日本公害の原点(足尾鉱毒事件)

1.谷中村の跡に立って
 かって、城山三郎著「辛酸」という小説を読んで深い感動を受けた記憶があります。しかしそれは、農民一揆としてのとらえ方であり、公害の問題としての認識は薄いものでした。その当時はバブル経済の最中で、私の勤務していた工場でも、有機溶剤を一日にドラム缶数本分も大気中に放出するという時代で、公害についての関心もあまりありませんでした。
 つい最近になって、日本で近代工業が興こってから初めての公害問題である足尾鉱毒事件を調べてみたくなり、渡良瀬遊水地を訪ねました。
 東武日光線板倉東洋大前駅に降り立ち、自転車を借りて舗装された小路を軽快に走りました。分岐点でベンチに腰掛けて話をしていた老夫に、地図にあった「思い出橋」の位置をたずねました。その老夫は前の藤岡町長で、渡良瀬川の改修工事で川の位置が変わったこと、田中正造が乞食のような格好で、近くの知人を訪ねて食を恵んでもらっていた話などをしてくれ、丁寧に遊水地への行き方を説明してくれました。
 その名もゆかしい「思い出橋」を渡ると目の前に周囲10kmはあろうと思われる人造湖が見え、その北側には渡良瀬遊水地と呼ばれる雑草の生い茂った草原が拡がっていました。

2.公害の原因
 公害の原因になったのは、足尾銅山の銅を精錬する過程で生ずる硫化物が処理しきれず、廃棄物の山になっていたものがたびたびの洪水で流出し、渡良瀬川下流の漁業や農業に被害を及ぼしたものです。また、銅の精錬に使う燃料や木炭を確保するため、山林を乱伐したことで山は緑を失い、さらには、亜硫酸ガス(有毒ガスです)の拡散によって樹木が枯れたことも洪水の増加に拍車をかけました。
 銅を製造する工程は次のようになります。鉱山から採掘された銅鉱石は、銅が硫化銅の形で含まれています。そのほかに鉄、鉛、ヒ素、アンチモン、ビスマス、スズなども含まれています。そのため、銅の多い鉱石だけをより分けます。これを選鉱と言います。
 選鉱された鉱石を空気中で酸化して酸化銅に変えます。これを木炭で還元して粗銅に変えるのですが、鉄その他の不純物を除去するために更に数工程が必要になります。しかし話が専門的になりますので、これくらいで省略いたします。

3.銅山の変遷
 足尾に銅鉱が発見されたのは慶長15年(1610年)で、その後、江戸時代を通じて幕府直営の銅山として採掘され、多い時には1、500トンの銅が取れたと言われています。
 その後、廃山同様になっていましたが、明治10年(1877年)に古河市兵衛(古河財閥の創業者)が志賀直道(小説家志賀直哉の祖父)の協力を得て、銅山経営を始めました。その後、渋沢栄一(明治時代の大実業家)も経営に参加しましたが、志賀、渋沢ともに手を引き、古河の単独経営になりました。
 創業当時は赤字でしたが、明治14年、明治16年と大富鉱が発見され、銅の産出量が急増しました。
 ちなみに、足尾銅山の銅の算出量を年代ごとに追うと次のようになります。
明治10年(1877年)    46トン
明治15年(1882年)   132トン
明治20年(1887年) 2、987トン
明治25年(1892年) 6、468トン
明治30年(1897年) 5,298トン
明治35年(1902年) 6,695トン
明治40年(1907年) 6,349トン
と増加の一途をたどります。

















写真1足尾製錬所

 しかし、銅の産出量が増加すると、酸化銅還元用の木炭、動力用蒸気機関の燃料としての薪、坑道の支柱用木材、従業員の燃料としての薪や炭に使う木材の需要も急増し、これらは足尾地区の森林から伐り出されたため、山林を裸にし、残った山林は製錬所の亜硫酸ガスで枯れて、山林は保水の能力を失い、降水によって洪水を引き起こすようになりました。

















写真2 足尾の山

 さらには銅の製錬過程で生じる有毒の廃棄物の処分に困り、谷間、窪岸などに積み上げられ、これらが洪水のたびに大量に流出して、河川の下流域に被害を及ぼしました。

3.鉱毒の被害
 鉱毒の被害は「明治15年頃からアユ、ハヤが見えなくなったと」と記され、また、明治20年には渡良瀬川の魚類が絶滅した」と記録に残されています。
 そして明治23年には大洪水が起こり、栃木、群馬両県の1、650町歩にわたり、米、麦、豆などが立ち枯れてしまいました。渡良瀬川の水や泥の中には、硫酸、アンモニア、亜硝酸、銅が含まれており、これが鉱毒の成分と分析されています。
 この洪水被害によって、被害地住民から「足尾銅山の操業停止」を求める運動が広がり始めました。
 明治24年の第2回帝国議会で、衆議院議員の田中正造が、憲法で保障する所有権を侵す銅山の認可取り消し、被害者の救済、将来の鉱毒予防策について質問しました。
 これに対し農商務大臣陸奥宗光は二男を古河に養子に出していた関係もあってか、取り組む姿勢を見せませんでした。

