平成13年4月
多摩ニュータウンNo.471-B遺跡調査委員会
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目次 | 2 |
はじめに | 3 |
第1章 調査経過及び事実関係の調査 | 4 |
1 事実確認 | 4 |
2 関係者への事情照会 | 5 |
3 報告に対する質疑 | 5 |
第2章 石器の石材と原産地の調査 | 7 |
1 パリノ・サーヴェイ株式会社による調査結果 | 7 |
2 宮城県・福島県の流紋岩製石器との対比 | 9 |
3 報告に対する質疑 | 11 |
第3章 石器製作技法等の調査 | 12 |
1 石器の観察 | 12 |
2 石器に対する質疑 | 14 |
第4章 調査のまとめ | 14 |
参考資料1:調査委員のコメント | 17 |
参考資料2:「多摩ニュータウンNo.471-B遺跡調査委員会」設置要綱 | 19 |
付図・表 | |
〔資料1〕No.471-B遺跡位置図 | 21 |
〔資料2〕No.471-B遺跡地形図(1/1000) | 22 |
〔資料3〕調査経過一覧 | 23 |
〔資料4〕No.471-B遺跡出土品 | 24 |
〔資料5〕No.471-B遺跡出土状況図(1) | 25 |
〔資料6〕No.471-B遺跡出土状況図(2) | 26 |
〔資料7〕観察試料の一覧と岩石学的観察結果 | 27 |
〔資料8〕No.471-B遺跡の位置と鮮新世以降の流紋岩類の分布 | 28 |
〔資料9〕石器の表面観察結果 | 29 |
平成12年11月5日の新聞報道を契機に、東北旧石器文化研究所の藤村新一氏による旧石器遺跡の発掘捏造事件が発覚した。東京都においても、昭和62年に発掘調査された多摩ニュータウンNo.471-B遺跡(以下「No.471-B遺跡」と略す)の調査に藤村氏が関与していた疑いがあることから、東京都教育委員会は、当該遺跡の発掘調査を実施した東京都埋蔵文化財センター(現「東京都生涯学習文化財団東京都埋蔵文化財センター」以下「センター」と略す)に対して事実関係の調査を指示した。その結果、藤村氏の関与が明らかとなったことから、当該遺跡の調査経緯、石器出土状態等の検証を行うために「多摩ニュータウンNo.471-B遺跡調査委員会」(以下、「委員会」という)を設置し、調査を行うこととなった。
委員構成 | ||
委員長 | 小林三郎 | 明治大学教授・東京都文化財保護審議会委員 |
委員 | 藤本 強 | 新潟大学教授・東京都文化財保護審議会委員 |
〃 | 小林達雄 | 國學院大学教授 |
〃 | 小野 昭 | 東京都立大学教授 |
〃 | 阿部祥人 | 慶応義塾大学教授 |
〃 | 坂東雅樹 | 教育庁生涯学習部文化課長 |
〃 | 佐藤 攻 | 東京都埋蔵文化財センター調査研究部長 |
事務局 | 教育庁生涯学習部文化課埋蔵文化財係 |
第1回 | 平成12年12月13日(水) | 経緯及び事実経過等の報告、検討課題の設定 |
第2回 | 平成13年1月26日(金) | 石材調査の中間報告、石器製作技法の検討 |
第3回 | 平成13年3月2日(金) | 石材調査の報告、宮城県下の遺跡との比較 |
第4回 | 平成13年3月28日(水) | 石材調査の報告、福島県下の遺跡との比較 |
第5回 | 平成13年4月23日(月) | 報告書の取りまとめ |
この内容はセンターからの報告を基にまとめたものである。
センターでは、石器が出土した時の状況を詳細に記録した基本資料の一部が見当たらないため、出土位置を記録した平面図、スナップ写真をはじめ調査時に撮影された写真類及び関係者からの事情照会を基に、石器出土状態の事実確認を行った。
(1) 昭和61年当時、宮城県方面で発見されていた前期旧石器を南関東でも発見したいと考えていた石器文化談話会有志と、(その目的に賛同した)センター有志とが、多摩ニュータウン地域と武蔵野台地を対象に現地踏査することになった。
(2) 藤村氏を含む石器文化談話会有志とセンター有志は、昭和61年の4月と12月に多摩ニュータウン地域の現地を踏査するが、遺跡は発見されなかった。この最終12月14日に、後にNo.471-B遺跡となる崖面を視察するが、夕暮れのため試掘には至らなかった。
(3) 昭和62年5月2日、藤村氏は参加しなかったが、鎌田俊昭氏によれば、藤村氏が指示した(2) の地点(No.471-B遺跡)を改めて踏査し、石器5点を発見した。
(4)当該地は多摩ニュータウン事業用地内にあり、造成工事が間近に迫っていたことから、急遽、センターが発掘調査を行うことになり、昭和62年5月28日から同年7月17日まで調査を実施した。
(5)『月刊 文化財』291号(昭和62年12月刊行「多摩ニュータウンNo.471-B遺跡の調査概要」(舘野 1987)の「調査に至る経緯」等に記載されている踏査日や発見日等は、この委員会の調査により、不正確であったことが判明した。
(6)本遺跡の調査報告書は、調査の終了から13年が経過したが刊行されていないことが判明した。このため東京都教育委員会は、センターに早期に刊行するよう指示した。
(7)本遺跡から発見された石器は13点である。最初に発見された5点を含め、13点のうち10点が石器文化談話会有志によって発見された。発見日の不明な1点(砂岩製)を除き、石器の発見は、いずれも石器文化談話会有志が来跡した日(11点)とその直後の作業日(1点)に限られる。
