三千年前 江見水蔭     発端 その一  多摩川の南岸、夢見ケ崎の台地、其東端の円形古墳の上に立ったのは十一月十二日の午後。秋の日の釣瓶落し、秒一秒と暗く成りつつある五時二三十分の頃であった。  此日は御大典《ごたいてん》の第三日。天津日嗣《あまつひつぎ》の御位《みくらい》に、我が大君の登りまして、神宮皇霊殿其処へ勅使の遣《つか》わせらるる日に当った。  小子《おのれ》は、この度の御大典に際し、平常から熱して居る石器時代研究の遠足を試みて、当日採集したる石器に其故由《そのゆえよし》を記し、以て好箇の記念品としたいという考えで、実行すべく朝早く家を出た。  電車で大森まで行った。此所が日本に於て初めて学術的に発掘された貝塚の元祖である。其所を今日の振出しにしたのは珠に目出度しと先ず祝した。(大森貝塚は明治十二年米人モールス氏監督の下に発掘され「大森貝墟篇」の著出ず)  それから俥を急がせて久《く》ヶ原《はら》に至り、徒歩にてカニヤ窪の遺跡を探り、雪ケ谷の遺跡を廻って、下沼部の貝塚に出で、其所から又俥を傭いて、多摩川を越し、遺跡に関係薄き沖積層の地を駆抜けて、子母口《しぼぐち》の台地に至り、再び徒歩で同所の貝塚。久米《ひさすえ》、高田、駒林、駒ヶ橋、矢上の諸遺跡を駈廻り、然《そ》うして最後に南加瀬の台地、累々《るいるい》たる古墳脈の其尽きる処の最後の物の上に立ったのである。  後の記念と思うので、出来るだけの強行軍を学んだのである。軍服擬《まが》いの服は汗食《あせば》んで居る。首袋を利用した採集袋には、石鏃《せきぞく》一本、磨製石斧《ませいせきふ》一本、打製石斧三十二本、破片四箇とを詰込んで担いで居る。其重さ、肩の痛さ!  此日は、前日の雨に道の悪さと云ったら無かった。草硅《わらじ》は切れ、足袋《たび》は破れ、ゲートル一面泥だらけである。  疲労困憊の状は、正に敗軍の卒である。文壇の落伍者たる小子を最も露骨に現わした形骸は今という今であると、我と我を客観して、自分自身の為に何者かが泣いて呉れて居る様な感じを覚えずには居られなかった。  それと同時に又、疾《と》くに滅亡した先住民に就ても、思い遣《や》らずには居られなかった。  三千年前に此所に住した或る人種。それが故坪井博士の所謂《いわゆる》コロボックルであると、小金井博士等の唱えるアイヌであるとに関らず、勇猛なるわが大和民族の為に撃退されて、北へ北へと追いまくられ、今は其行方も知れぬ人種─石器時代の人種に向って、弱者に対する同情の涙を、しみじみ絞らずには居られなく成った。殊に今日此頃の歓喜《よろこび》に満つ秋に於て。  最少《もっと》此所に立って居たい。然《そ》うして人の前では泣きそうも無い男が、誰も居らぬ黄昏《たそがれ》の山の中で、思切って泣いて居たかったが、更に此所から一里余、泥濘《でいねい》の畑路《はたみち》を、暗夜に川崎まで歩かなければ成らぬを考えると、そんな事もして居られなかった。  朝の快晴は、間もなく曇天《どんてん》と成り、夕には降らんばかりの空合《そらあい》と成って居る。常よりも早く暗く成りつつある。その端疾《きわど》き時間に於て、三千年前の回顧をするのは、余りに忙《せわ》しさに過ぎるのを知る。  天《あめ》の色も、地《つち》の色も、一様に鈍く黒染みて来て、細かな線は早や見えなく成って居る。多摩河畔の低地、諸々の村落は、淡墨の一刷毛《ひとはけ》に塗り去られんとして居る。川の向うの洪積層《こうせきそう》、鵜《う》の木《き》、嶺、下沼部等の高台は、今に糢糊《ぼか》されて消えるかと見えて居る中に、有繁《さすが》に池上《いけがみ》の森のみは、真黒に濃く浮出して見える。それは併し此方の了源寺の森のすれすれに、高尾|小仏《こぼとけ》の連山の聳《そばだ》つが遠く見える、此所に入日の名残の最も微かな光の尾が、纔《わずか》の雲の破れから甚だ未練な影を示して居る、それの反射に他ならぬ。  この光景! 暗澹たる光景! それのみを唯見るのでは、此盛大なる御大礼中とは、如何しても思い浮べられぬ。少くも三千年前に、此所に古墳を遺《のこ》した我等の祖先が、向うに貝塚を遺した先住民の或者と、恰度《ちょうど》日露戦役の鴨緑江《おうりょっこう》の様に、多摩川を挟んで対峙《たいじ》して居た時分の、其大古の空気しか感じられぬ。  だが、その幻影の幕を無遠慮に突き破る物がある。それは村落諸所に立つ煙突である。文明の煤煙を盛んに揚げて居る。殊に大森海岸の瓦斯《ガス》タンクが不調和に大きく見えるに至っては、全く懐古の夢も滅茶滅茶に破れざるを得ないのである。     発端 その二  思切って小子《おのれ》は古墳の上を降りた。然うして加瀬の小学校の裏の方に出で様として、坂を降り掛けて、?{叶}《あ》と叫ばずには居られなかった。  驚いたからである。驚いたのも此位大きな驚き方は近来に無かった。それは山が一ツ無く成って居るからだ。  山が一ツ無く成ったのだ。本統に山が一ツ無く成ったのだ。驚かずに居られようか。  それが地文学上の変動でなく、人間が寄って集《たか》って、わずかの間に山を一つ破壊《こわ》して了ったのだ。  参謀本部の地図を見ても分る。加瀬の独立丘《きゅう》(標高三十二米突《メートル》)の東南端に別箇の小丘が標記してある、それが殆ど全部消えて失く成って居る。桑田碧海《そうでんへきかい》の変どころでは無い。つい一二年来なかった間に、地形の這《こ》んな大変動を生じて居る。  これは川崎の電気会社が埋地を為《す》るので軌道まで敷いて此所の土を持去ったのだという。人力、機械力、文明力、驚くべしである。此所に江戸城よりも前に城を築かんとした太田|道灌《どうかん》をして再生せしめたなら、どんなに魂消《たまげ》るか知れぬ事だ。それが為に学者間に於て疑問として居た此所の弥生式の大貝塚は、全部亡びて了ったのだ。これでは議論も何も仕様が無い。  一二年で既に這んな大変化を見るのである。それを我々は三千年前に遡《さかのぼ》って其当時の住民の生活を考えなければ成らぬ。難《かた》い哉《かな》という感がムラムラと簇《むら》がり来って、悪い頭は益々悪く成った。足のつかれも亦《また》増して来た。肩の石斧《せきふ》の重さと云ったら無い。  日は全く暮れて了った。其暗い中を小子《おのれ》はトボトボと歩き出した。然り真暗で路も何も分らない。某所を小子は記憶に依って僅かに辿《たど》るのである。危い事! 「誰にだッて分るのでは無い」とつぶやきながら歩いた。学校裏から杉山神社の中を抜けて、それから小倉村、塚越村の方に向って進みつつ、 「坪井先生は死んで了われたし。石器時代専門の研究者として、今これという人も出て居らぬ。真暗だ。真暗な道を今辿って居るのだ」と小子は独語《どくご》を続けずには居られなかった。  貝塚が掘尽されたばかりでなく、其貝塚を有した山全部が無く成って了う世の中だ。それは単に加瀬のみでは無い。小子の知る処では、神奈川の桐《きり》ヶ畑《はた》が然うだ。品川在《ざい》の権現台が然うだ。此調子で行くと今に何処にも貝塚は無く成って了うかも知れぬ。残る物は理論ばかりだろう。  其理論も少しばかり貝塚を引掻き廻すと直ぐ学説を掘出される。然うした人達の理論が残るのだろう。それでは情けない。  抑《そもそ》も大和《やまと》民族が現今の如く隆盛で無かった時代、即ち昔の昔の大昔に北辺に居た民族は、何人種で有ったろうか。石器を使用し、貝塚を積成した民族は、何者であったろうか。未だ解決は着いて居らない。  いや、それはアイヌに極《きま》って居るという論者がある。貝塚から出た遺物を一寸見て、直ぐと断定する人がある。(小金井博士は、最も真摯《しんし》なる態度で、熱心に、忠実に、専《もっぱ》ら遺骨を科学の上から研究調査されて、既にアイヌ説の発表は有った。小子は同先生に対しては最も深く敬意を払って居る。故に同先生を前の論者の中には決して混入しない)  小子は決して学説を立てる資格の有る者では無い。遺物を採集する高等人足に過ぎないので。アイヌともコロボックルとも明言し得る学者では無い。けれど、多年貝塚を発掘し、且つは諸家の蔵品を熟視し、各所の遺跡を巡覧して居る間に、何時としもなく得た感応《かんおう》がある。直覚がある。これを語る事は出来るのである。  其誇りの感応に従うと、如何しても故坪井博士の学説を疑うを許さない。  則《すなわ》ちコロボックル説に籍を置かざるを得ないのである。  いたずらに神秘を尊信する小子では無い。科学の権威は何処までも敬重して居る身ではあるけれど、貝層深く掘り入って疲労を極《きわ》めた其時に、万鍬《まんくわ》を持った儘破片交りの貝殻の中に寝転んで居ると、幻の如く其処に石器時代の人が出て来て「我等はアイヌに非ず。コロボックルである」と叫ぶかに思われて成らぬ。  今も此暗中に於て姿を明かに示す者は、コロボックルである。  何故それを今の世に伝えて呉れないか。先史の住民の霊魂は汝に宿って、それを現代に発表して貰うより他には無いと、然ういう声がする様に思われて成らなかった。     発端 その三  不図《ふと》北方の空を見た。  宛然《まるで》火事の如く空が赤く見える。それは併し全東京の装飾灯《イルミネーション》、御大典《ごたいてん》を祝したる歓喜の輝きという事が知られた。だが、今、小子《おのれ》の歩いて居る処は、星の光一ツも照らして呉れぬ。真暗である。電気、瓦斯、石油、いや、燐寸《マッチ》すらを離れた世界は、現時も三千年前も同じである。  矢張わが前をコロボックルが歩いて居る様に思われて成らぬ。その先きに立つ幻の人は、種々太古の事を語って聴かすかに思われるのである。 「然《そ》うだ。俺は学者では無い。文士だ。科学の研究には迂《うと》いけれども、小説を作るのは家業である。感応した事を書いて発表する分には差支《さしつかえ》は無い。いや全然其は空想では無い、或る程度迄は科学上の説明の出来る、然うして残りの或程度たりとも、今に説明の出来そうな事を大胆に発表し得るのは、文士の徳である。学者としては躊躇《ちゅうちょ》する事も、其所は文士の難有《ありがた》さで、人は大目に見て呉れるだろう。石器時代の科学的小説を書くのには最も俺は適して居る」斯《こ》ういう叫びが自然に口から出た。 「それだ! それだ! 汝はつい先きの時間に、高尾|小仏《こぼとけ》の連山に入らんとして、纔《わずか》に光を漏らして居た。それに比すべき文壇の落伍著である。それが滅亡したる人種の生活状態を筆にするのは、最も適任である。これが汝の保有する最後の微光なのだ。光の都の事は他の人に委せて置け!」  誰やら後から諭《さと》す者のある様にも聴えて来た。  道は未だ何程も進んで居らぬ。濘《すべ》っては転ばんとして、危く立直っては踏留《ふみとどま》り、時としては潦《にわたずみ》に飛込み、時としては小石に跼《つまず》く。背《せな》の石斧は益々重い。素《もと》より畑の中の路、家一軒も、奉祝の提灯《ちょうちん》一ツも見えるのでは無い。唯遠き都の空の光を、羨ましく望むに過ぎない。何か考えずに歩かれるものか。  いつぞや丸岡|九華《きゅうか》君が来て、英国の某女史の作という「ストリー・オブ・アブ」の話をして呉れた。それが石器時代の小説なのである。産れた峙にアブーと泣いたので、其子の名としたという程の単純な時代を、面白く書いた科学小説で、其舞台がテームズ河畔《かはん》で、今の倫敦《ロンドン》を遣《つか》った処が、如何にも趣向では無いかと話された。それを思出した。  多摩川から今の東京、之を舞台にして科学小説、いや、科学小説に近い物を書いたならば、之は今度の御大典を記念するのに、最好の物ではあるまいかという、斯うした覚悟が徐徐《そろそろ》固まり掛ると、暗い中から坪井先生が出て来られる。それから採集の友で故人となった谷|活東《かつとう》、飯田|東皐《とうこう》、大野|市平《いちへい》、西谷|球雄《たまお》、吉川哲、其他の人々が嬉し相に姿を現わして「やるべしやるべし」と勧《すす》められる様に思われて溜《たま》らなく成って来た。  然うかと思うと又コロボックルの酋長が現われ出て、 「それでは我々の多摩川端《べり》に拠《よ》って居た時の事をお話し致しましょう」と訥弁《とつべん》ながら諄々《じゅんじゅん》として語出した様に思われて、それを聴きながら歩いた為に、後には全く疲労を覚えないで、川崎停留所まで着く事を得た。  其石器時代の人の暗中《あんちゅう》のささやきが、即ち「三千年前《ぜん》」の一篇である。     1  今の人が住むのに適して居る場所は、三千年前の人にも住み好かったのに相違ない。水を得るのに便利で、前から日光の能《よ》く射す処で、後からの寒風を充分に防ぐ位置で無いと、其所に安楽な生活は続け難《にく》い。  此埋に従って多摩川の北岸は、石器時代の人民が住居を定めるのに、最も都合が好かったであろう。  今の丸子の渡口《わたしぐち》、下沼部《しもぬまべ》の台地などには、其人種の一集落が有って、住居も相当に有ったろう。人口も決して少くは無かったろう(1)。  其下沼部の日当りの好い台地に、其時代の乙女達が大勢、木の皮、草の蔓《つる》などで織った筒袖の衣服、それを正面合《まともあわ》せに着て居並び(2)、鹹水産《かんすいさん》の貝を小山の様に積んで、獣《けもの》の骨や鹿の角の先を尖《とが》らした道具(3)で剥身《むきみ》を製造すべく働いて居たのが想われる。 (1)現に同所字宮の上に貝塚が有って、そこから石器時代の遺物が沢山出た。 (2)織物の有った事は、土偶、土器等にその布目の押形を留めたので分る。又婦人の衣服の正面合せなのは、婦人と認むべき土偶の多くが、その通りに製作されてあるので考えられる。 (3)骨器角器の先を尖らしたのは、肉刺とも見られて居る。又漁具とも見られている。余はその他に貝剥きに使用したとも考えている。  其時代に貝は非常に多く繁殖して居たろう。だが取るのには水に入るので寒い。又処としては洲《す》と洲との間が深いので、船を持って行く必用《ひつよう》も有る。それ故、山に猟するのが得意の者とは自《おのず》から別に、そればかり心掛けて居た者が有ったろう。それは、山に近きと、海に近きと、其住居の関係からしても、自然に分業と成って居たらしい。  それで、貝を取る者は貝。(魚も矢張同様に取ったであろうが)獣を狩る者は獣。各々《めいめい》そればかり食って居ては、自然に口に厭《あ》きるので、物と物と交換をする様に成って来るのが自然だ。