適塾を訪ねて ―教育の一つのあり方―


 日本の三大私塾といわれるのは、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾、広瀬淡窓の感宜園である。三つとも幕末に栄えたのも面白い。
 松下村塾は山口県萩市にあり観光地としても有名なので、訪れた方も多いであろう。私も昔に訪ねて、その粗末な小屋から維新の英傑が多く誕生したことに感銘を受けたものである。萩の町から集まった青少年に教育をしたため、宿泊の施設はない。松下村塾の原寸大模型が東京世田谷の松陰神社
にあるので、一見の価値はある。
 感宜園は大分県の日田市にあり、九州の山の中であるが、私の昔、勤めていた会社の工場があるため、出張の空き時間に一度、訪ねたことがある。天領として栄えた日田の街の中にあり、全国から集まった青年が勉学していたため、宿泊設備もあり、町屋風のつくりで松下村塾に比べれば規模が大きい。しかし、松下村塾、適塾に比べれば知名度が低いのは、その場所が地理的に偏っていたためであろうか。
 今回の主題である適塾は大阪の交通至便な地にあり、所用で何度も近くを通ったが、まだ訪れる機会がなかった。今年の全国安全衛生大会が大阪にあった、その帰りに入院している義兄を見舞うため、大阪に一泊した。時間に余裕ができたので、適塾を訪ねることにした。
 このところスケジュールが混み合い、重い疲れが体に溜まっていた。疲れているときは、ろくなことはないもので、注意力が散漫になるものである。こんどもまた、やってしまった。東京を出る前日にインターネットで調べた適塾の地図を取り出してみたが、なんと、適塾の位置が地図上にない。そこが地図の右端にあり、プリントする時、はみ出してしまったようだ。中ノ島公園の近くということを、何かで読んだ記憶があったので、中ノ島公園の中を歩いてみた。公園の中に公園掃除の人の詰所があったので、「緒方洪庵の適塾はどこでしょうか」と聞いてみたが10人ほどいた人達には分からない。「2階にも人がいるからそこで聞いたら」といわれ聞いたが分からない。幸いなことに、トイレから戻ってきた30歳がらみの若い人が、「蘭学の塾ですね」と教えてくれた。何のことはない、詰所の前の橋を渡ると資生堂のビルがあり、その裏だということであった。適塾も蘭学も時の流れの中で、風化してしまっているのであろう。



写真1.適塾玄関

 教育方法については、緒方洪庵と吉田松陰の二人が対比される。
 吉田松陰の教育方法は密着型である。松陰は学問を単に教えるだけでなく、日々に起きている社会問題をテーマに取り上げ、徹底的に弟子と同じ立場に立って討議し、教育時間は弟子と密着して過ごした。現在、RST教育で行われている討議を主体にした教育方法に近い方法である。
 一方、緒方洪庵の教育方法は部分接触型である。教える側と教えられるが重なるのは部分であって全体ではない。そのため、弟子たちに裁量の余地を多く残した。
 吉田松陰の門下には伊藤博文(日本初代の総理大臣、私の家から500mほど歩いた所に10,000m2位の大きな森があり、そこが墓所、
日韓併合の恨みから、朝鮮人安重根に暗殺された。)、山県有朋(元総理大臣、日本陸軍の育成に力を注いだ。)、等々、明治維新を成し遂げた英傑が数多く輩出した。



    写真2 緒方洪庵銅像   

 一方、緒方洪庵は医者であるが、その門下には
・福沢諭吉(教育者、慶応大学の創立者)、
・大村益次郎(日本陸軍の創立者、保守主義者に暗殺される。九段の靖国神社の大鳥居を潜ったところに、銅像が建っている。)、
・佐野常民(日本赤十字社の創設者)
・橋本左内(政治家、安政の大獄で刑死)
・大鳥圭介(徳川幕府の陸軍奉行、明治政府で外交官、朝鮮公使等を務める。)
これら、近代日本を支えた人材が多く輩出し
ている。面白いのは、師匠の緒方洪庵は医者
であるが、軍人、政治家、教育者等多彩な方
面で活躍した人々が多いことである。勿論、医者として活躍された人も多い。長与専斎、高松凌雲、箕作秋坪などが有名である。
 それでは適塾での教育方法を見てみよう。洪庵は「学生は自主性と自尊心を持って、それぞれに勉強せよ」というものであった。そのための必要最小限の原書や辞書は洪庵が準備した。