(8)発見された13点のうち、石器1〜10(石器の番号は資料4に同じ)は出土地点は判明したが、記録類の不備により、出土標高(レベル)は同定できなかった。
(9)石器6・8・11・12・13を除く8点は、発見者が特定できなかった。
(1)石器1〜5は、昭和62年5月2日の踏査の際に、石器文化談話会有志が発見した。それら石器は崖面をスコップ等を使って発見したもので、いずれも東京軽石層(約5万年前に箱根火山の噴火により噴出したオレンジ色の軽石層で、武蔵野ローム層中の鍵層)の直上で、崖面ラインに並行するような状態で出土した。石器5点のうち、鎌田氏が3点、梶原 洋氏と横山裕平氏が各1点を発見した。これら5点の出土位置は判明しているが、誰がどの石器を掘り出したかは特定できない。また、その出土標高(レベル)も記録類が不備のため復元できない。
(2)石器6は、5月29日から6月5日の間に、センターの舘野 孝氏が発見したとされるが、発見月日、発見状況、出土標高(レベル)は明らかでない。
(3)石器7は石器文化談話会の藤村氏もしくは梶原氏が発見したが、記録類が不備のために出土標高(レベル)は明らかでない。
(4)石器8はセンターの原川雄二氏が発見したが、記録類が不備のため出土標高(レベル)は明らかでない。
(5)石器9・10は石器文化談話会有志が発見したが、掘り出したメンバーは特定されていない。出土標高(レベル)についても明らかでない。
(6)石器11は石器文化談話会の藤村氏が東京軽石層の下から発見した。
(7)石器12は石器文化談話会の柳沢和明氏が東京軽石層の下から発見した。この石器だけが12mほど離れた位置から出土した。
(8)石器13はセンターの小松眞名氏が東京軽石層の下から発見した。
6月6日に石器が検出された。このため6月8日以降、石器検出範囲を中心にした約90平方メートルの範囲からコンテナ約300箱分(約12立方メートル)の土壌を採取し、石器製作の際に生じる砕片(チップ)を検出する目的で土をふるったが、1点も検出されなかった。また、崖下に石器が崩落している可能性があるために崩落土もふるったが、検出されなかった。
No.471-B遺跡の調査に至る経緯及び石器の出土状態等を確認するためには、当時の石器文化談話会の関係者からも事情照会の必要があることから、関係者に照会するとともに、日本考古学協会の「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会(準備会)」の調査計画と調整を諮った。その結果、藤村氏は現在、精神状態が不安定で病院に長期入院しており、本人への聴きとりは不可能であることが分かったため、藤村氏への聴きとりは日本考古学協会の特別委員会に委ねることとした。事務局では、2月23日に東北旧石器文化研究所に赴き、鎌田氏から藤村氏の近況、No.471-B遺跡発見の経緯、藤村氏の採集品等について説明を受けた。併せて横山氏からも聴きとりをした。鎌田氏には随時、電話等でも照会も行っている。なお、梶原氏は体調を崩しており話を聞くことはできなかった(鎌田氏等への聴きとりについては後述)。
この他、センターにおいても別途、鎌田氏等から資料等の提供を受けている。
事務局及びセンターによる鎌田氏への事情照会により、事実関係が明らかになった部分もある。しかし、調査からすでに13年の歳月が経過しているため、関係者への事情照会によってもすべての疑問点を解明するには至らなかった。
(1)センターが組織として調査を実施した中に、外部の石器文化談話会有志が参加し、出土石器の殆どが彼らによって発掘されているというのはいかがなものだろうか。
→このことについては、センターの研究者と鎌田氏たち相互に、前期旧石器を多摩丘陵で発見したいとする共通する問題意識があったため、一般の遺跡調査と違った扱いになった旨、佐藤委員より説明があった。
(2)藤村氏は、前年の4月と12月の踏査に参加していて現地を視察している。石器が発見された5月2日の前に、単独で来跡した可能性はないのだろうか。また、6月6日の発見は午後とされているが、昼休み中に藤村氏の関与はなかったのだろうか。
→このことに関しては、本人の記録(「旧石器時代研究二十年の歩み」第6回東北日本の旧石器文化を語る会)やセンターの記録等を調査しても、関与・工作の有無を確認することはできなかった。
(3)No.471-B遺跡の年代は約5万年前となっている。南関東で確実な旧石器のはじまりは約3万年前であり、この間の2万年間が空白になっている。No.471-B遺跡が発見されてから各地で発掘調査されてきたが、依然として南関東で類例が出ない。この遺跡は、時間的にも空間的にも孤立した存在だ。
(1)レベルの記録類が見つからないなど、基本的な資料が不備なのは、極めて遺憾だ。
→記録類の不備については遺憾であり、ひきつづき探す旨、佐藤委員より報告があった。
(2)5月2日に5点の石器が発見されているが、崖面の写真と平面図を見ると崖面からあまり奥まっていない位置から出土している。崖面にほぼ等間隔に並んでいる出土状態にも不自然さを感じる。また他にも霜で崩落したような石器はなかったのだろうか。
→霜で崩落した土についてもふるってみたが検出されなかった旨、佐藤委員の報告があった。