4.またも起こる大洪水
 明治27、28年の日清戦争が終わると、軍備拡大計画に伴う武器の購入に対する支払や、軍需資材として銅が重要な役割を持つようになりました。そのため、全国の銅生産量の40%を占める足尾銅山が注目を引くようになりました。
 栃木、群馬の両県は県知事らが、古河と示談交渉を進めていました。また、古河側も粉鉱採集器、沈澱場の設置などによる鉱毒防止対策を進めていました。
 ところが、明治29年に大洪水が起こって渡良瀬川の堤防を数か所にわたって決壊し、栃木、群馬、千葉、埼玉、東京の46,700町歩の田畠を鉱毒水で浸しました。

5.田中正造の大質問演説
 明治29年の大洪水の後、田中正造は農商務大臣榎本武揚あての「足尾銅山鉱業停止請願」で、「鉱毒が人民の生命と生活と公民権を奪う。県・市町村の財政支出を増加させる。国家は人民多数の権利公益をするものである。そのため足尾銅山の鉱業を停止し、人民多数の権利公益を保護すべきである。」と述べています。
 また、明治30年の帝国議会で田中正造は、被害を受けた立ち枯れの稲、麦、大豆などを示して鉱毒の被害を訴え、「生命・財産・権利を侵されている人民が帝国憲法の庇護を受けられない理由は何か」「法律の保護をうけていない人民は法律を遵守する義務はないのではないか」「被害民はこれからはどんなことをしでかすかしれない」と被害民の行動の正当性を主張しました。この質問は2時間にわたる大演説でありました。
 
6.「鉱業停止の請願デモ」激化
 被害地住民は「足尾銅山の操業停止」を要求して、数次にわたり政府に陳情のため、数千人の単位で上京しました。これを当時は「押し出し」と呼んでいました。
 明治33年には3000人の被害民が「押し出し」、川俣という土地で利根川の橋を渡ろうとしたところ、待ち受けていた警官隊が襲い掛かり、約70人が逮捕されました。 
 田中正造は「殺されないようにしてくれ、という請願者を打ち殺すという挙動に出た以上は、最早、秩序ある運動が絶えきっているのであるから、自らが、自らを守るほかにない」とし、間もなく衆議院議員を辞職しました。
 一方、古河側は政府の命令で抗内排水の沈殿池、鉱滓の集積所、脱硫塔、煙道と大煙突の建設など37項目を達成するため、全力を集中していました。
 ところが、明治29年にはふたたび台風が来襲して、渡良瀬川沿岸の地に大被害をもたらしました。

7.明治天皇への直訴
 議員を辞職したのち、田中正造は「足尾鉱毒事件」の解決を求めて、明治天皇に直訴しました。しかし、警備の警官に阻まれて直訴状は天皇の手にとどきませんでした。この直訴状は幸徳秋水(後に天皇を暗殺しようとしたといわれる大逆事件で死刑。政府のデッチアゲともいわれている)が原文を起草し、田中正造が手を加えたものです。直訴状の写しは佐野市、藤岡市、館林市の博物館で見ることができます。警察で取り調べを受けた田中正造はやがて釈放されました。
 ただし、この直訴は世論の喚起を促したことは間違いありません。




















写真3 明治天皇への直訴状

8.鉱毒問題から治水問題への振り替り
 直訴を契機として東京における鉱毒問題に対する世論は高まりました。しかし、日露の対立激化という国際情勢から、日露戦争の戦略物資としての銅の増産は必須の問題であり、足尾銅山はその重要な役割を荷なっておりました。
 そうした背景から、足尾の鉱業停止から、渡良瀬川の治水問題へと問題点は
変わって来ました。
 明治35年の議会に提出された政府の調査報告では、次の3点が提議されています。
 ? 銅山の予防工事を厳しくする
 ? 足尾の林野経営
? 渡良瀬川の治水事業
この報告では、鉱毒は森林を枯らす有毒ガスと作物を枯らす銅があり、過去に蓄積された銅分の拡散を防ぐため、治水に重点を置くことになりました。
 渡良瀬川の治水には渡良瀬川、利根川、思川の合流点に近い谷中村3000町歩があてられることになりました。

9.谷中村滅びる
 渡良瀬川の恩恵で肥沃な土地であった谷中村は、鉱毒被害によってその落差が大きく、そのため「鉱業停止運動」も大変に盛んでありました。そのため、運動の妨害の意味もあって谷中村の遊水地化が推進されました。遊水地というのは渡良瀬川が増水したとき、その水を遊水地に入れ、洪水が治まった後にその水を流出するダムの役割をするものです。
 明治35年の洪水によって決壊した堤防は、谷中村遊水地化計画のため修理されず、さらには、明治37年には日露戦争もあって、堤防は復旧されませんでした。
 これによって、「足尾鉱業停止運動」や、「谷中村遊水地化反対運動」も衰えて行き、
谷中村は藤岡町に合併されました。
  明治40年には、政府は土地収用法を適用して、残留民19戸の家屋の強制破壊を実施しました。残留民は流木を拾い集めて仮小屋を作って住み、これに抵抗しました。田中正造も残留民の「谷中村廃村反対運動」に力を注ぎますが、やがて死期を迎えます。


