すると、可成《かな》り遠い山野の方へ貝を送って遣《や》る場合に、食べられない貝殻は必用がない。運ぶのに第一重くて成らぬ。それよりも剥身にして遣るのが便利だと有って、これを専門に貝を剥く様にして居たと信じられる(4)。 (4)遺跡の地形上から見て住居を構え得らるる面積から、その家の数及び人口を想定して、それに不似合の大貝塚が各地に有る。これは長期間貝食した為に、貝塚が斯く大きく成ったと解釈する人もあるが、実際貝塚を発掘して貝層の模様を見ると、そうした時代の差を認められぬ。例外として、一度廃絶した貝塚の上に、時を置いて又新たに貝塚を築いたのもある。則ち一貝塚で新古両層の有るものもあるが、それは別の研究である。それから又一方には、貝の産する海辺に遠からぬ遺跡で、可成りの大集落が有ったらしい処でも、全然貝塚の無いのもある。これは此所の住民が貝を絶対に食わなかったとも思われぬ。剥身を輸入したと考えるのが適当であろう。此を確めるには、他の一方に於て、地形上大きな動物の棲息を許さぬ所の貝塚の中から、猪や鹿や其他の動物の骨が沢山出る。物品交換の一例である。この研究からして、今までの貝塚に与えられた定義は、もう少し委しく説かねば成らぬ必要が生じている。  斯《こ》ういう考えを脳裏に浮べながら、闇の夜道を歩いて居ると、忽ち暗中にコロボックルの酋長が現われて、 「其通りでした。あの下沼部の今の森庄兵衛という人の屋敷の後丘《うしろやま》に成って居る台地には我々種族の一集落が有りました。あの貝塚は明治の初年に鳥居龍蔵《とりいりゅうぞう》、内山|九三郎《くさぶろう》の二氏が発見されて、其後大学から坪井先生も来て掘られました。二条さんや徳川さんや、あの華族《かぞく》連も来て掘られましたが、最も猛烈に荒して行ったのは、貴郎《あなた》では有りませんか。や、三千年の昔ですが、斯《こ》ういう話が彼処《あそこ》で有りましたよ」と語り出した。     2  冬の日に下沼部の台地で、石器時代の少女が四人、日当りの好い場所を選んで、盛んに蛤《はまぐり》貝を剥《む》いて居る。剥身《むきみ》を土器の中に入れ、貝殻を横手に捨てる忙しい手つきと共に、何事をか語り戯《たわむ》れて、口も敗《ま》けずに動かして居る処へ、森の方から無髯《むぜん》の若者が遣って来た。  鹿の皮を裏がえしに縫った裘《ころも》を着て居る。毛の方が肌に着くので暖かい。表に出た皮の部分には、朱《しゅ》で連続模様が画いてある。皮靴を穿いて、皮|頭巾《ずきん》を後に投げのけて居る(5)。 (5)土偶の研究の結果。証を示す現品少からず。  顔には微笑を含んで居る。 「遠くから聴えるのは、貝殻を捨てる音で、それから近寄ると、其音に混って、能《よ》く喋るお前達の声が聴えた。斯う近く来て見ると、貝殻の音よりもお前達の声の方が高い。何をそんなに語り合って居るのか」と若者は揶揄《からか》い掛けた。 「別に珍らしい事を口にして居たのでは無い。極有触《ごくありふ》れた事を話し合って居たのよ」と第一の少女は答えた。  それに次いで第二の少女も口を開き、 「妾《わたし》達は斯うして一生懸命働いて居るが、何故若い男達は、怠けてばかり居るであろうと、然ういう事を話して居たわ」  又第三の少女も之に次いで、 「此様に働いて居ても、やれ、キシャゴの肉汁《つゆ》のこしらえ方が拙《まず》いの、アサリの砂の吐かせ様が足りなかったのと、小言は必ず働かぬ人の口から出る」  最後に第四の少女も、 「其処へ行くと男は徳なもの。別してお前などは何んもせずに、ぶらりぶらりと日を暮らして居る。チト貝殻を彼方《あちら》に捨てる手伝いでもしてお呉れ」と叱る様に云った。  若者は手を以て少女達を制して、 「私が何んで遊んで居よう。私は非常な働き手である」と確信ある者の如く言放った。 「と云ってお前の石斧《せきふ》を砥《と》ぐ(6)のも見た事が無い」と第一の少女。 「石鏃《せきぞく》を造る処も未だ見ない」と第二の少女。 「土器を破壊《こわ》すのは見た事がある」と第三の少女。 「然うして鹿の片腿《かたもも》を大方一人で食ったのも見た事がある」と第四の少女。  若者は屹《きっ》と成って、 「それはお前達の目が、手近の物だけ見て居るからだ。私が人の知れぬ処で、非常な骨折して居るのを見るだけの目が無いからだ」と言返した。 「それでは、どの様な骨折をして居てか。此処で話して聴かされぇ。妾達は働きながら聴きましょう」と第一の少女。  他も口々に其意を述べて、矢張貝を剥《む》くのに熱中した。 (6)石斧、石鏃、その他土器骨角器等、製造はそれぞれ専門家の手に成ったと見える。しかし石斧の刃の欠けたのを補う位は、銘々にしたかも知れぬ。石斧を砥ぎたる痕跡ある石器が、各地から出ている。     3 「何も知らぬ少女《むすめ》達、まア貝を剥く手を休めて、私の語るのを、耳飾り(7)から漏らさぬ様に、能《よ》ッく聴けッ」と若者の声は一段と張上った。  少女達は、末《ま》だそれでも貝を剥く手を止めなかった。 「見ろ! 少女達、此川の向うを! 其所には恐ろしい敵が居るでは無いか」と若者は更に高く声を張上げた。  初めて少女達は貝を捨て、真面目に耳を貸す様に成った。 「潮の満干《さしひき》する川の向うの、其又向うに遠く遠く小山が連《つらな》るのが見える。黒くも見える。薄黒くも見える。時としては紫草の花の色の様にも見える。あの向こうの小山!彼処《あそこ》には我々と生活方《くらしかた》を全然《まるで》違えて居る人々が沢山に居る。恐ろしい鉄《かね》の刀《かたな》、鉄の鏃《やじり》、それで我々を追捲《おいまく》って来た。我々は石の斧、石の鏃、石の槍、石の剣、それより他には待たぬ悲しさ。敗けては退き、敗けては退き、到頭《とうとう》此所まで来たでは無いか。それは未だお前達の子供の時ではあるが」と云いつつ若者が、遠き向うの小山を指示《さししめ》して居る。其指の先はわなわなと顫《ふるえ》て止まぬ。向うを見詰めたる其面《そのおもて》には、悲憤の色が浮んで血の燃えるかとも見られるのである。 「幸いにして、向うの小山と比方《こちら》の小山との間に、潮の満干する川がある。然うして又川の他に沼もある。洲《す》もある。草原もある。河原もある。距離《あいだ》が可成り遠くある。歩いて来るにも、船で来るにも、一寸それが難儀な為に、敵の全然《すべて》が此方へは渡って来ない。いや、幾度か渡って来ようとしたが、我々はそれを一生懸命に防いだ。戦《たたかい》は何度となく開かれたが、此方の岸を近く水が流れるので、其水を渡ろうとする敵人に、味方は地の利を占めた高岸の上から矢を射るので、辛《かろ》うじて此所で防ぎ止めて居るでは無いか。此川の一筋が(8)どの位我々|種族《なかま》に幸いして居るか知れないのだ。此所でも、此|下流《しも》でも、此|上流《うえ》でも、皆我々の軍勢が勝って居る。だが、それが何時まで保つと思って居るか。考えると心細い事ばかりだ。お前達は、川の端《ふち》で物を洗って居る時に、芦間隠《あしまがく》れに忍んで来る敵の物見の強者《つわもの》を、折節見出して驚くであろう。あの様にして絶えず此方を狙って居るのだ。我々を追捲《おいま》くらねば、承知せぬのだ。今に大軍は川を渡って、押寄せて来ようぞ」  少女達は今更の如く驚きの色を浮べた。然《そ》うして又悲し気に打沈んで、今は若者の語る事を謹んで聴くに至った。  若者は猶《なお》も川の向うを睨《にら》みつつ、 「だが物見に来たのは彼方《あちら》ばかりでは無い。此方《こちら》からも敵の様子を探りに行った強者《つわもの》があるのを覚えて居てくれ。一人密《ひそか》に川を渡り、沼地草路を巧みに進んで、敵人の目に触れぬ様に、遠き向うの小山まで行った、その大胆な働きしたのは、他でも無い、私《わし》じゃ。ヌマンベじゃ」と名乗ってトンと胸を拳で打った。 「ほー」と少女達は感じの強い声を発し揃えた。  若者ヌマンベは語り進んだ。 「行って向うの様子を探ると、楠《くす》の木を伐《き》り倒し、クリ船(9)を造り掛けて居る。其数決して少く無い。十《とお》を三度《みたび》重ねて数えた。鉄《かね》の道具を持つ者は、如何しても勝味《かちみ》だ。火で焼いたり、打石斧《だせきふ》で伐ったりして、大きな木をえんやらやっと倒し、それを焼いては又石斧で削って、漸《ようや》く船を造る我々とは大層な相違。今にあの船が出来揃うたら、一時に川下《かわしも》の海の方から、不意に攻めて来るに極《きま》って居る!」 「おう!」と少女等は叫び連《つ》れた。 「人と人となら何んで敗けよう。私は彼等の四五人を、唯一人で相手にもして見ようが、鉄《かね》の刀と石の剣《つるぎ》と切結び、鉄の鏃《やじり》と石の鏃と射合っては、迚《とて》も此方に勝目は無い」とヌマンべは急に打萎《うちしお》れた。 「味方が敗けて如何しよう!」と突然、少女の一人は悲痛な声で叫び出した。  ヌマンベは腕を拱《こまね》き、顔を上に向けて、天を仰ぐ様にして「我々は又次の川のある処まで退《しりぞ》くのだ。それより他には無い。強《しい》て此所《ここ》に留《とどま》って居れば、女は彼等の俘囚《とりこ》となり、男は皆殺されて了うだろう。家は焼かれ、器《うつわ》は破られ……残る物は貝殻の山だけであろう」と言って嘆息《たんそく》した。 (7)耳飾り。滑車形の小さき土製品にして、美術的製作少からず。耳朶に孔を穿《うが》ち、それに嵌入《かんにゅう》して身体装飾の一とした。これは故坪井先生の説である。余はこの品の一対揃って居るのを二組蔵して居る。 (8)川を隔てて敵と対峙するは、今も昔も変らぬであろう。それに多摩川のみの例で見ても、南岸と北岸との両遺跡の遺物を比較研究すれば、精粗の別に於て一時代を劃し得るのである。南岸が粗で、北岸が精。 (9)石器時代の船として、最近に発表せられた茨城県小沼発見(人類学教室所蔵)のは疑問である。船としては余りに小形に過ぎる。それに他の木材を結付けたという説もあるが、真に結びつけたか如何か、その証拠は未だ発見されて居らぬ。それに他の木材を結付けたとすれば、船より寧ろ筏に近くなる。それよりも、常陸国真壁郡大宝神社の社殿に有る大宝沼発見の方が、船として立派に認められる。但し石器時代の物と断言は出来ぬが、確かに古い事は古い。     4  若者ヌマンベが、衰亡しつつある民族の為に慷慨《こうがい》して、平和のみ知る少女等に戦争の悲惨を語って居る処へ、後の小屋の中からよろぼいながら出来《いできた》った一人の老翁《ろうおう》。裘《けごろも》の裏毛の襟を折返して、首の廻りを房々《ふさふさ》さして居ても、髯《ひげ》は矢張無い。それが木の枝の杖に縋《すが》って、少女達と若者との問に立ち、「おう、ヌマンベの言う通りじゃ。船をそんなに沢山こしらえられては、迚《とて》も敵に勝てるものでは無い。残念ながら我々は逃げなければ成らない。此年寄などは、戦いも出来ないが、逃げて行くのも覚束《おぼつか》ない」と口を切った。 「おう、タツクリの老爺《おやじ》さん!」と若者は会釈《えしゃく》した。  タツクリの翁《おきな》は眼をショボショボさせながら、「邪魔に成る年寄は捨《すて》て行け。敵に取られて向うの用をするのは口惜しい、逃げる時には貝捨場《かいすてば》に此方《こちら》で土器を破壊《こわ》して捨てえ。それと同じ様に年寄も捨て行って呉れ。だが、女達は早く逃げて、戦いの未だ始まらぬ間に姿を隠すが好い。髯《ひげ》の多い敵人《てきじん》に捕えられて憂目《うきめ》を見ては如何も成らぬ。我々の民族《なかま》は順押しに、北へ北へと皆逃げ腰じゃ。これから西北《にしきた》の方へは、広い広い原(武蔵野)がある。又大きな川(隅田川《すみだがわ》)もある。未だそれよりも大きな川(利根川《とねがわ》)もある。大きな大きな入江(霞《かすみ》ヶ浦《うら》)もある。此所からも見えるあの遠い二ツ角《つの》の有る山(筑波山《つくばさん》)の麓まで、いや、其先までも早や退いている集団《かたまり》がある。此所に斯《こ》うして最後まで踏留ったは、我等が此所を好いたからじゃ。けれども、いくら好いても仕方が無い。見捨てねば成らぬ時が迫って来たのじゃ」と声も次第に滅入《めい》って来た。  少女達は全く貝剥《かいむ》きの方を止めて、老爺《おやじ》の周囲に集まりながら、 「どうしてこの様に我々は、北へ北へと退くように成ったのか」 「初めから其様に弱い人種《ひとだね》でか」 「我々の先祖は何方《どちら》から来たのか」 「それを老爺さんは知ってであろう」と口々に問掛《といか》けた。 「おう、我々の先祖の事か。それは決して弱くはなかった。今も強い。昔から今まで強いのだが、ヌマンベのいう通り、武器《えもの》で敗けるのじゃ。少女《むすめ》達よ、これを後々まで語り伝えよ。我々の先祖は北から来た。寒い寒い北から暖かい地を慕って、南へ南へと進んだのじゃ。此《この》川も此方から向うへ越して進んだのじゃ。此長い長い国を何処までも、南、西、西、南、と進んで、後には狭い海を越して大きな大きな島(九州)まで行った。未だそれから進んだ組も有ったが、我々の先祖は、その大きな島から、急に逆戻りしなければ成らなく成った。タカマガハラの人達は鉄《かね》の刀を持って居る。鉄《かね》の鏃《やじり》を持って居る。押戻されて此所まで来た。タカマガハラの人達の他に、イズモの人達も後には同じ様に押寄せた。我等は又北へ帰らねば成らぬ(10)」と語り終って、杖と共に早や打倒れん気配と成った。 (10)北より南へ進み、再び北に退いたという説は、羽柴雄輔氏等の唱える所。余もこれに賛成である。それについて余にも一発見がある。それは次回に説こう。     5  古《いにしえ》を語るタツクリの翁は、危《あやう》き足下《あしもと》を踏締めて、杖に力をこ籠めながら、更に前の説を補うべく口を開いた。 「我々の先祖の初めに居た北の北の端《はし》の国には、氷の山、氷の原、氷を積んで造った家、それはそれは寒いのであった。一年の内に大方は雪の中で働かねば成らぬので、如何しても雪や氷に当る日の光の為に、眼を悪くして困ったものじゃ。それで、其《その》光を遮《さえぎ》る為には細く切目《きりめ》を造った(11)。だが、段々暖かい処へ来るに連《つ》れて雪は次第に少く成った。既《も》うそれは入らなく成って了ったので、今日では誰も用いない。お前達は其遮光器《ひかりよけ》を見た事もあるまい。私もそれは用いた事は無い。だが其遮光器を其儘に、土器の模様に画いてあるのは、お前達も知って居よう。