(3)石器の出土状態を撮影した写真を見ると、一旦、掘り上げてから置き直している。他のどの遺跡も、出土したまま動かさないで撮影した写真がないし、何万年もの間、ローム層中に埋まっていれば、もう少し土が付着しているはずなのに割りときれいに見える。
→石器の発見者が一部、同定されておらず、写真等でもハッキリしなかった。
(4)通常、旧石器時代の遺跡を調査すると大量に砕片(チップ)が出土するが、土をふるってもチップが1点も出土しないということはあり得ない。当初は石器を製作したアトリエは別の場所にあるのではないかと考えられてきたが、藤村氏が関与した遺跡は各地の調査例が増えてもチップが出土しない状態が続いており、不自然な感じがする。
→多くの委員から、アトリエが別に存在するのだろうかなど、多様な解釈がだされたが、結論はでなかった。
(5)通常、ローム層中の石器は、固くしまった状態で出土するが、No.471-B遺跡の石器の検出状況における、発掘者の感触はどうだったのか。
→センター職員が検出した石器は3点である。石器を掘りだしたときの状況を聴取した佐藤委員の報告によれば、次のようである。
舘野氏は、その状況を思い出せない。
原川氏は、東京軽石層の直上のハード・ロームをブロック状に含む軟質土に包含されていたようで、出土した感触もないほど柔らかだった。
小松氏は、逆に固く締まったローム中から掘りだした。
石器の石材等を科学的に分析し、産出地等を同定することにより、この遺跡に石器を持ち込んだヒトの故地を知る有力な手掛かりが得られる可能性がある。このため、民間分析機関(「パリノ・サーヴェイ株式会社」以下「パリノ社」と略す)に「出土石器の石質鑑定等」の調査を委託した。
委託内容は、(1)石器13点の肉眼観察(非破壊)による石材の石質鑑定、(2)その観察に基づき同定された石質と同種の岩石産地分布図の作成、(3)同定された同種石材を表面採集することが可能な地域の同定及び報告書の作成である。
鑑定にあたっては、当該する岩石および地域の専門家2名以上からも別途に意見を聴取し、石材同定の確実性を高めるよう求めた。併せて、この問題が露見して急に注目されるようになった、表面採集石器にしばしば見られる鉄製農具等の打撃による傷痕(ガジリ痕、農具の鉄分)の付着痕、石器が包含されていた土の付着などについても、可能な限りの情報を集約するよう求めた。
なお、石器の使用痕にも注意し、事前にセンターの実体顕微鏡で観察したが、表面が風化してざらざらになっていて観察できなかった。委員会でも協議したが、外部に委託しても期待する成果が得られないのではとの判断から、調査は実施しなかった。
パリノ社は岩石を専門とする研究者を擁しているが、このほかに下記の研究者からの聞き取り調査を参考にして、報告をまとめている。
〔要約〕
石器試料13点のうち11点が、流紋岩、流紋岩質溶結凝灰岩などの酸性火山岩・火砕岩と鑑定された。流紋岩質溶結凝灰岩は、流紋岩と同じ化学組成をもつ火山灰が、大規模な火砕流(火山灰流)などにより溶結してできた岩石であり、日本列島でかなり広範囲に分布する。その成因や形成後の変質などにもよるが、各地域毎の様相はとらえにくい。
…詳細な産地推定は、岩体毎や流域毎の現地調査を重ねて、比較検討を行うことから始める必要がある。しかし、この冬、東北地方では積雪が多く現地調査ができなかったため、宮城県江合川流域をはじめとする東北地域の出土物(石器)などを実見して、比較検討し、おおよそ下記の成果が得られた。
(1)No.471-B遺跡の主体をなす流紋岩質の特徴は、斑晶が小さくて少なく、極めて緻密である。また、変成を受けておらず新鮮である。
(2)このような特徴は、北関東(群馬・栃木)から会津地区以西に分布する「濃飛流紋岩」にはほとんどみられない岩相である。一部、阿賀野川流域で新潟県の新発田や津川にも類似する流紋岩が分布するが、極めて局地的であること、同地域には溶結凝灰岩がみられないこと、斑晶が大きくて緻密でないことなどから、これら石器の石材産地とは考えにくい。
(3)各試料(〔資料7・9〕の表中の試料番号は〔資料4・5・6〕の石器番号に同じ)、間の岩相は非常に類似しており、一連の火山起源の岩体に由来すると考えられる。これら流紋岩・溶結凝灰岩の中には、破片状の黒曜石や層状に濃集・偏平した軽石片を含んだ特異な岩石学的特徴を有しており、東北地方中・南部の脊梁山脈の太平洋側に沿って点在する流紋岩の分布範囲に、産出地をしぼりこむことができそうである。 なお、東北地方の流紋岩類は必ずしもこのような特徴的な石材ばかりではなく、多様なものがある。
(4)産出地としては、ア.仙北地域に分布する鬼頭カルデラ火山噴出物の池月凝灰岩、イ.福島−宮城県境脊梁山地、ウ.郡山盆地に分布する岩根流紋岩、エ.白河地域に分布する白河層があげられる〔資料8〕。
(5)流紋岩類以外の試料6(砂岩)・試料11(メノウ)は日本列島に広範に分布しており、斑晶などの発達が見られないために産地の特定ができない。ただし、試料6の細粒砂岩は南関東地方産として何ら矛盾はない。
〔要約〕
石器表面に残された各種の特徴については、各試料の産状や出土後の履歴などに関連する可能性があるものと思われる。観察は、肉眼及びル−ペ、さらにそれらの特徴を明瞭に把握するために実体顕微鏡下で行った。
(1)ガジリ痕
