写真4
NEC PC-LJ5006A
私のセカンド機
(ノート)
小型、隣の文庫本
 比べてほしい
写真3             
NEC PC-VU5006D    
私の愛用機
(デスクトップ)      
HDD160GBと       
ADSLモデム外付
コンピュータの変貌

1.はじめに
 コンピュータは、当初“計算する道具”として開発され、電子計算機という名前にふさわしい機械であった。当然、いかに早く計算するかという性能が競われた。
 ところが、IBM社のS/360の登場を境にして、本格的な人工頭脳として、変わり始める。
さらに、パソコンの登場は個人持ちの道具として、ワープロ、表計算、データベース、ゲームと活用の範囲が広がってくる。
 そして、インターネットの実用化が、コンピュータを計算する道具から情報伝達の道具に、
根本的に機能を変えてしまうのである。
 変化してきたコンピュータの歴史を、ユーザーの立場から記してみたい。

2.大型コンピュータの時代
?経営の神様の判断ミス<コンピュータか
らの撤退>
 昭和39年に松下電器は「コンピュータからの撤退」を宣言した。
 当時、私も松下電器と関連のある電機メーカーに勤務していて、自社製のコンピュータを使ってシステムの開発をしていたが、松下電器の撤退宣言に影響されて、自社製のコンピュータも製造中止になり悲哀を味わった経験がある。
 また、当時の電算機部門の責任者の「コンベヤラインでコンピュータを大量生産するんだ」という夢も一気に吹き飛んでしまった。
 それ以来、私は感情的に松下電器が嫌いになぅた、家電のナシヨナル製品は敬遠するようになった。若き日に負ったトラウマである。これは余談であるが。 
 それでは何故、松下電器がコンピュータから撤退したのか、その経緯を追ってみよう。
 松下電器では家電ブームに乗って、急速に拡大した販売量に対応して、コンピュータによる販売集計を導入していた。ところが、昭和39年に販売網の整備をしたとき、経費削減のために営業所のコンピュータを不要なものとしてすべて撤去した。
 また、もうひとつの判断の根拠となったものは、コンピュータ・メーカーの数と莫大な研究開発費、それにもましてコンピュータの将来性に対する疑問であった。
 当時、日本にはコンピュータを製造している会社が松下電器、日立、東芝、三菱等、主なもので7社あった。「7社は多すぎる、せいぜい3社が妥当なところであろう。アメリカでも多くのコンピュータ・メーカーが上手くいっていない。松下電器では同じ努力をするなら、ほかにやることがいくらでもあるから、コンピュータを続ける必要もないのではないか。」というのが松下幸之助の判断であった。
 この決断は当時、さまざまな反響を巻き起こした。英断と評価する者もあれば、松下の技術力のなさと評する者もいた。
 将来の発展を左右する技術問題に対する決断を、経営の合理化の一貫として、あくまでも目先の商売のレベルで決断している。彼は決断のための基準を間違えたのである。それにしても、彼の老いが時代を見る目を曇らせてしまったのだろうか。

 松下幸之助が技術的なレベルを配慮した上でなお、資金的な問題からコンピュータからの撤退を決断したのであれば、将来に備えてコンピュータ技術者を育てるとか研究部門を充実させながら、再参入する機会や分野をうかがい出足の遅れをカバーすることも可能だったはずだ。それができなかったのは、彼にコンピュータに対する技術レベルでの配慮が決定的に欠けていたことになる。たとえ将来に備えた健全な赤字部門であっても、それは認められない。「赤字は社会悪である」という彼の経営哲学と、
松下の経営体質がそれを許さなかったのである。
 その後、情報・通信分野で苦戦を続けて来た最大の原因は、やはり松下幸之助が昭和39年に決断したコンピュータからの撤退にある。そして、その後もコンピュータ分野の著しい伸びにも拘らず経営の神様のご宣託である家電専業という大方針が松下電器を呪縛して、コンピュータへの進出を阻んだのである。
IBM S/360の登場


     写真1 IBM社 S/360
     画期的な大型コンピュータ
     (ハード・フレーム)