これが北から我々の先祖が来た証拠の中の一ツじゃ」と口を結んだ。 (11)エスキモー人種は、現に海馬の皮にて製したる遮光器を用いている。土俗品の標本として人類学教室に所蔵されてある。一寸目、鬘《かつら》に似て居る。鼻の当る処には突起のある塩梅《あんばい》は、旧式の老人眼鏡にも似ている。この遮光器を嵌めている形の土偶は東北地方から沢山発見されている。が、関東方面から以西へ掛けての発見の土偶には、遮光器を掛けたと認めるのがない。雪が少ないのでその必要を感じないからであろう。然るに注意して土器の模様を見ると、確かに遮光器に意匠を取ったのが出て来る。楕円形の中部に細く二条の横線を引いたのを、幾個か連続さしてある。その連続目に土器としては無用の突起点さえ附してある。どう見ても遮光器模様である。この一事は余の発見である。これで考えて見ると、単に南から北へ進んだ族ならば、関東方面に居る間に、遮光器の必要を感じないのだから(土偶にその形跡無し)、遮光器を知り様が無いのである。従って模様として書き様が無いのである。北から来て南へ進んだとすれば、遮光器を知って居る者の製作に土器の模様のあるのは不自然では無い。北より南説の一論拠とするに足ると思う。  此時、第一の少女は心細さ限り無しという声を絞《しぼ》って、「それでは又|妾《わたし》達は、其遮光器《ひかりよけ》とやらを眼の端に当てる様な寒い寒い処へ、之から追遣《おいや》られて了うのか」と問掛けた。 「いや、一気に其様な事も有るまい。此玉の溶けて流れる如き清き水の川の守りは、思いの外に長かった。白く高く煙を吐く山(富士山)と角《つの》の二ツある山(筑波山)との間は、寔《まこと》に住み心持の好い処。なるべく敵に渡さぬ様にしたいもの。お前達の子の代、其子の子の代、其間《そのうち》には次第次第に此細長い国の端《はし》まで行こう。又大きな島(北海道)へも渡ろう。それから又細長い島(樺太《からふと》)へも渡ろう。それからの先きは氷の上を……いやいや、そんな事の無い様に、石の御神《みかみ》に祈るが好い」とタツクリの翁は少女達に教えた。 「おう石の神(12)、まことにそれを祈るのが第一であろう」とヌマンベも言い添えたが、好き機《おり》と見て老爺に向って、 「老爺さん、あの石の神様だて。あれは酋長《かしら》殿の大事な宝物に能く似て居るでは無いか。我等を戦《たたかい》の時に指揮《さしず》するのに、必ず手に持って居られる、あの両方に頭のある石の棒に、石の神様の形は似て居る。小さいと大きいとの差がある。一方は手に持てるが、一方は二人三人でも持てぬ程、大きなのもある。一方には綺麗な彫刻《ほりもの》があれど、一方には滅多に無い。だが形は同じだ。頭の一ツのもある。両方に無いのもある。あれで如何して大きなのが石の神として祭られるのか」と問掛けた。 「おう、それは斯《こ》うじゃ。古い古い昔には、人と争うのに何も持たぬ握拳《にぎりこぶし》で殴り合った。其後《そののち》木の枝の節くれ立ったので殴り合うのが、手よりも都合が好いと成った。併し其枝は折れ易い。それで石で造り出した。これなら堅固《けんご》じゃ。したが、それは却々《なかなか》造《つく》り難《にく》い。石斧《いしおの》の様に沢山に数は無い。然《そ》うして居る間に又、弓矢が発明された。遠くから射台うので傍に寄って闘う事が少なく成った。其所で石棒《せきぼう》は酋長《かしら》の手に形式として残る様に成った。それで人々を指揮する様に成った。酋長でなければ石棒は持たれぬ、石棒が酋長の表象《しるし》の様に成った。さア其所で其酋長が死んで了《しも》うて、其体が無く成って見ると、其酋長を記念する物が留《とど》めて置きたい。斯う成ると何よりも石棒が其物に適《かな》って居る。人々は石棒を祭り出した。それは亡き人を尊敬し、崇拝する心からじゃ。従って伝える人の方から云えば、後の世に永く残すには、なるべく大きなのが好いという心もあろう。又伝えられる者供《ものども》の方から云えば、我等の先祖は此様に大きな物を持ち得たという誇りからして、長さ人の丈よりも高く、二人三人で持切れぬ様なのも造り出したであろう。それが伝わり伝わって、今では神様じゃ。我等の先祖の体は死んでも、魂は生きて居られる。我等は先祖の豪《えら》い人を崇拝する、尊敬する。其魂の乗移って居られるのが石の神じゃ。能《よ》く拝《おが》め。能く拝め」と翁《おきな》は答えた。 (12)石棒については諸説粉々である。武器というのと、日用品──杵の類──というのと、道標というのと、墓標というのと、或いは織物の用具、或いは錨、其他種々出て居る。生殖器を模したので、その崇拝のためというのもある。単に神体として宗教的の意味に解したのもある。或いは斯くの如き大きな物を我が集落には有するという、自慢の飾り物と考えたのもある。学説は一定して居ない。生殖器云々は近世の道祖神の神体に結びつけ易いけれども、如何にせん、頭部を両端に有するのが多いので、その説は成立ち難い。余は前記の如く、小さく手頃にした精製の方を、酋長の指揮刀の如くに考え、大きくして粗製の方を祖先崇拝の標的の如くに考えている。その出所の意外の辺にあるのは住民他に移動の時、それを運ぶの不可能なる場合に、隠匿した結果と見ている。石棒の破砕されたり、又廃物利用の痕跡あるのは、他集落の者の所業と見れば崇拝物を粗末にした理由も解ける。     6  此所《ここ》へ走って来たのは一人の少年である。 「ヌマンベ、此所に居てか。今お前の家へ呼びに行こうと思った処じゃと言って置いて、直《す》ぐと手に待つ乾栗(13)をポツリポツリ食い出した。 「誰が私を呼びに遣《つか》わした」とヌマンベは間い掛けた。 「酋長《かしら》から……」 「おう、それは幸い。私も是非酋長に会おうと思って居た」 とヌマンベは一言って身繕《みづくろ》いした。 「矢張《やはり》戦《たたかい》の事であろう」とタツクリの翁は言った。 「然《そ》うであろう。さらば老爺《おやじ》よ、少女《むすめ》達よ」 「さらば、ヌマンベ」  別れを告げた。  翁は未だ少女達に何か話そうとてか立留った。  少女達は既《も》う貝を剥《む》く処ではなく成ったと見えて、恐ろしき敵の居るという川の向うの遠き小山に、皆《みな》其《その》美しい眼を向けて居る。  此方《こなた》のヌマンベは少年と共に、枯草の間の細路を、酋長《しゅうちょう》の住居へと急いだ。  酋長の家は却々《なかなか》此所から遠い。此あたりで人家の多く集合して居る処は、上沼部《かみぬまべ》、奥沢、嶺、久《く》ヶ原《はら》、雪ヶ谷、上池上、根方《ねがた》、石原、祥雲寺山《しょううんじ》等であるが殊に大集落を成して居るのは馬籠《まごめ》(14)である。其所に酋長が住んで居るのだ。  馬籠には石鏃《せきぞく》製造所も土器製造所もある。総ての機関が整うて居る。此辺の小集落の住民は、皆馬籠の酋長の支配を受けて居るのである。  ヌマンベが馬籠へ着いたのは早や夕方で、四辺《あたり》が薄暗く成り掛けて居た。  酋長の家の前の広庭には、其部下の者等が猪《しし》を捕《と》り来《きた》って、今其皮を剥ぐべく石の皮剥具《かわはぎぐ》(15)を使用して居る処。血に塗《まみ》れた大石斧《だいせきふ》(16)も傍にある。 「おう、ヌマンベか。酋長《かしら》には待兼て居られるぞ」と誰彼《たれかれ》が声を掛けた。 「急いだけれど、つい遅う成った」とヌマンベは会釈《えしゃく》した。  茅《かや》で葺《ふ》いた屋根ばかりの家、浅く土を掘込んである其入口の柴戸は開いてある。中から煙が盛んに出て居る。其奥の方から。 「ヌマンベか。早く此所へ入れ」と太い太い声。 「はッ」とヌマンベは答えて恐《おそ》る恐る其入口まで進んだ。然《そ》うして石の如く身を堅くして立った。   (13)粟の実の炭化したのは、榧、椎などの実と共に下総余山貝塚から出た。 (14)馬籠はその附近の遺跡中、貝塚の面積広き上に、地形上も大集落を成すに適して居る。それに発見の遣物にも貴重品多く、石鏃屑の散布少からぬは、その製造所たるが証せられる。又余の発掘せる個所に、多量の焼土の層を成した処があった。その焼土の貝を混せざる層中から、土器の破片も少からず出て居る。土器製造所と見る事が出来る。 (15)石の皮剥。天狗の飯匕とも石匕とも云う。関東方面よりは発見少なく、東北方面には多数の発見がある。関東方面に石匕少なくして打製石斧多く、東北方面に石匕多くして打石斧の少なきとは、何等かの関係は無いであろうか。 (16)大石斧として今日まで発見せられて居るのは、その長さの尺余なので、刃部の幅は存外狭い。余が最近に馬篭にて発見したのは、刃渡りが実に九寸余で、重量三貫目の上に出る。然うして血液らしき脂肪の附着物が、その刃部に今も痕を留めたる上にその刃部の中央最も重量の集まる処が、遣い荒して磨滅して居る。人の首も斬らば斬られそうである。動物の首は確かに斬落したと思われる。 (17)石器時代の家の考証は大間題である。軽々しく発表出来ぬ。寒地には竪穴を遣して居るが、暖地には未発見だ−−神奈川県下南加瀬に発見を説く人あれど、余は信ぜず−−しかし寒地ほどの深さは無くても、地を多少穿った上に、屋根を葺いたのは事実であろう。天井の低さを補う為に、地を掘下げるのは自然の行方である。千葉県加曽利貝塚附近の開墾地に掘立小屋のあるのを見て、仮にそれをモデルとしたに過ぎない。学説として発表するには勿論早計である。     7  家の中は真赤に輝いて居る。盛んに焚火をして居るからである。多摩石《たまいし》で端《はし》を取った囲炉裏《いろり》(18)の中には、枯枝が盛んに焼《も》えて居る。其周囲には、底の小さな長形《なががた》の土器(19)が下部を灰の中に生けられて、三箇ばかり置いてある。其土器には、鳥の嘴《くちばし》の如き形をした把手《とって》(20)のもある。獣の頭の如き形をした把手のもある。貝の形をした把手のもある。其把手は無論実用から来て、後には装飾に変しては居ても、場合では食物を入れる部類|分《わけ》の記号《しるし》にも成って居て、鳥は鳥、獣は獣、貝は貝と、肉を各々に分けて入れてある。斯うして炉《ろ》の端《はた》に置いてあると、自然に土器の内部の肉は煮えて来る。  炉の前に熊の皮を敷いて、井上に胡座《あぐら》を掻《か》いて居る酋長は、年の頃四十五六か、未だ黒い髪を後で結んで居る。髯《ひげ》は無い(21)。併し頬から鼻下《びか》へ刺青《いれずみ》をして居るのが青黒く見えて居る。  首の周囲には、海鹿《あじか》の牙に孔を穿《うが》ったのを数多く連ねて輪となし、それを飾りとして(22)掛けて居る。手首には猪《しし》の牙を削り、孔を穿ち、それを二ツ合せて嵌《は》めて(23)飾りとして居る。  衣服は、鹿の皮の裏がえしに、大腿骨《だいたいこつ》つなぎの模様を朱《しゅ》の色鮮かに画いた裘《かわごろも》である。  其《その》酋長の後には、木の枝を組合せて、草の蔓《つる》で吊った棚がある。其上には緑泥片岩《りょくでいへんがん》を磨きて、それに美しき彫刻してある両頭の石棒《せきぼう》が載せてある。土偶《どぐう》もある。土版《どばん》もある。香炉形土器《こうろがたどき》もある。飾りの石玉《いしだま》。鹿角器《ろっかくき》。獣骨器《じゅうこつき》。牙器《がき》。貝器《ばいき》。総て貴重なる品が載せてある。  酋長の名は、センゾックと呼ぶ。 「ヌマンベ、今日は大事の用じゃ。許す程に入《い》れえ」 「はッ」  ヌマンベは家の中に入ったけれど、炉の端《ふち》から遠い草莚《くさむしろ》(24)の上に膝を折って窮屈そうに坐った。 「玉の如く清き川の端を守る勇ましい若者。和主《おぬし》は川を渡って、沼地を過ぎて敵の居る処へ忍寄り、様子を探って来居ったとか。天晴《あっぱれ》の強者《つわもの》! 能く行き居ったな」と酋長は誉《ほ》め称《たた》えた。 「気遣《きづか》わしさに耐えませぬで……」とヌマンベは答えた。 「真に我々民族《なかま》の上を心配して居る、和主の様な若者が多かッたら、次第次第に我等は追われまいもの。余りに今の若者は弱過ぎるぞ。自分自身の事ばかり考えて多くの人の集まりには心せぬ。色の美しい花、音《ね》の好い鳥、其様な物を見たり聴いたりするのを喜び、月が好いとて少女達と踊り、雪が好いとて木《こ》の美《み》酒飲み、此頃では男子が朱で顔を塗るさえあるという。何んといういまわしい事であろうか。其様にして益益滅亡《ほろ》び行くのを急ぐのじゃ。前には一人で持てた石皿も、今の若者等は二人掛らねば成るまいが。同じ石斧造るのでも、大きなのより、小さいのを好み、蛇紋《じゃもん》の石や碧玉の石の綺麗な質《たち》のみ選び居る。見ろ、あの庭の大石斧、片手で敵人《てきじん》の間者《しのび》の首(25)斬って落したのは何者じゃ。年取った私ではなかったか。今の若者で誰が片手で持ち得るぞ」と酋長センゾックの言は激して、顔面に血は充ちた。焚火も今燃盛った。 「否《いや》、私にも持まするぞ!」とヌマンベも連《つ》れて意気を漲《みなぎ》らした。 「いや、和主《おぬし》ばかりじゃ! 和主ばかりしや! 其所で今日わざわざ此所へ呼んだ。今夜は各所の小酋長《こがしら》を呼集める其他に、大森の酋長《かしら》にも来て貰う。権現台《ごんげんだい》の酋長にも来て貰う。猪の肉が美味《うま》く煮える頃には、此所へ皆来て大軍議を始める筈。敵人に備える大軍議じゃ。それが為|家内《かない》の者は、皆此所から出して居らしめぬ」 「大軍議!」 「其通りじゃ。其中に和主を一人加えたい。和主も大軍議に予《あず》かれえ」 「え、え、我如《われごと》き青二歳が、酋長達の大軍議の席に……」 「おう、然《そ》うして敵が、どの様な事して此方を攻め様として居るか、其模様を委《くわ》しく人々に、和主の口から語って聴かせえ」 「大軍議の席に連《つらな》れるは身の誉れ。はッ忝《かたじけの》う御座りまする!」 (18)囲炉裏の跡と見る個所を、貝層の下部に発見する事がある。そこには多摩石が敷並べてある。周囲もそれで取ってある。そうして焼土、灰、炭など一杯に満ちて居る。 (19)土器の口径大にして底部極めて小さく、とてもその儘に直立させるのは危険な程のが能く出る。その外面の上部は燻りたる色が附き、下部は火気の強く焼けた痕跡を認める。底を炉の灰に生けたのが想像出来る。 (20)土器の把手の研究は最も複雑である。その形の出もいろいろだが、意匠を動物に取ったのも少くない。これは既に先輩が説いて居る。