剥片などの石器縁辺部を中心に、13点中の10点に認められた。また、切断痕の見られたもの1点(試料3、器面が面的に剥落したもの2点(試料4・5)がある。さらに、2側辺(面を)含む)以上にガジリ痕の認められたもの5点(試料1〜5)がある。特に試料5は、両側面と背面・裏面にガジリ痕がみられ、最も損傷が激しい。
(2)酸化鉄の付着
大きくは2種類ある。一つは、器面のほぼ全体を覆ううすい褐色ないし橙色のもので、付着が不明瞭な試料6(砂岩)を除く12点すべてに、程度は異なるが付着が認められる。試料2・3・7には、部分的に面的な濃集がみられる。なお、ガジリ痕部分には付着していないので、発見以前の包含中に付着したものと思われる。
いま一つは、暗褐色ないし黒褐色で前者に比べて色調が濃く、付着物として厚みがある。このような酸化鉄が13点中の8点に認められる。剥離等で生じた稜線上に付着しているもの(試料8)、直線などの線状に付着するもの(試料5)などがある。ガジリ痕との関係はあまり顕著ではない。多くはガジリ痕を伴わないが、試料5の背面では面的なガジリ痕の上部に小塊状の酸化鉄が見られ、下端部からは直線的に付着している。試料4の裏面上部には稜線を跨いで付着している。これらのことから、線的な酸化鉄の付着は単に鍬等の鉄製品との接触を契機とするだけではなく、土壌に包含されている間に付着するような状況も検討する必要がある。
(3)土壌
ヒンジフラクチャ−(石器の剥離面で端部がまくれるように窪んだところ)や自然面の凹部に残留する土壌が、13点のうち5点に認められた。そのうち試料2〜5の4点にはシルトサイズ(0.02〜0.00mm )以下の黒色土壌と見られる物質が、試料6には淡褐色の粘土と見られる物質の残留が確認された。これらは本来包含中に付着し、発見後の洗浄の際にも流失せずに残留したものと思われる。
(4)その他の付着物
試料6〜8に赤色、試料10に桃色、試料13に白色の物質が付着していた。試料6は赤鉛筆の芯、試料10は実測時に使用した「ひっつき虫」(化学合成の粘土のようなもので、仮止めに使う)、試料13は注記などに使用されるポスターカラーのようである。試料7・8は顔料かどうか判然としなかった。これらは、発見後に付着した可能性がある。
〔事務局報告〕
パリノ社の報告を受け、事務局がセンターで実体顕微鏡により観察したところ、黒色土壌ははっきりせず、微量であった。この黒色物質の生成には、(1) いわゆる「黒土」、(2) 武蔵野ロームの黒っぽい土、(3) 本来もっている岩石の成分が傷んで剥がれるときに、岩石自体の成分が粒状に残り、そこに鉄分が付着したもの、などの要因が考えられる。
そこでこの物質の成因を知るために、改めてパリノ社に分析依頼しようとしたが、パリノ社からは、黒色物質を採取できてもごく微量にすぎず、採取の際に石材に含まれる鉱物も混じる可能性も高く、期待される分析効果は極めて困難であるとのことであった。このため依頼を断念した。
パリノ社の中間報告により、No.471-B遺跡の流紋岩製石器の石材が、宮城県から福島県の太平洋側に産出するらしいことが明らかになった。また、前・中期旧石器の類似性とともに、縄文遺跡からも流紋岩製石器が出土していることが報告されているので、この地域の流紋岩製石器とも比較してみる必要があり、事務局が視察に赴いた。この視察の一部には、石材鑑定を委託したパリノ社も同道した。
(1)No.471-B遺跡資料は、発掘された当初から、宮城県岩出山町座散乱木遺跡第13層、古川市馬場壇遺跡第7層の石器との類似が指摘されていた(舘野1987)。そのため事務局では、2月22日(木)に、パリノ社職員と宮城県の東北歴史博物館に出向き、石器の石材に重きをおいて対比した。大和町中峰C遺跡中層を含め、それら遺跡は石器の数量でも石材種類においてもNo.471-B遺跡資料より豊富であった。石材は山形県側から持ち込まれた頁岩が卓越していたが、その中に多くはないが、(軽石を包含する流紋岩を除いて)本資料と岩相が共通する流紋岩製石器も存在した。
なお、No.471-B遺跡資料は、宮城県の資料よりも相対的に大形剥片であった。
(2)同日、宮城県文化財保護課の須田良平氏・山田晃弘氏に依頼してあった、流紋岩製不定形石器が多量に出土した大和町摺萩遺跡(縄文晩期)を観察した。パリノ社の地質担当である五十嵐俊雄氏によれば、コンテナ1箱分もの多量にある流紋岩類には4種、細かくは8種があるという。No.471-B遺跡の石材は、相対的にはこれら流紋岩類と共通性が認められるとのことであった。
郡山女子短期大学の会田容弘助教授の観察によれば、摺萩遺跡の剥片石器は本資料よりも薄くて小形のものが大半であり、剥離中に生じた垂直割れや折れのあるものが多い。No.471-B遺跡の流紋岩よりも小振りな石が選択されていて、ソフトハンマーにより剥離されたものであろうという。ハードハンマーの直接打撃と考えられるNo.471-B遺跡資料とはいかにも対照的で、共通する要素はうかがえなかった。
(3)翌23日(金)午前。パリノ社と別れて宮城県文化財保護課埋蔵文化財整理室を訪ね、整理中の築館町嘉倉貝塚(縄文前〜中期)の石器の説明を受ける。かなり多くの石器があったが、その殆どは頁岩であった。流紋岩の使用は限られており、No.471-B遺跡資料と共通する要素はうかがえなかった。
(4)同日の午後。東北旧石器文化研究所に鎌田氏を訪ねて、藤村夫人から預かったというダンボール2箱分の藤村コレクションを見せてもらう。鎌田氏は蒐集品の中から「へら状石器」を抽出してあった。ダンボール箱には後期旧石器のほかに、縄文早期の貝殻文土器などと石器(石鏃、石匙、剥片)が乱雑に入れられていたが、No.471-B遺跡のような流紋岩製石器などは見当たらなかった(会田氏の観察による)。
