安全衛生大会(5)071109

講演

野球と私〜育て、育てられの物語〜

鍛冶舎巧 松下電器産業梶E役員

講演中の鍛冶舎巧氏

1.両親と私

 私が野球を始めたのは、小学校3年生の時で、す。私は岐阜県の出身ですが、父親から野球をやるように勧められていましたが、なかなか踏み切れませんでした。ある時、父親につれられてナイターを見に行きました。ジャイアンツの三塁手が

ショート前のゆるいゴロをダッシュして取り、一塁に送球してから二塁の方まで走り抜けるダイナミックな守備に見惚れていると父親が「あれが野球、あれが長嶋よ」と教えてくれました。それが切っ掛けで野球を始めるようになりました。どうも父親に仕組まれたようにも思われます。

2.恩師の下で育てられ

 高校は県立岐阜商業に進みました。春夏合わせて50回以上優勝している優秀校です。選抜高校野球で100号ホームランを打つことができましたが、その前に相手が全国屈指の好投手で、2回も三振していました。私が打席に入ろうとすると、日下部という青年監督でしたが、私を呼びとめて、「鍛冶舎君、手を出せ」というのです。私の手は素振りの練習で手のひらから指先まで、豆がつながり、ヤスリで削らなければバットが握れませんでした。「君は全国のどのバッターよりも多く練習しているはずだ、来た球を素直に打て」という単純なアドバイスでした。打席に入りすっと振ったら、ホームランになりました。全国高校野球、通算100号のホームランです。これがきっかけで、私の人生は変わったように思います。

 大学に進むようになり、1日3時間位しか寝ないで勉強して、早稲田大学に入ることができました。

 大学に入ってから1年生の時、対立教大学戦で代打に指名されて外野フライを打ちあげました。試合後、新聞社の人が「今日、長嶋さんが来ていて、君のことを、あの一年坊主は谷沢(中日の名選手)を越えるぞ」と言っていたよと、伝えてくれました。自分が野球を始める切っ掛けとなった長嶋さんに褒められて、一層、努力するようになりました。

 私は指導者に恵まれたなと思います。高校は日下部監督、大學は野球殿堂にも入った石井藤吉郎監督でした。石井監督はあまり注意をしない人で

した、スタンドの上の方でメモを付けていました。

ただ、1回だけ注意を受けたことがあります。石井監督が「鍛冶舎おめえ近頃、小さく見えるぞ」と言われました。3年連続3割を打ったのですが、その年は3割が危なさそうなので、ボールに当てるためについ前屈みになります、それで背筋を伸ばして打ったところ、翌日の試合で3本ヒットを打ってようやく3割がつながりました。

 石井監督は選手としても、監督としても素晴らしい人で、当為即妙の話が上手でした。早大の野球部が軽井沢で合宿して猛練習しました。毎日、浅間離山に登り、練習をしてから、沓掛神社で解散するのですが、毎日、救急車が来るような猛訓練でした。ある日、1年生が一人帰って来ないので大騒ぎになりました。苦しさに耐えかねて逃げたのかもしれないというので、険悪な空気になりました。そこえ、その1年生が帰ってきました。

 いきり立つ上級生を抑えて、椅子から立ち上がった石井監督が「おめえどうしたんだ」「腹痛で用を足していました」「紙はあったのか」「ありませんでした」「葉っぱで拭いたのか」「ハイ葉っぱで拭きました」「それをヨウリョクソというんだ」そこでみんなが吹き出し、和やかな雰囲気になりました。

 社会人になってから、世界選手権の時に石井監督のもとで戦いました。対キューバ戦で松下電器の長谷部という投手が投げていました。石井監督がマウンドへ行き、話していましたが、そこで笑い声があがりました。あとで聞いたら、「長谷部

もういいか、変わるか」「キューバしのぎだからな」

そこで、笑い声がわき、リラックスしたのです。

 私の監督スタイルも石井監督を見本としています。

3.会社の中で育てられ

 大学も4年生になり、プロの3球団からドラフト1位で指名される話がありました。ある新聞記者にプロに行かないつもりと話したら、民間会社の25社から誘いが来ました。

 松下電器に誘われて大阪に行くことになり、会社を訪ねました。労政部長に連れられて本社の2階に上がりました。一番奥に老人が2人座っていました。労政部長が早稲田の鍛冶舎君ですと紹介すると、お二人は立ち上がられて、いがぐり頭の私に、深々と挨拶されました。その挨拶の美しかったこと。お二人は会長と社長でした。美しい挨拶をする会社だなと感心しました。

 次に原フォールという建物に案内されました。右手にもっとお爺さんが座っていました。この人なら知っていると思いました。松下幸之助創業者でした。幸之助さんは当時、喉を悪くされているようで、労政部長を仲介にして質問されました。30分位話して、帰り際に握手をしようと言われ握手をしましたが。満面の笑みでした。ところが、その目を見ると笑ってはいないで、相手を探るような鋭い目でした。やはり、この人は違うなと思いました。