しかし此把手を、貯蔵食物分類の記号と見たのは、余の初めて発表する処である。 (21)土偶しらべの結果、石器時代の人民は多く無髯である。そこがアイヌと異なる処であるとは先輩の数々説かれたのであるが、その後有髯と認められる土偶の顔面が数個発見された。無髯に対し有髯は併し何百分の一というに過ぎない。それから土偶顔面に朱を塗ったのがあり、鯨面と認められる線を引いたのもある。 (22)海獣の牙に孔を穿ち、それを連ねて首飾りにするは現に南洋原地人にある。その品が遺跡からも発見されている。土偶の首の周囲に玉をつらねた形のがある。故坪井先生は矛製の首飾りを曲玉の起原と考えられた。 (23)猪牙の腕輪は現に台湾人が用いて居る。博物館にも陳列してある筈。遺跡より矢張同じ品が発見せられている。 (24)草の莚、敷物として織られた藺や真菰の類の有ったのは土器の底に押形として残っているので解る。その織方も様々ある。 (25)貝層の中から時々人骨が出て来る。モールス氏が大森貝塚で既に発見されている。余の助手たる望蜀生は、先年下沼部にて頭蓋骨のみを掘出した。今は大学の解剖学教室に廻した。小金井先生御研究の一材料と成っている。     8  日は全く暮れて、凩《こがらし》強く吹荒《ふきすさ》んだ。  庭で殺して居た猪《しし》は、更に石斧に切刻まれて、幾個《いくつ》かの皿形の土器に盛られて、其一部は土器で煮られるべく、其一部は石焼にせられるべく、それぞれ人の手に分けられた。  乾した木の実の堅いのを、石皿に入れて石槌《いしづち》で砕き且つ摺《す》って、それを捏《こ》ねて団子《だんご》にした物も出来るであろう。  木の枝に刺した遠火で焼いた魚。  潮水入れて汁多《しるおお》に煮た貝。  脂肪《あぶら》で揚げた山の芋。  様々の珍味は程なく出来揃うであろう。  酋長センゾックは、今宵《こよい》大軍議を開くので、各方面から頭目《とうもく》の来るのを待つべく、若者ヌマンベを連れて家の中から出て来た。  来る人に目じるし与える為に大篝火《おおかがりび》を焚《た》かしめた。  此時、東の谷一ツ隔《へだ》てた台地の上に当って、大きな火の光が見え出した。それが次第に近づいて来た。 「月の出の様《よう》じゃ。あの火は大森の酋長《かしら》が大井のを誘うて来るのであろう」とセンゾックは嬉し気《げ》に云った。  続いて西北《にしきた》の森の中からも、火の光が見えて来た。「おう、宵の明星の様じゃ。石原のが来るのであろう」と益益機嫌は好い一方。  問もなく東北《ひがしきた》からも、西南からも、盛んに火の手が見え出した。 「まるで星が降る様じゃ。皆打連れ立って、来るわ来るわ」とヌマンベは打喜び、此方《こちら》から燃木を取って、空中に打振り、渦巻を画いて見せた。  彼方でもそれに応じて、松明《たいまつ》を盛んに打振る。それが美しき紋様《もんよう》を空中に現わして、此上もなき美観。好意は此様にして遠くから交換された。  次ぎから次ぎと各集落の大小酋長は集まって来た。家の中は一杯である。炉の周囲はギッシリ詰った。  熊の毛皮の上に座り得る者は、主人のセンゾックの他に、大森と権現台《ごんげんだい》との二酋長だけで、其他《そのた》は鹿のもある。狐のもある。狸のもある。身分に由って敷皮が違う。ヌマンベは斯う成ると莚《むしろ》の上にも座れぬ。土間の隅に小さく成って居らねば成らぬ。それでも同じ家の中に、此人達と一緒に居るという事が既に異例なのである。  家の中には焚火の池に、鯨骨《げいこつ》(26)が熟してある。  土瓶形土器《どびんがたどき》(27)に入れてある木《こ》の美《み》酒を、先ずすすめた。  口づけにして次ぎから次ぎと呑廻した。  ヌマンベは直ぐにも大軍議が開かれると思いの他、話はそれに少しも触れぬ。  互いに髪に白毛の殖えた事や、歯の抜けた事や、皺《しわ》の寄った事、中には腰の曲ったのを嘆ずるさえある。集った人の多くは、皆此所《みなここ》の主人よりも年上であるからだ。  ヌマンベは一人気をイライラさした。斯うして居る間にも、敵軍は川を渡って押寄せて来はせぬかと思われもする。  凩《こがらし》の音もそれかと胸騒ぎする程である。  其所へ、センゾックの部下の子で、椀形《わんがた》の小土器が人の数程配られた。骨製《こつせい》の肉刺も添えてある。  前から炉の端《ふち》にある土器の他に、今又|彼方《あちら》で料理|塩梅《あんばい》された、諸々の珍味を、大土器に入れて持運んで来た。  又これで一連《ひとしき》り、口は其方にのみ遣われた。  ヌマンベは腹立しく成って来た。 (26)鯨骨。東京湾に鯨の入る事は稀有の事では無い。品川に鯨が漂着したので、そこに鯨塚という記念の石碑さえ立って居る。現に余は権現台及び嶺の遺跡で、鯨骨を掘出した。それから曾て韓国に捕鯨見物に行った時に、鯨骨を燃して焚火と成したのを実見した。 (27)土瓶形土器。各所より出づ。液体を入れたのは勿論だが、その美術的意匠を加えたる点より考えると、貴重な飲物を入れて珍蔵したかと思われる。この時代のそれに当る飲料は、矢張酒の類であろう。     9  漸《ようや》く目的の大軍議に入った頃には、集合者の大部分は可成り酔って居た。ヌマンベが命賭の斥候《ものみ》をして、辛《かろ》うじて探った敵情。誠忠溢れる報告も、余りに注意は惹かなかった。  大森の酋長は、それでも海岸近く在るだけに、三十隻の船を揃えて攻寄て来るという事を、酷《ひど》く恐れた。 「斯《こ》ういう事に成ろうと思ったら、此方へ来る前に、川の向うの楠《くす》の木という楠の木は、残らず焼枯らして来れば好かったのに」と今更《いまさら》追着かぬ事を言出した。  権現台の酋長は、之よりも少しく分別《ふんべつ》はある。 「や、今日まで我々の戦《いくさ》の仕方が手緩《てぬる》かった。向うが鉄の鏃《やじり》を用うるのに、此方では唯普通の石の鏃を遣うて居た。余りに人が善過ぎたでは無いか。毒矢(28)を遣って戦おうでは無いか、毒矢を?」と、言出した。 「毒矢? 猛《たけ》しい獣《けもの》を射殺す様にか」と叫ぶ者が有った。 「どの道戦は人を殺すのじゃ」と権現台は説を張った。 「全く我々は惨《むご》たらしい事を喜ばぬ。人を殺す事を喜ばぬ。向うから荒立たねば、一緒に仲好く暮らしたい。此方から物を持って行こう。彼方からも物を持って来よう。それを取替え合って睦《むつ》まじく過したいのが望み。それを向うから攻めて来る。已《や》むを得ず始めた戦じゃ。射れば其《その》傷口、忽《たちま》ち紫色に変り、毒が全身に廻れば苦しみ死《じに》に死ぬ、あの毒薬を塗った矢まで射るのは、敵ながら可哀そうなと、ついつい許して遣って居たのが、矢張今日のわざわいと成ったのか。兎角《とかく》我等に惨たらしい事は出来ぬ」と一老人が一言出した。 「それに毒薬は却々貴《なかなかたっと》い。すべての強者《つわもの》の矢に塗る程造るのは、並大抵の事でないので……」と言うのも有った。 「毒矢の事も好かろうが、それよりも、巫女《みこ》に頼んで見ては如何か。敵人《てきじん》をして一歩も川を渡らさせぬ様、祈?{祷}《きとう》をして貰うたら如何であろう」と言出したのも有った。 「それこそ嶺の千鳥窪《ちどりくぼ》の老巫女が一番じゃ。あの巫女は、怪しき鳥の日を食う時を知り、又月を食う夜を知り、天を見て雨を知り風を知る、其他《そのほか》人の生死《いきしに》を予《あらかじ》め知らせもする。重い病も治して貰える。総てに不思議の力を持つ。人では無い、神様じゃ、生き神様じゃ。あの巫女に祈?{祷}を頼むが好い」と忽ちに賛成の声。 「それにしても、備え物に、毛皮や、宝石や、数多《あまた》の食物、いろいろに納めねば成るまいが。それに少しく困った」と、言うものも有った。  今まで沈黙して居た馬籠の酋長センゾックは、此時初めて大声出して、 「巫女も矢張我々と同じ種族《なかま》じゃ。頼まずとも祈?{祷}するのが当然《あたりまえ》じゃ。頼うだとて礼物《れいもつ》取らぬのが当然じゃ」と言立《いいた》てた。  年寄の愚論百出に呆れて居たヌマンベは、センゾックの発言を痛快に感じて思わず知らず、 「然《そ》うだ然うだ」と連呼した。 (28)毒矢。現在アイヌは毒矢を使用して猟をして居る。南洋の原地人にもそれが有る。遣物中に小土器の腰に提げたらしき造りのがあり、その中に附着物の有るのを二三実見した。これに毒薬でも入れて猟に出たのでは有るまいかと思われる。なお考うべしである。それから毒矢を控えて発せぬというのは、現今、ダムダム弾を禁じた平和会議の規則から思い着いたに過ぎないが、滅亡せる民族が、多く練武を怠り、常に歓楽に耽った結果というに思い合せ、土偶の面の優しき相を現わすのから推して、余は石器時代の人民を、飽くまで平和好きと解釈して居る。それをも毒矢禁止の一理由とした。     10  若い者の遊惰《ゆうだ》に流れて居るのも困る。が、年寄達の頑冥《がんめい》なのも亦困る。巫女《みこ》の祈りで大軍を防ぎ止めんなんどと片腹痛い。それを唱えるのが酋長達だから実に驚く。我等民族の前途も思い遣られると、ヌマンベは甚だしく悲観をした。  老人達は、片隅で叫んだ著者の態度に、心よしとは仕なかったが、それを咎《とが》めるよりも先ずセンゾックの説を打破るのが急なので、其中の一人は声を高め、 「いや、馬籠の酋長《かしら》の言葉では有るが、嶺の千鳥窪の老巫女殿は、我々の種族《なかま》の者では御座らぬ。委しく云えば、人間では無い、神様じゃ。体は仮に人間でも、それに神様が乗移って御座らッしやるのじゃ。されば其《その》神様にお願いするのに、備え物の数々を並べるのは、当然では有るまいか」と、言出した。 「然うじゃ。其通りじゃ」と多く雷同した。 「その神様の事を少しでも悪口言うと、どの様な恐ろしい崇《たた》りがあるか知れぬ。既《も》う此上何も云われるな」とセンゾックの口に戸を立てる様に言冠《いいかぶ》せた。  大集落、小集落、唯連絡があるだけで、それを統一する大君主の無い悲しさに、酋長達が集まって物を議すれば、如何しても多数決で押えられる。先覚者の意見が通らずして衆愚の説が用いられる。それが為に種々の手違いや手遅れを生じて、次第に民族が滅亡するのだ。  未だ此処に民族は多数に居る。彼方《あちら》此方《こちら》に大集落小集落沢山ある。それが直ぐ傍近くに敵が現われねば、弓矢取って立とうとしないのだから、如何とも仕様が無い。  センゾックは、多数が巫女に依頼する意向と覚《さと》ったので、それと争うても詮無しと見て取って、 「それでは皆んなの言うのに従って、神にも祈ろう。巫女にも頼もう。では有るが、人は又人として、出来るだけの防ぎをして置かねば成らぬ。それに就ても謀ろうでは無いか」と一方に又道を開き掛けた。 「それは全く其通りじゃ」と大森のが受けて、 「先ず船の着きそうな処へは、木を伐り出して、海の中の木柵《ぼくさく》を造り、又水上に見張の小屋を立て(29)、敵の来るのを注意して居らねば成らない。先ず大森の海岸《うみぎし》に、第一それを設けねば成るまい。各集落《それぞれ》から木の伐出しを頼みまするぞ」と言出した。 (29)水上生活は、諏訪湖中の遺跡について故坪井先生の発表せられた処であるが、自分は水上に住居したという広い意味でなく、水上に特別用の小屋を設けて、時々そこに人が通ったという程度で賛成する。坪井先生の説では、猛獣及び外敵を防ぐために、水上に住家を設けて、そこに生活したというのであるが、自分はそんなのでなく、水上の見張り、又は漁業用の為にそれを設けて、他の住家から、其処へ通って居たと解するのである。     11  大森の酋長の発議は、自分勝手を極めて居る。権現台のは早くもそれを見破った。 「それも必用ではあろうけれど、未だそれよりも他に為《す》る事が沢山に有りそうなもの」と言出した。 「然《そ》うだ。引受けて戦うよりも、此方から向うを攻めるという、然うした手段も取りたいものじゃ」とセンゾックが続いて言った。 「それには如何も船が足らぬで……」と二三の人から嘆声《たんせい》と共に出た。 「船? おう、船?」  船は実に大問題である。  大小酋長。溜息より他には出ない。其溜息は酒臭い。家の中一杯が其|臭気《におい》。香炉形《こうろがた》土器(30)で楠《くす》の木でも燃して貰いたい程。  此時我慢|仕難《しか》ねて、勃発的《ぼっぱつてき》に目を開いたはヌマンベである。 「船は敵のを奪って乗る?」と叫び出した。 「なに、船を奪う?」と権現台が問うより寧《むし》ろ詰《なじ》るという方。 「はい、敵に精々《せいぜい》造らして置いて、此方《こちら》から行って奪って来まする」とヌマンベは事も無気《なげ》に答えた。 「それは寔《まこと》に好い考えじゃ。併しそれには誰が行く?」と問は重なった。 「私が行きましょう」とヌマンベは凛《りん》として答えた。 「おう、和主《おぬし》が行くか」 「だが私一人では一隻が漸《ようや》くの事。夫《それ》より上は取れませぬ。他に行く人が多いだけ、船も多く取って来られまする」 「それは其道理じゃ。したが一人で行っても見あらわされる。大勢行けば如何しても敵に見られる。然うして直ぐと戦《いくさ》が始まるに極って居る。すれば甚だ不利益じゃが……」 「それに就て私には考えが有りまする」 「如何した考えじゃ」 「潮《しお》の入江の水の中に、全身を沈めて、唯頭ばかり出して行きまする。暗い夜に……寒い夜に……普通《なみ》の者の迚《とて》も行き得られぬ時を選んで、密《そつ》と船の処まで行きまする。それが敵に油断させる為で御座りまする」 「すると、雪の降る夜……氷の流れる夜……」 「其様な時が、別《わ》けて好いと思いまする」 「それでは体が凍《こご》えるぞよ」 「凍えましょう」 「凍えたら死ぬるぞよ」 「海鹿《あじか》の脂肪を体に塗って行きましょうで、それでも凍え死《じに》すれば、それまでで御座りまする」  覚悟は既に極《き》めて居る。  大小酋長等も、此若者の決死の覚悟にいたく動かされた。 「勇ましの若者よ」 「先ず炉の端《ふち》に来れ」 「木の美酒呑めよ」 「敷皮の上に胡座《あぐら》組めよ」 「肉を何んなりと取って食べよ」  口々に歓待した。ヌマンベは聊《いささ》か面目《めんぼく》を施《ほどこ》した。  此所《ここ》の主人は、ふッと酒の気《き》を吹出して、 「此ヌマンベの様な若者が、せめて十人も揃うて居たなら、我等はむざむざ敗れまいぞ。次第に北へは退《しりぞ》くまいぞ!」 (30)香炉形土器。美術的意匠を施したる小土器が時々出る。その形が香炉に似て居る。やはり香料を燃したろうとは思われるけれど、未だその内部の燻ったのが発見されぬ。東北方面にては比較的多く出て居るが、関東では極めて少ない。そうして又形式も異なって居る。余は先年、余山貝塚から、奥羽式の香炉形を一個発掘したが、これは異例である。それに関東方面では、両方に目を有する高杯の小土器を能く発見する。これも香炉形に数えられる物であろう。しかし関東出の同土器の代表的の珍品は、何んと云っても水谷幻花氏所蔵のであろう。香炉形土器については更に進んで、香料のみを燃したとも思われぬ。除虫菊の類を燃して、蚊やその他の毒虫を払ったのでは有るまいかとも考えて居る。未だ併し燻った形跡のを見出さないのが遺憾である。     12  軍議果て酋長達は、おのおのの集落にと帰り行く。其|松明《たいまつ》の光の先は、月の入る如く、星の消える如く、何方《いずれ》のも次第に見えず成った。  馬籠の首長センゾックの家の中には、未だヌマンベを留《とど》めて、主人は非常に機嫌が好い。  某所へ、軍議を他の家に避けて居た酋長の妻テラゴ、娘のネカッタを連れて戻って来た。  ネカッタの髪は美しく結んである。鹿の角を細く削った短き簪《かんざし》。鹿の脛骨《けいこつ》を細く長く削り、それに美しき彫刻を施して朱で彩って居る長き簪(31)、それを後に挿して居る。  耳飾りの意匠は精巧を極めて居る。  首飾りには青き玉、白き玉、赤き玉(32)を連《つら》ねて居る。  折返した襟毛《えりげ》を見れば、雪の様に白い。珍らしき白狐《びゃっこ》の皮。  娘ネカッタは、斯《こ》うして飾り立てないでも、広き武蔵野はいうまでもなく、霞《かすみ》ヶ浦辺《うらべ》、筑波の山麓、すべての集落を探し廻っても、比べる者なき美人である。 「おう、ヌマンベ。其方《そなた》は大事な命を捨てる覚悟で、敵の船を奪いに行くとか。まア、何んという強者《つわもの》であろう」とテラゴは良人《おっと》の側に坐りながら誉め掛った。 「それも皆|民族《なかま》の為!」とヌマンベは答えた。 「其方は実に見上げたもの。其方の父親も優れた強者であった。其父親の父親も亦《また》強者であったそうな。酋長《かしら》の家筋で無い為に、出世も出来ずに居やるけれど」と猶《なお》もテラゴは誉め立てた。 「いや、それには私に考えがある。出世の出来ぬわけでも無い。船一隻でも取って来たら、私の胸に好い考えが貯えてある」とセンゾックは意味有り気に云った。  ヌマンベは家族の人が帰って来たので、既《も》う自分の去るべき時が来たと考えて、 「それでは、いずれ又……いや好い便りを持ってでなければ、再び此所へは参りますまい。さらば酋長《おかしら》! 内方《うちかた》! 娘御《むすめご》!」  斯《こ》う云って立上ろうとした。 「いや待て! わかれの贈り物、志《こころざし》じゃ。それを遣《や》ろう」と酋長は呼留めた。  然うして一隅《いちぐう》の武器のみを列《なら》べてある吊棚の上から、両頭の石斧《せきふ》(33)を取ってヌマンベの前に置いて、 「これを和主《おぬし》に遣る」とセンゾックは云った。 「おう、これは両頭の石斧!」とヌマンベは珍らしそうに見た。 「今は余り遣《つか》わぬ武器《えもの》じゃ。これに厳疊《がんじょう》な柄《え》を附けて、右と云わず、左と云わず、当るに委せて敵人を撃つのじゃ。古代《いにしえ》には石環《せきかん》と呼んで、石に孔《あな》を穿《うが》ち、それに棒を挿し込んで武器として、其石の処で人の頭を打砕いたのじゃそうな。それが次第に進んで来て、石を平たくして、外縁《そとえん》に薄く刃を附けて、当りを鋭くしたものじゃが、更に又進んで石環に幾個かの切目を入れ、刃を益々鋭くした。それが六頭石斧、又は三頭石斧の起りと成った。後には孔を穿つのを止めて、中央を木の枝で挟む様に成った。其代り刃は二ツだけで、両頭石斧が之じゃ。其両頭石斧の中央《まんなか》が木の枝に挟み好い為に、縊目《くびれ》を附け、又は隆起《ふしくれ》を附けるに至ったのは、後の事。今では其刃も円く、石の質《たち》も見た様《さま》の美しさを選んで、実の用には遠く成ったが、私の持って居るのは、私の父の父の父が、幾度か戦《いくさ》に持って出た秘蔵の品じゃ。それを和主《おぬし》の忠勇に愛《めで》で与える。其心で受けて呉れえ」 「はッ」  ヌマンベは感激した。余りの嬉しさに手に取り得ないで、涙の浮んだ眼で昵《じつ》と見詰めて居た。  此間《このうち》にテラゴは、ネカッタに密語《ささや》き、其首に懸けて居る数多《あまた》の飾り玉の中から、殊に斐翠《ひすい》の石の美麗なのを抜取りて、それを又両頭石斧の上に置き、「これは偏《ひとえ》に和主の力で、敵人を防ぎ得て、貞操《みさお》を正しく保ち得る我等|民族《なかま》の女子《おなご》達の代理《かわり》として、ネカッタのを妾《わたし》から進ぜまする。捕獲《とりえ》た獣の牙のみを勇者の誇りと首に飾る、其中に之を一ツ交えて、異なる色を示すが好い」とテラゴの言葉にも意味は有り気。 「事無く船を取り得て来たらば、未だ此処に与える物有り。それは併し今は云わぬ」とセンゾックは言って打笑《うちえ》んだ。  炉の火は今又盛んに燃上った。  すべての人の顔面は輝き渡った。 (31)簪の有無を論ずるのは、余りに大胆である。肝腎の土偶に未だ簪の有る形跡を認めないのであるが、それは挿さぬために無いのか。挿した処を現わすのに難かしいので造って無いのか。これは疑問である。だが一方の遣物中には、鹿角製、或いは獣骨製で、それに相当する物が少からず出ている。肉刺の部類に入れる論著もあるが、それとすれば余りに繊巧で又装飾的に過ぎ、とても実用品とは見えぬのがある。手の込んだ彫刻をしたのや、朱が一面に塗って有ったりする。肉を刺せば朱が取れて、口に入れるには具合が悪い。どうも簪と見た方が都合好く思われる。それに長き髪を結んで居れば、その頭髪中の痒さを掻く場合に、簪は必要で有るだろうと思う。又一説として、帽子止のピンの如く用いたとも考えていが、ここでは簪と見て置く。 (32)装飾の玉は各所から発見されている。貝塚曲玉と呼んでいるが、必ずしも曲玉の形ばかりでは無い。小玉、管玉、其他様々のが出る。古墳から出る大和民族のと能く似ているが、別に深い関係を有して居るのではあるまい。人類の智識は、そんなに隔絶していない。それが単純な玉の形の上に現われるのでは、類似は免れない。石質には、悲翠、碧玉、瑪瑠、蛇紋、水晶、種々ある。その孔の穿ち方について、貝塚物は概して不器用であるが、中には又如何にして穿ち得たるかを疑わしむる程の精巧な品も稀に出ている。 (33)両頭石斧は独鈷石の前身では無いかと思われる。その中間物と見るべき品も出ている。     13  酋長の家を出たヌマンベは、贈られた両頭石斧と飾りの玉とを、大事に隠しの中に納め、替え松明《たいまつ》二三本片手に抱え、其一本に火を点じて片手に持ち、下沼部《しもぬまべ》の吾家を指して帰り出た。  幾度となく振向いて見た酋長の家に火も見えず成った。  送って出たテラゴとネカッタ。彼方《あちら》からも此方《こちら》の松明を、長く長く見守って居たろうか。  此の寒風に耐切れず、疾《はや》く家内に駈込んで、入口の柴戸を締めたであろうか。其様な事をヌマンベは胸に浮べた。  だが、彼方からも見えず、此方からも見えず、火と火との縁が切れた時には、今度は吾家に母の待つあるを思出した。「早く帰って喜ばせねばならぬ」  此心で足は自然に急いだ。  後から吹かれる風の冷たさを防ぐ為に、肩に刎《は》ねて居た角頭巾《かくずきん》を取って、すッぽりと頭から冠った。  今まで後の方の物音が能く開こえて居た。風に枯草のざわめくのが、テラゴとネカッタの密語《ささや》きでは無いかとまでに聴えて居た。それが既《も》う聴えなく成った。  火に鷲いて行手の森に鳥の落ちる其羽ばたき。或いは路を横切る獣の走る音。それだけは漸《ようや》く聴えて居た。  空には星も隠れた。翌日は雨か。雪か。  雪ケ谷の集落を過ぎても、此所に家ありとは知られぬ程に暗くある。入口の柴戸を鎖《とざ》したので、火の光が見えぬからであろう。  特別に狩する者の他には夜の道は滅多《めった》に人が歩かぬ。ヌマンベは此様に遅く此あたりを通るのは珍らしかった。  来る時には使の少年が一緒で有った。彼は乾栗《ほしぐり》を隠しから出しては、ポツリポツリ食べて居った。ヌマンベは今別に物欲しゅうは思わぬけれど、酒食の後の事とて、喉が乾いてならぬ。と云って清水は此近くだと後戻りせねば無い。それ程でも無い。  耐《こら》え耐えて余程歩いた。替え松明を焚き尽くして、今は手ばかりのと成った。家路も早や近い。  空いた片手は無意識に隠しへ落ちた。触れたのは翡翠《ひすい》の名玉《めいぎょく》である。  知らず知らずそれを取出した。  片手の松明で照らして見た。(34)  美麗というは超して居る。神々しい様に光りもする。其《その》色艶は石とは見えぬ。空に雲一片無き朝に、底の知れぬ淵の水の色の、それの凝《こ》った一塊《ひとかたまり》かとも思われる。  渇《かつ》して居たヌマンベは、之を口の中に含んで見た。  溶けて失くなりは為《せ》ぬかと心着いて、急いで掌《てのひら》に吐き出した。  気の所為《せい》か渇は少しく医せられた。  然《そ》うして口中に濡れた玉の色は、更に更に色艶を増して見えた。  思わず恍惚として其玉に見入り、歩みは知らぬ間に留《とどま》った。  松明の焔の風に煽《あお》られる音が、さも息苦しい様に聴えて居る。  突然後から、何者か、手を伸して、その玉を奪おうとした。  吃驚《びっくり》して松明を差向けると、怪漢《くせもの》は周章《あわて》てそれを打《たたき》き落した。  其閃きに皮頭巾|眼深《まぶか》の、唯それだけ見えた。  松明は落されたが、玉は大事に掌に握り締めた。其挙で暗闇を一ッ打った。  巧く怪漢の頭に当った。  驚いて彼は飛退った。  何処やらで梟《ふくろう》が鳴き出した。 (34)玉を取出して途中で見るについて自己の経験がある。採集に歩いて遣物を得た時に−−別して磨製石斧或いは、玉の類−−幾度となく隠しから出して、見ながら歩く。殊に石質の美麗なのには、口中自から水気を催して来る。舌頭に載せたら溶けはしないかと感ずる事もある。     14  ヌマンベは、唯一人で此所まで来たと思って居る。だが、事実は然《そ》うでは無かった。  松明の光の達《とど》かぬだけの間隔《へだて》を取って、後から一人の怪漢《くせもの》が附いて来て居た。隙間が有ったら打掛ろうと、それを執念《しつこ》く狙って居た。  抑《そもそ》も其怪漢は何者?  久《く》ケ原《はら》の若者でカンニャックと呼ぶのである。酋長の妻テラゴの甥に当って居る。  酋長センゾックに男の子が無いので、養子に為《す》るという噂も有ったが、テラゴの大事にして居る土器を破《わ》ったので、感情を害されたので、其儘《そのまま》に成って居る。  今日彼は手伝いに来て居た。大軍議の席には、食物を運ぶ時に出入りしたが、其他は多く外に居た。  然《そ》うしてセンゾックが、ヌマンベに両頭石斧を贈り、テラゴが、ネカッタの玉を取って贈ったのを立ち聞きして憤怒した。  センゾックの一家は、ヌマンベを愛し、彼の手柄に由っては、養子にする様子が有るのを覚《さと》っては、嫉《ね》たましさに耐えられぬ。  ヌマンベを殺して了って、其玉を奪い取ろうという念が燃立って、直ぐと後を尾《つ》け出したのである。  殺すには蛇紋岩《じゃもんがん》の磨製石斧《ませいせきふ》、柄無《えな》しで以て逆手《さかで》に持ち、唯一撃《ただひとうち》と思ったのだが、玉を見て、つい、其方《そちら》に手を先きにした。  間違って、反対に、頭を打たれた。  松明は消えて真の闇である。  某所に居ると見て打って掛かれば、木立《こだち》。  枯草のバラバラと散る音がする。  向うからも打って来たらしい。  空中に唸《うな》りを引いた。  彼方《あちら》此方《こちら》と少時《しばし》探り合った。  併し斯《こ》う成っては迚《とて》もカンニャックに勝目が無い。何故なれば、ヌマンベとは腕の力が違う。それにカンニャックの考えでは、最初の一撃で斃《たお》すつもりで有ったのだ。それが間違っては如何も成らね  遺憾《いかん》ながら逃出さねばならね。  ヌマンベの連《しき》りに探り寄る、其物音の反対の方に走ろうとした。が、其方は路では無かった。草原であった。のみならず、其所には陥穽《おとしあな》(35)が有った。  それは、獣を取る為にこの集落の入が造って置いたのと見える。  幸いにして、余り深くは無かったが、中に植立てた尖木《とがりき》で、皮靴の上からではあるが、足の裏を突刺した。  其物昔に見当附けて、走り寄ったヌマンベは、又不幸にして同じ猟用の掛罠《かけわな》に足を踏入れて、横様《よこさま》に倒れた。  其間にカンニャックは穴から這上って、足を引き引き逃げ出した。  ヌマンベは急いで其罠を取脱したが、既《も》うこの時は遅かった。  長追いするまでも無い。老母はさぞや待詫《まちわ》びて居ようと、直《ただ》ちに家に帰る事にしたが、扨《さ》て何者の暗撃《やみうち》に掛ったのか、分らぬ。「人に怨みを受ける覚え、少しも無いになァ」  訝《いぶか》らずには居られなかった。 (35)陥穽に就て、次の如き物語がある。神奈川県下三沢の貝塚を、かつて英人マンロー氏が大発掘した。その時には八木奘三郎氏が監督して居た。学者達も多く参観した。余も数回見物に行ったが、その時に貝塚のシキに十数箇小さな竪穴の有るのを発見した。これは貝塚の出来る前の物で、直接貝塚に連絡の有るので無いのは分っている。つまり穴の上に貝塚が出来たのである。これを掘立小屋の柱を埋めた跡だろうという説も有った。その他二三の異説も出た様で有ったが、その後マンロー氏なり八木氏なりが、如何いう説を発表されたか、つい余は聞かずに居る。だがその時余は、動物を捕る為の陥穽の説を出した。別に深い考えからでは無かったが、前記「ストリー・オブ・アブ」の中に、動物を捕る陥穽の有る様に書いて有ったから連想したに週ぎなかった。だが石器時代の猟法に陥穽や掛罠の有った事を挟むのは、決して突飛の考えでは無かろうと思う。因に記す、三沢の穴を山の芋を掘った跡という説も有った。食物を埋蔵して置く場所という説も有った。