 日本の大型コンピュータは6社の激しい競争の時代に入る。私の勤務していた工場にも東芝のコンピュータ導入が決まり準備が整った矢先、突然、東芝のコンピュータ撤退が決まり、
振り回された経験がある。
 大型コンピュータ時代は米国のIBM社が昭和39年に発表した、画期的なS/360によって、勝負が決まった。
 360度全方向がカバー出来る高性能機と言うことでこの名前が付けられたということである。
この時代には大型コンピュータのOSには相互の互換性がなく、各社が独自のOSも開発していたため、他社のコンピュータに変えることには大変な労力をともなった。英語で書かれたデータを日本語に書き換えるのと同じようなものとお考えいただければ良いであろう。
IBM社の独走はこの事情にも支えられて、パソコンの普及まで続いたのである。

3.パソコンの時代
?NECの長期戦略
小林宏治(NEC社長)はコンピュータの撤退に関する松下幸之助の真意を図りかねていた。
 「松下さんともあろう人が、この有力な未来部門に見切りをつけるとは、いかにも残念。分からない。コンピュータは今でこそソロバンが合わないが、これは将来必ず、家庭電器の分野にも不可欠なものになる。松下さんは一体、何を考えていなさるんだろうか」
 松下電器のコンピュータへの撤退を知らされた小林は、こう言ってはさかんに首を傾けていたという。
 当時のNECは、従来の通信機メーカーから
コンピュータ・メーカーへの業種転換を図っていた。小林には、コンピュータが今後の社会、産業で重要な役割を担うであろうという確信があった。その確信はやがてNECを「知識・情報」を基幹とした産業分野の中心に育てていこうという思想に発展していく。
 時代は飛んで、昭和57年にNECからPC-9801という名のパソコンが発売された。パーソナル・コンピュータ、すなわち個人専用コンピュータ時代の幕開けであった。
 私も会社でリースした同機を1台与えられ、使用していた。外付けのフロッピー・ドライブとプリンターをセットにすれば100万円位にはなる高い機械であった。フロッピー・メディアはIBMが開発したもので、直径が20cmもある磁気円盤であった。私の家の倉庫にもドライブとメディアがしまってあったが、3年ほど前に廃棄してしまった。今にして思えば残念である。
 このパソコンに初期の頃の「一太郎」をインストールして使用したが、当時、ワープロが会社の中でも台数不足で奪い合いだったため、文字を書くのが苦手な私は、パソコンをワープロとして活用させてもらった。大変、もったいない話であった。
 PC-98シリーズのパソコンは最盛期の平成4年頃には市場占有率で50%を超え、98互換機を出したエプソンを合わせると、市場の60%を占めた。まさにPC-98シリーズの独壇場であった。「国民機」と呼ばれるにふさわしいパソコンといえるであろう。


写真2NEC PC-9801
     パソコンの一時代を画した

 PC-98シリーズが他社の製品より売れたのは次の3つの理由による。
@PC-98の前機種であるPC-88シリーズに対してPC-98はソフト的に多少互換性があった。そのため、PC-88から上位機種に買い換えるとき、他社機より互換性があるPC-98を買う方が便利であり、他社機への流出が防げた。
A価格設定で本体を30万円以下に押さえ、フロッピードライブや漢字ロムなどを別売りにしたこと。結局全部揃えれば100万円近くになってしまうのだが、本体価格が安いため、PC-98は割安に見えた。
B巧みなソフトウエア戦略をとったこと。NECはこの時期積極的にソフトウエア・ハウスの支援を行い、PC-98用のアプリケーションの拡充につとめた。また、海外で評価の高い「LOTUS1−2−3」「マルチプラン」等のアプリケーション・ソフトの導入を進めるとともに、国内の小さなソフトウエア・ハウスにはハードウエアの貸与や開発援助を積極的に行った。良質なソフトウエアがたくさん揃っていることがハードウエアの普及につながることを、NECは心得ていたであろう。私も、PC-98のアプリケーション・ソフトのリストを見て、品揃えの良さに感心し、また、購入もしたものである。かくして、PC-98は売れるからソフトが増える、ソフトが増えればハードが売れるという、もってこいの好環境を作り上げたのである。 
 さらにこれに追い風になったのがOSのMS-DOSの登場である。これ以前はN88-BASICがOSの機能を果たしていたが、昭和58年にはMS-DOSがOSとして搭載され飛躍的に使い勝手が向上したことを、私も良く覚えている。
 他社のDOS/V機投入などの追い討ちがかかったが、体制を制するにはいたらず、Windows95が発表されるまで、NECのPC-98の独走は続くのである。

