index ヒトの話 第2話.港川人

日本列島の新人化石

 日本列島の更新世(定義上はおよそ170万〜1万年前)人類化石は、ごく限られた石灰岩地帯から出土しています。本州で確実な資料は静岡県にあるだけなのですが、沖縄県には少なくとも8カ所の出土が知られており、共伴資料の放射性炭素年代測定で[註1]およそ32,000年前から15,000年前の範囲になっています(より古い資料が含まれている可能性もあります[註2])。化石骨のフッ素含有量測定結果からも、いずれも更新世に属することは確認されています。

 中でも沖縄島の南部、具志頭村港川の石灰岩採石場で発見された化石骨は、少なくとも9個体分、内復元可能な成人骨格4個体という、質量とも東アジア最高の資料でした。今日、港川人として知られている資料です。共伴資料の放射性炭素年代は、18,250年前(±650、TK-99)、及び16,600年前(±300、TK-142)となっています。無論、測定された炭化物と人骨化石の同時代性は必ずしも保証されていません。また人骨自体の測定としては、19,200年前(±1,800)というウラン系列年代測定(ウラン−プロトアクチニウム)値もあります(ウラン系列法を骨に適用することには問題がありますので、参考値にしておいて下さい)。人骨自体の放射性炭素年代測定は、今のところ成功していないようです(炭素の遺存が少ない)。なおフッ素での測定は行なわれており(0.9〜1.7%)、上述の年代観と矛盾するものではありません。C-14の較正も考慮にいれると、暦年代で概ね2万年前頃と受け取っておけばいいでしょう。

 なお港川には、上部港川人として知られる、港川人の出土層より上部から出土したとされる、3個体分以上の資料もあります(暫定値では、12,000年前)。こちらは、縄文人的な特徴を備えていると報告されています。

港川人の発見

 沖縄の洞穴でシカ化石が多く出土することは以前から知られていたのですが(最初の学術報告 (英文) は1936年)、1960年代になってその考古学的重要性に着目した多和田眞淳氏や高宮廣衛氏らが精力的に探索を行ないました。1962年には那覇市山下町第一洞穴、及び伊江島カダ原洞穴、1964年には宜野湾市の大山洞穴(これは米人少年の発見)、1965年には那覇市首里の末吉町遺跡、1966年には北谷町の桃原洞穴で、それぞれシカ化石等の調査が行なわれました。カダ原・大山・桃原ではヒト化石が見つかり、鈴木 尚氏らによって鑑定され、フッ素含有量等から更新世人類であることが確認されます。1967年1月には鈴木 尚・高井冬二氏らは、多和田眞淳・高宮廣衛氏らと現地を訪れています。

 港川人の発見の端緒は、1967年11月、那覇の実業家だった大山盛保氏が注文した粟石(あわいし[註3])にイノシシ化石を見い出したことに始まります。大山氏は石切り場を探索し、産地を確認します。その後大山氏は現地の探索を続け、1968年3月には上部港川人を発見します。本格調査は文部省科研費を得て実施されることになり、1968年12月から69年1月にかけて2週間ほど、山下町第一洞穴と同時に調査が行なわれました(団長渡邊直經氏)。この時には山下町第一洞穴から子供の大腿骨・脛骨が出土し(共伴資料の放射性炭素年代で32,000年程前)、大きな話題になったのですが、港川では動物化石の発見にとどまりました。以降、1974年にかけて港川フィッシャーで断続的に調査が行なわれます。今日港川人として知られている資料は、1970年夏から71年初めにかけて発見されたものです。1982年には英文の報告書が出ています。
 なお1976年には伊江島ゴヘズ洞穴、1979〜1983年には宮古島ピンザアブ洞穴、1983〜1986年には久米島下地原洞穴で、それぞれ更新世ヒト化石が発見されています。

 フィッシャーとは隆起石灰岩台地に生じた裂け目のことで、港川では最大で幅1m程、深さ20m以上あるそうです。沖縄島南部では、全体的なドーム状隆起に伴う地割れのようです。調査ではシカやイノシシが多量に出土しています。
 港川遺跡は、フィッシャー内の埋積土が全てです。動物相として、代表的な出土化石であるイノシシとシカに注目すると、上層ではイノシシのみが出土し(Phase b)、下層でイノシシとシカが共存するそうです(Phase a)。港川人は後者の時期に相当します。ちなみに琉球列島のシカは更新世末期に絶滅したことが分かっています。

港川人の特徴

筆者による想像図 港川人は新人(現代型ホモ・サピエンス)に属し、南方系の古モンゴロイドの一派と考えられます。1号骨格(男性)は推定身長153〜155cm(縄文人の平均よりは低い)、脳容量1,390ml。2〜4号骨格(全て女性)の推定身長は145〜149cm、脳容量1,090〜1,170mlとなっています。全体に上半身は華奢で、下半身は頑丈に出来ています。脳頭蓋は厚く、古相を呈しています。咀嚼筋が発達し、頬骨が張り、低顔ですが、鼻筋は高く、彫の深い顔です。ただし後期旧石器時代人や縄文人に特徴的な付柱状大腿骨は持っていません。この点では縄文人とは異なる特徴を持っていることになります。下顎骨A(若い女性)には中切歯2本がなく、抜けた後が成長して埋まっていますので、抜歯された可能性があります(無論、これをもって縄文文化に見られる抜歯習俗と直接結び付けることはしないで下さい)。全体に縄文人につながる要素もありますし、中国南部の柳江人(Liujiang Man)やインドネシア・ジャワ島のワジャク人(Wajak Man)にも比較可能です。馬場悠男氏の分析では、港川人はワジャク人に近く、港川人は広義の東アジア沿岸域の海洋適応集団に属していたとされています。

 なお港川フィッシャーからは石器などの人工遺物が見つかっていません(1998年から2000年にかけて行なわれた調査でも芳しい成果は無かったようです)。のみならず、沖縄県内全域に、いまだに旧石器が発見されていません(正しくいうと、確認されていません)。かつて加工されたシカ骨(叉状骨器)という仮説もあったのですが、シカの習性に由来する自然の形成だという結論が出ており、その説は完全に葬り去られてしまいました。もっとも近年、徳之島の天城遺跡(Amangusuku)や奄美大島に旧石器遺跡が発見されており、ナイフ形石器文化の様相を欠いているので、本土とは別系統の広義の南方系文化(不定形剥片石器文化)が周辺に及んでいた可能性が考えられます。沖縄の開発は近年、よりさかんになる傾向があるので、近い将来に旧石器が確認される可能性も期待していいでしょう。


註:
年代測定の限界
年代測定には、測定法、測定誤差、サンプル誤差の問題等、種々の限界があります。残念ながら、一つの測定結果だけを定説と受け取ることは、どうしてもできないのです。しかし、大体そのくらいの年代であろうという程度は言えますし、個々の測定年代を参考年代として受け取っておくことはできます。また出土層の状況証拠なども踏まえ、複数の年代測定を積み重ねていく努力は、正当に評価されるべきです。

大山洞人
宜野湾市伊佐の大山洞穴で発見されとされる資料(米人少年によって発見されたため、一旦アメリカに持出されて分析されていたのですが、関係者の尽力で沖縄に返還された経緯があります)は、フッ素含有量測定から、やや古いという結果が出ています。前項に従い、今後の調査に期待したいところです。

粟石
有孔虫殻主体の石灰砂岩。港川石灰岩、港川石ともいう。琉球石灰岩の中で下末吉面に相当する牧港石灰岩と同時期。[参考Web]

参考文献


<WebSiteTop   …00.12.31公開 …01.1.3更新