概要 | 台地から緩斜面の立地。縄文早期(撚糸文系)、中世後期墓域・集落、および江戸時代大名下屋敷 |
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説明 | 武蔵野台地の淀橋台に位置し、南東側を台地内小河川(カニ川)が流れる。調査面積は約34,000m2、標高は24〜30m。谷の東麓に鎌倉街道が南北に走る。最も注目されるのは、大規模な中世墓域である。 |
場所 | 東京都新宿区新宿6-27-7[マピオン地図] |
写真 | スライドショー(平均28KB、33枚):現地説明会(2003年9月13日) |
関東周辺で概ね15世紀頃、地方武士集団の大規模な墓域形成が知られている。台地上の緩斜面を選択し、やや弧状の領域に概ね水平な削平面を、段切工法によって構築する。周囲は1m程度の段差で縁取られるようになる。これを段切状遺構という。
やや弧状の段切の周縁部には、江戸時代の地下室(ちかむろ)に似た形態の地下式坑(ちかしきこう)が複数並んで設けられる(階段は発達しないようである)。段切面の中央には、やや小型の掘立柱遺構が見つかるので、これは「お堂」と見なしてよいだろう。また段切面には、火葬墓、長方形土坑が多く分布する。これらの遺構群のセット関係は、殆どの段切状遺構に共通しており、斉一性が高い。
火葬墓は直葬墓の一種で、火葬骨が一部残っているが、全部の部位は残されないようである。典型的には、長径1m程度の小判状を呈し、長辺中央に突出が伴うものは「T字状火葬墓」と呼ばれている。突出部の底面は、土坑本体の底面より下がるので、空気供給用と考えた方がいいだろう。また粘土を土坑内面に貼付けたものも、一つの類型として知られている。その場合、粘土は焼けて焼土化している。
火葬墓から見つかる骨の分析では、軟組織があまり残っていない状態で焼かれたようである。成人を荼毘に付するにはサイズが小さめな事と合わせて考えると、改葬時の焼骨と解釈される。そこで、一般に出土遺物の希少な地下式坑が、風葬の場として浮かび上がってくる。1年、3年、ないし7年経過後に骨を回収し、二次葬として荼毘が行われるのであろう。一般に土葬状態の骨は茶褐色を呈しているが、焼骨によって骨が見事に白骨化する。こうした慣習は、仏教的観念の実践と考えられる。この時期の斉一的な段切状遺構形成は、武士階層に特定の宗派が隆盛したためかもしれない。
やや弧状の段切構築面と、掘立柱遺構は、祭祀単位=親族集団の単位を示しているのかもしれない(特に考証のある推測ではない)。なお、低地では段切状遺構が見つからず、火葬墓群のみが検出される場合もある。