 松下電器入社が正式に決まり、1か月の研修があり、役員が交代で話をしてくれました。営業担当の役員は「商人道」という話で、相手より深くお辞儀をできなければならないという話をされました。これが、会長や社長の美しいお辞儀をすることとつながっているのか、良い会社へ入ったなと思いました。経理担当の役員は、通勤の時、京阪電車の中で足を踏まれたら、踏まれた人に感謝しろ、なぜなら踏んだ人の家に2〜3台の松下電器製の家電製品があるだろうということでした。

 数年たち、松下電器での野球の現役を引退することになり、石井監督の家に電話をかけました。「親父さん、今年でバットを置きます」「そうか、寂しいなー、デットボールでの全力疾走が見られないのか」と言われた時は涙が出ました。ホームランや打率で記録を作りましたが、監督はそんなところは見ていないのです。デットボールやフォアボールで全力疾走する一生懸命なところを見てくれてたんだなと感動いたしました。

4.会社生活を通じて・社会人野球指導者として

 当時、新日鉄堺に野茂(米大リーグで活躍)という投手がいました、150kmを超える速球、鋭いフォーク・ボール、野茂を打たねば、関西ブロックで勝ち上がれません「打倒野茂」、私は三塁コーチャー・ボックスで野茂の投球フオームを見ていました。すると、フォークの時はグラブの上から手の甲がのぞいて見えるのです。ストレートの時はそれが見えない。その後、コーチャー・ボックスから打者にサインを送って野茂の球種を知らせるようにしました。

 さて試合の当日、野茂の球を打って4点取りました、所が松下電器の投手が5点取られて負けてしまいました。相手のチームもこちらのチームの研究をしていたのです。相手だけ研究してもだめだ、自分のチームも研究せねばと改めて感じました。

野球のバッターは失敗が7割です。野球の選手@失敗から学べる選手、A失敗に学べない選手、B失敗をしない選手がいます。失敗に学べない選手は打てるようにならない、失敗をしない選手も問題です、それはチャレンジをしないからです。失敗から学ぶ選手がプロになる選手です。 

5.社会活動を通じて・高校野球解説者として

 33歳の時、NHKから高校野球の解説者の話がありました。同時期、少年野球の監督も頼まれました。そろそろ野球で社会に奉仕しろということなのかと思い、両方引き受けました。

 福岡第一高校と言う高校があります。松下電器のシステム関係のお得意さんですが野球も大変強い学校でした。前田(現巨人)が一塁ランナーで、次のバッターがセカンド・ゴロを打ちました。ところが前田が全力疾走せず、Uターンしてベンチに戻ってくるのです。私はカチンと来て、「全力を出し切るのが高校野球だ、あのプレーはだめだ」言ってからしまったと思いました。年間数億円の売上げのあるお得意様なのです。翌日、テレビの解説を待っていると、野球部長と監督が来て、「昨日は貴重なご指摘をありがとうございました。本人も大変反省しています。前田選手も将来のある身だ、頑張ってほしいという、最後の一言で救われました。」私に最後に励まされたことで、「鍛冶舎さんが私の力を褒めてくれている、本人も頑張ろうという気になった。」私も、ホッと胸をなでおろしました。

 冷汗をかくことも多くありました。亨栄商業近藤投手と高知商業岡林投手の投げ合いで緊迫した試合でした。私が解説の担当でしたが、アナウンサーが若い人から、ベテランで相撲担当のアナウンサーに変わりました。突然、「鍛冶舎さん、今バッターは何を考えているのでしょう」そんなこと聞かれても分からないのですが、答えねばならないので、「私の体験では@最低限やれることを考えるタイプAやってはいけないことを考えるタイプB最高の結果を考えるタイプがあります。私は最高の結果を考えてやりました。」そういうものですか、ということで難問を逃れました。

 早稲田実業の斉藤祐樹投手がプロに行かず、大学に進学するという記者会見がありました。終わってから斉藤選手は椅子をきちっと机に入れ、野球部長の椅子も机に入れて帰りました。この子はやはり、プロよりアマチュアに進むのが良いんだなと感じました。亀田とは大違いだなと思いました。若者にも礼儀や礼節は必要だと思います。その点で斉藤祐樹はえらいなと思いました。 

 試合前に、佐賀北高校のインタビューに行きました。雨天練習場に入ったら選手がきちっと整列していました。もっとびっくりしたのは、靴と鞄がきちっと並んでいたことです。監督は整理、整頓、道具の手入れから始める様に指導したとのことでした。

 整理整頓の良くできているのは、駒大苫小牧でした。また甲子園で活躍してほしいと思います。

6.地域活動を通じて・少年野球指導者として

 少年野球チームの指導を足かけ23年指導をしていますが、優勝を3回経験しています。選手を

指導するときは同じ目線で話をすることだと思います。「上に立つより、役に立て」ということです。

あとは緊張感と集中力です。決められた時間内により多くの練習をさせることです。また小さな成功体験を積み重ねさせることです。若い人にはわかりやすい言葉で話すことが重要です。

 最後に私の好きな言葉で結ばせていただきます。

 「学ぶとは心に誠実を刻むこと教えるとは共に夢を語ること」

―以上―

 

 (文責 本橋秀一郎}

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