(5)鎌田氏からは、上高森遺跡の発掘資料と、藤村氏が捏造した同遺跡の最下層資料の説明を受けたが、両者の違いが一目でわかるというものではなかった。No.471-B遺跡資料とは年代上でも相違するためか流紋岩の石器もなく、共通する要素はうかがえなかった。
(6)3月19日(月)午前。福島県文化センター遠瀬戸分室に山内幹夫氏を訪ねて、福島県の流紋岩製石器についてうかがう。
山内氏によれば、浜通り地方では、旧石器時代から弥生時代まで、一貫して大粒の石英斑晶を多量に含む石英粗面岩(第三紀湯長層群五安層に含まれる)が使われている。旧石器も包含状態によっては水洗中にも溶けてしまう風化しやすい性状が特徴という。楢葉町大谷上ノ原遺跡の旧石器資料を見せてもらったが、No.471-B遺跡の流紋岩とは明らかに違っていた。
県下では、下記の遺跡からも流紋岩製石器が出土しているというが、資料移転のために梱包されており、実見できなかった。
(7)同日の午後。東北大学総合学術博物館に柳田俊雄教授を訪ねて、柳田氏が郡山女子短期大学に在職のときに調査した、福島県西白河郡西郷村大平遺跡、二本松市原セ笠張遺跡、福島市竹ノ森遺跡の石器群とNo.471-B遺跡と対比しながら、調査時の所見などをうかがう。これら遺跡は、何れも藤村氏の応援を得て発見された経緯がある。
なお、上記3遺跡の石材の所見は事務局の判断であり、正しくは専門の研究者の鑑定を待たなければならない。
ア 流紋岩の原産地が白河以北の太平洋側に特定できたことは大きな成果だ。後期旧石器時代ならともかく、白河の辺りからでも遺跡までは約200キロメートルになり、かなりの遠距離だ。
イ これだけの石器、石材をそちこちに捨て置きながら約200キロメートルも移動するには、前提として相当分量の石材を持って歩かねばならなかったことになる。それがいちばんの問題だ。→この石器の石材は発掘された当初、北関東の辺りが産出地であろうと目されていた。それが脊梁山地の太平洋側で白河以北、宮城県北までの4ヵ所にしぼられたことが評価される。
ア 最初に発見された石器1〜5は、出土するとは思っていなかったようなので、スコップやジョレン(土を掻き寄せる発掘道具)でかなり乱暴に掘ったというから、ガジリもそのときに付いたのだろうか。
イ 一般的にガジリ痕は、鍬などの金属製の農耕具による損傷ではないかと考えられるが、確かに、他の研究データでも傷の度合いは表面採集品によく付いていて、表土から包含層も深くなるにつれて減る傾向が確認されている。
ウ 流紋岩のようなあまり硬質ではない石質であれば、超音波洗浄器の使用によっても劣化している部分に破損が生じるのではないか。それらもガジリ痕として観察されているのではないか。
エ ガジリとは打撃によるかなりハッキリした破損を云うべきであって、あいまいなのを含むのであれば「いわゆる」とするべきだ。
→No.471-B遺跡の「ガジリ痕」については、個々の「ガジリ」の成因を特定できず、多様な解釈ができる。そのことから、判断の決定的な要素とはならなかった。
ア 酸化鉄の付着には大きく2種類あるというが、線状の付着物はあまり明瞭ではない。あるいは硬質ではない石質のために、超音波洗浄器の使用により表面が洗浄されたのかもしれない。
イ 線状の酸化鉄にしても、木の根がからんだところに付着したことも考えられる。
ウ ガジリの上にこの付着がみられないから、ガジリは最近のものだと判断できる。
→面的な酸化鉄の付着については、砂岩製以外の全ての石器に見られるが、ガジリ痕の部分には無く、本来の土中において付着したものと考えられた。線状の酸化鉄も鉄製品によると考えられる明瞭なものは無かった。酸化鉄の付着は様々な成因が考えられることから、このことも決定的な要素とはならなかった。
ア パリノ社の報告にある黒色土の成因には、表土等の黒土に由来するような紛らわしさが ある。3種の成因の可能性が考えられるというのであれば、「黒色物質」と呼ぶべきだ。
イ センターで何度か超音波洗浄器で洗っているので、表土のような黒土が残っているとは
考えられないのではないか。
→パリノ社の報告書にある「黒色土」については、微量のため、何に由来するものかは判明
しなかった。このため、現段階では「黒色物質」と呼称することとなり、黒色物質の付着
をもって表採品と特定することはできなかった。
多摩ニュータウンNo.471-B遺跡の石器は、東京軽石層をはさんだその上下から発見されている。TP 層の降下年代は約5万年前とされており、そのため中期旧石器としての製作技法にかなっているものなのか、あるいは宮城・福島方面の縄文遺跡から出土する流紋岩製石器に同種の技法の石器が認められないかといった検討を行った。
中期旧石器の技法の検討のため、前・中期旧石器に精通する国士舘大学の大沼克彦教授、共立女子大学の竹岡俊樹講師に観察をお願いした。また、東北方面の旧石器及び縄文時代石器の観察を、郡山女子短期大学の会田容弘助教授にお願いした。各氏の観察所見を要約すると次のとおりである。
〔No.471-B遺跡〕
〔摺萩遺跡 ・・宮城県黒川郡大和町縄文晩期〕
(1)早い段階で剥がされた剥片と最終段階の石核(残核)が共伴しているも不自然で、非常におかしなアセンブレンジ(石器組成)ということになる。