両説も有力だったが、並んで数の多いので消滅した。     15  玉の如く清き水の川口に遠からぬ嶺の千鳥窪(36)に、生ける神の如く貴《とうと》き老|巫女《みこ》が一人住んで居る。  病める男、姙《はら》める女、心に憂愁《うれい》ある考、身に罪障《つみさわり》のある者、遠く近くより集まり来りて、皆その悩みを消滅せしめるべく、老巫女の祈祷を請《こ》うのである。それも空手で来る著は一人も無い。供物《そなえもの》にとて種々の食物、或は毛皮、宝石なんどをさえ持来って居る。  重患の者には神符《しんぷ》として土板《どばん》(37)を授けられ、難産の者には厭勝《えんしょう》として土偶(38)を与えられる。土板や、土偶や、皆それは老巫女の手元に、これのみを造る技術者《わざもの》の手から引取られて、用意されてある。それが又全治した者は、同じ物を新たに求めて、御礼として納めもする。  老巫女の名はウノキと呼び、年の頃六十余り。顔には小波《さざなみ》の如き皺を寄せ、頭《かしら》には白雪の如き髪を束ねて居る。首のまわりには、青き翡翠《ひすい》、赤き瑪瑠《めのう》、白き水晶、色々の玉を連ねて飾りとして居る。  今日も朝早くから多くの人を見た。然《そ》うして、それぞれの祈祷をして与えたので、正午の頃には聊《いささ》か疲労《つかれ》をも覚えて来た。 「今日はこれで止めにして、誰が来ても見まいぞ」とつぶやきながらも、積重ねたる供物の数々を見て、今日も多数に収人を得たりと、自然に微笑《ほほえみ》を漏らして居る処ヘ、甚だ不調子の足音がして、次第に此方《こちら》へ近づいて来た。  それは足を引きながら久《く》ケ原《はら》の著者カンニャックが来たのである。 「巫女殿、お助けを乞いに参りましたぞ」と呼《よば》わりながら、入口の方からよろばい込んだ。 「いや、既《も》う今日は見ぬ事にした。翌日ならば祈祷して進ぜよう。出直して来なされ」と老巫女は断った。 「それまで如何して待たれましょう。此痛い事!」とカンニャックは心細い声を出した。「今の若さに痛いなんど……」 「それが真実痛いので……其痛い足を引摺り引摺り、やッと此所まで参りましたのじゃ」 「来られる程ならば未だ好いでは無いか」 「でも巫女殿にわしの家まで来て貰う事も出来ませぬでな」 「その様に難儀な足の為に、何も持って来る事が出来なんだか? 御供物《おそなえもの》を持って来ぬのは、それ故《ゆえ》でか? いや、縦令《たとい》如何ような御供物を持って来ようとも、今日は既う祈祷は止めじゃ」 「巫女殿、その御供物に就て、是非是非お耳に入れて置かねば成らぬ事が御座りまする。全くの一大事?」 「なに、一大事?」 「わしの足の怪我も、それに関わって居る事じゃ」 「何という? 「近い間に、此庭一杯の御供物が持込まれまするぞ。その中には、異国から遥々持って来た石の玉(39)。貝を数多《あまた》破《わ》って見て漸《ようや》く其中から一ツ取り得た玉(40)。巧みに孔を穿《うが》った玉(41)。朱で塗った土器の数々(42)。細かな鹿の角細工。磨いた猪《しし》の牙細工。それから珍らしい穀物(43)。滅多に取れぬ魚や鳥や。毛皮なら、白熊《しらぐま》のも、白狐《しろぎつね》のも、亦《また》黒貂《くろてん》のも……」 「これこれそれは和主《おぬし》が持込むのか……いや。和主が持込むのでは有るまい。夢に見たのを語るのであろう。それ程の御供物は、一人の力で如何して揃えられよう。此あたりの酋長達が気を揃えねば、却々《なかなか》以て集まりはせぬぞ」 「それで御座りまする。馬籠の大酋長センゾック殿を初めとして、大森の酋長、権現台の酋長、其他大井のや石原のや、諸方の酋長達が打集《うちつど》い、是非とも巫女殿に旗んで、大祈祷をして頂かねば成らぬと有って……」 「おう、酋長達が打揃うて、此のわしに大祈祷を頼もうとや。おう、おう、それは然うのうては適《かな》わぬ事」と見る見る老巫女の顔は輝き出した。  カンニャックは又顔を顰《しか》めて、足の底の痛さを大袈裟《おおげさ》に示しながら、 「その大祈祷をお頼みするのは、何の為という事、それから未だ未だ一大事に就て、申上げる事も御座りますれど、痛や此足……これを治してからにして下さりませぬか」と巧い処で療治を頼んだ。 (36)嶺の千鳥窪の遺跡は、今日に於ては玉川河口より余程離れている。玉川は六郷川となり、川崎を過ぎて、羽田に至り、海に入るのであるが、新田義興が討死したという矢口の波の事を考えると、正平の時代には余程上まで海水が注し入っていて、川幅も広かったと想像せねば成らぬ。更にそれよりも二千数百年前の石器時代に潮って考えれば、鵜の木の辺まで入海と成っていたと見るのが適当であろう。 (37)土版。 (38)土偶については、なかなか議論のある事で、ここに委しくは述べられぬが、つまり土版と土偶とは連絡がある。土偶の変形が土版という事には誰も異存は無い。従ってその造られた目的もほぼ同一だろうと考えられている。さて其用法であるが、これにも玩具と宗教具との一説が有って、多くは宗教具の方に傾いている。余も矢張宗教具の方に従って置く。土偶の多くは乳房を高く表わし、腹部をも殊更に高めて造ってある。妊娠を表わすのだろうとは、先輩既に説かれてある。 (39)石の玉には石質の日本に於て産せざる物あり。中国大陸より伝来したのであろう。 (40)遺跡の中より未だ真珠を発見しないけれど、鮑貝は諸所で出ている。 (41)有孔石器には、巧妙に小孔を貫通さしたのがある。これはその頃貴重なる鉄器を手に入れて、使用したのであろうとは以前から皆考えて居る。しかし公然の発表は、最近に博物館の高橋健自氏に依って、人類学雑誌に於て成された。 (42)朱塗土器は各所から出ている。単に塗ったばかりでなく、模様的に書いたのさえ出て居る。朱の研究は蒔田鎗次郎氏が古く東京人類学会雑誌で発表されている。 (43)常陸余山貝塚で穀物の半ば炭化したのを水谷幻花氏が発掘して、これを松村任三博士が調査せられた。     16 「此時、老|巫女《みこ》ウノキは威猛高に成って、若者カンニャックを睨付《ねめつ》けて、 「愚かなる若者よ。和主《おぬし》の口から聴かいでも、酋長達の打集い、妾《わし》に大祈祷を頼もうとする、其内容《そのいりわけ》は、能う分って居る。和主より先に知れて居る」と呼わった。  カンニャックは吃驚《びっくり》して、 「先きへそれが知れましたか」 「おう、昨夜馬籠《まごめ》の方の空に怪しき星が六ッ七ッ輝いた。神と同じ息を通わせて居る妾《わし》には直ぐとそれで知り得られた。酋長達は此ウノキに頼んで、川の向うの敵人《てきじん》を、調伏して呉れよとの願いであろう」 「おう、巫女殿! 其通りで御座りまする」 「それ位な事が分らいで、神の使が出来るものか」  誇り顔のウノキ。或る程度までは想像し得る事をさもさも神秘的に言廻して、的中さしたに過ぎぬのである。カンニャックにはそれが分らぬ。全く神と同じ息の通う人として恐れ且つ敬《うやま》い、「それでは言うまでもない。わしが此足を痛めた事、昨夜のあの暗闇の争いをも、巫女殿には知って居なされるか」と恐る恐る間うて見た。 「愚かなる若者よ」  又叱られた。 「和主の様な者の身の上に、誰が絶えず遠眼を配ろう! 何処で怪我したか知るものか。いや、知ろうと思えば何んでも知れる。蝸牛《かたつむり》(44)の殻の中で角《つの》を如何して居るという事。土竜《もぐら》(45)の地の底の眩《ささや》きまで、知ろうと思えば何時でも知られるなれど、然《そ》う然う総てに気が配れようか。余程大事で無い限りは……」 「それならば、あの昨夜、わしが獣物取る為の狼穽《おとしあな》に陥ちて、此様に足を痛めたまでの事は知られぬとか……やれやれ、それで、お話が出来まする。これは巫女《みこ》殿、斯うで御座る。今申した数々の御供物を、酋長達が今日持来って、大祈祷をお頼み申そうとしたのを、それは全く無益じゃと、留めた者が御座りまして…… 「何んという? 数々の御供物を無益じゃと留めた著が有るとか」  見る見るウノキの顔色は険悪《けんあく》に変った。  カンニャックは猶《なお》も其顔色を窺《うかが》いつつ、 「巫女が何んで川向うの敵人を呪い得ようぞ。数々の供物は唯取りせられるに極って居る。大祈祷は止めになされと、我賢しと言出でた一人の若者が御座りました」 「そ、そ、それは、何者じゃよ」 「巫女殿! 其様な詰らぬ事は知ろうとも思われまいが、未だそれを知られまい」 「知らぬ。知らぬ。今初めて……さ、さ、それは何者が留め居《お》ったか。妾《わし》の悪口を何者が言い居ったか。さ、さ、カンニャック、語れ、聴こう!」 「その若者は、ヌマンベで御座りまする」 「おう、あの、ヌマンベ!」 「あまりに小ざかしい事を申したに由《よ》って、わしは昨夜、彼奴を捕えて意見を加えてやりましたじゃ」 「して其意見を聞き入れたか」 「聞入れる処では御座りませね。巫女殿の事を益々悪《あ》し様《ざま》に言立て、端《はて》は神の事までさげすみました」 「僧っくきヌマンベ!」 「余りの無礼に、わしは彼目を打懲《うちこ》らして呉れんとして、つい彼目に……」 「敗けたのか」 「いや、明るい処で闘うなら、何んの彼如きが二三人、一時に掛って来ようとも、敗けなどするわしでは御座らぬが、何んと云っても昨夜の暗さ。つい狼穽《おとしあな》に足を踏込み、此様に怪我を致しました。痛や、痛や、やれ痛や!  カンニャックは自分が酋長の娘のネカッタの養子婿《ようしむこ》と成り得ぬのも、ヌマンベが有る為と曲解し、ヌマンベが昨夜の誉《ほま》れ、更に敵地に入《い》って船を奪うの其軍功を立てん事を嫉《そね》み憎み、作り事を言立て、妖婆ウノキに讒言《ざんげん》した。  見す見す貴重なる供物を取りはずした老巫女ウノキ、慾から発した怒りは一通りで無い。のみならず、他にも亦《また》胸に一物はある。 「おう、憎みても憎み尽《つく》せぬヌマンベ! 神罰の恐ろしさを示さいで置こうか!」と束《たば》ねたる白髪も弾切《はちき》れて、一本一本白蛇《はくじゃ》の形と変り、忽《たちま》ち逆立たんかと見るまでに怒り立った。 「どうか、ヌマンベに、罰を当て下さりませ。然うしてわしの此怪我を速かに治しては下さらぬか」と隙間さえあれば自分の痛みを訴える。 「好し、好し、和主の傷は立地《たちどころ》に治して取らせる。憎くきヌマンベの生命は十日と出てぬ間に奪い呉れん!」と妖婆ウノキは窪める眼の底深くより、異様の輝きを鋭く放った。  カンニャック之《これ》を見て思わず慄然《ぞつ》とせずには居られなかった。 (44)蝸牛は、諸所の貝塚より出ている。以てその時代に繁殖していた事が知れる。 (45)土竜は、陸奥国中津郡十而沢から発見された土製品にある。現品は人類学教室に保存されてある。この他動物を模した土製品及び動物変形の把手類も少からずある。貝塚から出た遺骨の他に、右の如き土製品で以て、当時生存の動物の種類が考えられる。余は下総余山貝塚から完備したる狐の遺骨を発掘した。     17  雪は雨と成り、又雪に復り、後には雪と雨と打混《うちまじ》りて降り続き、夜に入《い》っても未だ歇《や》まぬ。  玉川の岸の枯蘆には玉を連ねて結付《ゆいつ》けた様に、氷の破片《かけら》が附着して居る(46)。  流れる水も、満《あ》げる潮も、共に此所では氷り合って、広き河口《かわぐち》一面を封じ、今に其上を踏んで渡れそうに、常よりは変って見える。  今宵の他に何時があろう。河の向うの敵人の油断を衝《つ》くには屈竟《くっきょう》であると、コロボックル第一の勇者ヌマンベは、密かに我家を立出でた。  生きて還るは万が一。死を覚悟の首途《かどで》である。老いたる母に打明けて、心残りの無い様に訣別するのは知って居るが、それでは如何も心が鈍って、後髪を引かれて成らぬ。一層知らぬ間のそれが好かろうと、眠れる顔に無言の暇乞《いとまご》い、息切って踏出したのである。  海鹿《あじか》の皮頭巾、海鹿の皮衣、霙《みぞれ》の他に濡れるのは、勇士の涙のそれ故である。  これも併し民族《なかま》の為である。自分一人の安楽を考えたら、誰が此夜に出て行こうぞ。早くから若き妻を迎えて居る。それと炉辺《ろへん》に暖かく木の実酒飲んで当って居る。敵人襲来する時は、誰よりも先きに逃げるばかり。それでは我等は亡びるばかり。血のある男は見ては居られね。  今宵一人敵地に乗入り、船下《ふなおろ》しに近き楠《くす》の刳船《くりぶね》、三十余隻を悉《ことごと》く奪い来らんは及ばぬながら、曳かれるだけを曳来らば、敵に取りて大きな損失。味方に取りて大きな利益。これより士気は振い来り、奪われたる土地取戻し得ずとも、此玉川の北岸から、又もや北へと追われまいであろう。  真の楽しみはそれから得られる。此美しき里に睦《むつ》まじき我等の民族《なかま》。敵人に襲われる事さえなくば、互いに幸福が得られるのである。  加之《しか》も我は馬籠《まごめ》の大酋長《おおがしら》センゾック殿よりして、両頭石斧《りょうとうせきふ》を授けられた。其妻のテラゴ殿は愛娘ネカッタ殿の飾りの玉を与えられた。今度の大役《たいやく》を仕遂《しと》げて帰ればネカッタ殿は何を祝って呉れられるか。  ヌマンベの心は再び勇んだ。霙の中を行きながら、全身燃ゆるが如く熱して来た。岸に繋げる筏《いかだ》(47)の上には、雪が白く積もって居る。  途中までは筏に乗って行こう。敵前《てきぜん》近く成ってから、水中に入《い》って密行しようと、岸の氷を踏砕き、雪の筏に乗ろうとした。  千鳥《ちどり》連《しき》りに啼《な》いて散る。 「ヌマンベ! ヌマンベ! 今宵行くか?」  突然、枯蘆の間から声がした。 (46)本朝俗諺志に−−この川の氷は大指の麦程つつに丸く氷りて、川岸の枯草枯蘆に閉じ合いて玉を連げる如く、只水晶の珠数を乱せるに似たり。この川の水にあらねば、斯く氷らず。この故に玉川の名あり、など云えり−−とあり。もとより俗説だが、岸の枯蘆に氷りの附くは事実である。 (47)筏は無論組立てたろう。八木獎三郎氏、日本考古学において之を説いている。     18  ヌマンベは不意の人声に驚ぎながら、 「誰か?」と問《とい》掛けた。 「勇ましの若者! 我等|民族《なかま》の為に一身を犠牲《いけにえ》として、敵地に乗込んとするを見送りの為、馬籠の里からセンゾックが来て居る」と最初の人の声。 「大酋長殿《おおがしらどの》の御微行《おしのび》じゃぞ」と其次ぎに老いたる人の声。 「おう! 