本稿は、調査者から提供されたデジタルプレゼンの公開にあたって、閲覧者の参考となるよう独自に書き下ろしたものである。調査者の公式見解については正式報告書を参照されたい。

今戸焼の窯のこと

今戸焼の終焉


葛飾区における往時の窯元分布
 平成16年(2004年)、今戸焼の流れをくむ最後の窯元「橋本製鉢所」が廃業した。そこで葛飾区郷土と天文の博物館は、昭和40年代に解体されていた橋本1号窯の地下部の発掘調査を、博物館専門調査として急遽実施した。隣接して現存していた2号窯は、過去に実測調査されていた事もあり、時間の制約から解体時の立会調査となった。

※調査の中間報告は、2005年の日本考古学協会第71回総会での研究発表会で発表された。
「今戸焼窯の発掘調査」デジタルプレゼン

 今戸焼は、浅草の東北にあたる今戸や橋場、あるいは周辺地域で焼かれていた素焼系の日常雑器や土人形(今戸人形)等いわゆる江戸在地系土器のブランドである。瓦も達磨窯(だるま窯)で生産されていた(昭和37年の青戸における達磨窯−周囲に瓦が並べられている−の写真が残っている)。江戸時代において、今戸焼は隅田川の川辺の風物詩として浮世絵にも取り上げられてきたが、天保年間の江戸名所図会「長昌寺宗論芝」(橋場)には、どうやら二口焚と一口焚の地上窯が描かれている。二口焚はおそらく達磨窯に相当し、燻瓦(いぶし瓦)を製造していたと考えられる。

 今戸焼の土器窯については、桶窯、煙管窯(きせる窯)とも言われるが、少なくとも桶窯は(焚口の突き出し部はともかく)燃焼室と焼成室が一体化しているものを指すようである。煙管窯は燃焼室と焼成室が分離しているが、焼成室天井部が開口している構造をイメージさせる。実際、橋本2号窯はそうだし、同様の構造でさらに小型窯の写真も残っている(人形を焼いていた尾張窯)。橋本窯では天井の有無を問わず「ドロ窯」と呼ばれていたが、表面が泥製(スサ等を混ぜた粘土)の窯という事であり、フォークタームとしてはともかく、構造を指す用語ではない。なお、橋本窯はかつて今戸で操業していたが、関東大震災の後、葛飾に移転したという事である。そうした都市周縁への移転は、今戸焼ではよく語られているところである。


江戸名所図会 長昌寺宗論芝(部分)

今戸焼の窯と達磨窯

 発掘された橋本1号窯は全長3.68m、幅2.3m。高さは確認できないが、往時の写真で見ると2号窯(高さ2.5m)より一回り大きく、3m以上あったと思われる。2号窯は天井が開口しているが、1号窯は天井を有していた。天井の有無は規模の大小によるとされ、製品の出し入れの都合のようだ(2号窯も後方が開いており、要するに中で人が立てるかどうかの違いのようだ)。前出の尾張窯はもっと小型で、上面の大きな開口部から製品を出し入れしていた。1号窯の内部構造は(2号窯と殆ど同様と思われるが)、焔の立ち上がり部にあたる「峠」に至る傾斜ははっきりしないが、達磨窯を一口焚きにしたような構造をなしている(とも受け取れるが、その関連性は詳らかではない)。


達磨窯の構造概念図(藤原学他 1997よりトレース)
 もちろん、達磨窯と小型雑器窯は目的が異なり、構造も異なる。達磨窯、即ち二口焚きの地上窯は、瓦の中小規模の製造に適したものとして日本で中近世に発達し、系譜を辿ることもできる(原型は平安時代末期に遡る)。一方、一口焚でやや小型の地上窯の近世近代における実態については、今戸焼の調査事例も少なく、まだ不明な点が多い。

 こうした伝統的で家内製手工業的な小型地上窯は、昭和40年代に急速に廃れていったが、今や日本中で操業の終焉を迎えつつあり、消え去ろうとしている。地域の産業遺産ないし文化財として保護の必要性が増しつつある。


主要な参考文献
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