?Windowsの登場とPC-98の落日
 平成7年11月のWindows95の登場をまだ記憶している人もおいでだろう。Windows95の日本語版が発売される前夜から、秋葉原の電気街は徹夜で発売に並ぶ人が長蛇の列を作った、とテレビや新聞は報じた。
 Windous95の登場は、PC-98シリーズの落日であるとともに、NECの長い停滞の始まりでもあった。
 Windows95は従来のOSに比べて、格段に分かりやすくなった。その結果、MS-DOS時代にはパソコンを使ったことのない人まで使うようになり、パソコンの需要が急拡大した。
 富士通や、日立、エプソンがWindows95をインストールしたパソコンを発表すると、ソニーや松下などの家電メーカーやデル、コンパックといった海外のメーカーもWindows95積載のパソコンを国内で発売し始めた。
 NECもWindows95搭載の新機種を発売して対抗したが、もはや、NECのパソコンは無数に存在するパソコンの中の一種類にすぎなくなってしまった。
 インターネットの登場は、それまでのワープロ、データベース、表計算主体のパソコンニーズを、Webと電子メールに変えてしまった。もはや、NECの独自性はどこにも見いだせなくなってしまった。
 Windows95の発売とともに、「Microsoft Office for Windows95」を発表し、これがWindows・マシンにインストールされて売られたため、ワープロソフトは「一太郎」から「WORD」へ、表計算ソフトは「Lotus123」から「Excel」へ、データベースソフトは「桐」から「Access」へと、いつの間にか切り替わってしまった。
 こうなるとNECのPC-98シリーズは他のDOS/V仕様に切り替えざるを得なくなり、平成13年にNECはPC-98シリーズの製造を中止した。21年間も優位を誇った国民機の終焉であった。
















     






4.終わりに
 コンピュータの歴史はまだ浅い。その浅い歴史のなかで、私のコンピュータに関わる期間のいかに長かったことか。コンピュータについての資料を整理して行く過程で、若い時の思い出、(どちらかというと苦い思い出のほうが多いのであるが、)が蘇ってくる。
 コンピュータの歴史はハードウエアの企業間競争に始まり、マイクロソフト社の画期的なOS、Windows95の登場によって、パソコンのハードウエアはどの社のものも同じ、すべてマイクロソフトの掌の中、となってしまった。各社の面白みは失われ、価格低下競争とWindowsのバージョンアップでの買い替え需要だけになってしまった。反面、デファクト・スタンダード(競争に勝ち残ったものが標準規格になるという、官主導ではない、競争による標準規格の決まり方)によって、Webは飛躍的に普及した。電子メールが使えなければ、仕事が出来ないまでになった。
 経営の神様、松下幸之助ですら予測できなかったコンピュータの激しい変貌が、短い期間にいくつも起こった。
 今後の革新を非才な私が読むことはできないが、この小文に追加する更なる革新が起きることは間違いないであろう。

 5.参考資料 
  「復讐する神話」 立石泰則著 文春文庫
  「覇者の誤算」 立石泰則著 講談社文庫
  「IBM20世紀最後の戦略」 脇英世著 講談社文庫
  「パソコン革命の旗士たち」関口和一著
                     日本経済新聞社
  「パソコンウオーズ」 田原総一朗著  講談社文庫
  「競争優位の規格戦略」 山田英夫著 ダイヤモンド社
   「パソコン温故知新」 super works編 河出書房新社
  「標準の哲学」 橋本毅彦著  講談社 
  「技術標準対知的所有権」名和小太郎著 中公新書
  「21世紀日本の情報戦略」坂村 健著  岩波書店




― 以上―








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