大酋長! タツクリの翁《おきな》も一緒にか?」と嬉し気にヌマンベは呼わりながら、其人の前に走り寄った。 「おう、ヌマンベ! 勇ましのヌマンベ! 今宵|屹《きつ》と行くと思うて、忍んで見送りに来て居った。タツクリの翁を誘い出して……」 「此霙《このみぞれ》の夜、寒い寒い霙の夜に、大酋長の身を以て、供をも連れず馬籠から、丸子の渡しの河岸まで、能《よ》うぞ出て来られましたな」 「寒い寒い霙《みぞれ》の夜に、半《なかば》は水の中に入って、敵地に行く和主《おぬし》の事を思えば、わしが此所まで出て来たのは、何んでも無い事である、其見送りは、わし計《ばか》りでは無い。他に是非とも見送ろうと言うた者があった。わしは其者を無理に留めた。何故なれば、其優しい心を和主は酌《く》んで呉れる事の出来る男。わざわざ姿を此所に見せいでも……」 「能うそれは分りました……能うそれは分りました」  感激したヌマンベ。其毛皮の毛の雪は、自然に振落される程に身を顫《ふる》わした。   タツクリの翁は壺形土器(48)を取り出して、 「さア此中には海鹿《あじか》の脂肪《あぶら》が取ってある。いよいよ水に入る時には、体に塗って行くが好い。少しは寒さ冷めたさが違おうそ」 「おう、脂肪の用意、つい忘れて来た処。それは忝《かたじけの》う御座りまする。川中の洲に上って、其所で準備《したく》して行きましょうで……」とヌマンベは土器を受取った。 「さらば、ヌマンベ! 勇ましのヌマンベ! 首尾好く敵の船奪取って恙《つつが》なく還るのを待って居るぞッ」とセンゾックは声を励ました。 「行く時は筏《いかだ》の悲しさ。向うへ着くに手間取っても、帰りには敵の刳船《くりふね》矢よりも早く漕いで来ましょう。さらば、大酋長《おおがしら》!」 「行けッ、勇ましのヌマンベ!」 「さらば、タツクリの翁《おきな》!」 「行けよ、ヌマンベ! 勇ましのヌマンベ!」  行き掛けてヌマンベは、立留った。然うしてタツクリの翁を引寄せて、 「もし翌日《あす》……日が出ても、わしが還って来なんだら…母者人《ははじゃひと》が心配してであろう。其辺を能く其方に頼んだ……何時までたっても、わしの姿が、此方の岸に見えなんだら、猶更母者人の身の上を……な……頼みましたぞ」 と密語《ささや》いた。 「心配するなッ。大酋長も附いて居られるわい」  と強く翁は一言いながらも、孝子の心を酌分《くみわ》けては、胸が張裂く。  折も折、岸の氷も張裂ける響き! (48)土器には種々の形あり。ここには分類を掲げ得ぬが、壺形の物少からず。中に液体の凝着したのをも発見する。     19  石槍の柄《え》(49)を水馴棹《みなれざお》にして、氷の川に雪の筏を乗出したヌマンベの勇ましの姿は、忽ち霙の間に掻消《かきけ》されて見えず。  岸頭に立ってこれを見送る大倉長のセンゾック、故老《ころう》のタツクリ。少時《しばらく》は無言で有った。  水瀬の音か、上《かみ》の方《かた》。海潮《うしお》の声か、下《しも》の方。  蘆の枯葉に、さらさらと小霙の当る音。  岸の小石に、ひたひたと流氷《ながれこおり》の触る音。悉《ことごと》く二人の耳に入って、神経の興奮は頂上に達して居る。  忽《たちま》ち河心《かしん》の方に叫びの声!  ヌマンベが敵の斥候《ものみ》と衝突したかと、胸を轟かして、猶能《なおよ》く聴けば、海鴎《かもめ》の鳴くそれであった。  忽ち又下流の方に、船を漕ぐ櫓の響き!  敵船来ると耳を立てれば、一連《ひとつら》の雁《かり》の鳴き渡る。 「何時まで此所にも居られますまい。一先ずわしの小屋まで……」とタツクリの翁《おきな》はセンゾックに説いた。 「さればな。吉相《きっそう》は暁方であろう。それまで厄介《やっかい》に成るとしようか」  センゾックは漸く岸を去って高地の方に向わんとした。 「はて! 不思議!」と呼《よば》わった。 「何事で御座りまするか」とタツクリの翁は問掛けた。 「見よ、亀甲山(50)の方!」 「何? 亀甲山の方?」 「霙は今|小歇《こや》みなるが、老《おい》の眼には未だ見えぬか、あの火! あの火! あの怪しの火!」 「おう、あの火!」 「二ツ高く見え、三ツ低く見え、あれあれ三ツ並んで見え……忽ち又一ツ高く、二ツ低く……又変るわ……種々《さまざま》に変るわ」 「おう、あれで御座りまするか」 「何んという怪しの火ぞ!」 「あれは、少しも怪しい火では御座りませぬ」 「何故か」 「あれは時々遣《や》る事で……」 「誰が?」 「嶺の千鳥窪《ちどりくぼ》の老|巫女《みこ》ウノキが、神に祈りを上げる時には、あの様に暗夜、火を点《とも》しまする」 「なに、老巫女が……神に祈る……暗き夜に……あの様にして……や、怪しとも怪し。それは以前より其様《そのよう》に致すのか」 「いや近頃で御座りまする」 「敵人と川を隔《へだ》ちて相対する此頃、川添の家にては、火の光を外に漏らさじと、心|為《せ》ぬは無い中に、殊更《ことさら》深夜高台にて、火を動かすとは奇怪千万。老巫女、敵人に心を寄せ、火の手にて合図すると見ても言訳あるまい」 「寔《まこと》にそれは其通り……や、然うとは、つい気着《きづ》きませなんだ」 「さなきだに我には合点《がてん》行かざる、あの老巫女……今宵ヌマンべの行くを知って、敵人に合図するのでは有るまいか……疑えば限り無し……密かに亀甲山《きっこうやま》に行き、之から老巫女の挙動《ふるまい》を窺《うかが》い呉《く》れん」 「果して然らば憎《につ》くき妖婆《ようば》! 老爺《おやじ》も御供致しましょう」「来れ、翁《おきな》! これは、一大事じゃ!」 (49)石槍の発見は、関東に於て、比較的少なし。東北方面より北海道に掛けては多し。その石質も関東にては蛋白岩稀れにして、黒曜石は殆ど見ず。東北にてはこの種多し。石槍の根の方に附着物を見るのがある。これは松脂にて柄に着けるのであろう。その上を樹皮等で又締めるの例が、現に南洋の土俗品中にある。 (50)亀甲山に古墳がある。丸子附近での高台で、展望に適している。     20  老巫女ウノキ自ら神通力《じんつうりき》と称して居る。何んでも透視し得ぬ事は無い。知ろうと思えば必ず知る事が出来ると揚言《ようげん》して居る。それ程の者が悪漢カンニャックの讒言《ざんげん》には迷わされて、一図に勇者ヌマンベを憎み立った。  ウノキは元来コロボックルの種族《なかま》では無い。アイヌ女子《めのこ》と大和男子《やまとおのこ》との問に産れた混血児なのである。けれども、それを包んで居る。  それで内密に大和民族と交際して居て、その開けたる知識を受け継いでは、無智のコロボックルを鷲かして居る。脅かして居る。恐れさして居る。然うして尊敬を払わして居る。  此頃では川向うの大和民族に内通して、密かに其手先と成って、コロボックルの内情を探索して居るのである。  水行《みずぎょう》を取ると称し、暗夜に川の中に入る事がある。それは中洲の芦の蔭で、敵人と密談をして来るのである。  又|亀甲山《きっこうやま》に登りて暗夜|松明《たいまつ》を打振るのは、火の光で向岸に信号をするのである。  今宵ヌマンベの家の後に隠れて、勇者の挙動を窺って居たウノキは、いよいよ彼が単身敵船を奪いに出立《しゅったつ》すると見て、急いで亀甲山に駈登った。   霙は今し降り歇《や》んで居る。信号するのは此時とばかり、洞穴の中に隠したる発火器に松の根の割裂いたのを取り出して、火を点した。  ウノキの発火法(51)は他と異なって居る。普通の者は檜木《ひのき》の台に檜木の棒を立て、それを一人が上から石で押える。一人は紐で棒をギリギリと揉込《もみこ》む様に動かして、木と木との摩擦で発火させるのだが、ウノキは大和民族の伝授を受けて、燧石《ひうちいし》を打合せ、硫黄《いおう》の附いた枯草に火を写すので、此法を知って居る事も、ウノキが尊敬される一理由とは成って居る。  一本は日に啣《くわ》え、二本は左右の手に持て、山頂に屹《きつ》と立った。  一点上に、二点下に、二点上に、一点下に。或は三点一列にするなんど、皆それは前以て打合せてある信号の法。  勇者一人、船を奪いに、今|此方《こちら》を出発したという事を、川の向うの見張りの者に知らせて、之で好しと独微笑《ひとりほほえ》み、三本の火を一束《ひとたば》にして、洞穴の中に入らんとする処へ、松の立木の後から、突然出て来た一人、「巫女殿!」と声を掛けた。  吃驚《びっくり》したウノキは、松明を突付けて、 「何者じゃよ」と鋭く問うた。 「カンニャックじゃ」と言いつつ、火の前に立った。 「おう、カンニヤックか。何しに来た? 妾《わし》の行《ぎょう》をする処を、何故見に来居った?」と怒りの声。 「行? 巫女殿が行をせられるなら、わしは決して見には来ぬ」とカンニャックは妙に言廻した。 「なに、行なれば見には来ぬと……行で無うて何んであろう」 「火を振るのが行? 初めの間《うち》は然《そ》う思うたが、如何やら敵に合図する様なので……」 「敵に合図? 敵に合図、何んで仕よう。霙《みぞれ》の降る夜にわざわざ和主《おぬし》は、此所まで戯《ざ》れ言《ごと》いいに来居ったのか」 「巫女殿! 其様に勃気《むき》に成られな。さなきだに其方の眼の光は恐ろしい。それで睨《にら》まれては、わしの体が縮んで了う」 「睨まいでか! 言うに事を欠いで、敵へ合図とは何事じゃぞ。次第に由っては神罰を、立地《たちどころ》に下し呉れん」 「神罰立地に……それならば問いましょう。それ程神罰が覿面《てきめん》なら、何故あのヌマンベを立地には殺されぬじゃ」 「むむ、それは少し仔細有って、今宵まで延して置いたが……既《も》う今夜という今夜はな」 「敵に火を振って合図したので、一人で出掛けたヌマンベは、多くの敵に囲まれて、殺され様《よう》。なれども、それは神罰では御座らぬぞ」 「何を! 何を証拠に合図とぬかすぞ」 「まア待たッしゃれ。睨《にら》まれな。顔を和《やわ》らげられえ……わしの眼も満更《まんざら》遠目が利かぬでも無い。其方が火を振ると同じ様に、川の向うの遠洲《とおす》のあたりで、火を振るのを能《よ》く見て取った」 「あの見たか? あの火を……」 「此方で振るのと同じ様に……」 「それ知られては……」 「まア待たッしやれ。わしは、お前に附いても好い。味方を売って敵方に成っても好い」 「何んじゃ?」 「わしの腹の中を、先ず聴いて下されえ」 (51)発火法については、先輩既に説がある。遺物の石器中、凹み石というのがある。蜂の巣石或いは雨垂石と称するが、それは石面に小孔が多く穿たれて居る。それで燧木の頭部を押さえたとしてある。この方法はグリィンランド及アリューシャ島の原地人に於て行われてもいるが、この石器については疑問がないでもない。同じ孔の附いて居るので、とても一人二人では持上げられぬ程の大石があるのを見ると、燧木を押えたとのみ考えられない。燧石は、石鏃の原料として到る処に発見される。硫黄は又容易に得られる品ゆえ、これをも用いたろうとは余の想像である。     21 「さらば先ず洞穴《ほらあな》に入って、和主《おぬし》の腹の中を聴こう」と言いつつ、ウノキは先きに立って山頂を下り、其中腹の老松の根方、土が崩れて自然洞穴に成って居る中に入り、其所で松明《たいまつ》を本《もと》にして、予《かね》て貯えたる枯枝を燃した。併し焚火の影は強く外には漏れぬ。  其代り洞の中は、一面に真紅《まつか》に成った。ウノキの白髪までがそれに染って、表に濡れたのが血の様に輝いて見えて居る。 「わしは、自分の種族《なかま》の者が皆滅亡して了おうとも、少しも厭《いと》わぬ。わし一人助かればそれで好いと思って居まするぞ」  とカンニャックは語り出した。 「それが和主の腹の中か」と妖婆ウノキも流石《さすが》に驚いて問掛けた。 「偽りは御座らぬ。これが真実!」 「それは又如何して?」 「わしは種族《なかま》の者から平常《へいぜい》嫌われて居る」 「それは平常|好《よ》い事を為《せ》ぬからじゃ」 「嫌われるから好い事を為ぬ……好い事を為《せ》ぬから嫌われる……」 「和主は大酋長《おおがしら》センゾックの身内では無いか」 「されば順当なれば、娘のネカッタの婿養子とも成るべき者。それが誰にも嫌われて居る。悪しき病(52)の有る事を、皆知って居るからであろうが。それや、これやで、わしは嫌われた。ネカッタの婿養子には、ヌマンベが成るであろう。此無念を晴す為には、どんな事でも仕まするぞ」 「好し。好し。其覚悟ならば語るに足りる。さらば此方からも腹の中打明けよう。全く大和男子《やまとおのこ》等の妾《わし》は手引……今までも度々内通したが、今方はヌマンベの行く事を火振りの合図で向うに知らした。既《も》う手配り出来て憎き若者は、氷の様な刀で首斬られて居るであろう」 「やれ嬉しや」 「間もなく大軍三十余隻の船に乗りて川尻の方より押寄せ来り、鉄《かね》の鏃《やじり》、鉄の刀、方《かた》ッ端《はし》からコロボックルの種族《なかま》を殺し尽そう! 其中で、一人、生捕りにして、和主の手柄に、贈物として遣わそうで……」 「それは、あの、ネカッタを?」 「おほほほほほほ」  妖婆は高らかに笑い出した。 「愚かや!」と突然、洞穴の入口に大声が響いた。 「やッ」と驚いてカンニャックは振向く額の真向《まっこう》。一撃! 石剣《せつけん》の閃《ひらめ》き!  血は颯《さつ》と真黒に散った。  妖婆も驚いて、逃出そとした。  洞《ほら》の入口に石剣持って立閉《たちふさ》がるは、大酋長のセンゾック。其後には環石《かんせき》の柄《え》を握《にぎ》ったタツクリの翁《おきな》。 (52)悪しき病。下総古作貝塚より発見の人骨に、悪しき病の有った痕跡を留めて居るので、その時代に既に亡国病の有った事を証明するという論者もあるが、余はその発見当時(明治二十六七年?)の発掘法を、幼稚ならずと云い切る事が出来ぬ。その人骨は近世のが混入したのではないかと疑って居る。しかしそれは想像に過ぎぬ。それを打破るだけの研究結果を持たぬ故、やはり亡国病の有った事として置く。     22  売国奴カンニャックの最後は悲惨で有った。眉間《みけん》を割られて即死して、洞穴の中に打倒れた。  其煽《そのあお》りで焚火の焔は、傍の枯松葉に燃附いた。忽ち洞穴一杯の猛火と成って、妖婆ウノキの白髪を焼き、毛皮を焼き、身を焼かんとす。斯う成って見ると、神通力は何の役にも立たぬ。  留《とど》まって居れば焼死ぬ。飛出せば撃殺される。ウノキの進退|谷《きわ》まった。 