写真3 オランダ語の解剖書

 学生たちは月に6回くらい会読会(いまで言う「輪講」)を開いた。これは原書のテキストを決めておいて、これを勉強する。そのためには、字引が必要である。
当時、日本は鎖国状態であり、僅かに長崎で交易を許されていたのはオランダと支那のみであるから、西洋の原書はオランダ語である。
ところが蘭和辞書は塾に1冊しかない。この辞書はオランダの医師ヅーフというという人が、ハルマというドイツ・オランダ対訳の辞書をオランダ・日本(蘭和)の対訳辞書に翻訳したものである。そのため、この辞書はヅーフ・ハルマと呼ばれ、その辞書が置かれた部屋はヅーフ部屋と呼ばれた。6畳位の小さな部屋である。
 テキストを使うといっても、原書が少ないから、全塾生はそれぞれが原語の写本をしなければならない。これが大変であった。更には輪講の日にちが迫ってくると、辞書の奪い合いになる。辞書の使用順序はくじ引きで決めた。先輩、後輩の区別はなかった。
 そして厳しいのは、新しく入った塾生たちが原書を読んでわからないことがあっても、「これはどんな意味か?」「これはどう考えたらよいのか?」と人に聞いてはいけないということである。「聞くことは恥ずかしい」という考え方が塾内にみなぎっていた。
 輪講の日が迫ってくると、辞書を使うために狭い「ヅーフ部屋」に15人もの塾生が詰めかけて、徹夜をしたこともしばしばであったという。
 


写真4 ズーフ蘭和辞書

輪講は原書のページを予め塾生に割り振っておき、書かれている部分を日本語に翻訳して説明する。先輩がその解釈の正否を判定する。
輪講の出来によって塾生の成績順位が決まる。塾生は全員、塾の二階にある30畳位の大部屋に寝泊まりしている。塾生の生活空間は一人当たり1畳である。そこで勉強し、就寝した。夜中にトイレに行く者に、頭や手足を
踏みつけられることもしばしばあつた。そのため、輪講での成績の良い者から、大部屋の占有位置を選べるようになっていた。いわば、試験による動機付けと同様の方法である。



写真5 塾生の大部屋

 緒方洪庵は塾生たちに次のように言っていた。「適塾は、その名のように己が何に適しているかという潜在能力を見出して磨く場だ。だから、この塾は諸君の就職の世話はしない。あくまでも、諸君の自立の精神によって、自分の中に潜んでいる能力に磨きをかけろ、諸君は原石だ、この塾は原石に磨きを掛けて宝石にするための場である。その宝石をどう売るかということは、私は考えていない。」
 幕末において、上野の山に立てこもった彰義隊を攻めた官軍の総指揮官は、適塾の塾長を勤めたことのある大村益次郎であった。上野の山から聞こえる大砲声は芝の慶応義塾でも聞こえた。講義をしていたのは適塾の後輩で、これも塾長を勤めたことのある福沢諭吉であった。諭吉は不安げな塾生を落ち着かせ、講義を続けた。
 医者の学問を主とする適塾の同門が、片や軍人、片や教育者として身を立てたのも、師の緒方洪庵の教育方針が与かって力があったためである。

*参考文献
1.「福翁自伝」 福沢諭吉著 岩波文庫
2.「適塾の研究」百瀬明治著 PHP文庫
3.「私塾の研究」童門冬二著 PHP文庫
4.「松下村塾」古川薫    新潮選書
5.「福沢諭吉」川村真二著 日経ビジネス文庫
6.「適塾の維新」広瀬仁紀著 富士見書房




―以上―








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