(2)大きな打面を持つ大形の剥片素材という、古い石器に共通した特徴が認められるなど、技法的には似た特徴を持つ石器群ということができる。
(3)しかし、後期旧石器にも何処にも位置づけられない。
(4)西アジアやヨーロッパの中期旧石器と結びつかないのはやはりおかしい。
(5)石器6は先端部の敲打跡を観察できない。ハンマー・ストンとされてきたが、石器としての疑問が残る。
→石器の技法の検討では、石刃技法をもたず、全体として古い様相と捉えられてきたが、石器組成を比較できるものがないため、時代を位置づけることはできなかった。
→縄文時代の流紋岩製石器について、幾つかの遺跡の資料を実見したが、その中には該当するものは無かった。実見した資料は、ハードハンマーを使用したNo.471-B遺跡の資料より概して小形のものがほとんどだった。しかし、縄文時代の石器は時期や地域により多様であり、より多くの資料との比較が必要とされた。
本委員会は、(1) 調査の経緯等の事実関係、(2) 石材産地の同定、(3) 石器の表面観察、(4) 石器の製作技法の検討を行った。
第1に、昭和62年5月2日の踏査地点に当該地を選んだのは、鎌田氏によれば、当日は参加しなかった藤村氏の指示によるものであった。
第2に、石器は、崖面に近い範囲に集中していて、広い範囲からは検出されていない。
第3に、石器は、武蔵野ローム層中の年代的な鍵層となる東京軽石層(約5万年前に降下堆積)をはさんだその直上と直下から検出された。
第4に、センターが実施した調査で発見された8点のうち、南関東地域の石材と考えられる砂岩製の1点を除く7点は、藤村氏の来跡日(6点)とその直後の作業日(1点)に限られる。
第5に、石器を製作した際に出ると考えられる砕片(チップ)が、大量の土壌をふるったにもかかわらず、1点も検出されなかった。
以上のことから、調査経緯において藤村氏の関与を否定できず、疑念が残った。
また、通常の旧石器遺跡では砕片(チップ)が数多く出土するのだが、まったく検出されないことは不可解である。
石器13点の石材は、10点が流紋岩及び流紋岩質溶結凝灰岩、1点が輝石デイサイト、1点が細粒砂岩、1点がメノウである。
流紋岩と流紋岩質溶結凝灰岩、輝石デイサイトは類似の火成岩である。この石材の産出地として、東北地方南部の太平洋側の4か所(ア.仙北地域に分布する鬼頭カルデラ火山噴出物の池月凝灰岩、イ.福島−宮城県境脊梁山地、ウ.郡山盆地に分布する岩根流紋岩、エ.白河地域に分布する白河層)が候補地とされた。No.471-B遺跡から最も近い白河地域まででも直線距離は約200km になる。
細粒砂岩及びメノウは、産地が多く、非破壊では産地を同定できなかった。
細粒砂岩は、センターの舘野氏により発見されたものだが、発見日・レベルが不明で、出土状況の感触も定かでない。この岩石は南関東地域でも一般的に見られる岩石で、出土状況等も他の石器とは異質である。
このことから、砂岩及びメノウを除く流紋岩系の石器の産地が問題となったが、同定までには至らなかった。しかし、遺跡から石材産地までは少なくとも約200キロメートルあることから、石器の持ち運びや石材選択等のあり方から疑念が残った。
パリノ社の実体顕微鏡等による観察により、表面採取などの石器にしばしば見られるいわゆる「ガジリ痕」、酸化鉄の付着、黒色物質の3種類の状況について報告され、委員会で検討した。
いわゆる「ガジリ痕」については、石器5の両面・両側面に「ガジリ痕」がみられるなど、13点中10点に認められた。ことに石器1〜5は、当初の発見日に検出されたもので、スコップ等を振るっての作業であったことから、「ガジリ」が付くことも想定される。
「ガジリ痕」が多く認められる要因のひとつとして、流紋岩類という石材がそれほど硬質でないという特性も考えられた。鉄製農具による損傷が注目されているが、石器検出までの作業状況(移植ゴテ等を使用)をはじめ、超音波洗浄器を使用した際にも脆弱な部分が剥落したり、石器の保管・移動作業時にも細かい傷が派生する等を考慮しなければならず、原因を特定するまでには至らなかった。
酸化鉄は、砂岩製の1点を除いて、一つの器面のほぼ全面を覆うような付着が全てに認められた「ガジリ痕」の部分に付着しているものはない。また、線状に付着するものが。13点中8点に認められるが、多様な状況を示している。鉄製農具等の接触によるとされるような明確な酸化鉄の痕跡は無く、成因にも様々な可能性が考えられたが結論には至らなかった。
黒色物質の生成には、1 いわゆる「黒土」、2 武蔵野ロームの黒っぽい土、3 本来もっている岩石の成分が傷んで剥がれるときに、岩石自体の成分が粒状に残り、そこに鉄分が付着したもの、などの要因が考えられる。しかし、採取しても微量のために分析ができないため、結論をだすには至らなかった。
これら石器は、ハードハンマー(硬質の石)の直接打撃で剥がされた、大きな打面をもつ大形の剥片素材という共通性がある。
後期旧石器時代の石刃技法よりも先行する古い剥片剥離である可能性が示されたが、出土石器が少ない割にはあまり使用しないと思われるような、準備段階で剥がされた剥片と最終段階に残された剥片(残核)が共伴していること、時代を決定できる特徴的な石器がないことなどから、他に比較しようがない不自然な石器組成と云わざるを得ない。