「助けて下され」と呼わりながら、息切って飛出した。  右の手をセンゾック。左の手をタックリ。 「やァ骨を砕いても(53)慊《あきた》らぬ妖婆! 和主《おぬし》を助けたら誰を殺そう?」とセンゾックは呼わった。 「歯の無いわしにも和主の肉だけは咬《く》わいでか」とタツクリも呼わった。 「殺すとか。如何しても此巫女を殺すとか」とウノキは忽ち不真腐《ふてくさ》れた。 「殺すのは勿論じやが、如何して殺そうかを考えるのじや」とセンゾックは睨付《ねめつ》けた。 「殺せ! 殺せ! 既《も》う斯《こ》う成っては仕方が無い。如何様にもして妾《わし》を殺せ。じゃが、わしを殺して了うたら、ヌマンベを助ける工風《くふう》が有るまいぞ」と段々にウノキは太々《ふてぶて》しい。 「何? ヌマンベを助ける工風」 「火の合図で忍びの者の行った事を、川の向うに知らしたばかりじゃ」 「おう、共事は陰で今聴いて居った」 「助けようと思うたら、再び此方から火の合図して、其者は途中から引還《ひつかえ》したと、川の向うに知らせるのじゃ」 「おう、二度の合図……」 「すればヌマンベは助かるが……其《その》合図を知って居るのは、此ウノキより他には無い。妾の命を助けるなら、ヌマンベを救うても遣《やろ》うじゃが、妾を殺して了うたら、それまでじゃ」 「おう、寔《まこと》に……」 「それとも、妾を殺しなさるか」 「おう……」 「ヌマンベは助けたくないか」 「うむ……」 「二度の合図を望まぬなら、さア妾を殺しなされ。さア焼殺すか。撃殺すか。身を八裂きにしなさるか。如何じゃ!」  憎々しい妖婆の態度! 毒々しい巫女の言語《いいぶり》!  大酋長《おおがしら》センゾックは、タツクリの翁と顔を見合せて、これには太息《といき》を吐かざるを得ね。 (53)人骨の砕いたのは、諸所から発見されている。余も下総堀の内貝塚で大腿骨の砕いたのを掘出した。モールス氏の大森貝墟篇に−−往々人骨あるを認め疑うて、これを或いは古塚旧墳の跡ならんと。なお熟ら察してその一も倫序を成せるものなく、あたかも世界各所の貝墟に於ける食人の跡と正に一轍なるを知れり。即ちその片は往々他の鹿猪の骨と共に、その当時骨髄を収め、或いは鍋に投ぜんが為に摧析せられたるの痕を留めて、人為の痕班々掩う可らず云々。     23  此所で妖婆を殺して了えば、勇者を救うの法は無い。と云って敵に通じて味方の滅亡を謀《はか》って居た人面獣心の老巫女を、如何して助けて置かれよう。  焼殺そうか? 撃殺そうか?  待て! 併し……ヌマンベには老いたる母がある。若い妻が有るべく近寄って居る。彼は一身を犠牲《いけにえ》にして、我等の領する国の為に尽す。素《もと》より死は覚悟して、敵地に探り入ったのであるが、途中で伏勢《ふせぜい》に取囲まれて、鉄《かね》の刀で弄《なぶ》り殺しにされたなら、どの位無念|口惜《くちお》しかろう。ヌマンベは如何しても死なしたく無い。  それを救うの道、全く無いのなら是非に及ばねが、一縷《いちる》の望みは未だ有るのだ。それを見す見す消滅させるのは、惰に於て忍ぶべくもあらぬ。  大酋長センゾックの胸の内には玉川の水悉く流れ込んで、瀬々の漲《みなぎ》りを現《げん》じたるかと計《ばか》り。 「さらば」と潮く決心して、センゾックは口を切った。 「どの道妾を殺すであろうな。馬籠の広原に連れて行って、大石斧で首を斬るか」と妖婆ウノキの毒吐《どくづ》きは益々度を加えて来た。 「いや、殺さぬ」 「矢張、婿は助けたいか」 「和主《おぬし》の命も助けるに由って、急いで二度目の合図をせよ」 「その合図して了うたら、最早や用の無い妾……其所で和主等は殺そうとするのであろう。其手に乗ろうか。其手に乗ろうか」  何処まで心が曲って居るのか。  タツクリの翁は其《その》つもりで居た。それを見抜かれたので一泡吹いた。  センゾックは思案が違う。 「いや、わしも大酋長《おおがしら》じゃ、一旦助けると云ったからは、決して和主を殺しはせぬ」 「殺さねとか……」 「其代り……我等に仇《あだ》する老巫女を、川の此方の土地には断じて居らせぬ」 「なる程なア」 「二度の合図で敵の見張りの手配りが解けたなら、亀甲山《きつこうやま》の麓から、直ちに川の向うへ去れッ」 「川の向うへ去れ?」 「我等には敵、汝には、味方の居る川の向うへ去れッ」 「と云って筏も無し、船も無し」 「水の中を泳いで行けッ」 「此寒中……霙の夜に……」 「あら、笑止《しょうし》や。和主は巫女では無いか、水行には馴れて居ろうが」 「む、む……」 「さア急げッ。コロボックル第一の勇者は、早や中洲あたりまで進んで居よう。早く助けずば一大事、早く、早くッ」     24  歇《や》んで居た霙《みぞれ》は雪と変って降り出した。雪も雪も大雪、それに風さえ吹加わった。近き山々の頂きに積重なれる雪は更なり、遠き富士の山の頂き、千古の雪まで削り取って、一時に此所へ吹寄せるかとばかり。  鶴の羽を抜いて誰人《たれびと》が抛《なげう》つか? 兎の毛を?《むし》って何者が投げるか?  舞下り、舞上り、散って、落ちて、又軽る。此軽さで以て初めて雪と知る。此大きさでは蛤《はまぐり》の貝殻としか思われぬ。  風は益々|吹荒《ふきすさ》んだ。亀甲山《きっこうやま》を根本から消し飛ばすかと恐ろしい。  雪は弥々降連《ふりしき》った。玉川を一面に埋めて了《しま》うかと凄《すさ》まじい。  二度の合図!  此風雪の間に立って、老巫女ウノキは三本の松明《たいまつ》を打振った。それは、ヌマンベを助ける為である。  右には大酋長センゾックが、石剣を握締めて見守って居る。左には故老タツクリが、環石《かんせき》を提げて見詰めて居る。  火は最初に渦巻を画いた。続いて横一文字、又続いて竪《たて》一文字。  火粉は雪片に混じて飛散。雪や紅き。火や白き。  これが併《しか》し敵の見張りの手配りを解くのであるか如何か。疑いを此間に生ぜぬでも無いが、それは経験多きタツクリの翁にも、思慮深きセンゾックにも、情けないかな、分らない。 「これでヌマンベの危難は免れた。妾の務めは之で了《おわ》った」と松明を投出してウノキは左右を顧みた。 「さらば少しも早く行けッ、川の向うへ」とセンゾヅクは促がした。 「再び此方の岸に来るなよ」とタツクリも急立《せきた》てた。 「却々《なかなか》来る気は御座りませぬ。此所で殺されたも同然、既《も》う懲《こ》り懲《ご》り致したわい」と言いつつ、ウノキは歩み出した。  雪と泥との山坂路、つるつると滑り降って、早く玉川の淵に臨む大巌頭《だいがんとう》にと達した。  後から松明を持ってセンゾックもタックリも附いて来た。  雪は並々降り盛って、山の上から吹下す他に、川の面からも舞上って来る。松ケ枝から落来る雪塊は、転々として次第に形を大にし、出張った岩角《いわかど》に当って、砕けて、淵に入る、其水音の凄まじさ。此所まで来ては早やウノキは、一言も発せぬ。送って来た二人も口を利《き》かね。互いに唯睨み合うのみである。  ウノキは淵に向って柏手《かしわで》打って、口の内で何やら唱えて居たが、思切って崖の上から水中へと飛込んだ。  雪頽《なだれ》の様な音が響いた。上から松明で照らしたけれど、妖婆の姿は早くも見えず成った。  水を切る音も次第に遠く成った。  タツクリの翁は、センゾックを促《うな》がして、「さア此上は少しも早く此所を去って、ヌマンベの帰るのを……」 「おう……筏で迎えにでも行くとしようか」とセンゾックは答えた。  此時、川の方からして、ウノキの高声が風雪を突切って響いた。 「ヌマンベが何んで帰ろう。二度目の合図で大和男子《やまとおのこ》に、敵は行く、油断すなど其事を知らせたのじゃ」 「何ッ!」とセンゾックは叫んだ。 「誰が彼奴を助けるものか。追放された意恨《うらみ》じゃ。むははははは」 「扨《さて》は、我等を欺《あざむ》いたのか」 「口惜しくば、わが後を追うて、川の中に入って来よ」 「何を!」  松明を投付けたが、吹雪に両眼を打たれて、妖婆の姿は見えぬ。  生憎《あいにく》に弓矢(54)を持たず。礫《つぶて》を打つにも小石が見当らぬ。 「おのれ、憎ッくき……」と言いつつセンゾックは川の中に躍り込もうとした。 「無益な、大酋長《おおがしら》、彼奴は既《も》う此闇で、何処へやら……先ず先ず」とタツクリは抱留めた。  センゾックは無念さに、地鞴《じだんだ》を踏んだ。  松の雪、岩の雪、一時に滑って落下した。 (54)矢の根石(石鏃)があるから、弓も有ったのであろうが、それは植物製なので、貝塚その他にも遣って居らぬ。しかしその弦掛と見るべき角器が発見されている(三河国豊秋村字平井貝塚)。これには異論もある。又似寄りの品で漁具に用いたものもあるけれど、余の蔵品はやはり弦掛と認める事が出来る。それから鹿角製の矢筈と認むべき品が数ケ所から出ている。     25  氷の川を雪の筏に乗り、石槍を水馴棹《みなれざお》にして、密かに敵地にと向ったコロボックル第一の勇者ヌマンベは、初めは水の流れに従って下るのを助け、後には汐の寄せるに連れて溯《のぼ》るのを防ぎ、斜《はす》に斜にと進んで行って、漸く大中洲に達する事を得た。  筏の上から海鹿《あじか》の脂肪を入れた壺を抱えてヌマンベは洲に降りた。此所の砂は雪、此所の蘆は氷、踏めば鳴り、触れば鳴る。忍びの身は、それにも心を置くのである。  敵の地は遠く無い。身支度を此処でして、水の中を泳ぎ行き、帰りには敵の刳《く》り船《ぶね》を引けるだけ引こうと思えば、寒さ冷めたさは何《ど》の毛孔《けあな》にも覚え無い。  万一、見咎《みとが》められて闘いともならば、大酋長より授けられた両頭|石斧《せきふ》、それを其儘、手に攫《つか》んで、手当り次第に打合うのみ。長い柄の物は、此場合に無用である。泳いで行くには身軽でなければ成らぬ。石槍を洲に突立てた下に、衣物《きもの》を脱いで置こう。頭巾も取って置こう。皮靴も素《もと》より捨て置こう。  では有るが、首に懸けたる翡翠《ひすい》の飾り玉。彼《か》のネカッタから贈られたのは、如何しても肌身からは放されない。  渇した時に口に入れば、忽ち氷を含むが如く感じられて、自然に湿《うるお》いを得て来るのである。戦いに疲れた時には、之で一息して勇気を得ねばならぬと、神符でもあるかの如く、それを手に取って、押頂かんとする、此時に、先きの洲の方で不意に大軍の突進する物音。  ヌマンベは吃驚《びっくり》した。  併し、それは、雁《かり》の群の、一時に立って飛んだので有った。  急いで頭巾《ずきん》を取った。上衣を脱いだ。其股引に手を掛けた時に、枯蘆の氷は音を立て折れた。  獺《かわうそ》でも上って居るのかと疑った。  後の方でも亦《また》其音がする。  如何も様子が変って居るので、ヌマンベは昵《じつ》として、耳を傾けた。  雪は見る見る洲に積って、四辺《あたり》は薄く明かである。  何やら二三間先に黒い影が見える。人かと思って油断なく其方を見詰めた時、いつしか後から忍び寄った一人、物をも云わず組着いた。 「扨《さて》は敵人!」とヌマンベは呼わりながら、握り持つ両頭石斧で、敵人の脇腹を打った。 「あッ〜」と叫んだ。其時には早やバラバラと、枯蘆の蔭から七八人。 「生けて捕れよ!」と中の一人が叫んだ。 「おう!」と口々の答え。  群《むら》がり掛った其速さ! 「何ッ!」とヌマンベは叫んで、両頭石斧を打振った。  二人三人、蹴飛した。  又来る者を投飛した。  又来る一人の脳天を打砕かんとした。  鳴呼《ああ》、其手首は既に斬落されて居た。鋭い鉄《かね》の刀には敵し得ぬ。 「ちえッ!」と無念を叫んだ時に、肩先を切込まれた。紐も共に切られて、玉さえ散った。  海上遥かに鯨の吼えるのが連《しき》りである。     26  明くる日は、晴れた。青いのは空ばかりである。彼方《あなた》も白し。此方《こなた》も白し。  雪は敵へも味方へも平等に降ったと見える。  常は清く玉の如く流れる川の水も、今朝は黄黒く濁って居る。  岸頭には大酋長センゾック、故老タツクリ、其他此附近の集落の者、誰彼《たれかれ》となく大勢集まって、川の南の方をのみ見詰めて居る。  だが、勇者ヌマンベは、帰り来らぬ。  何時まで待っても帰り来らぬ。  敵地の方には今日|殊更《ことさら》に煙《けむり》の立つのが盛んである。  中洲のあたりに浜烏《はまがらす》の多く集まるのが見える。  ヌマンベは帰り来らぬ。  何時まで待っても帰り来らぬ。  大酋長の眼からは血の如き涙が鈍染《にじ》み出した。      *  ヌマンベは終《つい》に帰り来らなかった。  併し妖婆ウノキの屍骸《しがい》は川尻の北岸に流れ着いて居た。水中で凍死したのであろう。      *  コロボックルの形勢は日に日に悪い。大和《やまと》民族の大進撃は今日か翌日かに迫って見えた。  彼の来らぬ間《うち》に、此地を去るに若《し》かずとして、集落集落は準備をした。  持ち行くに不便の器物は、悉《ことごと》く破壊して、掃溜《はきだめ》に捨てた。重い石捧《せきぼう》は地を掘って埋めた。  住馴れし家には、火を放った。  老人、小児《こども》、女子、皆先に立って落行《おちゆ》かした。心弱き壮者《わかもの》もそれに打混《うちまじ》った。向う処は北の方《かた》である。  自己一人のみの安楽を考えて、国家集団の幸福を顧みなかった為に、戦えば必らず敗れ、戦わざるも亦《また》敗れて、終《つい》には人種の滅亡を見る運命の敗者の大集団は、混乱したる状態に於て幾条《いくすじ》にも立分れ、砂塵《すなほこり》の立つ荒野原《あれのはら》にと分入った。  小児も泣く、女子も泣く、壮者《わかもの》も泣く、老人は殊更《ことさら》に泣くのである。泣きながら弱き著は、北へ北へと落ちて行った。      *  今は玉川の北岸にコロボックルの隻影《せきえい》を留めずと思いきや、亀甲山の下、淵に臨む大岩の上に立って、川の向うを見詰て居る一人の少女がある。夫《それ》は大酋長センゾックの娘ネカッタ。  彼の女はコロボックル唯一の愛国者ヌマンベの帰来《きらい》を、此最後の幕の端《きわ》まで待つので有った。  涙か、玉か。人か、石か。  斯《か》くしてネカッタは民族移動の最後の最後まで踏留った。  併し川の向うから敵軍の此方に迫るのを見て、意を決した。  待つに甲斐なきを覚ったのである。  心美しきコロボックル乙女は、終《つい》に北へは落ち行かず、清く美しき玉川の水に飛入って、果てた。