった。踏査や発掘では常に地層の細分などには「優れた」ものがあり,岡村氏の著書(註2)にも「彼(藤村)は私(岡村)に,自分は目に疾患があるとうち明けたことがあるが,(略)ひょっとすると彼にはその微妙な色の違いが見えて地層と地層の境,(略)を鋭く見極めることが出来るのだろう。(略)」と紹介されているほどである。例えば,袖原3遺跡では,ねつ造発覚後の2001年の検証発掘に際して専門家の菊池強一氏も7枚の「生活面」のうち5枚にはサンクラック,即ち生活面が残りうる風化帯の存在を認めている。
註2:岡村道雄 2000年10月『縄文の生活誌』講談社 025頁。
第4に,このような過程で目的通りの石器だけでなく,予想外の驚くべき石器や遺構が繰り返し発見されるにつれて,我々も「最古」「初めて」などに浸り,徐々にマインドコントロールされて科学的な疑いの目が麻痺してしまい,何の疑問も持たなくなってしまったことがあげられる。さらに,最近の2,3年の「成果」は,藤村の不安定な精神状態にも起因し,またねつ造に給する彼のコレクションも限界だったのか,それ以前の石器に比べて明らかに見劣りし,発見石器が縄文時代の石鏃だったり,へラ状石器であっても,「まるで縄文時代のもののようだ」と現場で歓声をあげていたにも関わらず,我々自身愚かにも何の疑問も持たなかったのである。また,秩父市の建物跡やピット群に触発されたとはいえ,2000年の上高森遺跡の調査では,遺構群を誤認して掘り上げるまでになってしまったのである。我々は,最近では神懸かり的に「藤村がいるから出るか出ないかの心配をしたことがない。何が出るかという期待だけだ。」とまで豪語するようになった。返す返すも取り返しのつかない事態を招いた責任はきわめて大きい。
第5に,藤村のひたむきな姿にだまされたことがあげられる。藤村は,表面的には「神の手」とか「神通力」と言われるのを極端に毛嫌いしていた。つまり,日頃「人の何十倍も踏査し,発掘でも人一倍手を動かすと言う“努力”の結果であると言い続けていた。その努力の蓄積の上に立って細かい地形の把握や石器の出る場所の予見なのであると皆に話し,マスコミ等にも公言していた。実際,同行者のいる踏査以外にも単独の踏査の回数も群を抜いていたし,発掘においても腱鞘炎や腰痛に見舞われながらも必至になって掘っている姿は周囲の者を感動させたものである。我々もそれらの言動から真実であり,藤村の人に見えない何十倍もの努力の成果であると信じ込むようになった。それが今となっては,ねつ造という想像すら出来ない行為をカモフラージュするものであったことが分かってきた。それは,ここ数年の間のことではなく,上記の踏査,発掘,様々の情報から1970年代から彼自身が作り上げた虚像,ペテンである。それをそのまま信じてしまったことに対して大きな責任を感じると共に誠に慚愧の念に耐えない。
第6に,これらの前提として,発掘作業自体が善意の個人の集合体によるもので,発掘に際して誰かが不正をするかもしれないという,疑いをまったく持てなかったことがある。また,石器の型式学的な新しさなどに気がついていても,目の前の地層から出るという『事実』を疑ってみるということもできなかったことがあげられる。その意味で,不特定多数の調査参加者の善意という前提自体を崩壊させたことが,藤村が破壊したもっとも大きいものであると考える。
東北旧石器文化研究所は,民間の研究団体として,1992年に設立されたが,2000年8月24目に宮城県知事より認証された特定非営利活動法人である。その主な目的は,遺跡及び文化財の保護や遺跡周辺の環境保全を図りながら,一般市民に開かれた学術的な旧石器時代研究とその成果の公開等を実施し,市民の文化的な教養を深め,社会教育の推進に寄与することである。この精神は,1975年に発足した石器文化談話会の趣旨を踏襲し,発展させたものである。全国でも珍しい法人であり,各地から問い合わせがあったほどである。