大量の土をふるったが、剥片や砕片(チップ)が検出されなかったことにも疑問が残る。
なお、宮城県から福島県の縄文遺跡からも流紋岩製石器が出土しているので、宮城県摺萩遺跡(縄文晩期)を視察して対比したところ、それらはソフトハンマーによる薄くて小形の剥片であって、No.471-B遺跡の資料とは明らかに違っていた。
これらのことから、石器として古い特徴を備えているものの、西アジアやヨーロッパの中期旧石器とも結びつかないなど疑問も多く、結論はだせない。
以上の検討を踏まえ、委員会としては、No.471-B遺跡の石器群が、他の異なる時期の石器群を混えたものであったり、明らかに後世に他地域から持ち込まれたものであるとの見解には至らなかった。しかし、多くの疑問点や不自然な状況などから、約5万年前の石器群という、これまでの評価をそのまま首肯することも困難である。 No.471-B遺跡は、現地がすでに造成されて残っていないために、周囲を再発掘して確認することは不可能である。また、唯一の資料である石器も、これ以上の非破壊による検証が困難である。これらのことから、問題を解決して決定的な結論を得るには至らなかったが、今後は、日本考古学協会特別委員会等の検証作業の進捗などを見守りながら、再度検討する必要があると考える。
本石器群について、現状においてでき得る限りの検証作業を進めてきたが、明確な結論に達するところにはきていない。また、事柄の性質上、いかに整った条件の下で検証できたとしても、そこから得られた個々の結果は傍証の域をでるものではなく、種々の結果を総合的に判断せざるを得ない。また、その結論は可能性の範囲にとどまることになる。
以下が筆者の関心を寄せる事柄である。
ア 石器群を構成する多くの剥片などの石材は、東北地方の南部に産出するものである可能性が高い。
イ 剥片などの平面的な位置は、崖の断面に平行する形で記録されている。
ウ 石器群を構成する剥片などには、時期を明示するものは含まれてはいない。
エ 剥片製作技法に関しては、一定の共通する技法が認められる。石器群内の剥片などには相互に密接な関連が考え得る。
オ 製作技法には後期旧石器時代の石器群の特徴は認められない。
以上を考え合わせると(3) はあるが、(4) と(5) などから中期旧石器時代の一群の遺物と考えても矛盾はさしてないが、それがこの地点に本来的に包含されていたものということはできない。ある見地に立てば、(1) と(2) は否定的な条件になり得る。
現状では望むべくもないが、剥片などの石器群のすべての構成要素の年代が中期旧石器時代のものと認定できたとしても、石器群が多摩ニュータウンNo.471-B遺跡の東京軽石層周辺から出土したものとすることはできない。どこからか中期旧石器時代に作られた一連の石器群を持ち込んだとする主張に有効に反論することは困難である。
通常であれば肯定的とできる様相が、今回の場合には逆に疑惑を膨らます様相に転換してしまう。考古学的な証拠が証拠として機能しない異様な状況にある。
限られた資料から異常な行為の所産であるとの疑いを完全に払拭することは不可能である。なお、この石器群に関して詰めなければならないことはあるが、それが十分にできたとしても決定的な結論を得ることは難しい。長時間をかけた今後の日本列島の中期旧石器文化に関する調査と研究の中でこの石器群の在り方を追求していくことが必要である。
多摩ニュータウンNo.471-B遺跡発見のいわゆる石器群について、4回の調査委員会において次のことが明らかになったと考えられる。
ア 問題点(別に事務局において整理し、まとめるべきこと)の概要が明らかとなり、委員会におけるほぼ共通の認識をもつことができた。
イ 問題は(A)「石器自体にかかわること、(B)「出土状態およびあるいは発掘の経緯」」(C)「藤村新一氏が関与した他遺跡と関係する一連の事件の一つであること」
ウ 前記の(A)(B)(C)について明らかにされた内容によっても該遺跡の石器群の明確な真偽を判定することはできない。
エ 換言すれば、本問題の性質上、内容の核心にある程度接近することが出来ても、個人的な行為にかかわる部分、即ち藤村氏の関与部分は当人の証言によってのみ明らかにされる部分が最後まで残る。
オ 藤村氏の証言が得られたとしても、その真偽を保証する手段は論理的には得られるものではない。
カ つまり、現状では、該石器群には少なくとも全幅の信頼をおくことは出来ないという判断をせざるを得ず、しかもその限界を超える方法は存しない。
キ こうした状況の具体的かつ実効性ある打開策は、当該石器群と遺跡の調査検討では不可能であろう。
ク この前期旧石器問題(捏造問題あるいはとくに捏造事件という表現は避けたい)の解明については、他の機関(日本考古学協会、埼玉県、宮城県、福島県など)においても取り組みが行われており、発掘調査による検証も始まっている。これらの結果、成果を十分に視野に入れていかねばならない。
ケ つまり、多摩ニュータウンNo.471-B遺跡問題の解明調査は、引き続き他機関、他遺跡の実地検証などの進捗状況を参考にしていかなくてはならない。
コ 従って、調査は継続し、現段階でのあいまいさ程度のままで終了すべきではない。少なくとも、問題は1遺跡に限定されるのではないことの意味を十分認識し、現在進められている他の複数機関や遺跡の検証によって、問題解明が現段階から次の段階に進むことができるはずである。