写真4 谷中村の仮小屋

10.辛酸佳境に入る
  田中正造は佐野市近郊の庄屋の家に生れ、第一回帝国議会で衆議院議員となります。しかしその後に議員を辞め、「足尾鉱業停止」や「谷中村廃村中止」の訴訟に私財を使い果たし、最後の時の持ち物は、蓑と笠、杖、聖書、日記、小石3個(何に使ったものか?)であったという。まさに「辛酸佳境に入る」または「赤貧洗うが如し」と言える境遇になりました。




















写真5.田中正造の全財産

 田中正造の葬儀は佐野市の総宗寺(佐野厄除け大師として有名:キンキラキンの屋根であまり好きではない)で営まれ、伝え聞いた人たちが数万人、集まったといわれています。同寺の境内に立派な墓が立っています。
 徳を慕った人々が分骨し,田中霊詞(藤岡町大字藤岡)、薬師堂(佐野市小中町)雲龍寺(館林し早川田)、北川辺町立西小学校前(北埼玉群北川辺町)の4か所にも墓造られています。

11.その後の足尾銅山
  足尾銅山は大正10年代から昭和初期にかけて最盛期を迎えました。しかし第二次大戦後、産出量の減少や輸入銅に比べコスト高となるため次第に衰えました。
 昭和30年には大幅な企業縮小がなされ、昭和48年には足尾銅山は完全に閉鎖されました。

12.現在の渡良瀬遊水地
  渡良瀬遊水地の範囲は栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県にわたりますが、ほぼ全域が栃木県藤岡町に属しています。その広さは、東京のJR山手線の内側の面積に匹敵するといわれています。
 内部は第一調節池(15km2)、第二調節池(9km2)、第三調節池(3km2)、さらには貯水池の谷中湖(5km2)に分かれています。谷中湖の北側には谷中村史蹟保存ゾーンがあり、そのため、谷中湖がハート型になっているのも皮肉なものです。
 遊水地としての機能は完成してから第一調節池を1回、使用しただけでだそうです
 第一調節池の中にはゴルフ場や運動公園がありますが、それもごく一部で、全体はアシや雑草の生い茂った荒涼たる原野となっています。低湿地のためバードウオッチングや自然観察には適した場所といわれています。



















写真6 見渡す限りの大草原(渡良瀬遊水地)

第二次大戦やバブル経済の時期にも、この土地にほとんど手が入れられなかったのも、谷中村民の恨みがこもっているためかと慄然としました。


















写真7 渡良瀬遊水池と谷中湖


13.おわりに
  足尾鉱毒事件を調べてみて、現在にも通ずるいくつかの問題点が思い浮かんできました。
 先ず、田中正造の訴えた憲法に保障された人民の生命と公民権の保護です。これは江戸幕府の時代にはほとんど表面には出てきませんでした。
 次は銅の製錬法の近代化による生産量の増加と、燃料などに使用する樹林の乱伐による、山野の保水能力低下があります。
また、有毒廃棄物の処理技術の未熟による山野への堆積と、洪水による有毒廃棄物の流出があります。その結果、堤防の決壊による田畠への有毒水の冠水が発生しました。
これに対して、政府の公害に対する認識不足と、国家の経済力の不足で堤防補強不足や植林の遅れがありました。
さらには、日露戦争による銅の需要急増とさらなる資金不足が追い打ちをかけました。
これに対する対策として、遊水地計画の強行と住民の反発があり、これらが複雑に入り組んで、問題の解決を長引かせました。
やがて銅鉱石の枯渇や廉価な輸入銅に太刀打ちできなくなることによって足尾銅山は昭和48年に閉山を迎え、足尾鉱毒事件は収束に向かいました。
足尾鉱毒事件は、日露戦争を間にはさんで日本の富国強兵政策と自由民権運動とのせめぎ合いによって起こった事件と言えると思います。
 国を富ませることで、反面、公害という激しいしっぺ返しを受ける、かって日本が経験し、今また中国でも経験しようとしている問題です。さらには、これが地球全体の危機にまでなろうとしています。
 人間はなぜ歴史に学べないのでしょうか。人間は滅びに向かうのでしょうか。渡良瀬遊水地は何を我々に語りかけているのでしょうか。

14.参考資料
通史足尾鉱毒事件 東海林芳郎・菅井益郎著 新曜社刊 S59年
田中正造 由井正臣著 岩波書店刊 H6年
図説栃木県の歴史 河出書房新社刊 H3年
郷土資料辞典(栃木県) 人文社刊
佐野市郷土博物館パンフレット
藤岡町歴史民俗資料館パンフレット
足尾歴史館パンフレット
http://www5a.biglobe.ne.jp/^kaepfer/map-hanashi/watarase.htm
http://jawikipedia.org/wiki/
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn005/yanakamu2.html
http://www.geocities.jp/minori_okuda/ashie/ashio_dj.html
http://www.tonejo.go.jp/chisiki/1-4.htm
http://www.ne.jp/asahi/com/f/plan/1999/syozo.htm

―以上―




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