石器文化談話会の精神は,公開を前提として考古学のプロ,アマ,学生を問わず,等しく調査研究をすることであった。この4半世紀の問に,石器文化談話会に参加した考古学専攻の学生は,大学教育だけでなく,一般市民を意識した社会教育の必要性を身につけ,今日,行政や大学の主要ポストでその精神を受け継ぎ活躍されている。一方,アマチュアの方々も自由に勉強会,踏査,発掘に参加して文化財の重要性を認識すると共にその教養を深めてきた。
石器文化談話会,東北旧石器文化研究所の魅力は,前にも書いたように誰でも参加できる公開の精神であった。ところが,この公開の精神が,そのために対応する体制に不備があったことで,藤村によって逆手に取られ,大きくゆがめられ,多くの遺跡で自由自在にねつ造をすることを結果として許してしまったことになる。アマチュアの「第一人者」である藤村のねつ造は,「開かれた考古学」という精神を踏みにじった上に,全国各地で文化財の啓蒙をされている方々,地道に遺跡を踏査しながら研究しているアマチュア考古学研究者の方々にも大きな悪影響を与えてしまったことはきわめて残念である。
現在,一連のねつ造を受けて両団体共に本来の活動が出来なくなっている。
東北旧石器文化研究所は,当面,その責任を果たすために,最も大きな責任の取り方として,あえてきちんとした組織の特定非営利活動法人のまま,各種の検証に全面的に協力し,未刊行の5遺跡の報告書を速やかに作成することであると考えている。
すでに何回か述べたように,20年余にわたって藤村の言動に疑いを持たず,不正な彼の発見や「成果」を十分な学問的な検討も経ずに,むしろ積極的に評価してきた我々の不明に対する批判は甘受せざるを得ない。
そしてねつ造発覚当初は,当時の藤村の告白通りほんの最近2,3年の藤村の行為で,関係する遺跡もごく限られたものと信じようとした,我々の考えが甘かったことも,今深く悔い,反省しなければならない。日本考古学協会や関係学会・機関等による検証調査が続く中で,我々は激しい気持ちの混乱を覚えつつも,各特別委員会などのご指導とご協力を受けつつ,最近ようやく冷静に我々が関わってきた長い過去を自ら疑う立場で,可能な限りの記録や情報を元にまとめたのが,このレポートである。
しかし現状では,このレポートによって我々の責任を明らかにし,またどこまで事実の解明のための問題点をきちんと整理できたか,自信がない。我々としては,今後とも自らの研究者としての反省をさらに深めながら,検証を続ける覚悟である。
ただ一つだけ書き加えたいお願いがある。それは,このレポートのとくに「3.関係者からの情報」をさらに多くの関係者から提供していただきたいということである。これまでにも,20年余りにわたって我々との共同研究者,あるいは発掘や研究に積極的に参加してくれた人々のかなり多くの方々に,情報の提供,協力をお願いしたが,残念ながら,それに応じてくださったのはごく少数であった。責任の分散や恨み言を言うわけではなく,事実を明確にし,その反省の上に立って,この事件によって失われた考古学への信頼を取り戻し,日本の旧石器研究の再構築に少しでも寄与するために,石器文化談話会,東北旧石器文化研究所と続いた研究の負債を,是非多くの方々のご協力で取り払いたいというのが,我々に今課せられた責任だと思う。それ故の今後のさらなるご協力を切望したい。
最後に,今一度我々の不明のため,学会,関係行政機関・自治体,そして社会全体に大きなご迷惑をおかけしたことを深くお詫びすると共に,ねつ造発覚後,学会,関係諸機関が一体となって,ねつ造疑惑のベールを着実に一枚一枚剥がしてきたことに敬意を表し,これまで前・中期旧石器調査に直接関わってきた当事者として深甚な感謝を申し上げます。