(1)検証の前提:ねつ造行為は考古学の方法に内在しないものである。したがって、通常の考古学の方法による調査のあり方から見て、異常または理解しがたいものをはじき出すことは可能であっても、シロを明確に導き出すことは不可能である。層順が正しく、出土石器もその層位の年代と矛盾しない資料であることが分かったとしても、その前提がねつ造行為の可能性によって疑われているのであるから、むろんシロとはなり得ないのである。
(2)状況証拠:考古学の証拠は大部分が状況の証拠の積み重ねであるので、この場合もまた同様である。以下の点が通常でないいくつかの証拠である。
(3)以上の諸点から結論として、No.471-B遺跡の資料全体をシロと断定することは出来ない。
今回の多摩ニュータウンNo.471-B遺跡調査委員会の検討の結果、当遺跡出土の石器をめぐっては数々の疑問点や不自然な点があることが明確になった、といえる。それをまとめれば次のようになる。
ア 発見の経緯(藤村氏による調査場所のすばやい選定と指示、藤村氏不在時の発見はごく僅か、など)
イ 発見場所(多くは風化した崖面近くにこの面とほぼ平行して並び、藤村氏不在の他所では出土皆無)
ウ 石器組成(石核・ハンマー状の資料がありながら、礫表付の大型剥片主体でチップが皆無など)
エ 石器石材(大半が関東のものではなく、福島から宮城県の太平洋側産という鑑定、この地域は藤村氏のもともとの活動域に重なる)
オ 石器表面の状況(いわゆるガジリ痕・黒色物付着など表採資料に特有な現象の存在)
これらの疑問点や不自然な点は「藤村氏の関与」という鍵を用いない場合には、ほぼ永久に、疑問や謎として残る。一方、「藤村氏の捏造関与」という鍵を差し込めば、疑問は瞬時に氷解する。
従って、本資料には「藤村氏の捏造関与」があった可能性がほぼ100%に近い、という判断が妥当である。
しかし、藤村氏本人の告白がなければ、「捏造関与」が100%あったとする証拠を捜し出すことも、また逆に明確に否定する材料も将来ともに出し得ないと考えられる。とはいえ、上記のような検討結果とこうした現状では、「当資料群が歴史資料や社会教育材料として問題なく利用できるものである」と都民・国民に対して言うことは決して出来ない、というのが私の結論である。
(設置目的)
第1 多摩ニュータウンNo.471-B遺跡出土の旧石器の信憑性を調査するため、多摩ニュータウンNo.471-B遺跡調査委員会(以下「委員会」という)を設置する。。
(検討事項)
第2 調査委員会は次の事項について調査する。
1 調査経過及び事実関係
2 石器の出土状況
3 出土遺物
4 その他、多摩ニュータウンNo.471-B遺跡に関すること。
(委員会の構成)
第3 調査委員会の構成は次のとおりとする。
1 委員会は、学識経験者(考古学)及び関係者をもって構成する。
2 委員は、東京都教育庁生涯学習部長が委嘱する。
3 委員会には委員長を置く。
(招集)
第4 委員会は委員長が招集する。
(意見の聴取)
第5 委員会は、会議に際し、必要に応じて有識者を招聘して意見を聞くことができる。
(事務局)
第6 この委員会の事務を処理するため、事務局を東京都教育庁生涯学習部文化課に置く。
その他
第7 この要綱に定めるものの他、委員会の運営に関し必要な事項は委員長が決める。
付則
この要綱は、平成12年12月6日から施行する。
試料番号 | 器種 | 発見日 | 岩石名 | ガジリ痕 | 付着物 | |||||
単独 | 連続 | その他 | 薄い酸化鉄 | 線状酸化物 | 土壌 | その他 | ||||
1 | 剥片 | 5月2日 | 輝石デイサイト | 有り | 有り | − | 有り(空隙) | − | − | − |
2 | 石核 | 5月2日 | 流紋岩質溶結凝灰岩 | 有り | − | − | 有り | − | 黒色土? | − |
3 | 剥片 | 5月2日 | 流紋岩質溶結凝灰岩 | 有り | − | 折れ | 有り | 有り | 黒色土? | − |
4 | 削器 | 5月2日 | 流紋岩質溶結凝灰岩 | 有り | − | 面的 | 有り | 有り | 黒(褐)色土? | − |
5 | 剥片 | 5月2日 | 流紋岩質溶結凝灰岩 | 有り | 有り | 面的 | 有り | 有り | 黒色土? | − |
6 | 敲石 | 6月?日 | 細粒砂岩 | − | − | − | 有り? | − | 淡褐色粘土 | 赤鉛筆? |
7 | 剥片 | 6月6日 | 流紋岩 | 有り | − | − | 有り | 有り(稜線) | − | 赤色顔料? |
8 | 尖頭器 | 6月6日 | 流紋岩質溶結凝灰岩 | 有り | 有り | − | 有り | 有り | − | 赤色顔料? |
9 | 剥片 | 6月6日 | 流紋岩 | 有り | − | − | 有り | 有り(稜線) | − | − |
10 | 楔形石器 | 6月6日 | 流紋岩 | 有り | − | − | 有り | 有り | − | 桃色塗料? |
11 | 剥片 | 6月20日 | めのう | − | − | − | 有り | − | − | − |
12 | 剥片 | 6月20日 | 流紋岩質溶結凝灰岩 | 有り | − | − | 有り | 有り | − | − |
13 | へら状石器 | 6月22日 | 流紋岩 | − | − | − | 有り | − | − | 白色塗料? |